星屑オペラッタ ~もしもケルッツアが異世界に行けなかったら~

境 美和

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目指せ! 栄光なりしプロフェッサー・ディム・ゲール!!

決戦は選抜試験

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 二枚重ねにしたコートやら厚手のマフラーを左腕に垂らして歩く、ゆったりと着こなされる紺色のスーツの背には皺一つ見当たらなかった。

 試験会場である講堂へと入っていくその足取りに迷いはない。気弱に下げられているはずの眦の線は本来の顔立ちに相応しい涼しさを漂わせ、ぼやけていた灰色の瞳に生気とも言うべき光が一点、映りこんでいた。

 試験開始は八時三十分。その半刻前に会場入りした大柄な男が、背を丸めることもなく静かに割り振られた自身の席へと着いた時、その場の雑踏が一瞬にして静寂へと塗り変わる。

 彼、はおもむろに自身の鞄から参考書らしきものを取り出し、捲りはじめた。別段他の受験者と比べて変わった行動をしている訳でもなく、時折時計を見る様は老いた者の動作。静かに瞬かれる目尻には壮年近くの皺があり、疲れたような灰色の前髪は、瞼に掛からない長さで俯き加減の横顔に掛かっている。

 それは、落ちこぼれ総館長、天才崩れである学者の横顔に相違なかった。



強制参加だ、出てくるのは構わない。

けれど落ちこぼれは落ちこぼれらしく、背でも丸めて選抜試験の末席でも汚していれば良いのだ。



 ある者は思う。

 いけ好かない流民の蛮族。栄光と名誉から転落した元天才。秀才の名より遠ざかった者に今更何の力があると。



 それでも。



 その日彼を見たものは、皆一様、口を噤むより他なかった。







 曇天の薄い日の光が照らす、白くでこぼこな道を一歩。

 藍色のロングタイトスカートからのぞく黒いタイツ、背の低い茶色のブーツを履いた、彼女の踏み出す足もまた、硬い音を立てて雪の上に痕を残してゆく。

 元から踏み荒らされていた道路、そして今も尚踏み荒らされているだろう道、この国一の学力を過去も現在も守り続けている大学の門へと続く広くなだらかな上り坂の上、ソフィレーナは他に集まった人々に塗れてそっと息を吐いた。

 二月中旬、一年で最も冷え込む月の張り詰めた空気は、幾人人が居ようといかに昼過ぎであろうと、曇天の空と組んだように熱気などお構いなくその場を引き締めている。

 広大な大学敷地内、辺りを取り囲むは針葉樹と、僅か広葉樹の入り混じった深い森。国の中で最も暖かな地域に建てられたユニヴァーシティー・ディム・ゲールッセッテの古めかしく威圧的な石門の前、着込んだ濃いローズ色、胸元に付けた薄いピンクのコサージュが可愛いらしい厚手のコートに温まりながら、他、ここで試験を受ける学者達の知り合いだろう顔ぶれと同様、思い思いの姿で、ソフィレーナは悴む手先を後ろ手に組んで、試験終了の鐘を待っている。

 閉ざされた門の先、総勢十一棟角ばって聳え立つ大学の一等高い棟、遠方斜め左横手建物の先端、取り付けられた強大な時計の長針と短針は昼の三時を形作ろうとしていた。

 試験の終わりは三時十五分。

 この両脇を石柱で固めた門、その鉄柵が開かれるのも同時刻。

 先ほど知っている顔に挨拶を済ませたばかりの彼女は、門の右端、時間になれば雪崩れ込むだろう人の波に押されない所まで避けて、その時を待っている。

 時計塔より視線を下ろせば、門の正面、大学講堂入り口前に設けられた広場の左片隅、四方を柵で囲まれた広葉樹の大木が一本、防寒を施された冬枯れの姿ではありながらも、堂々と鎮座していた。大学のパンフレットでお馴染み、彼女には総館長の懐にしまってある銀の懐中時計の蓋に掘り込まれた花を思い出させる、この大学の象徴花を咲かせる樹木の。

