星屑オペラッタ ~もしもケルッツアが異世界に行けなかったら~

境 美和

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雨におちる

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・雨に落ちる・









 降り続く雨の音は、彼女の意識を窓の外に向けがちにさせる。 

 優しげな眉の下、長い睫に縁取られた円らな黒目の輪郭の中、一等濃い紫水晶の下方に栗色の帯を描く特徴的な虹彩に映るのは、所狭しと並び立つ本棚と、少し遠目からも判るほど滲んで眩んだ外の景色だった。 

 窓硝子を容赦なく伝い落ちる雨水。つられて響く音もバケツの水を盛大にひっくり返し、ついでにバケツも力いっぱい投げつけたような酷さがある。今朝方しとやかに島を包んでいた霧は昼に向かうにつれ慎ましさを無くし、現在、昼の休憩時間まで後十分という時刻にして情緒もへったくれもない本格的な大降りへと変貌を遂げていた。 

 つい先ほどまで夕方には止むだろう、と楽観視していた本日の図書館利用者達は、本降りが明日の朝まで続くという気象庁の緊急警報が出た途端、我や先とばかり昼の便で本土へ帰ってしまっている。もっとも、肝の据わった利用者などは泊り込み覚悟で食料と寝袋持参の上、幾人か留まっているが、それも少数に限られた話。 

 休日開館という事で朝からにぎわっていた館内は、いまや閑散としてうら寂しい。 

 今日に限ってという訳でもないが、終わらない書籍整理に元々泊り込むつもりだったダリル皇家の末姫、皇族にしては、そして彼女の両親の顔と比べても華が足りないと厭な方向に有名なソフィレーナ・ド・ダリルは、家の用事で午前に帰ってしまった友人、レティシア・ド・パレッツィアの代わりとして、二階のカウンターの中に腰掛けていた。 

 友人のやりかけた業務も終え、客の姿も見ない。正に雨の音だけが脳への刺激物といわんばかりの環境に、ソフィレーナはどうしても、雨の酷さに思考を割かずにはいられない。 

 正確には、その中にいる人物に。 

 ウィークラッチ島は現在、豪雨に見舞われている。島の中ほどに位置する森、その中央の小高い丘のようになった場所から、そ、と細く海へ続く流れは氾濫を起こしているとか。 

 十時ごろ、強くなる雨の中、ふら、と、近くの森の散策に出た総館長はまだ戻らない。 

 雨具は一応持っているだろうけども、子供でないんだから大丈夫だとは思うけど、等等。 

 彼の"優秀な"助手である彼女は、カウンターから見える窓の先を見るにつけ、世間一般で言われる"おちこぼれ"学者の事で、とかく気をもんでいた。 

 彼女の心配など知らぬ存ぜぬ。カウンター近くの壁に掛けられた丸型の時計は、のんきに秒針の動く音を響かせている。 

 休憩時間突入まで、後八分と二十五秒。 







 ぱっしゃん、ぽた、ぽたぽたた。 

 土砂降る豪雨の音に混じって、軽やかな水の調べが耳を打つ。 

 時折木々の葉を揺らし、柔らかな草に吸い込まれてゆく雫の軌跡を追って、年老いたかつての天才学者、そして今は国立図書館の総館長、目下彼の助手が心配を捧げる相手、ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、ゆるやかに息を吐いた。老いた褐色の眦を細め、くつろいだ様子でウィークラッチ島国立図書館近くの森、最も樹齢を重ねていると思われるこんもりと茂った広葉樹に背を預け、木の根が張り巡らされている為に少しだけ盛り上がった草地に腰を下ろし、止まない雨を眺めている。 

 すぐ横に折りたたまれた大きな傘が置かれていたが、そちらに向けられる意識はない。 

 ぽたぽた。ぽたん。ぱたたたた。 

 大木の茂った葉を掻き分けて、時折、まるで宝石のような雨粒が落ちてゆく。 

 その粒がどこに落ちるか。何秒で草地に到達するか。そんな事に今、彼の意識は取られていた。今年で四十八の、老いて尚澄んだ瞳に映る鮮やかな色彩は、いつも彼の感じている夢の中にいるような普段の光景とは似ても似つかない。雨に濡れる深緑はより鮮やかに、黒々とした空はより鮮明に黒々と雲の動きのいちいちまで。 

