星屑オペラッタ ~もしもケルッツアが異世界に行けなかったら~

境 美和

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ようこそ! おおよそは麗しき女神たちの館!!

ゴガクユウの思惑

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・ゴガクユウの思惑・ 







 首元を締め付けられたまま連行される灰色のタキシードを着こんだ青年の心境とは裏腹、五月晴れの空は鬱陶しいほど青青と煌めいている。小鳥は春の喜びをさえずり、流れる新緑の風は耳に心地よい木の葉ずれの音を奏でる。華やかな宴の喧噪も遠く、時折聞こえるワルツの音は、途切れ、また途切れてひどく大人しい。 

 ほほえみかける日差しの柔らかさは、時すら忘れてしまいそうなほど穏やかだった。 

 足下の草地は靴裏を柔らかに包み込む。寝ころんだならさぞや気持ちがいいだろう。こういう場には、一人で本を片手に、又は意中の女性と連れだって訪れたい。 

 そんな穏やかに日差しのまどろむダリル邸、彼からすれば正に実家の裏庭の外れに、彼は今正に、壮年の男性によって連行されてきていた。 

 首もとに回る濡れ羽色の袖は、どこにそんな力があるものか、腕の持ち主の細面とついでに年齢を少し足して考えても不思議だが、軍属で書記という立場であってもそれなりに体力にも自信のあるクラウェンドをしても、びくともしない。力を抜いて抜けようとしても気配を読まれて上手くいかず、なら当身、もこれまた上手く受け流されて当てられない。かといって、苦しい息の中必死に、放して下さいと幾度訴えたところで、そして、連行の理由を匂わせたところで、濡れ羽色の燕尾服姿の男は全く聞く耳持たず。最後の手段、絶対やりたくない泣き真似までして見せたのに、とクラウェンドは物凄く苦いものを嚥下しきれずにいた。 

 因みに、その時の壮年男性の反応は、気持ち悪い、であり、クラウェンドも全く同感であった。 



(痛てえ…。やべえ……全然、慣れてこねえ。……って事は…色々知ってんだ・・・・・・…つー…か苦しい…。かといって気を失う程じゃねえのも計算だ………これ………こえ…とん…でもねえ……。) 





 不満も憤怒も、今は昔。クラウェンド・ド・ダリル国王軍第一貴属副将軍配下代理書記官は、ぐったりと、あきらめを多分に滲ませてグルラドルン・ド・シェスラット文化庁長官に絞め技を食らわされたまま。 

 宴があって人の出入りが激しいとはいえ、邸宅の守りはまた別に配備されている。軍属となっているクラウェンドの目から見ても、かなりの手練れ揃いのダリル家の親衛隊の面々に、しかしクラウェンドは連行道中一度も会っていないのだ。気配はある。割とある。注視か見守りがあるだけまだ良心的かもしれない。クラウェンドは思った。声なき声が聞こえる。 



(たいへんおきのどくですが、われらのぶりょくは、きえてしまいました。) 



 気配の色が、そんな事を物語っていた。 

 と、唐突に、首が自由になった。 

「うっわ!!!」 

 グルラドルンの腕という、どの鍵で開くものか見当も付かない枷にほぼ完全に体重を預けていたクラウェンドは、支えを失ったことで、とっさに力を入れなおすも間に合わず転倒。草地に強か膝と、両手のひらと片肘とを打ちつけた。 

 奇しくも屈辱的な格好になった彼の後ろ、黒い影が差す。 

「さて、ここらへんでいいかな。 

 失礼を許してくださいますか? クラウェンド皇君」 

 不満と怒りを露わに振り返り態勢を立て直したクラウェンドに差し伸べられる手。 

 逆光の中、全く悪気の無さそうなグルラドルンの顔に返って薄ら寒いものを感じつつ、クラウェンドは差し伸べられた手を、本当は払いのけたかったがぐっとこらえ、丁重に辞退した。あれま、とおどけるグルラドルンを後目に自身で立ち上がると、そこここについてしまった草を払い落としてゆく。一つ深呼吸。 

 にっこりと、男性に使うべき形容詞でなくとも花のように、微笑んだ。 

「母も、あなたの肩を持っていましたね。 

 我が家も、あなたも。どういう判断なのかが良く分かりました」 

 先ほど睨みつけた事などもう忘れたかのように、極めて好意的に、愛想良く振る舞うクラウェンドに、グルラドルンは軽く口笛を鳴らす。気を抜いた顔から一転、至ってまじめな顔になる。 

「この頃は少々乾燥気味だーねえ。まあ、もう少しの辛抱じゃない? 

