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目指せ! 栄光なりしプロフェッサー・ディム・ゲール!!

発覚は作業部屋

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 ボリュームの抑えられたクラッシックの音楽。蛍光灯の無機質な白さよりは黄色系に傾く照明。

 全体的にパステルカラーで統一されたそこは、最新号の雑誌類、今話題に、本当になっているのかそれともしようとしているだけなのか、キャプチャーが作られたハードカバーや単行本、この国の歴史などを取り扱った図解等、慄然と商品という名の書籍が配置されている。

 王都西方港域、国立図書館職員宿舎のある区域で一際存在を主張している大型書店店内は、今のソフィレーナの心を体現しているかのようだった。

 意気揚々と国立図書館助手服のまま会計カウンターに進む彼女の胸元には、主に数学系だと思われる参考書が薄いものから分厚いものまで整理されて五、六冊程左腕によって抱え込まれている。

 右腕にぶら下げた籠にも表紙を見るに系統の様々な参考書や問題集が、こちらは数十冊綺麗に整理されて入れられていた。

 総重量は五キロ近く。合計金額は会計に出す前、何度計算しても彼女の仕事の割には良い方である月給三分の一が綺麗さっぱりふっとぶ額以上の数値を叩き出していたが、お財布からお金を出す手に迷い無く。

 暫くは服も買えないしご飯のオカズ一品、場合によっては一日二食になるかもしれないけど、蓄えもあるし大丈夫。菌類学の雑誌は……季刊誌だから今月買わなくてもいい、かな。

 今回は諦めよう。と、自身の生活や研究資料等、そんな今の彼女にしてみれば瑣末なものよりももっと心躍る、希望に満ち溢れた事実がソフィレーナを有頂天へと押し上げていた。

 どうやってあのドクターに競争率の一等高い教授席選抜試験、プロフェッサー・ディム・ゲールへの試験を受けさせるか、もっと言えば直筆捺印付きの書類にサインさせ、応募させるか。

 一等頭を悩ませる筈だった問題点は、既に彼女のお金同様綺麗さっぱり解消している。



(ドクターは、試験を受ける! )



 会計を担当した店員の見送りの言葉を背に、ソフィレーナは満面の笑みで書店を後にした。



 崩れ、なんて忌み語で呼ばれている総館長に、研究者内で誉れと言われている称号、プロフェッサー・ディム・ゲールの選抜試験を受けてもらおうと思い立った後の助手の行動は早かった。

 正規法、即ち直球で受けてください、等と頼み込んでもドクターの事、僕には無理だよ、分を弁えない行動だ、等と気弱に、しかしきっぱりと断られ以降その話題を出した途端に逃げ出されるに決まっている。

 過去三年間の記憶と照らし合わせ、彼女はそう結論付けていた。

 それでは困る、一先ずは情報収集、とその日の午後には手の空いた時間にインターネットでめぼしい情報を集め、定期便で本土へ戻った夕刻、すぐさま対策用の資料等、最低限必要と思われるものを買い漁って家路に着くや否や、もう一度確認、と、件の試験に関する記述を読み直している。

 玄関に入って戸を閉めて、近くの壁に寄り掛かり買ってきた本の袋を傍の靴箱の上に乗せ。

 じ、と、ダリル家独自の色彩を宿す目を真剣に向けている試験受験項目規則、そこには受けるケルッツアにすれば災いだろうが、その助手からすれば幸いである決まりが、堂々と、印刷の掠れも無く克明に記されていた。



「本試験は、通常齢二五~六十までの、博士号かそれ以上の号を持つ者の応募意思にて受験資格を与う。

 しかし、王暦一六五二年十月二日の取り決めにより、齢二五~六十の博士号及びそれ以上の号を持つ者は十五年周期毎、無条件でその該当者の意に関わらず本試験受験の任が課せられる。

 尚、前述の任か課せられた年の前期、後期どちらにも受験の意を示さなかった該当者は、直ちに所有する号の剥奪と以降十五年に渡り学会参加資格を取り消すものとする。」



 記述をなぞる声にもどことなく浮かれは隠せない。いざ当事者になってみたらそれ程身勝手な規則もないだろうが、少なくとも今の彼女はこの規則をあり難いと思っている。規則の書かれた書類を胸に抱き締め、唯一忘れず点けていた狭い玄関の照明の下、天を、この場合は照明のランプを仰いだ。



(強制参加、じゃあドクターも逃げられない!)