 普段の状態と何がどう違うのか、強いていうなれば虫眼鏡を覗いた時に似て、よく見える、という奇異な感覚に圧され、その感覚が嬉しくて、居てもたっても居られずに雨だろうと構うことなく、彼はこうして館内だけではもったいないと森の散策に出ていた。 

 プロフェッサー・ディム・ゲール選抜試験、栄えある教授学者間での試験を受ける前、助手の手によって考えを改めてからか、ふ、と。こうした現象が、彼を知性の場へと気まぐれに誘い、時に事象と事象の間に橋がかかる幻覚を見せてくれる。 

 よく見える。 

 それは、彼自身等に失われてしまったと思っていた、使える頭の視界。己が駄目だと思っていた時期に時折見舞われたまがいものの感覚ではない、本物の感覚。 

 失われたと思っていたものが、一瞬でも手元に戻る。 

 それは、老いて低迷の時期も長かったケルッツアにとって、とても不思議な感覚だった。 

 どうして二十余年の時を経て、最盛期だっただろう二十歳前の現象に触れる事が出来ているのか。その事を思う度、もっと自信を持て、と再三、痛いほどに澄み切った紫水晶に下から栗色を香らせた一対の瞳を向けて、悲痛に訴える、彼の、彼としては自身にはもったいない位申し分ない、助手を務める女性の顔が鮮明に蘇る。今年の冬で二十三を迎える小柄な彼女のその目は、そのしぐさは、自信を持てるだけの何かがケルッツアの内に老いて尚あると、そう、今にして思えば暗に語っていたのではないか。 

 なら、その事を告げ続け、ついには気づかせてくれた彼女にはどれほどの恩が。 

 止む気配のない雨音に塗れ、時に幹から伝う水に濡れ、ついでに茂った深緑の葉を掻き分けて落ちてくる雨粒に頭のてっぺんを容赦なく濡らされても。 

 ケルッツアは思考を止めない。 

 落ちてくる雨粒も、背がじっとりと濡れて自身の体温で蒸れる感覚も雑多な雨の音も。今の彼にとっては取るに足らない事でしかなく、或いは、認知すらされていないのかもしれなかった。 

 雨に向ける意識と、助手に向ける意識とがどちらに比を置くでもなく同時に進行されてゆく。 

 雨音の調べ、今、前方四十六度辺りにある草の葉は、このまま何の刺激もなければ後二秒弱で乗せた露を零すだろう。風は北向き。でももう少ししたらもう少し弱くなるかもしれない。それにしても、なんて、奇麗な光景が目の前にあるのか。 

 ソフィレーナさんはどうして僕をここまで気にしてくれる? 彼女が助手になってから少しの間は、とてもよそよそしかったのに。でも、いきなり態度変わったんだ。それが何を根拠にして変わったのかは未だに分からないままだけれど、向けられる彼女の眼は、とても真摯。 

 と。 

 ぱしゃ、と。雨水を控えめに弾いたような、小さな音が褐色の耳朶を掠った。 

 今までの思考を一旦中断し、土砂降る雨音の中では聞かない響きに、彼がそちらに視線を向けると。 

 頭の一方で思い浮かべていた、真摯な瞳とかちあう。 

「ドクター。……帰りましょう? 雨具は持ってきてありますから。」 

 雑多な音を割って、よく聞きなれた高くかわいらしい声が遅れて耳に残った。 

 老いて澄む灰色の三白眼の表面には、雨に濡れて白く立ち煙る森の情景と、その中に佇む小柄な女性の姿が映っている。光の反射からも判るつるつるとした素材の着込み用雨具は、くすんだ水色。その下には黒い長靴が泥に塗れて、青い草地越しに見えている。 