 ……お気の毒様。」 

 軍属のクラウェンドに、湿度の話を持ち掛けるグルラドルン。それは多分な暗喩を含んでいた。殊に、クラウェンドの所属する一貴隊は主に火器、火力に重点を置く隊でもある。グルラドルンの言葉を訳すなら、軍は調子乗ってるね? 見通してるよ。もう少しで総取り換えだよ。穏やかな逆光の中、言葉の黒さに似合いの笑みを浮かべて彼を見るグルラドルンに、クラウェンドもまた、自ずから感じている予感を滲ませた。 

「ええ、その通りですね。雨が待ち遠しいことです。 

 蛙でも鳴いてくれると、少しは助かるのですが」 

 クラウェンドは、酷く冷たい目で、一貴隊の膿が排出されることを認め、その冷涼さのまま、目の前の赤毛の大柄細面な人物、国の最高権力者である王の、友人にして実質的利き手である者へと視線を転じた。自分より頭一つと半上の相手の、どこにでも転がっていそうなこげ茶の目の深さを推し量る。 

 無言で見つめてくるクラウェンドに、グルラドルンは微笑んでみせた。 

 クラウェンドの請けた命令の内容も、グルラドルンの背後にいる王の意志も、この場に居ないダリルの、裏で国を支えるとまで言われる高潔の血の意思も、明確なものは音にならない。それでもグルラドルンは、目の前の美丈夫が帯びた命令の内容を知っており、クラウェンドは、立ちはだかる大柄の食わせ者の携える、王からの伝言を感じ取っている。 

 棚上げとはいえ、正式に賢者の称号を賜った流民を、国王軍の科学チームに招待したい。そして、その力をもってして、王より実質的な権力を手に。只今第一貴隊の上部で膨らみつつある企みは、もとよりこの文化庁長官には筒抜け。 

 グルラドルンは、やっぱ傀儡は使えないわ。そんな事を頭の片隅で思いつつ、クラウェンドのぼやき、その実は、蛙、つまり雨の側の手助けが欲しいんですけど、という要請に、軽く答えた。 

「まあ、ぼくは。除湿器をお勧めしとこうかな」 

 王の小賢しい狗は代換えで我慢しろって方針です。暗にそうのたまうグルラドルンに、クラウェンドは意外そうに目を見開き、今度は困った、笑いを殺せずに困った顔で呟いた。 

「そのまま言ったら、どんな顔になるかな」 

 青年の声には、やってみる? と、茶目っ気の含まれた揶揄が返る。 

 今度こそ悪い冗談を笑うように、クラウェンドは首を振った。 

「まさか。 

 でも困りました。私はその手の事に通じてないのです…」 

 クラウェンドは。その特徴的な虹彩に、意図してダリルの血筋を伺わせ、畏怖、を含んで相手を見た。 

 ダリル家直系の目は、どんな相手でも従わせるだけの迫力と、言い知れない畏怖とを含んでいる。 

 これは、クラウェンドが母から聴かされた、軍学校に進む際にあたってのおまじないのようなものだった。根拠などはないが、彼は、実際幾度か、この目でもって窮地を脱してきている。 

 グルラドルンは、その、絶対的な視線をちらりと受け止め、ああ、と空を見た。 

「まあ蛙を待つのもいーんだけどさ。 

 お互い乾燥に悩む者同士! ここはボクが良いの見繕ってあげよう!」 

 根回しの算段を引き受け、借りは高いとばかり悪魔のような顔で笑う。もっと奥深い所では、クラウェンド皇君も意外と使えるっぽいなーと別の事を考えていた。 

 そんなグルラドルンに、この脅しでさえ流すか、と。クラウェンドは心底あきれた顔。憂鬱そうに深く息を吐き、憂いに任せて口を尖らせる。 



「……恐ろしいことだ。 

でも、助かりました。妹達に嫌われるのは好きません」 

「あれ、姉君は?」 



 グルラドルンの無邪気な声に、クラウェンドは今度こそにっこりと、双子の片割れであるティアレーヌ宜しく、この世の花の全てが恥じらい萎れてしまうほど、壮麗にして蟲惑的な笑みを湛えた。 