 思わず飛び上がりそうになるほどの嬉しさを辛うじて耐えて書類を折りたたみ、丁寧にポケットの中へとしまいこむと、彼女は買ってきた書籍類を持って玄関から続く廊下の絨毯を、リビングとキッチンの続きになった部屋の扉へと進んでいく。

 ケルッツア・ド・ディス・ファーン総館長はドクター、つまり博士号を持っているので条件に該当、十五年周期でプロフェッサー・ディム・ゲール選抜試験を受けなければならない事になる。

 いかな落ち零れ、と自身で思っている彼でも、論文を学会に発表する意気込みだけはあるので、博士号剥奪は避けたいところだろう。

 ドクター・ケルッツアが今の様になってしまったのは、彼が二八の時に体験した一大スランプが原因だと、彼女は本人の口から聞かされた事があった。彼曰く、いまだ抜け出せていないのだとか。

 しかし、調べてみるとケルッツア・ド・ディス・ファーンがこの選抜試験を受けた記録はない。

 彼は既に二五歳、つまり号取得最年少で博士号を得ているので、前回の強制参加の年には既に該当者であった筈だが、前回は、ドクターからすれば幸運だったのだろう、丁度この国と隣国との間で一気に戦争の気が高まっていた為試験自体が行われなかった。

 今回はそんな噂も情勢の危うさも出てきてはいない。

 ドクターは、号の剥奪を避けたいならば選抜試験を受けるより他、道はない。



(応募用紙は該当者に送られてくるみたいだし……。)



 今日は四月の終わり。件の試験日は八月の中旬。今なら前期選抜試験応募に間に合うだろう。

 キッチンに繋がったリビングに入って電気を点け、もうそれほども無い、とはいえ寒い宵の空気に暖房を弱でつけたまま電気を消すと廊下に出、細長い造り家の一番奥に位置する小さな私室に入る。

 ならば件の選抜試験を受けてくれ、と改めて頼み込む必要もない。ただ頑張って下さいね、等と買い込んだ問題集や参考書等を彼の机の上に置いておくだけでも恐らく効果はある。

 私室の照明を灯し、買ってきた書籍を紙袋から出して机の上に積読。

 着替えると照明を消しざまリビングに引き返し、キッチンで手を洗った。



(その参考書類も、使えなかったら放置される。)

(それでもいい。)



 近くの小さな冷蔵庫から昨夜作って鍋ごと入れておいたスープと、未開封のウィンナーとピーマンを取り出した。



(あのひとの、実力だけは折り紙付きなのだから、あとはその実力が出せるように問題の予行演習さえしておけば。)



 胸のつかえが取れたといわんばかりの表情でスープに湯を足し、彼女は冷えたピーマンに手を伸ばす。



『……プロフェッサー・ディム・ゲールにでもなれば……』



 一昨日に定期学会の会場で聞いた声が、ふと彼女の頭に響く。

 そう、プロフェッサー・ディム・ゲールになれば。選ばれれば。

 その実力がいまだ彼にあると彼が認識できれば。



 まな板の上、包丁でピーマンを二つに切り、手で中身を取ると更に半分に、切る。



(もう、寂しくなんて笑わないでしょう?)



 夕食も美味しく食べ、いつもよりゆっくりとシャワーを浴びて。

 培養している菌糸の状態もよく、早々に就寝と温かな蒲団に包まった彼女は希望に満ち満ちていた。

 故、二つの事をすっぽりと忘れていた。





 翌朝、幸いにも何時発動するか分からない結界が発動する兆しもなく、朝一で運行された定期便に乗り込んだソフィレーナは、二階にてティレル第二図書館長から渡された資料と共に国立図書館最上階禁書庫の、白く塗られた強大な鉄の扉を押し開けた。

 早朝の空気は清清しく整然と本の並ぶ禁書庫にも漂っている。

 テェレルから渡された書類、曰く国立図書館の老朽化についての工事原案を読みながら、禁書庫の立地条件には合わない窓辺を進み、彼女は目的地、総館長専門作業部屋のドアを目指して歩いてゆく。