 被ったフードの上に、小さな花柄の傘を差して彼を見ているソフィレーナは、困ったような、少しだけ怒ったような顔をしていた。 

 ドクター、と。 

 試験を受ける前も、受けた後も、その呼称や響きのいちいちに変化はない。 

 思考の中のソフィレーナが服装こそ違うものの目の前に実体化したように感じられて、ケルッツアは暫し動きを止めた。もしかしたら心配してここまで迎えに来てくれるかもしれない、と本当に心のすみのすみ、都合のいい事を自覚あったうえでも考えていた分、それが現実になった事が出来すぎていて、彼は暫く今の状況を信じる事ができない。 

「ドクター?」 

 また、彼を呼ぶ声が、今度は少し近くで響く。気づくと木陰のすみに入ったソフィレーナが、今度は困惑気味に、ケルッツアを、覗き込むような形で見ていた。 

 花柄の傘は酷く濡れて、雨水の流れる筋もくっきりと刻み防水の役目を放棄している。フードの縁も傘と同様、ぼだぼだと雫を落とすばかり。 

 助手の、雨に対する完全防備に近いだろう格好をしていて尚、恐らくは濡れているだろう様相に思い当たった途端、ケルッツアは目を見開き勢いよく立ち上がった。そのままおたおたと彼女の傍に行くと、しどろもどろを何とか抑えて。 

「そふぃ、そ、…ソフィレーナさん、ど、どうし、ど…どうして、ここに?」 

 無意識、小柄な体躯をより傍に寄せて、自身と二十は確実に違う相手の雨水を、雨具ごしに老いて所々硬くなった、しかし手のひらだけはいやに弾力のある手で拭いにかかる。 

 問答無用で雨具の雫を払い続ける総館長の手に、彼女は少し動じたものの、落ち着き払って既に傘の役目を放棄している布と金属の骨を畳み、静かに雫を落とした。 

「ソフィーレンス、です。ドクター。 

 お帰りが遅いから、迎えに出たんです。雨も酷くなっていく一方ですし、 

 戻りましょう?」 

 傘の水を払い終え総館長をみる顔には、世間一般で唯一美を認められた栗色の柔らかな短髪が、水分を含んで張り付いている。 

 彼女の、頬ばかり赤く他の血の気が失せたように青白い顔には、本当に僅か、彼への批難と、おおまか心配が滲んでいた。軽口を叩いた唇も頬をのぞいた顔色同様青白く、吐く息は白く凝っている。 

 そんなソフィレーナが後生大事に抱えているのは、透明な防水性の袋に入れられた彼女のサイズとも色合いも合わない雨具。 

 その事を認めた途端、思わずとケルッツアは口を噤んだ。 

 顔色の悪いソフィレーナは、怪訝そうにケルッツアの顔を窺う。と、見る間怪訝を心配に崩し、雨具を持っている手とは別の手をその所々白いものの混じる灰色の前髪の下、少し濡れた感のある褐色の額に伸ばし。 

「ドクター? やだ、熱で・・・」 

 それよりも早く伸びてきた褐色の手に、被ったままだった雨具のフードを外されていた。 

 目の前で特徴的な目が一対、丸々と開いてゆくさまを人事のように見ながら。 

 ケルッツアは、言い得ない、それは後になって嬉しさやら気恥ずかしさやらだと自覚できるような、緩やかに押し出される感情に任せて雨具の水を払っていた手を彼女のフードにかけ、外した。しっとりと濡れた栗色の髪に手のひらを沈め、ニ度、三度と撫でたどる。 

 たどられる髪は水分を含んで一層たおやかに褐色の指先に纏いつき、緩く離れてはまた纏いつく。 

 その感触に、知れず彼の眦は細められていった。彼は、夢の中にいるようだと思った。纏わりつく栗色の髪は決して不快ではない。不快どころか。 

 妙に浮ついた感覚の中、ケルッツアの視界の真ん中では、普段でさえ大きく丸い特徴的な虹彩が一対、めいっぱい見開かれたままでいる。白い肌は赤々と染まる目元や頬を際立たせ、青白かった唇は噤まれたままでも僅か色づいているか。 

