上 下
1 / 17
目指せ! 栄光なりしプロフェッサー・ディム・ゲール!!

発端は定期学会

しおりを挟む
蛍光灯の光は、無機質に無情に、彼らをなめして天井高くその広い部屋を照らし出していた。

 次々と嫌味なほどに席を立つ椅子の引かれる音や人の動く音、戸口へと向かう無数のそれが響く最中にさざめく哄笑は、彼女の、栗色の柔らかい短髪に隠れた耳朶を掠めて、握り締める小さな拳の震えを増長させていたが、その事に気づいたのは一人。

 それは、彼女の肩に無遠慮に手を置いて、何がしかの言葉をかけていった者でも、部屋の出口から彼女の小さな背を気の毒そうに見やったものでもなかった。

 彼女の目の前では、白髪の混じり始めた壮年近い大男が無様にも大きく背を丸め、すごすごと床へ散らばってしまった書類を拾い集めている。

 さざめいていた哄笑の的だった男、少し疲れた白衣を揺らして彼は彼女を見、朗らかに、しかしどこか諦めた調子で笑んだ。灰色の目を優しげに滲ませて、書類を拾い終わると背筋を伸ばし、行こう、と、そっとその小さな、少女、否少年然とした女性を窺うように背を屈めたが。

 彼女は視線を合わせない。

「…悔しく、ないのですか…? ドクター・・・・・・」

 高く澄んだ、激昂に衝かれて尚可愛らしい声が、今や二人きりとなった広い会議室に落ちた。

 目の前に立つ男を見上げる、痛いほどに澄み切った紫水晶、一等上質な濃さに栗色を微か煙らせた両眼は、無機質な光の中でも滲んで、潤んでいるように反射している。

 しかし、彼女の眼差しを受け止める灰色の目は疲れたように、ぼやけていた。

「い、いいよ。…………僕はいいんだ……。

 さぁ、……行こう?」

 背を丸め、掌を差し出す男の手から書類をもぎ取り、踏みつけられたか、足跡の残るものや皴の寄ってしまったそれらを後生大事に折り目なく作りの良いケースに仕舞い込むと、彼の助手はもたつく彼を見る事無く、一目散に会議室を後にする。



 走り去る彼女の眦、熱い水の玉に気づいた者など誰も。

 誰もいない。











《 栗色の、悲劇的なまでに美しき御髪を持つダリル家の末皇女は、十九の歳に成人あそばされた。

 父を、国の昔より王へと忠誠を誓う貴族ミスダルに求め、母に唯一の女系にして直系以外を認めぬ高潔の血脈、ただ一の皇族ダリル家当主その人を持つ。

 正しくその血に一点の曇りなき姫君は、しかし何の由縁か王臣の誉をその出生時より剥奪される憂き目にあい、皇族にありて唯一、庶民同様の義務を負う事となった。

 そんな不名誉を賜ったのは、彼の姫君より五代前、隣国の、何を王は血迷い許したのやら鍛冶屋ごときに降嫁召された方を置いて外に居られないというじゃないか。

 そんな道を歩まれるやも知れぬ、否、もう歩んでらっしゃるのか、高潔な身を庶民にやつさねばならぬ責を、なにがゆえ、あの地上に降り立った女神の如く麗しく慈悲深き御方の御子にかすなどと。

 それだけでも十二分、この世に建国神プロティシアの慈悲深き眼が届いていない事の証明。

 涙涙の悲劇であるというのに。

 ああ、何と言うこと。

 美しきダリル当主、末姫の母御である我等が美姫の泣きくれぬ日はないであろうに。

 御末姫君、彼の方の就かれた職というのが。

 いかにも、この世に神の眼など届かぬ。たといいかな神が麗しく慈しみに満ち満ちたお心をお持ちだとしても、その眼より外れてしまえば悲劇は無きに同じ。

 よりにも。

 よりにもよって。



 あの。》





「西の偏狭、ウィークラッチの国立図書館最上階に住み着いているこの誉高き国の汚点、学者崩れの天才崩れ、天災の間違いやもしれぬ、あの醜き黒猿、下賤にして低俗極まりなき混血のやからが一兎、流民の下であるなどとッ!」