「何を言っておいでです? 私に姉はいませんよ?」 

『弟、の、クラウェンドです』 



 目の前の微笑に、先ほどケルッツアに、弟、と強調してのたまっていたティアレーヌの声が重なってきこえたのは。果たしてグルラドルンの幻聴か。 

 無言の後、グルラドルンは髪を掻き上げる。 



「……双子って、そういうとこ楽しそうだねー」 

「ふふふ。でも本当に私の方が早く生まれたんですよ?」 



 クラウェンドは譲らない。 

 おそらく、ティアレーヌも譲らない。 

 グルラドルンの生ぬるい視線と心境など知らぬ振りで、クラウェンドはひとりごちるように、グルラドルンに聞こえる音量で呟く。 

「しかし、世間的には棚上げでも栄光誉れ高き賢者、と言ったところです。先ほど、故意に私を避けてましたし、あなたと母のやりとりにも動揺してませんでしたし。 

 さてどこまで見通しているものなのでしょうね? 

 あの、賢者殿は。」 

 そう言って向けられる好奇を宿したダリル直系の虹彩に、ここにきて初めて、赤毛と茶色の虹彩を持つ王の狗は、その肩書きと噂に似合いの冷笑を浮かべた。 

「さあ? ケルズバケモノだからね。」 

 親愛の響きに混じって別の色合いがちらりと顔を覗かせる声は、クラウェンドの背を冷たく撫でる。 



 複雑そうに笑うクラウェンドに、グルラドルンは鼻歌混じりに歌い出した。曰く、鉄ではなしに皮でもない。何もそれを縛れない。 

 妙ちきりんなグルラドルンの歌声は、裏庭の一角に、大して響きもせず消えてゆく。 

 それでも、クラウェンドからしてみれば、その内容はあまりに暗示的。 

「おかしな事ですね。縛れないというのに、枷の事を歌っている」 

 思わず問うダリル皇君に、グルラドルンは、哂った。 







 手の入れられた新緑の美しい草地に、白亜でできた長い渡り廊下が続いている。五月のすがすがしい晴れ空の下、幾つもの白い石柱に支えられた渡り廊下の中は、初夏の日差しをわずか受け入れ、光と影の明暗を緩く分かたっている。 

 その、横幅にして既に王都を西に横切る石畳と同等の幅を有する渡り廊下の一角、かつかつと革靴の音も高らかに、少々急く者の姿があった。 

 針金のような細身は揃えられた黒一色のスーツで覆われている。前身に垂らした銀髪の三つ編みは、到底似合わないピンクのリボンで確かに止められていた。 

 ケルッツアと同年同級、今年で数え四十九になる、銀色の髪に銀色の目、僅かな皺すら恐ろしく整って見える程端正な顔立ちに、縁なしメガネをかけた、彼、シルヴァルド・ド・メイスンは、半ば憑かれたように、正直明日か漁ってか、脚の筋肉痛等々も覚悟の上、招かれた春の宴の会場から、ダリル本邸、ひいてはそこから抜けて下り十五分程の場所にあるバス停を目指していた。 

 と、彼の革靴の音に混じり、高いヒールの音が遙か後方から響いてくる。なれた調子で早足と解る速度を保ち、彼に突進してくるその音に、彼は、ぎくり、と目をむき、ついで、静かに肩を落とす。名残惜しげに、前身に垂らした三つ編みのリボン、その布を困ったように見やり、もう一つため息を吐くと、億劫そうに後方を振り返った。無意識ポケットに手を入れ、前かがみに、向かってくる深紅のアンシンメトリーなドレスを見やる。 

 深紅の左右非対象なドレスを纏う亜麻色の髪の女性、こちらもケルッツアと同年同級、御年四十八になるメトーラルシザ・ド・ゲライアは、会場で見失った人物から向けられる視線に気づき、ただ急いでいたその顔を、意地を張るようにひん曲げると、切れる息も殺し前方のシルヴァルドを睨みつける。 

「俺は帰るぞ? 帰るか?」 

 ほぼほぼ平坦に低い声が、白い石柱に支えられ続く渡り廊下に響いた。 

「っ冗談。……老人と、ガキの…ッ! オモリが……残ってんの、よ」 

 答えるメトーラルシザは、シルヴァルドから五歩程残した場で足を止め、膝に手を突くと弾む息を何とか殺そうとやっきになっている。受け答えはつっけんどんだったが、切れ切れの口調は、彼女の険を薄れさせていた。 