 と。 

 彼の助手は瞬時緩やかに頭を振って、その表情を前髪の影に入れた。 

 その助手の仕草に、夢見心地、ケルッツアは寂しさを覚える。もっと見ていたかった、という気持ちと、不快にさせてしまったかもしれない、という感情が緩やかにせめぎあい、打開策を探していたが。 

 不快にさせているならば、髪を撫でている手をひっこめるべきだ。  そう、頭の片隅で思いながらも栗色の髪から水を受け、その雫を払う動作を止められないでいる。 

 美しい短髪は褐色の指先の動きに従順に従った。髪の主も先ほど頭を振って俯いた以外、大きく分厚い手のひらから逃れる素振りがない。髪を振る仕草も、俯く仕草も本当に僅かの動きで、拒絶ととるには余りに甘く、優しい。 

 息さえも潜めてしまうような、雨の音すら遠くにおしやってしまうような何かが、彼らを濃密に包み込んでいた。 

 栗色の前髪から、青白い肌へと雨水が滴り落ちる。 

 ふと、その軌跡を追ってケルッツアは、隠されて尚髪の隙間から覗く、白い頬の赤さに眼を止めた。赤々と燃える夕焼けのような鮮やかな色彩に、栗色に沈めていた褐色の指先を下におろし、彼のものと比べると格段に白い額に、褐色の手のひらを押し付け。 

 助手の体が大きく震える。 

 押し付けて暫しの後に、ゆるゆると、深い安堵の息を零した。その息の音が、どこか張り詰めた空気に緩みを作ったか。 

「風邪…ひいてしまいます。」 

 今まで無言だったソフィレーナが、高くかわいらしい声をぽつり、と零す。 



「え・・・・・・ぁ……」 

「こんな所にいたら、風邪をひいてしまいますってば。」 



 呆けたような声を出すケルッツアに、もう一度、批難を含んだ声がかけられた。彼女の目元は相変わらず前髪の影に隠れて見えないため、彼にはその表情は窺えず。 

 ただ、青白い唇が強固に噤まれている様はどうみても。 

「わ、ごめ、ごめんこ、…こん、こ…こんな所に居させたらき、…君に風邪をひかせてしまう!!!!」 

 助手は怒りに耐えているのだ、と。そう理解したケルッツアはその可能性を考えなかった自身を恥じた。心なし言葉にどすが利いている気がすると慌てふためき、ふためいたところで何が変わるわけでもないが無様におろおろと困り果て、咄嗟ポケットからよれたハンカチを取り出すと俯くソフィレーナの顔やら髪の雫を拭いにかかる。 

「ごめ、ごめごめんね!? さ、さむさむけけさむけとかない? こここおこまで迎えに来てもらったのにかみ、かみさわ」 

 彼にされるがままの助手は無言。時折唇を開き、閉じる事を繰り返している。 

 その反応がまたケルッツアの混乱を更に高めた。 

 随分と重たげに雨水を吸った、ただでさえよれているハンカチ。 

 後から考えれば不衛生な事この上ない代物をタオル代わりに助手に押し付けていた事に思い当たり、ケルッツアはますます遣る瀬無い気分になる。何でこんなことしかできないんだろう、と。彼としては失敗をしてばかりの自分が、酷く情けなかった。 

 雨の音は煩く、よく見える視界もいまだ健在だったが、今のケルッツアにはそれだけのこと。だからなんだ、と、途方に暮れて目の前で俯き佇む助手を見つめる。せっかく迎えに来てくれたのに、と。彼は彼女にしてしまった仕打ちを思い、ひどく歯がゆく、泣きたくなった。 

 雨の音は酷い。放っておけばもっと酷くなり、国立図書館にすら帰れなくなる危険性がある。総館長一人きりならどれ程濡れても構わないが、迎えに来てくれた助手まで、これ以上ずぶ濡れにさせてしまうのはいただけない。だから。 