 風評雑誌の一項目を読み上げて、雑誌の表現に合わせるならば御年二十一におなりあそばされたダリルの末姫君ことソフィレーナは、勢いよくその雑誌を握り潰した。勢いに任せて近くのゴミ箱にぶち込む、正しくその表現が相応しいやり方を実践し、派手な、雑誌の悲鳴か、それに近しい音でもって盛大にその部屋に不満の意を撒き散らす。

 風評雑誌で誉められていた髪の美しさはともかくとして、貴族としては平均、場合によっては失笑、庶民の平均で見るとまあ上だろう、という、特筆して書くに書けない顔を酷く不満に歪め、ワイシャツにベストとズボン、短く切り込み刈り込んだ髪型という、やや痩せ気味の男の子の様な容姿で肩を落とし、俯いた。

 特筆するほどでもないものの、その顔立ちはやはり腐っても皇族というべきか。

 長い栗色の睫に縁取られた一対の丸く大きな瞳には、絶世の美女聖女と名高い彼女の母譲り、ダリル家の直系である証としても知られる濃い紫水晶の色に淡く栗色の霞がかかった色合いが浮かんでいる。

 柔らかな眉毛の線は流麗ではなかったが、優しそうなイメージを見るものに与え、鼻は多少低い感もあるが筋は通っていた。口はとても小さいかといわれれば返答に窮すものの、決して大きい訳でもない。

 男性のような格好をしていても柔らかな胸の膨らみと、細くともあるどことない体の丸み、そして同じく顔から受ける印象が、彼女を、彼、には仕立て上げていなかった。



 本土より西方船で約一時間、ウィークラッチの寂れた孤島にでかでかと聳え立つ国立図書館最上階禁書庫、に押し潰されそうなこの図書館の総責任者、総館長専用の作業部屋は、いまだ冬篭りの支度が解かれずに、塔の外や本を納めてある書庫等とは比べ物にならないほどぬくぬくとしている。

 この国生まれのこの国育ちであるソフィレーナには少々暑っ苦しい温度なのか、彼女は総館長付き助手職の制服であるブレザーの上着を脱いではいたが、部屋の主に文句を言う事はなかった。

 部屋の主、窓辺を向いて何やらパソコンに打ち込んでいた人物はそんな温度でも尚寒いのか、分厚い紺色のセーターを着こんで大柄頑丈な体躯をすごすごと丸め時折震えていたが、部屋に突如響き渡った可愛らしい、彼にしてみればいかに怒りにまみれてドスが利いていようともやはり大の大人で男である自身の声に比べれば高くて可愛らしい、声に、反射一等身を竦める。

 予想したとおり、次の瞬間にはやたらと大きな、まるで何か、この場合は丸められた雑誌の悲鳴か断末魔のような音が部屋に響き渡った。



「あ、あれ……、荒れてるねぇ……ソフィーンス君……」

 音の余韻の消えた後。

 どもりを少しの沈黙で抑えて、気弱な声の主、風評雑誌で散々に叩かれている黒猿、もとい彼女の上司である国立図書館総館長は、白髪も混じり始めた灰色の髪に褐色の肌、灰色の三白眼の鋭さと、真面目な顔をすれば壮年の皺がありながらも凛々しくは見えるだろう、それなりに恵まれた顔立ちに似合わぬ、否、妙に似合ってしまう気弱な笑みを浮かべ、部屋の中央に置かれた対置きの青いソファーで俯いている助手を見やる。