 昨日、試験の終わりには迎えに行くと申し出た彼女に、総館長はじゃあ、と一つの場所を望んだ。



『じ、じゃあ、あの大学の……テュフィレの木の前、看板の所がいい、かな』



 テュフィレ、とは。

 国の古い言葉で英知を表す、ゲールッセッテ大学の象徴、学花の名。



 その場を遠目に確認しながら、彼女はこれよりおよそ三ヶ月前、買い込んだ湿布と共に最悪の気分で出勤した朝に、静かに沈んでゆく。







 いかに突発的な事故、人が落ちようとも、それが工事開始二日前の事では計画の練り直しも、工事の日取りを早めるもなにもない。

 結局彼女の落ちた場所、及び錆付きの酷い箇所は極力近寄らない、という条件で、工事開始一日前、国立図書館は朝一で職員を受け入れていた。書籍をすっかり抜かれ、否、地下庫へと運び出されたその建物は、一様どの階も図書館部分が馬鹿に広い、がらんと化している。

 その光景を横手、少し新鮮、大まかにはうら寂しく思いながら、昼前には撤退という条件付で他の職員同様建物に足を踏み入れた栗色の短髪、痩せ気味の体躯、国立図書館総館長付助手職の制服を着込んだ女性は、どことなく思い足取りで職員専用の石畳階段を上っていた。常雑踏と化しているそこも、今は場違いなほど奇麗に片付けられている。

 最上階に着き、禁書庫の強大な白く塗られた鉄の扉を押し開けた彼女は、本棚の無い禁書庫、その絨毯の剥ぎ取られた空間の隅っこ、こげ茶色の木製ドアを望むと、自然視線を降下させた。右腕に下げたバッグ、昨日半年に告ぐ謀りを証明する物証を入れていたそこに、今は大量の湿布やら塗り薬やらを入れて、しかし視界を押し止め。

 もう一度しっかりとこげ茶色のドア、総館長専用作業部屋を視界の中心に据え、助手はがらんの禁書庫へと足を踏み出し、最短ルートで目指したドアの前に立つ。

 一度、深呼吸。いまだ震える手を、くじけて逃げだしそうになる足を踏ん張り、気丈に掲げた手の甲はしかし、毎朝のように叩いていたドアの硬い表面を、ノックする事は無い。

 ノックより早く。

「おはよう、……ソフィレーナさん。入っておいで」

 どもりも、気弱な響きも無く。

 三年来、会議、議会の場以外では一度も聴いた事のない静かな声は、部屋の中から真っ直ぐ彼女に掛けられた。



ソフィレーナ、さん。



 助手職に就いて三年、直属の上司からは一度も呼ばれた事の無かった本名は、彼女に酷い胸の痛みと寂しさを与えて響く。初顔合わせの日に書類の不備で男と間違えられた女性が、それから一週間後、意地のように使い始め、毎朝提示してきたソフィーレンスというあだ名が使われない。



ソフィーレンス、は、もういらないのかもしれない。



 ソフィレーナはそう感じた。ケルッツア・ド・ディス・ファーンという学者の傍に、もう、彼女は。

 昨日、否、半年前から解雇を覚悟していたその覚悟が、今更、この際になって酷く震えて駄々をこねている。



終わり。

これで、おわり、だ。



 そんな、空虚な思いで一つ虚ろな笑み、すら、眦の、鼻の奥から湧き上がってくる熱さに零せずに、辛うじて声にだけは震えを滲ませないよう努めながら、彼女は声を発した。

「………おはようございます、ドクター・、……ッ………

し、つれいします。」

 意識して大きく口を開け。

 ドクター・ディス・ファーンと、もう親しみを込めず事務的に応えなければいけない筈の呼称が、しかし彼女の口からはどうしても出てこない。

 その音の羅列は、出すことが出来ない。

 その失態を心の中で強く罵りながらドアノブに手を掛け入室、でも三年勤め上げたのだから最後、この位の未練は許してほしい、ともどこかで思いながら、後ろ手ではなく、本音は部屋を直視する勇気が持てず、彼女はきちんと部屋の中央に背を向けてドアを閉めた。ぱたん、と、虚しくも軽い音が静かに生まれ、消えてゆく。



