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目指せ! 栄光なりしプロフェッサー・ディム・ゲール!!
触発は季節ごし
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彼は夢を見た。
ゆっくりと、老いて更に重くなった瞼を持ち上げ、ケルッツアは僅か目を見開いた。潤滑の必要そうな関節を動かし辺りを見渡す。
そこは、一面の闇だった。
見渡すだに際限の無い空間、その闇に手足を埋めて仄浮かんでいる。
ここ、は……?
鳥の濡れ羽のような光沢を鈍らせる漆黒は、ひんやりとして心地が良い。
しっとりと、或いはねっとりとした眠気に誘われながら、埋もれて飲み込まれながらも不思議と恐怖なく、彼は又瞼を閉じかけ、ふと、遠く、遠くの方にぽつんと生まれた明かりに目を覚ました。
……?
ぼう、と、一つ、彼から見て斜め上遠方、高く高く昇った所に真っ白な明かりが灯っている。
見る間形をなすそれは、遠目から見た全体像を見るに国立図書館最上階にある禁書庫と下階への行き来を、正規ルートでは唯一繋ぐ場に設けられた、白塗りの鉄扉のようだった。
更なる明かりが広がった後には、業務者専用の石畳階段、その踊り場らしき半円が仄かに浮かび上がり、そこから真白に輝く階段が下へと、彼へと伸びている。
しかしその階段は、全て通じることなく四段ほど下った所で唐突に途切れ、彼の所までは届かない。
突如闇の中に浮かび上がった光。その光景に、ケルッツアは酷いほどの憧憬と、羨望を抱いた。
ああ、あそこに
行きたい、と動かそうとした体は、しかし鉛のように重く、彼を取り巻く眠気も意志の邪魔をしてはばからない。
行けないのか、と言い表せぬほどの落胆と諦めを滲ませた視線で遠くの幻想を見つめている彼は、次いで踊り場に何某か、更に明るい光を見た。
踊り場にぼんやりと浮かび上がるその光は見る間形を成し、遠目から見ても艶やかに輝く栗色の髪、白いワイシャツ、茶色いベストにズボン、彼の良く知っている助手の後姿になる。
ソフィーレンス君。
声、を出そうとして、いつも以上の喉の粘つきに喉が痛む。
まるで裂けているようだ。
幾度声を出そうとしても、息の漏れる音ばかりで声帯を震わせる事すら出来ない。
見遣る先、すっかり彼女の姿となったものは、遠く下から見上げている者に気付いた様子も無く、後ろ手に指を組んで鉄の扉を見上げている。時折首をかしげ、下に組む側の手を変えて、何やら何かを、誰かをか、待ちあぐねているのだろう、そんな仕草をしていた。
無様に吐き出される息の音は到底踊り場に届くことなく。
ただ見遣るだけ。
見つめても見つめても、彼女が気付く筈はない。
「」
声は出ない。
かと言って指の先ですら動かす事も出来ない。
先ほどは心地よいと思っていた闇が、酷く不快なものと、いつの間にかケルッツアは鋭く斜め下手を眇め見やる動作を繰り返していた。
そして、眦を細めて彼女の背を、焦燥と切望に塗れた顔で幾度も魅入っている。
喉は裂けているか。
手足の腱は切れている訳ではないだろうに。
声は出ない。
眠気と重さで動けもしない。
声、が出たら気付いてくれるだろうか。
あそこに行けばこちらを見るだろうか。
彼女は。
彼の視界の中、ふわふわと柔らかに揺れる短髪の栗色の先は白く光を帯びていた。体を縁取る輪郭も同じ、仄か白い光に包まれている。その様にケルッツアは、いつかの残業業務で島に閉じ込められた時、朝日を浴びてこちらを振り返る助手の姿を思い出した。
『ドクター』
高く可愛らしい声は、いつでもその号で己を呼ぶ。
図書館内でも、世間でも、勿論学会内でも崩れとしか評されない者に正当な号の名を持って、ソフィレーナという助手は彼の事を呼んではばからない。
嘲りと侮蔑とは真逆の笑みを湛えて。
ドクター、ドクター……博士、ケルッツア博士。
彼女にそう呼ばれるたび、彼は言い得ぬ喜びと、同時に疾うに捨ててしまった筈の歯がゆさに苛まれた。しかし、己の助手がそう呼んではばからない事は、決して彼に不快を呼び起こさせない。
長いと思われる栗色の睫、少しだけつり気味の眦を緩ませて、湛える特徴的な、濃い暮れ陽の、或いは朱とした朝焼けの空に浮かぶ紫に、淡く栗色を煙らせた瞳に映る光も柔らかに。
『ドクター』と。
その彼女が、突如浮かび上がった白塗りの扉と踊り場、伸びかけの階段のある場に居る事が彼には酷く哀しく、悔しくて堪らなかった。
されど声は出ない。
体は動かない。
けれど、己もその場に行きたい。
彼女の横に並びたい。
行きたい。
行きたい。
本当に、声帯も体も動かないのか?
思った途端、音も立てることなくあっさりと腕が抜けた。彼を覆って沈ませていた筈の闇が軽い。あれ程も粘ついていた睡魔も、彼の思考を妨げる前に霧散して消えてゆく。
両手をついて上半身を起こすと、今まで彼の体の上でわだかまっていた闇は急激にその艶を失い、千切れた紙のように辺りへと落ちていった。
その闇の残骸を払い落とし、立ち上がったとほぼ同時、幾つかの目映い光、映像がケルッツアの周辺を過ぎ去り、過ぎ来て消える。
………?
