チハル

鏡水 敬尋

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いつもと違う日

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 翌朝、チハルは、母親に叩き起こされた。時計を見ると、8時10分。まずい、遅刻だ。
「どうして、もっと早く起こしてくれなかったの!」
「起こしたけど、あんたが起きなかったんじゃない」
 繰り返される同じ光景。急いで、朝食と着替えを済ませて、家を飛び出す。
 スクランブル交差点で、またもや赤信号に足止めされる。
「もう! なんで、いつも、このタイミングで赤になるの」
 言いながら、ふと、右下に視線をやると、ガードレール脇に、花束が置かれていた。
 そうだ。一週間前、この交差点で事故があって、女性が亡くなったんだ。
 事故の翌日から、ここには、ずっと花束が置かれていた。
 あれ。でも、昨日は無かったような……。遺族が、花束を交換したのだろうか。
 信号が青になると、頭の中の疑問は消し飛び、意識の全ては、走ることへと集中した。

「今日もぎりぎりセーフだったね。今日は何があったの?」
 親友のミキが、期待を込めた顔で聞いてくる。
「大統領が、私の家の前に、壁を作っちゃったもんだから、朝から壁登りだよ」
「何それ! ウケる。チハルの家、大統領に、目ぇ付けられてるの?」
「身に覚えは無いんだけどね」
 ミキは相変わらず楽しそうだ。

「新しい彼氏ができたんだ」
 昼休みに、唐突にミキが言う。
 確かに、ミキは可愛くて、彼氏には事欠かないだろうなと思う。
 決して今風なわけではないのだが、少しだけ明るく染めたロングの髪と、くりっとした目には、美しさと愛嬌が良いバランスで同居していて、女のチハルから見ても、魅力的だと思う容姿であった。
 その容姿故なのか、ミキは、彼氏をとっかえひっかえしていて、いつ誰と付き合っていて、いつ別れたのか、チハルには把握できなかった。
 ミキ本人ですら、ちゃんと把握してるのか怪しいものだ。数日後には別れているかも知れない彼氏に、正直あまり興味も無いのだが、チハルは聞く。
「どんな人なの?」
 ミキは困った顔をして唸る。
「んー、説明が難しいな。よく分かんない人」
「よく分かんない人と付き合わないでよ!」
「あは。ちょっとくらいミステリアスなほうが、面白いじゃん」
 毎度この調子で心配になる。ミキには、もうちょっと慎重になって欲しい。付き合う人は真剣に選んで欲しい。そう思いつつも、ミキが私と親しくしてくれているのは、私にも得体の知れないところがあるからかな、と思うと、あまり強くも言えない。
「今度、チハルにも紹介するね!」
 今までに、一度も彼氏を紹介してもらったことはないのだが、それを指摘しても仕方が無いので、チハルは無難な返事を選んだ。
「うん。楽しみにしてる」

 帰り道、チハルは、今日も少し離れた場所から、交差点を見守る。いつもと同じように、交差点内には、多数の人間と、人間でないものが行き交っている。
 落ち武者のような霊を連れて居る人がいる。あの人は、この先大変そうだな。仕事でも苦労するだろうな。
 もはや、人の形を留めていない怨念を背負った人が居る。あの人は……もう長くないかも知れない。思い残すことの無い人生だっただろうか。家族は居ないのかな。
 勝手な想像をして、上の空になっていた、チハルの意識は、瞬時にして現実に引き戻された。交差点の中に、とてつもない違和感を感じ取ったのだ。
 とても悲しそうな目をした女性の霊。その霊には見覚えがある。しかし、それ以上にチハルの目を引いたのは、それを連れた人間のほうであった。
 一見したところ、それはどこにでも居そうな、普通の青年だった。顔は整っており、世間的には、いい男、と呼ばれる部類だろう。特におかしなところがあるわけではない。実際、交差点内を行き交う人々は、特に彼のことを気にしている様子は無い。しかし、そこに確かに有る、強烈な違和感。
 今までに、霊など、いくらでも見てきた。それほどの恐怖を感じたことも無かった。だが、今、チハルは明らかに恐怖を感じていた。圧倒的な違和感を放つ、その人間に対して。
 いや、そもそも……あれは人間なのだろうか。
 チハルは戦慄しながらも、その存在から目を離せずに居た。

 翌日も、チハルは、スクランブル交差点を眺めた。しかし、それは、今までのように、行き交う人々を見ながら、空想に耽るためではなく、あの男が来ないかを見張るためだった。
 果たして、あの男は現れた。
 チハルは、あの男のことを、X(エックス)と呼ぶことにした。正体不明だから、Xだ。
 Xが連れている、あの霊、どこかで見たことがある気がするのだけれど、思い出せない。一瞬、何かを思い出しかけるが、チハルの意識は、すぐ様、Xのほうへと向いてしまう。
 人間の振りをした存在が、学校のすぐ近くを、普通に歩いているという事実に、チハルは改めて身震いした。
 Xは、一体、何者なのか。その正体を突き止めたい。チハルは、恐怖を感じながらも、湧き上がる好奇心を抑えられなかった。