 この場を収める術として、年老いた学者は一言、帰ろうと諦めの言葉ともつかないものを零そうと。 

「ち、違います! ドクターが!!」 

 思いもよらないほど強い助手の声に、思わずと首を竦ませる。 

 あ、と少し焦ったような声がする。その声に閉じた視界を元に戻すと、前髪で目元を隠したままの助手が彼を見上げていた。口角の形と、前髪の隙間から薄っすら分かる眉の線とはどこか困ったようにも、焦ったようにも見える。その様が不思議で、ケルッツアは思わず首をかしげ。 

「僕…が・・・・・・・?」 

 果たして彼女の言葉は何の否定なのか。純粋に分からないと聞き返す総館長は。 

「あなたが、風邪をひいてしまうってッ! い…言っているの」 

 逡巡の後、思い切ったように前髪を勢いよく払って見上げてくる助手の、その熟れたトマトのように赤い顔に目を見開いた。 

「え、・・・・あ、ぼ、僕?」 

 間抜けた声は間抜けに響く。意識する前にぱちぱちと瞬く視界は酷く忙しなく見え、目の前の紅潮につられたか、耳朶はいやに疼き痒い。彼の中に沸きあがってくる感情は目の前にある真摯な瞳に宿るものと同様、痛みと切なさと、本当に少しだけ、舌の奥からにじみ出る唾液にも似たほんのりとした、甘さだった。 

 ここでもまだ、そんなに濡れていてもまだ、僕の心配なのか。 

 何か、得体の知れない衝動が湧き上がってくる感覚を緩やかに受け止め、彼は彼女へと褐色の指先を伸ばし。 

「ずっと、雨に濡れてらっしゃったのはドクターでしょう? 

 私の心配はとてもう、うう嬉しい、です。けど! もうちょっとご自分の状態を把握なさってくださいずぶぬれで、本当に大熱出して寝込むのって凄く苦しんですから。 

 か、帰りましょう?」 

 一気に、剣幕こそ凄くもないがまくし立てられた助手の、高く可愛らしい言葉に戸惑い、その指の行き場をなくす。 

「あ、うん、…うん」 

 伸ばしたままだった手を握ったり開いたり。所在無く動かすと後頭部を僅かに掻いて、ため息一つ。 

 先ほど覚えた感情を胸に残らせたまま出口も見つけられずに、ケルッツアは差し出された雨具を着込んでいた。胸の中で渦巻いているものが中々消えてくれない事を、ケルッツアは知っている。けれど、既に彼女に向けて問いをかける機会を逸したということも、同時によく判っていた。 

 彼女に、なぜ。 

「…良かった。少しだけ小降りになってますから今のうちです。 

 帰ったら、温かい飲み物でも淹れますね。ドクターの顔色、本当に優れませんもの。 

 …寒いですし」 

 急かされる声につられて顔を上げれば、しっかりとフードを被り、花柄の傘を差して笑う助手は熱でもありそうなほど赤い顔でそんな事をのたまう。その朗らかな笑みに、言葉とは反して冷たい飲み物が欲しいなどと思いながら、総館長は大木の下にあった傘を開くと、ソフィレーナの持つ傘の柄を静かに外して大きな傘を差しかけた。 

「こっちの方が丈夫だから、使って」 

 そう言って花柄の傘を畳み、自分は助手の持ってきた傘を開く。差しかけた傘の重みがおずおずと移動してゆく様に眼を止めれば、俯いた助手が、白い手の先まで赤くして彼の持つ傘の柄を受け取っている所だった。また俯いた顔、ありがとうございます、と。かわいらしい声は少しだけ不明瞭に落ちる。 

 その様が、大きな傘から見える小さなフードに包まれた頭が、仕草が、声が。 

 ケルッツアは、ソフィレーナの空いた手を握った。 

「じゃあ、ね。走るから」 

 そう言って、後ろで困ったような声を上げて動揺している助手をひっぱり、雨の中へと駆け出す。動揺した声は力強く拒絶を示したが、彼はその、彼の手に比べれば小さく白い手を離さなかった。



 子供じゃない、と声がする。



「ねえ! ねえ聞いてますかドクター!! 私、わたし子供じゃない! 