闇に塗れていた両掌は、いまや何にも侵される事なく。
その両手をしげしげと見て。
思考が何時になく錆び付いていない。
老いて衰えた体は、しかし潤滑油を注す必要が感じられなかった。
足を踏み出すと、今まで隠れていたのか、闇を押しのけて光の階段が姿を現す。
彼は少しだけ驚き、しかし確かな歩調で上って行った。
酷く焦がれていた筈の場に行ける事の嬉しさより、その先に待つものにケルッツアは焦がれる。
ただ、早く上に行きたい。
上に行って。
音もないその歩に、気付いたか助手がケルッツアを振り返った。今まで後ろ手で組んでいた指を解き、安堵したような表情を浮かべ。
「ドクター」
その号で、彼を呼ぶ。
彼女の嬉しそうな満ち足りた笑みが、彼は一等、好きだった。
同じ場に立ってすぐ傍に助手を見る。斜め上から見下ろした角度の彼女は、視線に気付いたか振り仰ぎ、柔らかに笑んだ。
その笑みが、ずっと、傍にあればいいと。
彼女は白く塗られた鉄の扉を押し開ける。
光。
光の先に。
けれど起きた途端、その内容を忘れてしまった。
結構、いい夢だった気がするんだけど……。
国立図書館最上階禁書庫、の片隅に気持ち設けられた小さな空間、総館長専用作業部屋に唯一取り付けられた窓辺でそっと息を吐いて、ケルッツアはしょぼしょぼと眠気の残る目を擦った。古びた木製の机の上に置かれたやりかけの仕事を視界に映し、寝てしまったようだ、と焦燥感もろくになく、造りの良い木製の椅子、青い布の張られた柔らかい背凭れに体を預けたまま、ぼんやりと外に目を移す。
こげ茶色の窓枠は、長方形の上に三角形を乗せた形で壁を切り取っていた。十字に走る中枠の隙間、ガラス越し見遣る晩秋の空は澄み切った青さと高さで今日の天候がいまだ良い事と、外の肌寒さを物語っている。
清清しいその青に、しかしケルッツアは憂鬱そうに眉を寄せた。
過ごしやすい温度になったと思ったら、すぐ冷え込んでくる……。
助手などは彼の過ごし易い温度、の暑さが堪らなく過ごしにくいらしいが、この国は一体寒すぎる、ともう二十数年お世話になっている国の気候にいまだ慣れない感想を抱き、時計を見遣る。
机の隅に蓋を開けたまま置いてあった銀の懐中時計は、丁度昼の二時を指していた。
あ、打ち合わせ。
その事を思い出し、彼は慌てて立ち上がると近くに引っ掛けておいた厚手の外套を身にまとう。半年をかけて手配してきた国立図書館一大工事、その初日二日前、最終的な打ち合わせを一階エントランスホールで行う、その手筈を頭の中で思い描きながら、いそいそと青で統一された作業部屋を後に。
ふと。
作業部屋と禁書庫を繋ぐドアを潜る時、ケルッツアは己の両掌を見下ろした。
青い絨毯、己のくたびれた革靴と焦げ茶色のズボンを背に、皺だらけ、年齢を帯びた手は皮も厚く無骨な事この上ない。
その手をゆっくりと見下ろして、彼は思いだしたように慌てて扉をくぐり、出てゆく。
頭を過ぎ去る映像。キラキラと輝く事象の間に、幾重にも橋がかかる幻。
それは、かつて彼の良く見ていた、感じていたものだった。
その光景と、己の抱く疑問点が重なる時、それを纏めて論を付けると不思議と反論が出来ないほどの理論が出来上がる。
呼吸をするように、あるいは生物の多くが眠りを必要とするように。
彼にとって、それは当たり前の事だった。
しかし、かつて、だ。
二十八の何時だったか、当たり前、は失われ今は既に垣間見る事もない。
ない。
だろうか。
本当に?
国立図書館一階エントランスホール。
一階と、入り口の真正面にある巨大な階段は同じ常緑色の絨毯で統一されている。
エントランスの奥手、階段の奥に第一図書館、階段を上がって二階は、紺の絨毯に統一された第二図書館。
工事によるホコリなどの為一時的に収納される書籍、そんな収納作業をしている他の職員たちを尻目に、カウンター近くに設けられた対置きのソファーの隅にて、総館長と工事業者との打ち合わせは滞りなく進んでいた。
元々の筋を入念な打ち合わせ、それは総館長指揮の元国立図書館側が業者の調整役を疲弊させるほどの精密さと抜け目ないチェックの上で幾度も行っていた為、この際においては特にトラブルなどあろう筈もなく、両者とも終始この場を快く過ごしている。
業者側の工事の担当、責任者であるというケルッツアよりは幾許若い男は、国立図書館の全体的な見取り図を見ながら、どこにこれ以上書ける場があるのかと言うほどびっちりと書き込まれた数値やら目の前の大男の注文をなぞってしきりに確認を繰り返していた。
その様を見ていた総館長は手持ちぶさた辺りを見回し、もう己のする事がないと悟ったか、打ち合わせ相手の了承を得た後席を立つ。立ち去る間際見た、やっとここまで来た、と安堵の滲んだ顔で出された茶を飲んでいる業者側の責任者に、彼は少しだけ頭を掻いて肩を落とし、何気なく彷徨わせた視界の端、一階から吹き抜け二階に通じる壮大な階段の横手、見上げる落差約一メートル、二階の柵近くに良く知った栗色の短髪を認めると、いそいそとそちらに歩き出した。
書籍の移動作業に例外なく借り出されている栗色の髪、彼の助手は何やら重そうな風体の本を傍目から見ても二、三冊では利かなそうな冊数抱えて、安全対策と元々は装飾の意を持っていただろう所々塗料が剥げかけ錆び付きの酷い鉄柵の近くを移動している。
その移動ルートを目で追いながら、柵の下近く、彼女にもっとも近い場まで来た彼は、助手に声をかけようと。
矢先、彼女の足がバランスを崩した。
「っきゃ」
小さな声と共に、よろけた体は一階を見下ろせる造りとなった柵に横手からぶつかり。
ぶつん、と。