助手職を辞めるのならば、もうこのひとの傍に居られないのなら、親しみを込めた呼称など二度と口に出来ない。

だから、いまだけ。



 覚悟を決めて見据える総館長専用の作業部屋、その景色の何処にも、しかし厚手のセーターを着込んで寒そうに背を丸める大柄な人物の姿は確認できない。

 彼女は、僅か拍子抜けした。

 深く青い絨毯はいつものまま。閉められた窓。散らかったままの机の上。座る者の無い椅子。対置きの、入り口からでは下座に位置する側の背と、上座しか見えない青いソファー。その奥のちょっとした給湯スペース。横、屋上へと通じるむき出しの、手すりのついた鉄の階段。

 入り口から見て右側の青い壁にはびっしりと本棚が立ち並んでいる。



 その景色のどこにも、総館長の姿は無い。



「………ドク、ター…?」



 次第不安に駆られてゆくソフィレーナは、ふいに、部屋の温度が少しだけ暑い事に気がついた。着ているブレザーを脱げば少しはマシだろうか。助手には少し暑く、総館長には寒いだろういつもの温度。

 そんな事に助手が立ち竦む事数秒、対置きのソファーから唐突に、痺れたような声が上がる。

「呆けているの? 何か飲み物をくれないか、い…・・・痛くて、動けない、ん、だぁ…」

 語尾の最後は気弱、というよりやや苦しげに消えた。ぱたぱた、と次いで何か柔らかいものを軽く叩くような音が二、三度。良く見ると入り口に背を向けているソファーの横手から、褐色の手、らしきものが覗き、時折その縁を叩いている。



 そこで彼女はやっと、現実を把握するに至った。



「あ、ごめ! す、すみません! 今沸かしますから!!」

 大慌てで給仕スペースに飛び込みコーヒーメーカーの準備をし、取って返す足で対置きのソファー、その入り口に近い下座にうつ伏す総館長に向かい。



「塗り薬と湿布両方ありますが」

「も、何でもいい。体中、関節、痛」



 大きなソファーに埋もれるその巨体。この上では羞恥心やらなにやらなど関係もあろう筈が無いが、それでも僅か感じる恥ずかしさを知らぬふり、彼の服を引っぺがし患部を曝け出して、彼女は総館長の訴える痛みの箇所全てに漏れなく張り薬や塗り薬を施してゆく。



「腫れは無いから……骨折はしていないと思うんですけど……」

「き、ん肉痛とか関節、痛だろ。全く、情け、な…いったら」



 心配するソフィレーナの声に、返すケルッツアは、やっぱり歳だ、といつになく不機嫌だった。その声に助手が答える間もなく次の瞬間にはコーヒーメーカーが抗議の声をあげている。

 助手は急ぎ給仕スペースへと飛び込み、大ぶりのコーヒーカップを一つ手に戻ってくると、対置きのソファー中央、細長く背の低い木製のテーブルの上にある砂糖壷から角砂糖を一つと半カップの中に落としてかき混ぜた。ほんの少しミルクを垂らし、膝立ちの格好になると、うつ伏すケルッツアに、飲めますか、と差し出す。

 受けて何とか体勢を整えた彼は、カップに手を伸ばし、熱めの中身を喉へと煽った。

 そうして。

「ああ、やっ・・・と・・・・・・・・・人に、戻れたぁ…………」

 深く重い息を吐き出す。

 昨日の夜から全く動けなかった、としみじみ語る総館長はもう一口とカップに口を付けている。その言葉に彼女の頭の中で否が応なく浮かぶ疑問。

「昨日の夜から……て、まさか、荷物整理やってないんですか?!」

 いかにその場、最上階に住み着いているとはいえ、一ヶ月に渡る国立図書館全館の工事時に人が住める訳もない。総館長も例外ではなく、工事中は移動という条件が当たり前のようについていた。その立ち退きタイムリミットが今日の午前一杯と迫っている中、知っていれば至極当然に浮かぶ疑問、心配を投げかけた助手に、総館長はむっつりと黙り込むと、一つ、重々しく頷く。

「そんな状態じゃあ・・・で・・・・・・きま……せんよね。

………私、やりましょうか?」

 彼女の呆れたような、それでいて伺うような声音に返るのは無言の肯定と、カップの中身を喉へと流し込む音。そして腑抜けたため息だけだった。

 そのため息も痛みに触るのか、壮年近い顔は直ぐに引きつる。

 そんな総館長の様子に助手は。



「……担架、呼んだほうがいいですか?」

「いや、……立ち退きまでには優に四時間近くある筈だ。

それまでには………なんとかする」



 なんとか、とは具体的にどうするのだろうか。聞いた彼女も、そして答えた彼もむっつりと黙り込み。

 どちらともない、ため息は二つ。



 総館長は疲れた顔色でカップを煽り、中身のないそれを無言で助手へと渡した。助手は僅か戸惑ったものの、又コーヒーを注ぎ、同じように味を調えると彼へと返す。それを彼は視線を合わせる事もなく受け取り、ちびちびと飲む。