 と、良く聴き慣れた気弱な声が微かに彼女の耳を打った。



「…うん。…………うんわ…分かっているけどさ。でも、前期は見送るよ。

 ああ、………すまない。

 え? ……次回……後期……うん。ご、号の剥奪は困るから、うん、……うん。

 ……―――――――考えてみるよ。え、あ……ああ、き、強制だもんね、ああ。

 も、もう時間だからじゃ、じゃあグ・ラ・ン・、又。」



 グラン、は、彼の学友であるグルラドルン・ド・シェスラット文化庁長官の事だろう。

 前期、号の剥奪、冬、強制、この単語が付きそうなもので、今回は総館長が見送る、というものに彼女は一つしか心当たりが無かった。



(ああ・・・そう。そうなるわよね……)



 ゆっくりと、ソフィレーナの視界から色が失われてゆく。

 崩れそうな感覚のまま、今まで止まっていた歩を動かし、僅かに開いていた総館長専用作業部屋のドアを軽くノックする。

「おはようございます。ドクター? ソフィレーナ、否、ソフィーレンスです。」

 中から気弱な声で返答と、入室の許可。彼女が入ると、総館長は立ち上がり電話の受話器を持ったまま、やあ、と一つ笑んで見せた。

「今日もまだそ……ソフィーレンス君呼びで、いいのかね?」

 もう書類の不備は直しただろうに。そう笑う総館長に、そちらの方が呼びやすいでしょう? と少し苦く笑って見せながら、彼女は窓辺の彼に近寄った。

「テェレル第二図書館長から預かり物です。」

 この図書館の老朽化に伴う工事原案を渡すついでに、そっと机の上に出されたままの書類を見遣る。図書館でこれから買い込む書籍のリスト、捺印、伏せられたアドレス帳に。



(前期プロフェッサー・ディム・ゲール選抜試験の応募用紙。)



 助手の静かな視線に気付いたか、渡された書類を眺めていた総館長はおもむろにその応募用紙を手に取ると。

「ぼ……僕の分には合わない物だ」

 くしゃ、と丸めて近くのゴミ箱に捨ててしまった。

 紙の潰される音が、助手の心まで潰しているのだと、彼は気付かなかったし、まして彼女は彼に気付かせるつもりも無く。

 部屋の暖房は南国、砂漠生まれ流民育ちの総館長にはいまだ寒く、この国生まれのこの国育ちの助手には少し暑い温度に設定されている。

 それが、三年来、彼らの決め事だった。



(……これじゃあ、駄目。)



 整えられた温度の中で、アンティーク調に、まるで剣の形に切り取られたような窓、その閉まったガラス戸の向こうに浮かない五月初めの空の色が濃く、風は強い。

 総館長は、相変わらず工事の原案書に目を通している。

 視線を戻し、その実頭を抱えそうな心境の助手は、俯く事も耐えてただ、彼の見ている書類の陰影ばかりに意識を集中させる。



(失念、最も大切な事をすっかり忘れ去っていた。)

(一つは。)



 無言では不自然だろう、と軽く口を開き。

「…全館工事を予定しているのですか?」

 事務的に話を、意識を切り替えて彼女が問うと彼は同意を返した。その瞳はいまだ原案書の文字を追ったままだったが、どもりながらも自然口調が強くなってゆく。



(一つは、希望は本来悪い物だって事。判断基準を誤らせ、現実を見失わせるもの。)

(希望を抱いた時こそ、慎重にならねばならない。)



「う、うん。手摺りとか窓枠とか、かえ、代えないとさ、……錆びて腐っている所もあるし…かといって……大げさに危険とか、…看板を出すわけにもいかないだろう?