 そんなメトーラルシザ、ケルッツアと同じくユニヴァーシティー・ディム・ゲールセッテ出の同期にして友人に、シルヴァルドは冷えた目を向け、スーツの内ポケットからたばこを取り出すと、渡り廊下からつかつかと外の草地に出る。 

 太く立派な白い石柱に背を預け、五月晴れの空を仰ぎ、一服。 

 その姿にメトーラルシザもふらふらとそちらに近づき、同じく、寄りかかる彼からニ歩置いた場で同じ石柱に手を突いた。どこからかたばこを取り出し、ライターで火をつける。 

 その姿を視界にも入れず、シルヴァルドはつぶやいた。 

「その、ガキと老人のオモリは?」 

 その声に、たばこを一服。メトーラルシザは、皮肉を顔に張り付けて答えた。 

「バカに押しつけてきた。・・・知ってるでしょ?」 

 そういって、立っていた体制をずるずると崩し、しゃがみ込む。 

 そんな彼女をそれでも見ず、彼はまた、たばこを口に運んだ。 

「俺に聞きたいことは?」 

 彼の問いに、今度は長い沈黙が返る。その段にきてやっと相手を見たシルヴァルドは、座った姿勢からなんとか立ち上がる友人の姿に、眉を上げた。 

「ああ。テュフィレおめでとう。」 

 今思いついたような祝辞には、祝意のかけらもこもっていない。 

 体勢を立て直したメトーラルシザは、ふん、と鼻から紫煙も吐き出すと、シルヴァルドではなく、空に。 

「心にもない祝辞ありがとう。 

 でもこの賞は、本来あのバカのものよ。大本の基礎も、観測データも、っケルズのものはほぼ、完璧だった。 

 ……不完全な部分を埋めればいいだけの、私たちが。二十年遅れていただけ」 

 いらついた様子で紫煙を吐き出す。 

 それを見ていたシルヴァルドは、今度は彼女の横顔に憐憫を向けた。 

「マルスが心配するぞ?」 

 低い声に返ったのは、盛大にむせ返った咳の音。 

 己の紫煙にむせる彼女を後目に、シルヴァルドは前方に顔を向ける。 

「あいつはお前の喫煙にいい顔をせんだろ。…体調を気遣って」 

 他人事のような言葉に、噛みつくような声が返る。 

「っッな!?  

あ、あたしがどこで何してようとあのマヌ、ッケには関係ッ…!ッ」 

 メトーラルシザは、じっと見つめてくるシルヴァルドの銀色の目に、ぐ、と言葉を詰まらせた。  

 ついで、なんでもない! と勢いよくそっぽを向く。 

 そんな彼女に、シルヴァルドは無表情をややあきれに崩し。 



「痒いな」 

「っさいわねぇ!」 



 彼の言葉には、彼女の、彼の意図を多分に汲んだ返答が返された。沈黙には、シルヴァルドのふかすタバコの紫煙が溶けていくばかり。 

 しばらくして、ぽつり。掠れた声が生まれた。 

「ま…………・・・マルス、元気?」 

 発言者は、回答者に顔を向けないまま問う。 

 彼女の頬が赤く染まっていることに、シルヴァルドは、内心の呆れを無表情で覆い、タバコを吸うと。 



「知らん。それこそケルズにでも聞け」 

「バカにきいたら筒抜けちゃうでしょ!? それじゃ困るのよ!」 



 振り向き噛みついてくる友達の、赤々と染まった顔に。 



「じゃあ会いに」 

「出来ないっつてんでしょ!? 

 は、恥ずかしいの!!!!」 



 真正面から言葉を贈れば、こうやって強い拒絶が返ってくるのだと、頭を抱えたい気分だった。 

 正直言って、シルヴァルドはこれ以上ないぐらい、呆れ、呆れ果てていた。 

 学生時代から、彼女と、彼女にマヌケと表された人物の仲は、こう。 

 メルザとマルス。互いに好意がありながらも、メルザの毒舌でいて生娘っぷりと、マルスの押しの弱さと優しさという名の優柔不断の為に、全く、これっぽっちも、ミノムシの足ほども発展のない、彼の友人達。 



(マルスに至っては既に信仰はいっているんじゃないか? ) 



 頭痛を覚えながらも、シルヴァルドはつぶやいた。 

「白いバラ贈られたんだろ? お祝いで。 

 好意はある。 

 …………ずうっと、な」 

 含んだ声音も、自覚があってなお踏み出せない相手には効果などあるべくもないのだ。ずきずきと痛み始めるこめかみを押さえ、シルヴァルドは彼らの間柄が変わらなかった年数を数え上げる。 