 ちびり、ちびり。何度口を付けたか。据わった目のケルッツアは、手入れも疎かな口ひげの下から唐突に、声を出した。



「怒って、いるんだよ。僕は。」



 虚空を睨み据えたまま、傍で膝立ち、控える彼女に目をくれる事もなく。

 その態度に、彼女の中で今まで飛んでいた、当初の痛みやら、懸念やら、諦めやら、が舞い戻り酷い痛みとともに心を抉り取っていく。



ああ、そうだ……解雇されるんだ、私。



 はい、と返す声に覇気はない。

 これで、今日で、この学者の世話を焼けるのも最後なのだと思うと、自然、ソフィレーナは顔を上げていられなくなった。

 彼女の視界が絨毯の深い青に染まった頃、もう一つ、追い討ちのような。

 声が。



「でもね…………感謝もしてるんだ。」



 その言葉に、彼女の頭は白くなる。

 響いた音は何という意味を形作ったか。唖然と見上げるソフィレーナの目が捕らえたのは、カップに口を付けたまま柔らかに笑むケルッツアの横顔だった。

 彼は困ったように眉の線を下げて、尚も言葉を続ける。

「が……頑張ってつっけんどんな態度をとってみたんだけど、

……やっぱ性に合わないみたいだ」

 空を見つめるその灰色の瞳は優しく、眦は壮年の皺もと一緒に弧を描いていた。

「湿布と塗り薬ありがとう。コーヒーも凄く美味しかった。

 ……さっきは、何にも言わなくてごめん」

 ついで自然な動作で顔を向けてくるケルッツアに、彼女はその顔を見つめたまま、思わず。



「かいこ……は……?」

「?」



 零された言葉にきょとん、とする総館長へ向けて、ソフィレーナは自身の不安を言葉にする。

「……呼び方を本名に、変えてた、から……もう、私………いらな、いのかな、……て」

 その言葉にケルッツアは口を噤み、理解したか吃驚した後肩を落とした。僅か頭を掻きながら小さくため息まで吐いている。

 灰色の瞳は一対、なんとも複雑な色をして彼女に向けられていた。

「そんな…。風に取っちゃうなんて、思わなかったなぁ……。

 あのね、とっても大切なお願いがあるから、本名じゃなきゃ失礼だと思ったんだ。」

 これでも練習までしたんだけどなぁ……裏目にでたなぁ…。



 カップを見つめながらもう一度ため息、肩を落として後頭部を僅かに掻く総館長を唖然と見ていたソフィレーナは、理解が追いつく前に咄嗟、流れ落ちそうになる涙を耐える。



「あ…じゃあ、私……」

「解雇なんてしない。

 僕には……もったいないくらいの助手君だもの。そんな理由、どこにもないよ」



第一なんで膝ついてるの? 君も座ろう? コーヒー飲もうよ。

 かけられた声は掠れも酷かったが明るく、ぎこちなくも肩口に触れる褐色の指先からは、ブレザーを着ていても温もりが伝わってくる。事実を飲み込むまでに二、三秒。上気する頬と今まで溜まっていたらしき涙が垂れ落ちる前、手の甲で乱暴に拭う仕草は、垂れた栗色の前髪の影で行われた。

「……ッ……お、願いって?」

 心の底からの安堵で震えそうになる声を何とか押さえ込み、力を入れて立ち上がった彼女は、見下ろす形になったケルッツアの顔、その瞳の宿す色に思わず息を呑む。

「うん……あのね」

 彼女の仕草を追っていた灰色の瞳は優しげに、ぼやけて色あせる事無く灰色を澄み渡らせていた。







 試験終了の鐘が厳かに鳴り響き、彼女の追憶はそこで一旦途切れる。

 ソフィレーナの予想通り、雪崩れ込む、とまでは行かないものの開放された門から大々的に人が移動を開始していた。

 その最後尾辺りに付いて、彼女はゆっくりと門の先へと入ってゆく。心なし火照った頬を隠すよう毛糸の手袋に包んだ両掌を押し付け、吐く息も白く。追憶に沈んでいた思考は、現実を見てはいるがどことなく浮ついていた。