鉄が千切れたにしてはやけにあっけない音が、低くその場に落ちる。
「ソフィーレンス君ッ!?」
「え? …ぁ」
宙に投げ出される驚きと恐怖によってだろう、甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。
いつか腐り落ちる、と噂されていた鉄柵はものの見事に噂を体現し、支えを失った体は重力に抗える筈無く。
「っあぶな!!!」
床からの落差凡そ三メートル。
ケルッツアの視界にソフィレーナの、バランスを崩した体が近付いてくる。
瞬時、彼は両腕を。
その時は考える暇もなかったので、出来るという確信はなかった。
視界に映るのは、己の無骨な両掌と木製の低い机。隙間に青く深い絨毯。
本当に、何の変哲もないな……。
ごつごつとした造りの指、この国の住民にはない肌の黒さを、もう何十年と付き合ってきた己の体の一部を見ながら、彼はそんなことを思う。
一階と二階で起こった事故、関連して引き起こされた喧騒云々を現場の指揮を買って出た第二館長に任せ、ケルッツアは今遠く離れた彼の領域、最上階総館長専用作業部屋へと戻って来ていた。
なまっていたにしては奇跡的、落下してくる人物を完全に受け止めきった体に、痺れはあれど痛みはない。
当の助手はといえば相当ショックな体験だったのか、彼ととろくだ会話もないまま駆け寄ってきた彼女の友人等に早々と引きとられていった。彼としても自身のやってのけた所業に信じられない思いで半ば放心状態、心配して駆けて来た第二館長や第三館長、他、職員やら他館長の声もどこか上の空、何か悟ったらしい第二、彼の友人であるテェレル・ド・イグラーンに促されて一先ずと自身の領域へと帰り来たに至る。
年を取った所為か、反応の鈍さに預けられたダメージへのタイムラグを良いように利用して、鞭を打つ形で関係者専用の長い石畳階段を上り禁書庫を抜け、そうして作業部屋の中央、置かれた対のソファーに身を前に乗り出して座り、皺だらけの掌をもうずっと見つめ続けていた。
助手を受け止めた箇所には、痺れとして感覚が残っている。
重みとかかった重力は明日にでも痛みとなり、己の身を襲うだろう。
「…………」
ひとつ、ケルッツアは瞬きをした。
沈黙を保ったままだった彼は、ふと、背後の扉が軽くノックされる音に顔を上げる。振り返るとほぼ同じタイミングで少し緊張した、それていてしおらしい声が扉から室内へとかかった。
「…ドクター。ソフィレーナです。……先ほどは本当にありがとうございました。
……あの……、…少しお時間宜しいでしょうか?」
高く可愛らしい声は言葉尻の最後の最後まで覇気の見られないまま、彼の耳朶を過ぎ空気へと消えていく。
ソフィーレンス、と意固地のように使っていたあだ名ですら口の端に昇らない、それほどまでに弱っているらしい助手を心配に思いながらも、彼は、どうぞ、と部屋への入室許可を告げた。
「……はい、…………では……」
しかし告げた言葉の次に来たのは、助手のいまだ硬く煮え切らない声と、落ちる度し難い沈黙。
いつまで待っても開かないドアに怪訝に首を傾げ、次いで手首でも捻っているのかと、彼はその老体に更に鞭を打つ形で、いまだ痺れの取れない足腰に力を入れて立つ。
「? ……どうしたね? 開けられない状態なの…?」
のろ、と開かない扉を開けるため、ゆっくりと歩き始めた総館長の目の前、ドアノブは僅かに動いた。ドア越し、何か失態をしでかしてしまったといわんばかりの鋭い息の音が飲み込まれ、ノブはかちり、と音を立てて下がる。
「ぁ、いいえ。……至って無事です。
…………失礼します」
現れたのはやはり硬い声と硬い表情。
ドアを開いた助手は、真正面から僅かずれた位置に佇んでいる彼に一瞬ひるんだものの、部屋の中へと入り後ろ手に扉を閉めた。すぐ横で少しばかり面食らったまま佇んでいる様子のケルッツアを改めて見、僅か、安堵したように肩を下げ、また思いつめた表情に戻る。
「ドクターは、その、お加減はいかが…です、か?」
痛みなどはないか、実は平気に見えて結構重傷なのではないか、そんな意図を多分に含んだ視線の大部分を彼ののど元に向け、時折顔を窺うソフィレーナは、その左腕に、雑誌や新聞、他、やけに多い紙の束を入れたバックを下げていた。
彼の目が無意味に泳ぐ程には、場の空気が悪い。
あまり見かけないソフィレーナの態度に驚きながらも、ケルッツアはその場に落ちるなんともいえない淀みを緩和しようと極めて明るい声で少しだけ、おどけて見せた。
「あ、う、うん、大丈夫。僕はほら、丈夫だからさ。……明日、筋肉痛とか関節痛とかに悩まされるだけだ。……その際は、宜しく。助かるなぁ。
そ……"ソフィーレンス君"はこういう時も抜かりないんだよね?」
にこにこと笑って助手をソファーへと促しながら、彼はソフィーレンス、というあだ名を意識して使う。
総館長の見せた態度に、今まで俯きがちだった彼女はそっと顔を上げ、きょと、とした後僅かな微苦笑を零した。
「…………いやだ、何です、それ。
じゃあ"ソフィーレンス"は、明日までに湿布を沢山買っておかないといけませんね」
重く停滞気味だった場の雰囲気がふと流れるように軽くなる。助手は相変わらず微苦笑を湛えたままケルッツアを見ていた。
そのさまに、彼はほっと胸を撫で下ろす。午後三時過ぎの陽光はいまだ明るく、西陽に傾くにはまだ時間があり、室内は明るい。
助手は相変わらず苦笑を湛えたまま。
湛えたまま、静かにその長い睫を伏せ。
「……ドクター……。
聞いて頂きたい事があるんです。」
そう、切り出した。