 三十五。 

 互いに好意を持ち続けて尚素直にならないこの月日。彼には人知を越えているようにさえ思えた。歳の差があっても五年程で既婚になった身としては尚の事。 

 そして今回も、メトーラルシザは例によって例のごとく。 

「あ・・・っん!のキザたらし!! 慣れないことすんじゃないってのよっ!」 

 彼女の、ただでさえ白い肌の赤みはいったい何でたとえたらよいのか。動脈が運ぶ血液の色とでもいったらいいのか。そんなことを漠然と、醒めた目で思いつつ、シルヴァルドは律儀に返す。 

「おおかた、後生大事に取ってある奴がなにをいう。ああ、図星だな」 

 横のやさぐれた年喰い乙女の大変分かりやすい反応は、かわいいを通り越してうざったい。 

 隣の呆れを感知したか、メトーラルシザは、掠れた侮蔑を投げつけた。 

「なによ! 悪い!?!? あんたこそ、そのかわいーリボン」 

 ひとをおちょくる時独特の、歪んだ顔。きつめに整った容姿に哄笑さえ浮かべてシルヴァルドを見。 

 シルヴァルドに、しれ、と。 

「アレの趣味だ。悪いか」 

 昨日の夕食はシチューだった、と言う様にさらっと流された。 

 その反応に毒気を抜かれたメトーラルシザは、間抜けた顔をすぐに繕う。 



「は! 悪かないけどね!!! なによあんた、もう既に飼い慣らされて」 

「やめとけ。その言葉は跳ね返るぞ。おまえに。」 



 剣呑さをかき集めた台詞は、諭されるような器のデカい憐憫で返される。 

 彼女は、一瞬目を見開き、音でも立ちそうなほど急激に赤くなった。 

 シルヴァルドの言葉を翻訳するならこうである。お前もマルスに飼いならされてるだろ? 

 彼の言葉に、彼女は口を魚のように開け閉め。  

「な、あ、…あんたねぇっ!!!」 

 やっと搾り出した言葉もそれ以上続かない。 

 挑発的だったメトーラルシザのうろたえっぷりに、結婚二年目バカにするな。と壊れたことを思いながら、シルヴァルドは三つ編みの髪を留めるピンクの、妻の愛用のリボンに手をやった。 

 彼の妻は、明け方の薄明りにランプの灯りが馴染み始める頃、物言わぬ唇も楽しげに、少しだけ強めに口角を持ち上げつつ、彼の銀髪を手際、悪く、三つ編みにしていった。何度かやり直し、満足したか、己の髪に絡めてあったリボンを解くと三つ編みの先に結わえ付けて、にっこり。はらはらと崩れていくところどころ痛んで切れやすく細い銀髪を、ネグリジェの細い両肩に垂らすと、意思表示に使っている小さな伝言板に、『ビーフシチュー』と書いた。そして、バラバラになってしまった己の髪を指さしている。ビーフシチューはともかく煮込む料理。少なくとも二人の間ではそういう認識が共有されて久しい。 

 シルヴァルドには幻聴だろうが確かに聴こえた。早めに料理の支度をしたいから、リボンを早く返して欲しいの。早く帰ってきて。 

 今朝の出来事に思いを馳せ、早く帰るつもりだったのに、と、彼は、昼の一時も回らない空を黄昏て見上げた。 

 しかしメトーラルシザの足音に歩を止めたのは、彼女と、そして件の“マヌケ”の友人である以上、仕方のないことでもある。 

「はぁ・・・。変わらん。」 

 やきもき通り越して既に怒り、人によっては課題だとすら感じる彼らの仲を何とかしたいと思う程には、ユニヴァーシティー・ディム・ゲールセッテ同期、メルザ、シルド、マルス、グラン、エルグ、タール、ケルズ、の、三音仲間の絆は強い。 