 こどもじゃないんですよ!? ねえ、子供じゃないの」 

 だから離してください。手なんが繋がなくったって走れます。迷子になんてならないし、歩みもそんなに遅くない。 

 困惑した声は悲痛に雨音の森に響き渡っていた。その声を知らぬふり、聞こえないふり、ケルッツアは国立図書館目指して駆けてゆく。 

 声は止まない。湿り気さえ帯びた声は降る雨と同様、止む事がなかった。すぐ背後で、切れた息の中いやだ、と訴える女性の声。 

 子供じゃない。子ども扱いしないで。いや。手を離してください。 

 か細いそれは懇願に似て、ケルッツアの耳朶を離れる事はない。 

 だからかもしれなかった。 

 少し乱暴に、いっそ聞こえなくてもいいといわんばかり、彼の唇から音が漏れた。分かってる、と。その掠れた声がどれ程の大きさで響いたのか、彼自身分頓着しないまま、歩も止めず。 

「全部ッ! 知ってるよ!!」 

 苦しい息の中、そんな事を口走ってから先、背後の声はぱったりと聞こえなくなった。一度、大きく息が吸い込まれる音がして、それから幾許もたたないうち、一方的に繋いでいた褐色のてのひらに白い指先が縋りついた事だけが、言葉が彼女に伝わった事を彼に知らせている。 

 大きな手のひらを握り返す小さく白い手は、強かった。 

 ケルッツアが思わず顔をしかめるぐらいに、強く痛い。 

 それでも、その感触は決して彼を不快にさせない。 

 森を抜け、国立図書館を目前としても、その巨大な塔にたどり着いても。 

 手のひらは繋がっていた。 







 連れ立った二人組みが国立図書館表玄関の横、裏口に駆け込んだとき、一層強く風がうねりを上げて豪雨を撒き散らした。 

 ほうほうの体で裏口を閉め、その戸口に寄りかかる総館長と助手は酷く息を切らしている。倉庫めいた埃っぽい暗さの中、二人分の乱れた息が生まれてはこだまし、暫く途切れる事はなかった。 

「たおるッ…タオル、持ってきます!」 

 軽く咳き込んだ高くかわいらしい声は、ばたばたとかけてゆく足音と共に裏口から中へと遠ざかっていく。 

 残された総館長は、閉めた扉に寄りかかりそのままずるずると座り込んだ。 

 先ほどまで握り締めていた柔らかな手のひらは引き止める間もなく離れていった。篭った温度は既に逃げてゆき、ただ、痛みと赤くなった跡だけが先ほどまで手のひらの中に何を握っていたのかを語る。 

 無下に、握ってしまったから、彼女にも痛みが残ってしまったかもしれない。そんな事を少しだけ投げやりに思い、ケルッツアは呆然と宙を見上げる。 

 耳を澄ませば、雑多な雨の音が寄りかかった扉から漏れ聞こえてくる。その激しい調べに、ケルッツアはふと、彼の背後で顔を歪めていただろう助手の姿を重ねた。 

 見えてもいないのに、酷く鮮明な、ソフィレーナの悲痛に歪んだ顔を。



『子供じゃないんです』



 雨音に混じって、泣きそうな声が聞こえた気がした。 

 雑多な雨の音はまるで彼女の嘆きのように忙しなく、激しく痛々しく、甘い。 

 その音に、知っているよ、と、ケルッツアは小さく返した。彼女は今年で二十三歳になる、れっきとした女性に他ならない。手なんが繋がなくとも走れるし、迷子になどならないだろう。歩みもそんなに遅くないと、ちゃんと自分についてこれると、彼は十分に知っている。知っていて、手を繋いだし、離さなかった。 