種明かしは至極簡単。
総館長と彼の助手が今年の五月初めから没頭し始めた、雑誌や新聞に載っているクイズの解きあい。
ちょっとした遊び程度と思っていたものが、しかし結構面白く、時間があればと興じていたそのクイズの全てが、実はある試験の予想、過去問題等をふんだんに盛り込んだ助手お手製の学習教材だったというだけの話。
遊びとして、学習していた問題が出された試験の名は、正に後一週間で応募を締め切る栄光と名誉の称号争奪戦。
即ちゲールッセッテ大学名誉教授席――――プロフェッサー・ディム・ゲール選抜試験。
初心者レベルから中級、上級、最上級と巧くレベルを吊り上げられていた為、微塵も気づきもしなかったお手製問題集と、最後、昨日解いた問題の答えあわせ済み解答用紙を残して、彼の助手は今ここにいない。
『出すぎたマネだという事は承知しています。
謀っていたと言われても図っていたと思われても否定はしません。出来ません。
でも、でも……!』
冷静さを努めた悲痛な声が、ケルッツアの頭の中、どこかで響いていた。
その時駆け巡ったのは幾つかの衝動で、その衝動が目まぐるしく眩しすぎて、彼は結局告げた彼女に言葉を返すことは出来ずに。
ソフィレーナがこの場を立ち去った今も、感情は吐露の場所を見つけられず内にわだかまっている。
そういえば、立ち去る時の彼女は一体どんな表情を浮かべていただろうか。
対置きのソファーに一人取り残されている彼に、濃い西日が僅か差し込み、静かにその部屋を取り巻いていった。
荒れ狂っていようが、逃げ場のない感情に名を与える事は出来る。
謀られたという失望と、怒り。憤怒はしかし哀しみとも同居していた。なぜ今日だったのか、という思いは、今日か明日に選抜試験の応募書類を出さなければ期間に間に合わなくなるからに他ならなく、問いにすらならない。
解雇されても構わない、と助手は口にした。
そういう問題ではない。
そういう問題ではないのだけれど、それは、紛れもない彼女の本心だろうと、彼は漠然ながらも知っている。
それほどまでに、ソフィレーナ・ド・ダリルが真剣であるという事も。
机の上に広げられた答えあわせ済みの答案用紙、八月を契機に伸びた成績、昨日の答案用紙に違えた答えの箇所はなく、彼女は総館長ケルッツア博士の成果を目に見える方法で彼自身に示した。
日を追うごとにミスの少なくなってゆく回答、それらを順序良く右から左へと並べた彼女は俯く事無く眼前の彼に訴える。
『こんなに、ちゃんと出来ているんですよ!?
お願いだからッ
………お願い、ですから………ッ!
もっと……自信を持ってッ……下さいッ…!!』
言葉の最後は繕えなかった切願にまみれていた。全身全霊で訴えるその瞳は哀しさと怒りに濡れて痛いほどに澄み切っている。
その瞳には覚えがあった。
三年来、時折向けられる批難、凛とした鋭い瞳の眩しさに、彼はいつもであれば目をそむけ、出来ないとの確信に逃げ込んでいただろう。
ケルッツアは机の上に並べられた答案用紙をゆっくりと手に取り、眺め始める。
どれほどそうしていたか、得られた情報は、半年近く、ほぼ国立図書館一大工事計画と同じ期間、助手はクイズの名を借りた学習教材を彼に提供し続けていたという事。クイズは全て何かしら手が加えられ、手本にしたという参考書類からの丸写しというものはひとつも見当たらなかった。どころか本当に難しい幾つかの難問に至っては、どう考えてもその道の専門家にアポイントメントを取った上で専用に出題して貰っていることもうかがえる。その苦労はケルッツアの想像にも難くない。出題の傾向からいずれも今の”天才崩れ”にも悪感情のない者に頼んだのだろうが、博士号も持たないたかが国立図書館総館長付きの助手ごときの願いだ、いかに悪感情がないとはいえ所詮は既に崩れた者に、戯れにでも専用の難問を投げかけるなど、普通はしない。酔狂だとしても一度の接触ではまずしない。時間と手間は推して知るべし。
毎日、毎日彼が興に乗った日などは一日で三十あまりクイズをこなした事もあり、期間中は彼女の来ない日に備えて、常に予備のクイズが置かれている状態が保たれていた、のに。
こんな作業を、こんな手間を、彼の助手は彼女の研究と図書館業務と生活の時間の合間にこなしていた。
使われている参考書はどれも名と信用のあるものばかりだった。有益な参考書がそこらに転がっている訳はない。彼女はそれに見合う金額を、決して多くない月給から差っ引いてまで、落ちこぼれ総館長に与え続けた。
その真意は、彼の為では、あるいはないのかもしれない。
それでも、駄目なものは駄目なのだ。
出来ないものは出来ないと決まっている。
分を弁えない事は存在する。
ケルッツアは息を吐く。
窓辺からはもう薄い光しか望めず、照明を点けなければ目に辛い明度にまで視界は沈んでいた。時刻を見やるまでもなく、本土とこの島を行き来する便の最終は出航した後。
助手も、その船に乗って帰ったのだろう。
腕に叩き込まれた痺れは、いまだ執拗に残り続けている。
落下してくる彼女に手を伸ばした時、考えている暇は本当になかった。
出来るという確信を抱けるだけの時間は無く。
出来ないという確信を持つだけの余裕もまた、ない。
確信など、どちらも。
「…………」
ケルッツアはもたれるようにして座っていたソファーから、静かに立ち上がる。
ゆっくりと、老いて更に重くなった瞼を持ち上げ、ケルッツアは僅か目を見開いた。潤滑の必要そうな関節を動かし辺りを見渡す。
そこは、一面の闇だった。
見渡すだに際限の無い空間、その闇に手足を埋めて仄浮かんでいる。
ここ、は……?