「わ、わる」 

 照れで既に険のないメトーラルシザの言葉をとって、シルヴァルドは乱暴にはき捨てた。 

「悪い。いい加減周りが迷惑だ。グランにでもたのんで強攻策でもとる?」 

 頭の中で日時を計算しながら問えば、急に真っ青になったメトーラルシザからは、冗談でしょう? と、彼の本気を見抜いた答えが返る。 

「冗談ですむうちに手を打てば。かれこれ三十云年。 

 タール辺り、本気で考えてそうだぞ。」 

 実際、彼女と彼とが知らない間に、幾度か、そういう話題で集まったことのある他の三音仲間の一人として、シルヴァルドは目を据わらせた。 

 彼女は、きつくはあっても美しい顔立ちの目を剥き、まさしく絶句。 

 シルヴァルドは、だまりこくるメトーラルシザを長らく見つめ返した後、一息つく。 



「会いに行けば?」 

「・・・・・・・・・・・・・。考えとく、わ」 



 比較的ましな答えに、彼はもう一息ついた。 

 懐から銀の懐中時計を取り出し、予定していたバスに間に合わない事を確認。次のバスの時刻を思い出す。その後も乗り継ぎが上手くいかない便ばかりであることに、散々たる思いでタバコを噛んだ。 

 隣のメトーラルシザを見る。 

 ついで、今は砂漠の方へと出向いている、大柄な、焦げ茶の髪に緑の目をもつ浅黒の友人、マーロルサース・ド・リグィアの事を思い出した。 



(ああ、変わらん。) 

(いい加減にしてくれ。) 



 横で、いまだぶつぶつと会わない理由を作り上げているメトーラルシザを、ちらり。 

 今度の集会は今年の秋頃だろうか、ああ、五年ぶりだな。虚ろにそんな計画を立て、そのメンバーに思いを馳せる。それぞれの、大学時代からは変わったかもしれないが、確実に二十年は変わらない面々を思い描き。 

 はたと、そのむなしい回想から立ち返った。 





 今年、二月も終わり頃。次の季節に向けての大々的な買い出しの為、王都に出かけた先で、見知った顔を見かけた。後ろから蹴りを食らわせようとした矢先。 

「ドクター!」 

 高く澄んだ声とともに、見事な栗色の短髪を有した、小柄な、女性だろう年齢の女が買い物の荷物を抱えて彼に走りよっていった。 

 振り向いた友人は、彼女の荷物を受け取り、次はなにを買うのかと訪ねる。女は、後はワインと、チーズも仕入れましょう、といったようなことを笑いながら返した。 

 気になったシルヴァルドは、ケルズの同僚であるタールこと、テェレル・ド・イグラーンに事の次第を電話し、彼女が友人の助手を務めている事を知る。 

 ダリル家の末の姫君。美男美女揃いのダリルの血を引いている割には容姿に恵まれなかったと有名な、名を、ソフィレーナ・ド・ダリル。 

 今はまだ何の展開もない。というテェレルの声に、電話口で、一瞬納得しかけたものの。 



(まて!!! あれでか!? あの距離感でか!?!? )



 頭を抱え込んだシルヴァルドは、しかし、話し相手のさらっとした付け足しに別の感慨を抱いた。 

『あ、そうそう。 

 奴はダリル嬢に結構執着してるって、自覚あるみたいなんだよね。マルスじゃないし席も勝ちとったし。 

 そのうち展開あるんじゃない?』 

 その時、シルヴァルドは古い古い記憶を思い出したのだ。人間に大した執着を見せず、気づけば植物か、夜空にばかり目をやっていた流民の姿を。 

 彼は、ケルッツアのその関心を、言葉でなく蹴りで破ることしか知らなかった。 崩れた時にかけてやる言葉も知らぬ上は見ないふりをした。友だとは思っていながらも。 





 そんないけ好かない蛮族、黒猿。結局のところは友人であった者の復活を喜ぶ今、同時に、逆恨みてんこ盛りでこうも思うのだ。 

 ケルッツア・ディス・ファーン=アルスメーニャ=サルッサロッツ・メリス・ラート。少なくとも出会って三十五年、仲間内に聞いても変わらない事実、どうにも初恋すらないまま流民時代に成人の儀だかで男女の営みを実地した結果、別になくてもいい、とシルヴァルドにも直に語っている人間が。三音仲間内の色恋話を他人事に聞いていた節がどうにも全然拭えない、完全にそういう事柄からは隔離でもされているのかと思えるほど異次元にいた輩が。 

 どれほど遅れてやってきたのかは知らないが、人生で恐らく初めて、懸想、を覚えているらしいという事は、たまらなくいい気味。 

 同時に、相当遅いので次はないと思える分、実ればいい、とも思ってもいる。 



ケルズだけは、変わったか。 



 シルヴァルドは、やけに晴れ晴れとした心地で五月晴れの空を仰ぎ、笑った。
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