 離したくなかった。 

 髪を撫でた時も、手を伸ばしたときも、繋いだそれを離さなかった時も声を無視した時も。彼女が子供だと、彼は思っていない。



 今だって欠片も思っていない。



 乱れて整わない息の中、ぐるぐると、高くかわいらしい悲痛な叫びだけが、彼の頭の中を支配している。



『子供じゃない! 私子供じゃないんです』

当たり前だ。



「子供じゃない…。ソフィレーナさんは、子供じゃない……」 

 繰り返す言葉は苦く重い。 

 ソフィレーナは子供ではないと、父親に縋るように総館長を見ているのではないと、ケルッツアは、分かっている。 

 けれどでもではどうやって自分を見ているのか、そこがよく判らない。不快とは確実に違う。でも、なぜ、どうしてこんなにも、おいぼれた落ち零れなどに親身になってくれるのか。 

 そうさせている要因がどこにあるのか。 

 問いを投げかける相手は視線の先になく、虚しく零れたため息だけがその場に響いた。 



 ソフィレーナ・ド・ダリルは助手であると、ケルッツアは思っている。 

 しかし、同じ助手でも相手が違えば、彼は髪を撫でたり、不思議な感情を持って手を伸ばしたり、繋いだりしないだろうということも同時にわかっていた。 

 ならば、助手という地位によって今回髪を触ったり手を伸ばしたわけではないと考えるのが自然だった。近所の子供を可愛がるに似た心境とも、ソフィレーナを子供と思っていない以上、違うだろう。 

 ならば愛玩動物か。しかし人間に愛玩動物という概念を抱けない上、彼女を一固体と見ている自負だけはある彼にとって、その答えも違う気がした。 



じゃあ、なんだって。 



 答えは出ない。 

 ソフィレーナは子供じゃないと強く彼を批難する。そう見て欲しくないと、痛いほどに澄みきった紫水晶、その下から栗色を煙らせる瞳が切実に、ケルッツアに訴えている。 

 その眼光の鋭さは、切なさは、普段助手が回りに訴える子ども扱いはいやだ、という意思表示とはまた違った感情をはらんでいるように、もっと切実でどこか艶のあるように、ケルッツアには思えて仕方がなかった。 

 ならば、どういう眼で見て欲しいのか、その事はいまだ聞けずじまい。 



 否、年老いた彼は、ソフィレーナがケルッツアにどういう感情を持っているか、そして自分が彼女をどうみているかの答えの、正解を、既に導き出せているのかもしれない。どうして、そんな答えが助手の中に生まれているのか、そのことを不思議がり、問おうとしているだけで。 



 ひとつ、ケルッツアはくしゃみをした。途端襲ってくる悪寒にまじり、建物の奥のほうからかけてくる足音が聞こえる。 

 ぱたぱたと、軽い足音。彼の寄りかかる扉と向かい合った半開きの扉が少し乱暴に開かれる音。 

「ドクター! これで体拭いてください。 

 着替えも用意してありますから、早く上に行きましょう?」 

 白地に青い模様が描きこまれた大振りのタオルを抱え、戻ってきた助手が総館長に向ける顔、そんなものを認めた途端、彼は頬を崩した。 

 自分もタオルを引っかぶって総館長の分も被せようと近寄ってくるソフィレーナに、ケルッツアは今、とてつもない幸せを感じている。 

 恐らく、風邪で寝込んでも彼女が看病をしてくれるだろう。そんな事を思いながら、だるさに任せて視界を閉じ、難しい思考は止め、と。 

 一際大きなくしゃみを一つ。 







「やだドクター! 大丈夫ですか?」 

「うん。…うん。 

 ここでか……風邪引いてもさ、助手君、看病してくれるんだろう? 

 だったら、風邪、ひいてもいいかなー・・・て、思ったんだ」 

「……。ちゃんとご自分でベッドまで行ってくださるなら考えます。 

 それから、苦いお薬はシロップなしです。



 …………。それでもよければ…喜んで。」 



 呆れた声、すこし照れの混じった声で白い手のひらが触れてくる。 

 それだけで、彼には十分だった。
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