鳥の濡れ羽のような光沢を鈍らせる漆黒は、ひんやりとして心地が良い。
しっとりと、或いはねっとりとした眠気に誘われながら、埋もれて飲み込まれながらも不思議と恐怖なく、彼は又瞼を閉じかけ、ふと、遠く、遠くの方にぽつんと生まれた明かりに目を覚ました。
……?
ぼう、と、一つ、彼から見て斜め上遠方、高く高く昇った所に真っ白な明かりが灯っている。
見る間形をなすそれは、遠目から見た全体像を見るに国立図書館最上階にある禁書庫と下階への行き来を、正規ルートでは唯一繋ぐ場に設けられた、白塗りの鉄扉のようだった。
更なる明かりが広がった後には、業務者専用の石畳階段、その踊り場らしき半円が仄かに浮かび上がり、そこから真白に輝く階段が下へと、彼へと伸びている。
しかしその階段は、全て通じることなく四段ほど下った所で唐突に途切れ、彼の所までは届かない。
突如闇の中に浮かび上がった光。その光景に、ケルッツアは酷いほどの憧憬と、羨望を抱いた。
ああ、あそこに
行きたい、と動かそうとした体は、しかし鉛のように重く、彼を取り巻く眠気も意志の邪魔をしてはばからない。
行けないのか、と言い表せぬほどの落胆と諦めを滲ませた視線で遠くの幻想を見つめている彼は、次いで踊り場に何某か、更に明るい光を見た。
踊り場にぼんやりと浮かび上がるその光は見る間形を成し、遠目から見ても艶やかに輝く栗色の髪、白いワイシャツ、茶色いベストにズボン、彼の良く知っている助手の後姿になる。
ソフィーレンス君。
声、を出そうとして、いつも以上の喉の粘つきに喉が痛む。
まるで裂けているようだ。
幾度声を出そうとしても、息の漏れる音ばかりで声帯を震わせる事すら出来ない。
見遣る先、すっかり彼女の姿となったものは、遠く下から見上げている者に気付いた様子も無く、後ろ手に指を組んで鉄の扉を見上げている。時折首をかしげ、下に組む側の手を変えて、何やら何かを、誰かをか、待ちあぐねているのだろう、そんな仕草をしていた。
無様に吐き出される息の音は到底踊り場に届くことなく。
ただ見遣るだけ。
見つめても見つめても、彼女が気付く筈はない。
「」
声は出ない。
かと言って指の先ですら動かす事も出来ない。
先ほどは心地よいと思っていた闇が、酷く不快なものと、いつの間にかケルッツアは鋭く斜め下手を眇め見やる動作を繰り返していた。
そして、眦を細めて彼女の背を、焦燥と切望に塗れた顔で幾度も魅入っている。
喉は裂けているか。
手足の腱は切れている訳ではないだろうに。
声は出ない。
眠気と重さで動けもしない。
声、が出たら気付いてくれるだろうか。
あそこに行けばこちらを見るだろうか。
彼女は。
彼の視界の中、ふわふわと柔らかに揺れる短髪の栗色の先は白く光を帯びていた。体を縁取る輪郭も同じ、仄か白い光に包まれている。その様にケルッツアは、いつかの残業業務で島に閉じ込められた時、朝日を浴びてこちらを振り返る助手の姿を思い出した。
『ドクター』
高く可愛らしい声は、いつでもその号で己を呼ぶ。
図書館内でも、世間でも、勿論学会内でも崩れとしか評されない者に正当な号の名を持って、ソフィレーナという助手は彼の事を呼んではばからない。
嘲りと侮蔑とは真逆の笑みを湛えて。
ドクター、ドクター……博士、ケルッツア博士。
彼女にそう呼ばれるたび、彼は言い得ぬ喜びと、同時に疾うに捨ててしまった筈の歯がゆさに苛まれた。しかし、己の助手がそう呼んではばからない事は、決して彼に不快を呼び起こさせない。
長いと思われる栗色の睫、少しだけつり気味の眦を緩ませて、湛える特徴的な、濃い暮れ陽の、或いは朱とした朝焼けの空に浮かぶ紫に、淡く栗色を煙らせた瞳に映る光も柔らかに。
『ドクター』と。
その彼女が、突如浮かび上がった白塗りの扉と踊り場、伸びかけの階段のある場に居る事が彼には酷く哀しく、悔しくて堪らなかった。
されど声は出ない。
体は動かない。
けれど、己もその場に行きたい。
彼女の横に並びたい。
行きたい。
行きたい。
本当に、声帯も体も動かないのか?
思った途端、音も立てることなくあっさりと腕が抜けた。彼を覆って沈ませていた筈の闇が軽い。あれ程も粘ついていた睡魔も、彼の思考を妨げる前に霧散して消えてゆく。
両手をついて上半身を起こすと、今まで彼の体の上でわだかまっていた闇は急激にその艶を失い、千切れた紙のように辺りへと落ちていった。
その闇の残骸を払い落とし、立ち上がったとほぼ同時、幾つかの目映い光、映像がケルッツアの周辺を過ぎ去り、過ぎ来て消える。
………?