 助手はその俯き加減のまま、くる、と顔を窓辺、外向きにあつらえられた机の椅子から振り返っている上司に数秒向けたが、ぷいっ、とまたそっぽをむいてしまった。

 そんな助手の仕草に、大柄な彼は少し俯くと上目遣いに宙を見、ついで彼女に視線を戻すと、手入れも疎かな口ひげをふがふが言わせ。

「………あのね、…きのうのて、……定期学会での事は……いつもの事じゃない……」

 その雑誌も、言っている事は的を射ているかもしれないけど、気にしてないからさ。

 ついさっき、朝のいの一番で総館長専用実務室のポストに投げ込まれていた風評雑誌、明らかに彼へのあて付けの意図を感じるそれを気にしていない、と笑う総館長の声が助手の心に何と響くのか、彼は残念ながらそっぽをむいた助手の顔に更なる憤りと哀しみが浮かんだ事に、気付かない。



 助手がソファーについた手から、皺が深く刻まれてゆく。



(あなたが……そんな、だから………! )



 握り込むソファーのざらついた感触を痛く感じながらも、ソフィレーナは湧き上がる遣る瀬無さと、怒り、そして彼の不甲斐なさへの苛立ちをかみ殺していた。

 窓辺ではまだ何某か総館長、ケルッツアが言葉を発していたが、そんな気弱な言葉は彼女に更なる憤りを与えるだけ。



(昨日の論文は、本当に、よく出来ていた。)



 助手の眼から見ても、そこからひいきを引いたとしてもよく出来ていた、と思い返すだに、彼女の腑から熱く煮えくり返るような怒りと不条理な記憶が思い浮かぶ。



(なのに、一行も読みもしないで床へと投げ捨てた学会長の卑下したような歪みきった顔。)

(周りも、何も言わずに、否、それを合図としたかのように笑いあうと席を立ち、会議をお開きにして。)

(呼びつけたのはそっちじゃない! )



 それに対して、さらし者にされたも同然の当の本人から出た言葉は。





『い、いいよ。…………僕はいいんだ……。さぁ、……行こう?』





 何が良いの、なんで悔しいと思わないの。

 暴れ出す思考は、総館長がそういう人で、これが彼女自身のわがまま以外の何者でもない押し付けであると自覚があっても、静まる事はなかった。



 いつの間にか、ケルッツアの声は止み、その場に、なんとも言えない重い沈黙が降り立つ。

 その事にはたと気付いた彼女は、そっぽを向いた顔を少し上げて、自身の荷物の中からまだ封の解かれていない小さな紙袋を取り出すと、腕に嵌めていた小さな時計を見た。

 そして、後ろで落ち込んでいるらしい上司に声をかける。

「あの、ですね。……ドクター」

 七時三十分。八時になれば各館が動き出す。そんな事を頭の隅で計算しながら、紙袋の中から小さな縦長の箱を取り出し、その封を切って。

 彼女の背には、やけにどもった、けれども少しだけ明るさの伴う声が大きくかかる。

「は、はははい! ……な、ななん、だね?」

 今まで意気消沈と黙り込み、恐らくは肩で息をついて頭を僅か掻いていたドクターの、低いながらもどこか子供じみた声の響きに、思わず彼の助手は歪んでいた顔を一転、優しげな笑みを浮かべた。

「右足の脛、痛くありません? ……この間、蹴っちゃった所」

 買ってきたんです、と塗り薬のチューブを彼に見せ、ソファーから立ち上がる助手はけれど、彼をおもはゆく感じている。

 彼女の視界の中では、ちょっと困ったような顔のケルッツアが、自身の足の脛と助手の手に持たれたチューブ入りの塗り薬を交互に見比べていた。

「い、い痛くも、無いけど……その」

 手を伸ばそうか否か迷っている、心持ち塗りたい心境に傾いているらしいその顔を見ながら、助手はこの職について初めて廻ってきた冬の事に思いを馳せている。







『私……凄く尊敬している学者がいるんですよ。

そのひとの論で、それこそ、世界が変わっちゃったぐらい

・・・・・・・・・他の人なんて、眼中になくなるくらい。』



 口を滑らせたのは彼女が勤め始めて一週間後、晩秋から冬に差し掛かる頃の事だった。そのうっかりとした台詞をなんのゆえんか覚えていたらしい彼は、その年の冬初め、彼女にこう問いかけた。



『君は、凄く尊敬している人が居るんだろう?

