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第一章
桐乃の長い一日3
しおりを挟む半目になる私とは打って変わって、クレアは顔色を失ってカーテシーをした。
「申し訳ありません」
なんだ、謝るんじゃん! ということは、はじめから森番の子の私には謝罪なんてしないってことか。四分の一目になる私をよそに、ハルトは続ける。
「俺に謝ることはない。ただ、聞いているとクレア=フォン=アマシェ、きみは森番のことを誤解しているようだ。建国から今日この日まで、この国を諸外国の諍いから守り続けた森の管理は、そのまま国防に繋がる。森番が機能しなくなった時に真っ先に奪われる領土はここだと、まさかきみがわからないはずはないだろう? きみの家が私兵の育成ではなく、代々文化の振興に努められるのも、森があってのこと。そしてそこは昔も今も、きみの家の土地ではない。その意味をもう少し考えなければ」
「は……」
クレアは紙のように真っ白になりながら、掠れる声で返事をした。私は呆気に取られて、顔だけはいつも通りのハルトの横顔を穴が開くほど見つめる。
(ど……どういうこと? 貴族の文脈で話がされてるってことしかわかんないんだけど)
しかし、十三年前――ジークとクレアが生まれた年に王政は廃され、旧王都は首都と名を変え共和政が施行された……と聞いている。国防だって、王や貴族の私兵ではなく、国営の防衛兵団が組織化されているのではないのか。
頭が「?」でいっぱいの私に、ハルトは軽く頷いた。
「たしかに父さんは降りて、体制は変わった。けれど、何もかもが変わったわけじゃない。例えば兵団には訓練所が必要だから、それがある場所――貴族の私設兵の養成施設に支部を置く。人だって簡単に職業は変えない。地方支部所属の兵の九割は、元はその土地の貴族の私設兵だ。貴族たちの多くが、引き続きその土地の政治をするように」
それはわかる。会社の名前が変わっても中身の部署や人が変わらないように、名の変わった国も内実に大きな変化はない。しかし、それと森番に何の関係があるというのか? 森番はじじい一代で、歴史なんてほとんどないに等しいのに。
「桐乃がそう考えるのも無理はない。けれど森番の設立は王政時で、しかもマクシミリアンは貴族だった。前体制において地方にいる貴族は、ただそこにいるだけで統治を期待される生き物だったんだ。当時、森から丘までは王家の直轄地。森番の設立は事実上、マクシミリアンに代理の統治を認めることだった」
「統治って。森には誰もいないの、ハルトも知ってるでしょ」
視界の隅でクレアが驚愕を顔に浮かべたが、見なかったふりをしておく。
「うん。だからここからは、家の格の問題だ」
はく、と音が聞こえた。彼女は、カーテシーをしたままだ。
「森番の設立が先王直々のものだったことは話した。森番が不在になれば、〈智の森〉は俺の家に返される。ただそれは起こらない、桐乃がいるから。ならばアマシェ家は、森番と協力関係でなくてはならないな? 体制が落ち着くまでは、他家に遅れをとる要因はなければないほどいい。……この説明で、クレアの森番への誤解が解けていたらいいのだが。ああ、心配しないでいい。俺たちは手を出さないから」
なんてことないように付け加えられた最後の一言で、クレアがかすかに震えた。ここまでくると、いくら私でも、あれが脅しということくらいはわかる。このあたりの土地の趨勢はクレアのアマシェ家だけが握っているわけでも、アマシェ家と森番の二門だけでもなく、ノルンマーズ家とその直属の森番とアマシェ家の三巴であることも、なんとなく理解できた。なんだか途方もない話だ。
クレアが小さな声で「大変な誤解をしておりました」と言う。ハルトはクレアに姿勢を戻すよう言ってから、ふっと纏う空気を和らげた。
「わかってもらえたならいい。俺たちはただの同級生だから、本当は今の話だって大したことではないんだ」
本当かどうかはともかく、それを言えるのはハルトだけだ――強く感じながら、私はさっきハルトが話した言葉のなかに引っかかるものを感じていた。
クレアの勢いが萎んで、私も落ち着いたと見たハルトは、少し眉尻を下げる。
「それから、アンダーウッドの振る舞いの理由については、興味本位で聞くことではない」
忘れようとしていた「何でそうなの」を蒸し返され、私はめまいがした。
私でさえいまだに語る言葉をもたないことについて、けれどどうして、何も知らないはずのハルトが話すのだろう。助けられたはずなのに、裏切りのように感じた。
「ジークは知っているのですか?」
「知らない」
ハルトの一言が重く聞こえたのは、気のせいだろうか。
聞いたクレアは奇妙に笑んで、すぐさま残念そうに取り繕った。「それならあたしも、聞くのを諦めます。なにかご事情があるのですよね」
ここまでくると、ハルトの脅しはクレアへの数少ない対話手段だったのかもしれないと真剣に思い始める。彼女からの謝罪なんて一切期待していなかったけれど、ここまで権力主義な人間も珍しかった。
解散の流れになったところで、ハルトが思い出したように言った。
「そういえば、昨日は俺に用があったと聞いたが」
(それは! 放課後教室で待ってるって伝えて♡のアレを言ってんのか……!?)