闇に塗れていた両掌は、いまや何にも侵される事なく。
その両手をしげしげと見て。
思考が何時になく錆び付いていない。
老いて衰えた体は、しかし潤滑油を注す必要が感じられなかった。
足を踏み出すと、今まで隠れていたのか、闇を押しのけて光の階段が姿を現す。
彼は少しだけ驚き、しかし確かな歩調で上って行った。
酷く焦がれていた筈の場に行ける事の嬉しさより、その先に待つものにケルッツアは焦がれる。
ただ、早く上に行きたい。
上に行って。
音もないその歩に、気付いたか助手がケルッツアを振り返った。今まで後ろ手で組んでいた指を解き、安堵したような表情を浮かべ。
「ドクター」
その号で、彼を呼ぶ。
彼女の嬉しそうな満ち足りた笑みが、彼は一等、好きだった。
同じ場に立ってすぐ傍に助手を見る。斜め上から見下ろした角度の彼女は、視線に気付いたか振り仰ぎ、柔らかに笑んだ。
その笑みが、ずっと、傍にあればいいと。
彼女は白く塗られた鉄の扉を押し開ける。
光。
光の先に。
けれど起きた途端、その内容を忘れてしまった。
結構、いい夢だった気がするんだけど……。
国立図書館最上階禁書庫、の片隅に気持ち設けられた小さな空間、総館長専用作業部屋に唯一取り付けられた窓辺でそっと息を吐いて、ケルッツアはしょぼしょぼと眠気の残る目を擦った。古びた木製の机の上に置かれたやりかけの仕事を視界に映し、寝てしまったようだ、と焦燥感もろくになく、造りの良い木製の椅子、青い布の張られた柔らかい背凭れに体を預けたまま、ぼんやりと外に目を移す。
こげ茶色の窓枠は、長方形の上に三角形を乗せた形で壁を切り取っていた。十字に走る中枠の隙間、ガラス越し見遣る晩秋の空は澄み切った青さと高さで今日の天候がいまだ良い事と、外の肌寒さを物語っている。
清清しいその青に、しかしケルッツアは憂鬱そうに眉を寄せた。
過ごしやすい温度になったと思ったら、すぐ冷え込んでくる……。
助手などは彼の過ごし易い温度、の暑さが堪らなく過ごしにくいらしいが、この国は一体寒すぎる、ともう二十数年お世話になっている国の気候にいまだ慣れない感想を抱き、時計を見遣る。
机の隅に蓋を開けたまま置いてあった銀の懐中時計は、丁度昼の二時を指していた。
あ、打ち合わせ。
その事を思い出し、彼は慌てて立ち上がると近くに引っ掛けておいた厚手の外套を身にまとう。半年をかけて手配してきた国立図書館一大工事、その初日二日前、最終的な打ち合わせを一階エントランスホールで行う、その手筈を頭の中で思い描きながら、いそいそと青で統一された作業部屋を後に。
ふと。
作業部屋と禁書庫を繋ぐドアを潜る時、ケルッツアは己の両掌を見下ろした。
青い絨毯、己のくたびれた革靴と焦げ茶色のズボンを背に、皺だらけ、年齢を帯びた手は皮も厚く無骨な事この上ない。
その手をゆっくりと見下ろして、彼は思いだしたように慌てて扉をくぐり、出てゆく。
頭を過ぎ去る映像。キラキラと輝く事象の間に、幾重にも橋がかかる幻。
それは、かつて彼の良く見ていた、感じていたものだった。
その光景と、己の抱く疑問点が重なる時、それを纏めて論を付けると不思議と反論が出来ないほどの理論が出来上がる。
呼吸をするように、あるいは生物の多くが眠りを必要とするように。
彼にとって、それは当たり前の事だった。
しかし、かつて、だ。
二十八の何時だったか、当たり前、は失われ今は既に垣間見る事もない。
ない。
だろうか。
本当に?
国立図書館一階エントランスホール。
一階と、入り口の真正面にある巨大な階段は同じ常緑色の絨毯で統一されている。
エントランスの奥手、階段の奥に第一図書館、階段を上がって二階は、紺の絨毯に統一された第二図書館。
工事によるホコリなどの為一時的に収納される書籍、そんな収納作業をしている他の職員たちを尻目に、カウンター近くに設けられた対置きのソファーの隅にて、総館長と工事業者との打ち合わせは滞りなく進んでいた。
元々の筋を入念な打ち合わせ、それは総館長指揮の元国立図書館側が業者の調整役を疲弊させるほどの精密さと抜け目ないチェックの上で幾度も行っていた為、この際においては特にトラブルなどあろう筈もなく、両者とも終始この場を快く過ごしている。
業者側の工事の担当、責任者であるというケルッツアよりは幾許若い男は、国立図書館の全体的な見取り図を見ながら、どこにこれ以上書ける場があるのかと言うほどびっちりと書き込まれた数値やら目の前の大男の注文をなぞってしきりに確認を繰り返していた。
その様を見ていた総館長は手持ちぶさた辺りを見回し、もう己のする事がないと悟ったか、打ち合わせ相手の了承を得た後席を立つ。立ち去る間際見た、やっとここまで来た、と安堵の滲んだ顔で出された茶を飲んでいる業者側の責任者に、彼は少しだけ頭を掻いて肩を落とし、何気なく彷徨わせた視界の端、一階から吹き抜け二階に通じる壮大な階段の横手、見上げる落差約一メートル、二階の柵近くに良く知った栗色の短髪を認めると、いそいそとそちらに歩き出した。
書籍の移動作業に例外なく借り出されている栗色の髪、彼の助手は何やら重そうな風体の本を傍目から見ても二、三冊では利かなそうな冊数抱えて、安全対策と元々は装飾の意を持っていただろう所々塗料が剥げかけ錆び付きの酷い鉄柵の近くを移動している。
その移動ルートを目で追いながら、柵の下近く、彼女にもっとも近い場まで来た彼は、助手に声をかけようと。
矢先、彼女の足がバランスを崩した。
「っきゃ」
小さな声と共に、よろけた体は一階を見下ろせる造りとなった柵に横手からぶつかり。