 ここもか……閑古鳥が鳴いてはいるけど国立の図書館だ。信用に関わる」

 気弱な声だが通す筋はしっかりと通した発言は、その実彼という人物が使えない者ではないことを如実に示していた。

 事実、この偏狭ウィークラッチ島に忘れられたかのように聳え立っている国立図書館は、元ある遺跡の結界が不安定でいつ発動するか分からない、何時音信不通になるか分からない場所という事もあり、利用人数が極端に少なかったらしい。

 しかし彼が総館長となってからの二十数年、一定のニーズが生まれたのか、利用者の数値は安定、少しずつ上がってきている。



 目の前の彼は又、立ったまま、静かに書類へと没頭しはじめた。微か、部屋の暖房が発する低い音。かた、と窓の枠が風に揺れる。

 彼女の見遣った自身の腕時計は、七時十九分を指そうとしていた。



 もう一つの失念は、総館長の本質とも言うべきもの。

 ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、良くも悪くも、自分、というものを持った人物だという事。奢ればどこまでも自分を過信し、やり遂げてしまうだけの力があるが、一端己で駄目だ、と思った、そう納得してしまった物は梃子でも駄目になる。



(九お膳立があっても、残る一つ、その意志で全てを駄目にする。)

(九障害が待ち受けていても、残る一つ、その意思だけで成功させる。)



 そんな事を思う助手の心などいざ知らす、上に掛け合ってみないと実行できるかは分からないけどね、と、にっこり、背の小さな彼女を窺うように僅か己の背を縮め、ケルッツアは笑った。



(でも、その工事原案は通す、通せると思っているのでしょう?)



 なら、通るだろう、とソフィレーナは横手から又工事原案を覗き見た。気付いた彼の上司はそっと彼女が見やすい位置に書類を持ち替えている。

「……十一月、初め」

 工事開始予定は十一月の初め。その前に触れを出し、国立図書館一般利用を休ませるらしい。期間は一ヶ月。大々的な工事だった。

「さ、……最低限、安全面は万全にしていなくちゃ」

 嬉しそうに弾んだ声でそういった総館長の、しかし指し示す予算は洒落にならない額。出させるよ、と自信満々な、その自信を持って試験に臨んだなら、とソフィレーナは返す返すも惜しくなる。



(ああ、駄目だ、今のままでは駄目。)

(これでは納得せぬまま受けるだろう後期選抜試験など、必ずといっていい、落ちてしまう。)



(そもそも、申し込む前までにやる気を出させないと駄目なんだわ……。)



 かと言ってむやみやたらに怒鳴りつけても逆効果だという事は、助手である彼女が十二分に判っていた。一昨日の定期学会での事はその実失敗。





『い、いいよ。…………僕はいいんだ……。さぁ、……行こう?』





 結局、彼女の思い等ちっとも届かず、受け入れてもらえずに。



(なら、どうすればいいか。)



「……私、禁書庫の清掃に取り掛かりますね」

 いつものようにそう告げると、総館長は自身の懐から銀の懐中時計を取り出し時間を確認、書類を机の引き出しへとしまった。

「……二十分だねあ、……あの、さ」

 もごもごと今日もまた疎かにしか手入れされていない口ひげを動かし、窺うように助手を見る彼に、彼女は三年来、心得たものでにっこりと笑って見せた。

 沈んだ気持ちの中、ソフィレーナの思考は、返って洗練され、研ぎ澄まされてゆく。



 「ええ、掃除が早く終わったら、お茶、ですね?」











(この作業が、あのひとの為だなんていう気はない。)



 夜中、カーテンを締め切った部屋の中で工作の手を止めて、彼女はそっと息を吐いた。

 ハサミに、のり、そして切り取られたページの多い参考書類が散らばる中、蛍光灯の無機質な明かりの下で、ソフィレーナは机の上、なにやら切ったり張ったりを繰り返している。積み上げられた紙の束。

 何も手を加えられてない新聞が中の面をむき出しに置かれているだけで、後は出されている紙という紙に何かしらの手が加えられていた。



(これが、総館長の為だなんていう気は更々無い。)



 休めていた手を止めて、彼女は又作業に取り掛かる。最低でも今週中に、二桁後半までは作っておきたいと思っていた。



(ただ、理不尽だと思っただけだ。否、それも違う。)



 そこで、少しだけ苦いものを感じて、ソフィレーナはもう一度手を止めた。

 総館長が、今のままでいいならば私はそれでいい、とは、彼女はどうしても思えなかった。僕はいいんだ、といいながら浮かべる笑みの寂しさが、彼女の胸を痛いほどに締め付ける。



 ケルッツアのそんな笑みが、詰まるところ彼女はきらい、だった。
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