さっきまでとは違う意味で、心臓が地面に落っこちた。こいつ、王族的な脅し文句バチバチだったくせに、こういうところは察し力皆無なの振り幅おかしいって……! 私は叫び出しそうになるのをこらえた。
(絶対脈なしなんだからやめてあげなよー! 傷口に塩塗るようなものじゃん)
油の切れた機械のようにぎこちなくクレアを見やると、はたして彼女は悲しげに笑った。
「それは、なかったことにしてください。今日のお話で、ジークが表に出ることを望まないのはわかりましたから。勝手ですが、ジークをあたしのアマシェ家にご招待したかったのです。……もう、遅かったですね」
最後はちらっと私の方を見ながら、クレアは言った。
あー……私みたいな出自も怪しい庶民とつるむくらい庶民派なハルトには、たしかに見当違いな誘い文句だった、と思う。もしもハルトが王の位を得たかったならば、貴族とコネクションをとる意味もあっただろうが、庶民を楽しんでるハルトにはいい話とはいえない。デートの誘いでなくても、失策感は否めなかった。
ハルトは了承の意か、ひとつ瞬きをした。めちゃくちゃわかりにくいが私にはわかる、これは居心地の悪い顔だ。
自分の天然ムーブで墓穴を掘って、かわいそうなやつ……。
微妙な空気になったところで私が勢いよく扉を引くと、扉の向こうで聞き耳を立てていた、クレアの取り巻きたちが雪崩のように落ちてきた。いかにもありがちだ。クレアが驚ききって口を開くと、目を剥いた魚群はちりぢりに逃げていった。多くが教室方面に走る中、職員室方面に走る詰問学級委員もいた。
噂を届ける妖精というには、いささかあわてんぼうが過ぎると思う。
ハルトと私は何事もなかったかのように部屋を出て、教室に戻る。教室の野次馬は消えていて、台風のあとのような閑散とした空気が無人の教室を占めていた。授業? 何だかわからないけどやってないですね。昼休みはとっくに過ぎてるはずですけどね。
「彼女たちは……口が早いな」
ハルトは驚きを通り越して、やや呆れていた。そのまま帰り支度を始める。
「帰るの?」
「今日はもう授業がないから。桐乃も帰るだろう?」
「そうだね。さすがに疲れた」
昨日もこのくらいの時間に帰ったと、ふと思い出す。足元に力の入らなかった昨日とは違い、気だるさはあれど心は軽かった。隣で銀の髪がきらきらと揺れる。水の中のようにきれいで、見ていると息がしやすくなるようだった。
「今ごろは職員会議かな」
森への坂道を登りながらつぶやく。私とクレアの衝突なんて子どもの喧嘩だ……とは、もう言えなかった。
「大丈夫。あの場に俺がいたから」
日付を答えるみたいに当たり前に、ハルトは返した。
森の小道に差し掛かって、私は足を止める。隣の青年は一歩歩いて、さして驚かずに私を振り返った。
「学校は、誰のもの?」
「桐乃」ハルトは慎重に言った。
「この国は共和制だ。今はもう、誰の手中にもない」
青と藍の瞳が、切なげに私に語りかけた。揺らがない自信の奥に、誰も気づかないハルトの悩みがある。
「そうだったね」
気を抜けばすぐに、彼はどんな高みにも押し上げられる。十三年続いた体制を不安定だと見て、「落ち着くまでは」と言わしめる時間感覚は私にはわからない。為政者の目線を、私は持ち得ない。彼は、本人が望まない方面にばかり優れていた。それでいて彼の望みは、望みは……。
ふと、目の前の身体が前触れなく傾いだ。
「ハルト?」
「なんだか今日は……たくさん話した」
そう言ったハルトは、徐にしゃがみ込む。
それきり動かなくなった。
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