ぶつん、と。
鉄が千切れたにしてはやけにあっけない音が、低くその場に落ちる。
「ソフィーレンス君ッ!?」
「え? …ぁ」
宙に投げ出される驚きと恐怖によってだろう、甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。
いつか腐り落ちる、と噂されていた鉄柵はものの見事に噂を体現し、支えを失った体は重力に抗える筈無く。
「っあぶな!!!」
床からの落差凡そ三メートル。
ケルッツアの視界にソフィレーナの、バランスを崩した体が近付いてくる。
瞬時、彼は両腕を。
その時は考える暇もなかったので、出来るという確信はなかった。
視界に映るのは、己の無骨な両掌と木製の低い机。隙間に青く深い絨毯。
本当に、何の変哲もないな……。
ごつごつとした造りの指、この国の住民にはない肌の黒さを、もう何十年と付き合ってきた己の体の一部を見ながら、彼はそんなことを思う。
一階と二階で起こった事故、関連して引き起こされた喧騒云々を現場の指揮を買って出た第二館長に任せ、ケルッツアは今遠く離れた彼の領域、最上階総館長専用作業部屋へと戻って来ていた。
なまっていたにしては奇跡的、落下してくる人物を完全に受け止めきった体に、痺れはあれど痛みはない。
当の助手はといえば相当ショックな体験だったのか、彼ととろくだ会話もないまま駆け寄ってきた彼女の友人等に早々と引きとられていった。彼としても自身のやってのけた所業に信じられない思いで半ば放心状態、心配して駆けて来た第二館長や第三館長、他、職員やら他館長の声もどこか上の空、何か悟ったらしい第二、彼の友人であるテェレル・ド・イグラーンに促されて一先ずと自身の領域へと帰り来たに至る。
年を取った所為か、反応の鈍さに預けられたダメージへのタイムラグを良いように利用して、鞭を打つ形で関係者専用の長い石畳階段を上り禁書庫を抜け、そうして作業部屋の中央、置かれた対のソファーに身を前に乗り出して座り、皺だらけの掌をもうずっと見つめ続けていた。
助手を受け止めた箇所には、痺れとして感覚が残っている。
重みとかかった重力は明日にでも痛みとなり、己の身を襲うだろう。
「…………」
ひとつ、ケルッツアは瞬きをした。
沈黙を保ったままだった彼は、ふと、背後の扉が軽くノックされる音に顔を上げる。振り返るとほぼ同じタイミングで少し緊張した、それていてしおらしい声が扉から室内へとかかった。
「…ドクター。ソフィレーナです。……先ほどは本当にありがとうございました。
……あの……、…少しお時間宜しいでしょうか?」
高く可愛らしい声は言葉尻の最後の最後まで覇気の見られないまま、彼の耳朶を過ぎ空気へと消えていく。
ソフィーレンス、と意固地のように使っていたあだ名ですら口の端に昇らない、それほどまでに弱っているらしい助手を心配に思いながらも、彼は、どうぞ、と部屋への入室許可を告げた。
「……はい、…………では……」
しかし告げた言葉の次に来たのは、助手のいまだ硬く煮え切らない声と、落ちる度し難い沈黙。
いつまで待っても開かないドアに怪訝に首を傾げ、次いで手首でも捻っているのかと、彼はその老体に更に鞭を打つ形で、いまだ痺れの取れない足腰に力を入れて立つ。
「? ……どうしたね? 開けられない状態なの…?」
のろ、と開かない扉を開けるため、ゆっくりと歩き始めた総館長の目の前、ドアノブは僅かに動いた。ドア越し、何か失態をしでかしてしまったといわんばかりの鋭い息の音が飲み込まれ、ノブはかちり、と音を立てて下がる。
「ぁ、いいえ。……至って無事です。
…………失礼します」
現れたのはやはり硬い声と硬い表情。
ドアを開いた助手は、真正面から僅かずれた位置に佇んでいる彼に一瞬ひるんだものの、部屋の中へと入り後ろ手に扉を閉めた。すぐ横で少しばかり面食らったまま佇んでいる様子のケルッツアを改めて見、僅か、安堵したように肩を下げ、また思いつめた表情に戻る。
「ドクターは、その、お加減はいかが…です、か?」
痛みなどはないか、実は平気に見えて結構重傷なのではないか、そんな意図を多分に含んだ視線の大部分を彼ののど元に向け、時折顔を窺うソフィレーナは、その左腕に、雑誌や新聞、他、やけに多い紙の束を入れたバックを下げていた。
彼の目が無意味に泳ぐ程には、場の空気が悪い。
あまり見かけないソフィレーナの態度に驚きながらも、ケルッツアはその場に落ちるなんともいえない淀みを緩和しようと極めて明るい声で少しだけ、おどけて見せた。
「あ、う、うん、大丈夫。僕はほら、丈夫だからさ。……明日、筋肉痛とか関節痛とかに悩まされるだけだ。……その際は、宜しく。助かるなぁ。
そ……"ソフィーレンス君"はこういう時も抜かりないんだよね?」
にこにこと笑って助手をソファーへと促しながら、彼はソフィーレンス、というあだ名を意識して使う。
総館長の見せた態度に、今まで俯きがちだった彼女はそっと顔を上げ、きょと、とした後僅かな微苦笑を零した。
「…………いやだ、何です、それ。
じゃあ"ソフィーレンス"は、明日までに湿布を沢山買っておかないといけませんね」
重く停滞気味だった場の雰囲気がふと流れるように軽くなる。助手は相変わらず微苦笑を湛えたままケルッツアを見ていた。
そのさまに、彼はほっと胸を撫で下ろす。午後三時過ぎの陽光はいまだ明るく、西陽に傾くにはまだ時間があり、室内は明るい。
助手は相変わらず苦笑を湛えたまま。
湛えたまま、静かにその長い睫を伏せ。
