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第一章

ジークハルト視点3

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 ひとりが寂しい。

 そう言ったきり彼女は沈黙した。小さく上下する平たい胸と穏やかな寝息で、その睡眠の深さを確認する。熱を持っていそうな程赤くなった目尻から滲んだものを拭うと、ピクリと反応が返ってきた。案の定の高温であったのか、それとも俺の体が冷えているから、そう感じただけなのか。俺は滴のついた自身の指先を一瞥し、それからまだ部分的に湿っているシャツに視線を落とした。
 湖から彼女を引き揚げた際に浸した部分が、痺れるような冷たさとなり体温を奪いにかかっている。少し考えて、袖先を燭台にかざした。
 それにしても。
 (大事なものを、作ってはいけなかった……なんて)
 俺はそれを傲慢だ、と思う。

 「大切な人に大事にしてもらったというのに、その幸せを幸せと思わないのは、きみの大切な人の本意ではないだろうに……」
 
 けれど、きっと、それも織り込み済みなのだろう。だから。
 「きみは、自分では資格がないと思っているのだな」

 

 素晴らしい人の寵愛を受けるのが自分ということに、納得いかないのだ。自分の失敗や力不足の度に、大事な人の足手まといや荷物になる度に、足りない自分が許せなくなる。大事な人に愛される自分が、このような不束者で良いはずがない、と。
 そうして、完璧を求めてしまう。
 それが望ましい状態ではないとわかってはいても、他にやり方を知らないから。
 けれどせめて。

 「もっと、自分の為に、生きてもいいんじゃないか?」

 痛々しいのだ。自分をいじめる様は。
 人の為だけに生きることなど出来やしないのに、無理矢理に自分を封じて生きることの歪さ。苦しさ。

 そういうやり方は、いつか綻びが来ると、そう教えてくれたのは、かつての俺を危ぶんだのは、他でもないきみだというのに。

 「俺を笑わせよう解放しようとしたきみは、自分を赦す気が一切ないだなんて」

 正気ではない。
 己を摩耗させて、孤独に暮らすことを贖罪とするなどと。一生一人でいるつもりなのかと問い質せば、確実に是と答えるだろう、彼女の秘められた狂気に身が竦んだ。それはとても恐ろしくて、同時にとても楽なことで、だけど本当は、絶対に不可能なことなのに。

 もう、何なのだろう。俺は何を焦っているのだろう。どうしてこんなに胸が痛いのだろう。何をしたくてここにいるのだろう。どうすれば彼女は、苦しまなくなるのだろう。……前を、向いてくれるのだろう。

 昼間、同級生の首に手をかけていた彼女の腕を取った瞬間の、極めて非日常な空気を、この世を疎んじてやまない暗い瞳を、ふと思い起こした。
 泥のような粘性をもつ澱んだ目に宿った、閃光のような熱が、彼女にとっての救いだったとわかって、思うことは。

 「どうか、逃げてくれるなよ……」

 ひとりが寂しいと言うその口で、誰とも親しくならないと宣言する彼女は、きっと今後、今日の接近の反動的行動をとるだろう。もしかせずともそれは始まっている。
 俺を見て全身で安堵した彼女が、数秒後野次馬の視線を一身に浴びながらなんてことない顔で俺から離れていったように。
 
 おかしな線引きなどしないでほしい。不必要な遠慮などしないでほしい。
 ……どこにも、行かないでほしい。

 この予感は杞憂ではないと確信するから。だって、事あるごとに、予防線を張る人なのだ。

 友達になったのだって、元を正せば利害一致のもとでの約束だったのに。
 
「所詮、エゴでしかないのだろうが……」

 はじめから利害一致の元始まった関係だ。詰まるところ、、嫌なだけなのだ、彼女が笑わなくなるのも、声を聞けなくなるのも、強気でしなやかな光をした目が俺を見なくなるのも。
 
 「それでも……」

 明日からは、きっと全て変わってしまう。栗色の髪の少女の到来で、彼女がのか、きっと彼女は教えてはくれないだろう。そうして、今まで築き上げてきたものを壊しかねない自分の言動に悩み、申し訳ないという顔をしつつ、しかし口に出すことはできぬまま、去っていくのだ。

 そんな彼女を、「自分勝手だ」と、俺は言いたい。

 一瞬でも目を離せば、勝手に不幸になっていく俺の大事な友達を、これからは絶対に独りにするものか。
 何があっても見放してやらない。掴んだ手を、離してなどあげない。

 大方人生最大であろう一大決心を胸に、扇形に広がる葉っぱ色の髪を、戯れに一房編み込んでやった。翌朝不思議そうに手櫛をかけるであろう彼女の様子が目に浮かんで、場違いにも、跳ねるような心地が暫く収まらなかった。
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