 それでも足は進む。

 パンフレットでお馴染み、大雪さえも計算して残された美しい造詣の広場を抜け、人のごった返す大学講堂入り口からは反れた場所、幹の周辺目算五メートル手前に設けられた固く冷たい四メートル高の鉄柵へと足を運ぶ。待ち合わせ場所は流石に無人ではなかったが、講堂入り口よりは格段に落ち着いていた。鉄柵に取り付けられた鉄製の看板、看板というより石碑の様相を呈するものの近くには、既に何人か人が集まり、或いは陣取っている。

 仕方なく彼女は看板の極力近くの場で佇むと、鉄柵の向こう側、冬枯れの大木へとおもむろに視界を移した。

 広葉樹の大木は、幹も太く立派な様子。

 葉の、或いは花のつく時期に見たならさぞや壮観だろう、ぼんやりとそんな事を考えながら、大木の背後、聳え立つ大学の棟の先、曇天の空を見る。

 ちらりと大学講堂入り口の人並みに目を向けて、お目当ての人物の姿がまだ見えない事を確認。当分出てこないだろうと推測しながら、又、曇天に視線を戻す。



 こういう所は抜け目ないあの人の事。……人波の過ぎた頃、ひょっこり出てくるに違いない…。



 もう少し時間がある。鉛色に無遠慮に白と、僅か黄色を足して混ぜたような妙に明るい空へと、吐息は白く解け消えてゆく。外界の空気は薄く厚い膜に覆われたよう。雑踏が酷く遠い。

 曇天に顔を向けたまま、寒さに痛みを感じはじめた指の先をコートのポケットの中に避難させ、感覚の霧散を受け入れるように、彼女はそっと長い栗色の睫を伏せた。

 伏せ、寒さとは別の要因で朱く色づく頬に、美しく光を弾く前髪を掛け垂らし、その柔らかさで心の高揚を落ち着かせている。

 思い出すのは追憶の続き。

 幾度も思い返したその場面は、或いは実際起こった事柄より大げさに記憶されているのかもしれない。世には絶対記憶、一度見たもの聴いたものは生涯忘れえず、そのままに覚えているという難儀な、進化においては欠陥だろう脳も存在する、らしいが、そうでない場合、記憶の改ざんは当然にして起こりうる。

 そんなガラクタ脳など間違っても願い下げだ等と彼女は思いつつ。



ああ、でも……こういう時はちょっとだけ、惜しいかな……。



 人間の進化の上では必須だった心を壊さない為の忘却という手段、そんなものの無い頭を、少しだけ惜しく思える出来事は、寒空の下、彼女の高まりやら嬉しさやらをどんどんと湧き上がらせ温めていった。

 三ヶ月前の、対置きのソファーに座る、壮年近い男の澄んだ灰色の瞳が思い出される。





 湿布や塗り薬を施したぐらいで筋肉痛やら関節痛やらが緩和されるとはいえ無くなる訳はない。

 涙を拭って立ち上がった助手の目の前、男はカップを横手の木製、低い長机の上にぎこちない動作で置くと、その机の隅の方、分野的には天文系の科学雑誌の下から、真っ白な封筒を一枚取り出した。