「……ドクター……。
聞いて頂きたい事があるんです。」
そう、切り出した。
種明かしは至極簡単。
総館長と彼の助手が今年の五月初めから没頭し始めた、雑誌や新聞に載っているクイズの解きあい。
ちょっとした遊び程度と思っていたものが、しかし結構面白く、時間があればと興じていたそのクイズの全てが、実はある試験の予想、過去問題等をふんだんに盛り込んだ助手お手製の学習教材だったというだけの話。
遊びとして、学習していた問題が出された試験の名は、正に後一週間で応募を締め切る栄光と名誉の称号争奪戦。
即ちゲールッセッテ大学名誉教授席――――プロフェッサー・ディム・ゲール選抜試験。
初心者レベルから中級、上級、最上級と巧くレベルを吊り上げられていた為、微塵も気づきもしなかったお手製問題集と、最後、昨日解いた問題の答えあわせ済み解答用紙を残して、彼の助手は今ここにいない。
『出すぎたマネだという事は承知しています。
謀っていたと言われても図っていたと思われても否定はしません。出来ません。
でも、でも……!』
冷静さを努めた悲痛な声が、ケルッツアの頭の中、どこかで響いていた。
その時駆け巡ったのは幾つかの衝動で、その衝動が目まぐるしく眩しすぎて、彼は結局告げた彼女に言葉を返すことは出来ずに。
ソフィレーナがこの場を立ち去った今も、感情は吐露の場所を見つけられず内にわだかまっている。
そういえば、立ち去る時の彼女は一体どんな表情を浮かべていただろうか。
対置きのソファーに一人取り残されている彼に、濃い西日が僅か差し込み、静かにその部屋を取り巻いていった。
荒れ狂っていようが、逃げ場のない感情に名を与える事は出来る。
謀られたという失望と、怒り。憤怒はしかし哀しみとも同居していた。なぜ今日だったのか、という思いは、今日か明日に選抜試験の応募書類を出さなければ期間に間に合わなくなるからに他ならなく、問いにすらならない。
解雇されても構わない、と助手は口にした。
そういう問題ではない。
そういう問題ではないのだけれど、それは、紛れもない彼女の本心だろうと、彼は漠然ながらも知っている。
それほどまでに、ソフィレーナ・ド・ダリルが真剣であるという事も。
机の上に広げられた答えあわせ済みの答案用紙、八月を契機に伸びた成績、昨日の答案用紙に違えた答えの箇所はなく、彼女は総館長ケルッツア博士の成果を目に見える方法で彼自身に示した。
日を追うごとにミスの少なくなってゆく回答、それらを順序良く右から左へと並べた彼女は俯く事無く眼前の彼に訴える。
『こんなに、ちゃんと出来ているんですよ!?
お願いだからッ
………お願い、ですから………ッ!
もっと……自信を持ってッ……下さいッ…!!』
言葉の最後は繕えなかった切願にまみれていた。全身全霊で訴えるその瞳は哀しさと怒りに濡れて痛いほどに澄み切っている。
その瞳には覚えがあった。
三年来、時折向けられる批難、凛とした鋭い瞳の眩しさに、彼はいつもであれば目をそむけ、出来ないとの確信に逃げ込んでいただろう。
ケルッツアは机の上に並べられた答案用紙をゆっくりと手に取り、眺め始める。
どれほどそうしていたか、得られた情報は、半年近く、ほぼ国立図書館一大工事計画と同じ期間、助手はクイズの名を借りた学習教材を彼に提供し続けていたという事。クイズは全て何かしら手が加えられ、手本にしたという参考書類からの丸写しというものはひとつも見当たらなかった。どころか本当に難しい幾つかの難問に至っては、どう考えてもその道の専門家にアポイントメントを取った上で専用に出題して貰っていることもうかがえる。その苦労はケルッツアの想像にも難くない。出題の傾向からいずれも今の”天才崩れ”にも悪感情のない者に頼んだのだろうが、博士号も持たないたかが国立図書館総館長付きの助手ごときの願いだ、いかに悪感情がないとはいえ所詮は既に崩れた者に、戯れにでも専用の難問を投げかけるなど、普通はしない。酔狂だとしても一度の接触ではまずしない。時間と手間は推して知るべし。
毎日、毎日彼が興に乗った日などは一日で三十あまりクイズをこなした事もあり、期間中は彼女の来ない日に備えて、常に予備のクイズが置かれている状態が保たれていた、のに。
こんな作業を、こんな手間を、彼の助手は彼女の研究と図書館業務と生活の時間の合間にこなしていた。
使われている参考書はどれも名と信用のあるものばかりだった。有益な参考書がそこらに転がっている訳はない。彼女はそれに見合う金額を、決して多くない月給から差っ引いてまで、落ちこぼれ総館長に与え続けた。
その真意は、彼の為では、あるいはないのかもしれない。
それでも、駄目なものは駄目なのだ。
出来ないものは出来ないと決まっている。
分を弁えない事は存在する。
ケルッツアは息を吐く。
窓辺からはもう薄い光しか望めず、照明を点けなければ目に辛い明度にまで視界は沈んでいた。時刻を見やるまでもなく、本土とこの島を行き来する便の最終は出航した後。
助手も、その船に乗って帰ったのだろう。
腕に叩き込まれた痺れは、いまだ執拗に残り続けている。
落下してくる彼女に手を伸ばした時、考えている暇は本当になかった。
出来るという確信を抱けるだけの時間は無く。
出来ないという確信を持つだけの余裕もまた、ない。
確信など、どちらも。
「…………」
ケルッツアはもたれるようにして座っていたソファーから、静かに立ち上がる。
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