 ある日の学校帰り、いつもの様に、交差点でXを見つけたチハルは、その後を付けてみることにした。
 幸いなことに、同じ方向へ行く通行人は多数居たため、その中に混ざっていれば、付けていることはバレずに済みそうだ。
 絶対に、こいつには何か有る。チハルは確信を持っていた。
 人間の振りをして、人混みに紛れてるけど、絶対に人間じゃない。Xは一体、どこへ行き、何をするのか。
 しばらく間、人混みに紛れて尾行をしていると、Xは繁華街のほうへと入っていった。
 夕方の繁華街は賑わっており、人に溢れ、喧騒に満ちていた。
 チハルは、しめたと思った。ここなら、常時人気があり、引き続き尾行がしやすい。しかし、人間のための繁華街に、Xは一体どんな用があるのか。
 しばらく付けていると、Xはある店の前で、女性と話し出した。
 チハルが遠巻きに監視していると、Xの話し相手に、どこか見覚えがある。あの、綺麗なロングは……ミキだ!
 なんで、なんでミキがXと……。
 驚きのあまり、硬直しているチハルに、ミキが気付いて呼びかけた。
「あ、チハルー。どうしたのこんなところで」
 言いながら、ミキが歩み寄ってくる。つられるように、Xも近付いてくる。
「チハルも、こういうところに来るんだね。意外ー」
 屈託の無い笑みで話しかけるミキに対して、チハルは、咄嗟に声が出せなかった。
「……あ、いや。ごめん。何か……」
「あは。何で謝るのよ。良いんじゃない。チハルだって、たまにはこういうところでパーっと」
 ミキは学校帰りに、しょっちゅう繁華街で遊んでいるのだ。チハルはと言えば、しばらく交差点を眺めてから帰るくらいで、繁華街になど、ほとんど行ったことが無かった。行きたいとも思わなかった。そんなチハルが、今ここに居るのは、Xを付けて来たからに他ならない。
 すぐ近くにXが立っている。近くに居られるだけで、膝が震えそうになる。しかし、こうなっては仕方が無い。チハルは、意を決して、視線をXの方へとやり、聞いた。
「あの、こちらは?」
「高山ヒデオ。これが私の新しい彼氏なの!」
 チハルは言葉が出なかった。なんで、こんな正体不明なやつとミキが付き合ってるの。本当に、付き合う相手は慎重に選んで欲しい。

「あんなところで、チハルと会うとは思わなかったよー」
 翌日の昼休み、ミキが言った。
「ああ、そうだね」
 チハルは、自然を装ってみたものの、それができている自信は無かった。
「チハルは何しに来てたの? 買い物?」
 まさか、交差点で見つけた怪しい男を付けていたら、それがミキの彼氏だった、とは言えない。
「まあ、そんなとこ」
 どうしたら良いんだろう。X――ミキは高山ヒデオと言っていた――は、あまりに得体が知れない。このままではミキが危険な気がする。でも、私に何ができる? ミキのの彼氏、人間じゃないよ、などと言えるわけが無い。
「どうしたの? 真剣な顔しちゃって。ウケる」
 ウケてる場合じゃないんだよ。どうにかして、ミキには、ヒデオと別れてもらわなければならない。
「あのさ。ミキの新しい彼氏のことなんだけど」
「ああ、ヒデオね」
「あの人の、どこが好きなの?」
「えー、何その言い方。昨日会って、そんなに駄目に見えた?」
 ミキの反応を聞いて、チハルは、自分の言葉に棘が含まれていたことに、後から気付いた。
「ごめん。そういうわけじゃないんだけど、なんか……不思議な人に見えたから」
「あ、分かるー? そうなの。彼ちょっとおかしんだよねー」
「どんなところが?」
「んー、そうだなあ。なんかね、熱々のラーメンとか、数秒で飲み干しちゃったりするの。あは、ウケるよね」
 ウケないよ! それは、ちょっとおかしいどころじゃないだろう。絶対に人間業じゃない。っていうか、何そのエピソード。もう少し、深刻なやつが来るかと、構えてたのに。
「そ、それはちょっと、いや、だいぶ異常じゃない?」
「異常なくらいのほうが、ミステリアスで良いでしょう」
 駄目だ。異常さでは、ミキは引かない。別の手を考えなければ。
 対応に苦慮しているチハルに、ミキが追い打ちをかける。
「それに、ミステリアスさでは、チハルも良い勝負だよ」
 なんてこった。ミキの中では、あんな正体不明なやつと、私は同列なのか。私は、ちょっと霊が見えるだけの、普通の女子高生なのに。
 そうだ。ヒデオの後ろにも、見えた。あれを理由にこじつけよう。
「実はさ、ヒデオ……さん? の後ろに……居たんだよね」
「え、もしかして、霊的なやつ?」
 これでどうだ。ミキは幽霊が苦手なのだ。さすがに、この状況でウケてはいられないだろう。ここで畳み掛けなければ。
「うん。しかも、かなり凶悪なやつだと思う。気をつけた方が良い、っていうか――」
 このまま押し切ろう。
「何か有る前に、別れたほうが良いと思う」
 言ってしまった。彼氏という存在に、あまり執着が無いミキのことだ。この事実を突きつければ、すぐ別れてくれるだろう。
「マジ!? ……だよね。チハルは、遅刻の理由以外では、適当なこと言わないもんね」
 うう、胸が痛い。でも、親友の身の安全には代えられない。
 チハルが無言でいると、ミキは続けた。
「分かった。じゃあ、除霊すれば良いよね! 私、除霊してくれそうな人に、心当たりあるんだ」
 ぎゃあああああ。チハルは心の中で絶叫していたが、顔にはそれを出さずに言った。
「ああ、そうだね。でも、かなり凶悪そうだったから、難しいかもよ」
 チハルは食い下がる。
「ダメ元でやってみるよ! 大事な彼氏だもん」
 うーん。ミキの基準が分からない。
「分かった。上手く行くと良いね」
 本来であれば、何かあったら呼んでね、くらいのことを言いたいところであったが、この件に関しては、呼ばれてはかなわない。霊よりもヒデオが怖いのだ。チハルは、社交辞令のような返事しかできなかった自分を恥じることしかできなかった。
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