 封筒に書かれている宛名。

 そしてそれを助手へと差し出す、総館長の、落ち零れ学者の顔は。



 総館長の助手として三年。その記憶の中のどこにも見当たらない程自信と光を湛えて、老いて尚澄み切る瞳、その灰色は黒く、深い。



 彼の口から力強く発された言葉に、その時不覚にも、ソフィレーナは一旦拭った涙を零してしまった。







『君は、昨日、僕の可能性を二つ示唆してくれた。

 どうしたって、出来ない事、分に合わない事は存在する。

 でもね、落ちてくる君を受け止めた時、本当に、出来るとも出来ないとも考えている暇はなかったんだ。

 本当なら、出来ないと結論を出す事が、でも、やってみたら、出来た。

 だから……なら。

 なら、ねえ。



 君に可能性を示された通り、プロフェッサー・ディム・ゲールの試験に受かる事は、出来ない事、可能性のないことじゃあ、

 ……僕の分に合わないことじゃ、ないかもしれないって、思った。』







 強制参加だから、どっちみちやんなくちゃいけないんだけどね。でも、頑張ってみるよ。

 そう言って微笑む彼の声は、酷く掠れている。

 だから、出してきてほしい、と渡される封筒のサインは、気弱で情けない線ではなく、しっかりとした自信に満ちていた。





 その後の瑣末な騒動、急に泣き出した助手にいつものようにおどおどし、下手に動いたため痛みに呻く総館長、を慌てて泣き顔のまま気遣う助手、等という本当に瑣末な、けれど笑ってしまうような騒動を胸いっぱいの温かく切ない感情をごまかす様に思い出しながら、ソフィレーナは大きく鼻から息を吸い込んだ。

 自然と閉じた目元に熱いものが僅か滲む。それを瞬きで散らして、大気へ向かい、長く、深く、白い色を溶け込ませてゆく。



「ソフィーレンス君」



 少し後ろから、低く静かな声が掛かる。どもりも、気弱な響きも感じられないその音で、彼女の周りに遠のいていた雑踏は再び彼女を包み込んだ。

 慌ててソフィレーナが振り向くと、静かな笑みを湛えた褐色の肌、灰色の髪の壮年近い男が大層な厚着の格好で佇んでいる。

 探すつもりだったのに、と自身の失態を恥じながらも、彼女は一歩彼の傍に歩み寄り、その巨体を見上げた。

「お疲れ様です。ドクター。

 済みません、ぼうっとしていて……探させてしまいましたか?」

 彼女の視界の中には、壮年近い総館長の少しくたびれたような顔が映っている。しかし不思議にも疲れたような褐色の肌、彼の顔色はどこか清清しさに包まれてさっぱりとしていた。

 見上げて伺うように問う助手は、背にして彼の胸下辺りまでしかない。そんな助手にふるふると首を振り、彼はその大柄な体躯を屈めて彼女と視線を合わせた。

「いいや、今出てきたばっかりで…とても分かり易い位置で待ってて貰えて助かったよ。

 懐かしくて、校舎の中を色々見て歩いてたんだ。

 ……こんなに待たせるつもりじゃなかったんだけど…

 本当にごめん、……寒かっただろう?」

 さっぱりとした雰囲気を漂わせつつ、マフラー二枚を二重巻き、決して薄くないトレンチコートも二重に重ね、褐色の鼻の先を赤く染めた様相の低い声は、よくよく注意して聞き取るとどこか鼻が詰まったような響きまである。

 そんな寒がりの総館長が北国生まれの、寒さには比較的強い自分を気遣うのがどうにも可笑しくて、失礼とは思いながらもソフィレーナは小さく苦笑してしまった。

「やだ、大丈夫ですよ。私、北国育ちですもん。寒いのには慣れて」

 途端、ふわり、と暖かな空気と匂いが頬を撫で、思わず彼女の軽口が止まる。

 気がつくと、いままで二枚巻いていた首元のマフラーを一枚に減らしたケルッツアが、少しばかり怒ったような顔で助手の首にもう一巻きと暗緑色のマフラーを巻きつけていた。

「でも、冷えるのには変わらないじゃないか。巻いていなさい。」

 ぐるぐるぐる。やけに長いマフラーの余った端をもう一度ぐるりと巻き、最後に端と端を結ぶ。

 そこだけ妙に膨らんでしまった首元、厳密に指すなら鼻から肩口まで、を大まか防寒に比重を置いて覆っているマフラーに、彼女は驚きで目を見開いた。篭ってゆく首元の熱に浮かされながら漠然と瞬きをする。

 今時、子供でもこんな巻き方された子なんて見たことない。彼は気づいていないかもしれないが、ロングとはいえスカート、コートは厚手ではあるものの、その下はごく薄いセーター。とても厚着とはいえない服装を好きでしてきた自分に、この気遣いは到底お門違い。

 そう思いながらしかし、不恰好な巻き方をされたマフラーを直す事も、増して外す事もどうにも勿体無く思えて、結局彼女は巻かれた暗緑色のマフラーへと、そっと薄手の手袋を嵌めた手を片手、指先だけ沿わせるに留まった。