 その人の論文以外見る気がしないって、前に言ってたじゃない……。

 ねえ、もし良ければ名前を教えて貰えないかね?

 僕は顔だけは利くんだ。

 もしかしたら合わせてあげられるかもしれない……』





 僅か屈んで、窺うような色を乗せた灰色の目の純粋さに、彼女はやりきれない思いを抱く。いたたまれなさに視線を逸らし、丁寧にごまかして断る。目の前が心なし暗くなった彼女に出来たのは、それだけだった。

 ケルッツアの中では勤め始め、男と間違えて関係をこじらせてしまった助手の貞腐れていた態度が一週間で、本人に自覚はなくとも劇的に変わった、事と、彼女の尊敬している学者の話が同時期に出て来た事、この両者は永遠に結びつかないのだろう。

 この三年間、何だかんだと言って、自身で納得の上でしか行動していない総館長の人となりを見るに、仕方の無い事だと助手は思っている。

 助手の尊敬している学者が何を隠そう彼女の仕えている博士である事も、彼女の世界を変えたのが、論文ではなく論文用に書き下ろされて結局は放置された、結論無きノートの切れ端だった事も。

 ついぞ、彼女は彼に伝えていない。



(伝えた所で嘘だと思われる。)

(彼曰く、優しく良くできた、助手のつく嘘だと思われる。)

 



(私の世界を変えたのは、まさしくあなたの結論なき、論。)







 これだけの衝撃を過去菌糸研究でしか受けた事の無かった彼女は、総館長が天才崩れ、学者崩れなどと酷くあだ名されている事がどうしても信じられず、密かに調べた事があった。

 そうして分かった事は、どんなに凄い論文を書いてもそれが"彼の"である、という条件がついただけで、忽ち日の目からは遠ざけられるという事。

 かつて天才と謳われ、秀才とあだ名され、この国一の学力で知られる大学を主席で卒業した流民、という過去を持つドクターの長年による不調を卑下する事は、歪みきった学者の自尊心をどうにも擽るらしかった。

 嫉妬とねたみと卑下の対象。結局はサンドバックでしかない。



「……お塗りしますよ?」

 口をついて出た言葉に、一瞬だけソフィレーナは現実に立ち返った。

 目の前の総館長は、目を丸くし、しどろもどろ言葉を重ねて唸る。その耳朶が心なし赤く、顔も雰囲気も見る間喜色に満ちていった。



(その笑みを。喜びを。)





『あの人もねぇ……プロフェッサー・ディム・ゲールにでもなれば……』

 昨日の定期学会で彼を気の毒に思った者か、ふと耳に飛び込んできた台詞がソフィレーナ頭の中で廻っている。



 プロフェッサー・ディム・ゲール。

 プロフェッサー・ディム・ゲールッセッテ。



 ――――ゲールッセッテ大学名誉教、席。



 このドクターが、この国で過去も、そして現在でも最高峰の学力を誇る大学の名誉教授選抜試験を受けて、この場合は職ではなく、十しか用意されない席、のどれかに座る権利を得られれば、学会での地位もあがるだろうと。



 嫉妬やねたみ、八つ当たりの対象から外れるだろうと。



 その言葉が、彼女の耳を突いてはなれない。





『……プロフェッサー・ディム・ゲールにでもなれば……』



『プロフェッサー・ディム・ゲールにでも……』



『プロフェッサー・ディム・ゲール』





「あ、…………じ、じゃあ、……お願いしようかな………」

 酷く掠れた声が耳に。

 にっこりと子供のように笑って、当のケルッツアは塗り薬を塗ってもらうためズボンの右足裾を持ち上げていた。







(もし、席、を勝ち取れたなら、このひとはもう寂しく笑ったり、しないだろうか。)
しおりを挟む

処理中です...