 頬に当たる暗緑色の毛糸は硬い。その色にもそっと頬ずりして、僅か眦を緩ませる。鼻先を埋め、無言で息を吸い込み。

 彼女の動作に気づいたか、今まで満足げだった総館長ははた、と止まると、次いで少し困った、焦ったような声を出した。

「あ、た、タバコ臭かった? あさ、あ、…朝に、一本吸っただけ、なんだけど……」

 君、タバコの臭い嫌いだったろう? そんな事を律儀に気にする総館長に面食らいながらも、言われてみれば微か、そんな匂いがしないでもない、とソフィレーナはもう一つマフラーの中で呼吸する。

 頬に、体中、指先までに熱が広がり行く感覚は、決して篭った熱の所為だけではない。

 タバコの匂いは本当にほんの微か。鼻腔を過ぎる大部分を占めるものは。

「…いいえ、気になりません。…ありがとうございます。

 ……ドクター、…前から聞こうと思っていたのですけど……

 何で、いつも巻いているマフラー、二枚とも同じ物なんですか?」



あなたの、匂いしか……しません。



 試験会場に入ってからは恐らく外していただろうが、彼女に巻き付けられる前までは確実に彼の首元を離れなかったマフラーは、当然の事、使用者の匂いを多分に含んでいた。ケルッツアの愛用するそれは二枚とも同じ型のもので同色。冬は常外出時に身に着けているそれが実は二枚だと、一見では分からない。

 そんなマフラーからは、国立図書館最上階の総館長専用作業部屋と、彼が偶にしか帰らない本土の港近く、持ち家の中に漂っている雰囲気と匂い、温かさが惜しみなく再生されていた。

 ソフィレーナの思考とは別の言葉に、思い出したようにケルッツアは言葉を返す。

「え? …ああ、丁度ね、セットで一番安かったんだ。」

 気軽に返ってきた低くあっけらとした声に、彼女は無言、そうですか、と心の中で呟くと、現実では俯いた。頭を僅かに振って前髪を乱し、その下に赤く色づく目元を隠す。



でも、分かってますか? おぼけ、な、……ドクター・ケルッツア……



 きっと分かってないんだろうな、等と少しだけ恨めしく、大まかには安心、少し呆れて、彼女はバスの時間があると総館長を促した。膨らんでしまった首元の熱さ、俯いて見やる視界はどうしても定められず左右に忙しない。

 なにより、鼓動が本当に煩かった。同じ型のマフラーを二人でしている等と。



そんなの、だって。



 そんな葛藤、羞恥と、歓喜に頭を混乱させつつ目元を前髪の下に隠して歩くソフィレーナの背に、ふと、声が掛かる。

「ああ、でも」

 おもむろに振り向いた彼女は、出迎えた総館長のやけに嬉しそうな、子供のような笑い顔に一拍と更に鼓動を高め。



「お揃い、だね。」



 ケルッツアの浮かれて掠れた調子の言葉に、ぐらりと目眩、顔から火を噴き出した。





ちょっと……

まさか分かってやってるんですか!?



 ぐらぐらと揺れる視界、一気に瞬時に高まった血流に浮かされた彼女の思考が、彼女自身の心の平穏の為、その言葉を吐けなかったのは、言うまでもない。 







 その日、彼、を見たものは、皆一様、口を噤むより他なかった。



 口の端を好意に、或いは敵意に歪めて、又は静かに彼の姿を見やり、遠い過去に思いを馳せながら。

 帰還を迎える言葉をかき消した者は幾ばかりか。

 お帰り。



おかえり。





いけ好かないバケモノよ。





 バス停までの道のりを、落ちこぼれとして知られる元天才博士と、彼の助手を務める女性が歩いてゆく。ざく、ざく、と雪を鳴らす事を主としたかのような歩調が、大小合わせたように二つ。

「ねえ、ドクター……

 試験、いかがでしたが?」

 下り坂の途中、博士を見上げて問うた助手は、その答えにそっと、微笑んだ。



「うん?

 うん、頑張ってきたよ」



 老いて尚、灰色の目は一対、どこまでも澄み渡っている。

 ソフィレーナの見上げる先の微笑には、彼女の嫌ったケルッツアの諦めや寂しさなど、ない。
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