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▼閑話

慎二と香瑠の場合

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 慎二はため息交じりに行ってこいと言った。
「連絡返ってこないんしょ? 多分、潰れてんじゃない」
「つ、つぶれてる?」
「んー。香瑠はそう言うし、俺も聞いただけだから分からんけど」
 それでも、香瑠という恋人から聞き及んでいるのは、番になる前のヒートのひどさというものだ。
 番になればパタリと止む、というわけではない。それなりに周期的にヒートは来る。でも番が居ないときよりはマシだ、と彼はいつも通り間延びした声で言っていた。
「慣れてないと、結構キツそうなのは話聞いてて分かったし」
 そして治めるのに、パートナーとなる人がいなければ兎に角地獄だと香瑠は言っていた。
 何度達しても物足りない。何をしても物足りない。
 ただただ渇きを満たすために自慰をしたところで、更に乾くだけなのだ、と。

 スマートフォンを片手に、緩く首を振りながら純一は悩んでいた。
 夜に悠人と約束をしているのは慎二も知っていた。だから昼に偶然出会ったのは本当に偶然で驚いていたのだ。
 繋がりの元を辿れば、悠人の友人が香瑠の店の常連だった。というだけなのだが、偶然も重なれば面白いと思う。
 尤も、今慌てている男は偶然を装って必然的に自分の幼なじみに会いに行ったので、本当の偶然の威力を目の前にして固まっていたのは面白かった。
 面白いものを見たと思ったので、今日の夜の約束は早く行けばいいと帰り道に笑いながら伝えた。
 だが今はそれどころではない。
 純一が連絡が取れない、と言いだしたころ、ふと自分のスマートフォンを見たところ香瑠からの連絡が来ていた。
 そこには、先ほどの晴樹と悠人が店に行った事。
 そして悠人がおそらくアレはヒートになっているんじゃないか、ということだった。
 どういうことかと返信をすれば、すぐに既読がつき、暫くして文が返ってくる。
「あー、匂いがしたって」
「匂い?」
「うん。多分お前が言う匂いとは別で、こぉ、ヒートになる時にどうしても匂うフェロモン的な?」
 Ω同士ならばその匂いはなんとなく分かりやすい、と香瑠は続けて打ち返してくる。

――多分、薬で抑えてたんでしょ?
――だから、結構ヤバそうだけど

 慎二は返ってきた文字を見て、返信を打ち返す。

――薬で抑えてたとかわかるの?

 少しして返信が来る。

――わかる
――っていうか俺もしてたことあるから?
――それで相性の良いαが近くにいたら
――薬じゃ抑えられなくなるし
――ああもなる

 ああもなる。
 多分それは悠人の今の状態なのだろうと思うが、見ていないので分からない。
 とりあえずスマートフォンを手にどうするか悩む純一に向かって言った。
「どうせ殆ど作業終わってるっしょ? 行きなよ。明日以降でも大丈夫だろうし。やっとく作業あるなら教えて」
「いや、大丈夫……殆ど、終わってる」
「なら行けって、今すぐ。なう」
 そう言うと純一は立ち上がり、荷物を掴んで部屋の出口まで向かった。
 そして振り返ると「わるい」と言ってから礼を言って、普段使わない階段を駆け下りていく。
 嵐のように立ち去った相棒の姿を見送り、慎二はスマートフォンから香瑠の連絡先を呼び出して通話ボタンをタップした。
 暫くして電話にでた香瑠はやはりいつものように間延びした声を響かせる。

『もーしもし。どしたの』
「今嵐が去ったんだけどさぁ。えっと、あの彼は大丈夫そうなの?」
『んー、六條さんが手を出せば大丈夫っしょ』
「えー、アイツがぁ?」
『さすがにアレは我慢できると思わないけどなぁ。俺でも匂うフェロモンの香りしてたし。αならもっとだと思うけど』
「そんなんで、一人で帰って大丈夫だったの?」
『多分ギリギリ大丈夫じゃないかなぁ。まだ微かだったから。俺もぉ、人がイイからさぁ。酷くなる本当予兆程度のところだったから言ったようなもんだしぃ』
「なるほど」
『でもさぁ、本当にあるんだねぇ』
「なにが?」
『最初っから、運命の番に出会うなんてさぁ』
 空気を震わす笑い声に、慎二はああと小さく呟いた。

 純一は学生時代、大学に編入時に出会った。
 彼はその時から類い希な才能を持っていたし、出来ないことも出来ないとは言わずに学び、努力し、出来るようにしていた。
 才能もあるが、それ以上に努力をする男。その印象を持ったとき、慎二は彼には敵わないと思った。
 偶然に同じゼミを取っていたから出会って、話すようになり、そうして彼に打ち負かされた気分になった。それは慎二の勝手な思い込みであり、もちろん純一はそんな他者を気にしてはいなかった。
 だから仲が深まった頃に、なんとなく慎二はそれについて聞いてみた。
 どうしてそれほど頑張れるのか。
 そんな風に問うたと思う記憶の底で、いつも人との見えない壁を作っているように接している彼は、おそらく、本心から笑った。
 そうして口にしたのは、ずっと好きな幼なじみを探したいからだ、という。
 なんだそれは、と思わず声を上げると、彼はソレまでのことを掻い摘まんで話してくれた。
 それで「なるほど」と納得はできない。
 むしろ何故そんな無駄になるかも知れないことをしているのだ、と思わず声を上げた。
 純一はそんな可能性など露ほども考えていないといい、再び衝撃的なことを言った。
「俺、他の誰の匂いも感じたことないんだよね」
 その言葉は驚きだった。
 αという性を持つものならば、Ωの匂いに敏感になるものが多い。慎二も繊細ではないと自負しているが、それでも他人の特にΩの匂いというものは感じ取りやすい。
 だからといってそこから差別するわけでもないが、ヒートが違いΩの匂いはαの理性を簡単に砕こうとする。
 自衛として近寄らないようにしていたし、それを分かっていながら近寄ってくるΩには注意していた。

 だが純一は違っていた。
 彼はαであること、才能もあり努力家であること。それらは人としての魅力もあったからか、誰からも好かれた。故に、彼と番になりたいというΩもいなくはないわけで、自らの性を使って彼をモノに出来ないかと画策するものも少しばかりいた。
 それでも純一は隔たりなく接したし、驚いたことに、薬を飲むわけでもないのにそういったヒート間際のΩに対して普通に接することが出来た。
 更に驚いたのは、ヒートただ中のΩを前にしても彼は平気だったのだ。
 どうしてかと慎二は問いかけた。
 純一は首を傾げた。
「さぁ。俺はずっと、何も感じないよ。最初の……前に話した幼なじみの以外何も」
 あり得ないと思った。
 だがその後、二人で仕事を始め、軌道に乗り始めたころ。慎二が紆余曲折の末香瑠と出会い付き合い始めた時、香瑠がヒートになった。
 いつものことだと香瑠は言っていたが、その時のヒートは曰く過去一酷いものだった。
 そうして香瑠の元へ行こうと思ったものの、慎二には仕事での打ち合わせがあった。しかもそれは名指しで依頼されていたものだったので、欠席するわけにはいかない。スケジュールを変えて貰うにも時間が目前過ぎた。
 その時、ちょうど手持ちの仕事は作業のみだった純一が様子を見に行こうかと言った。
 慎二は一瞬考えたものの、彼ならば大丈夫だろうと思い頷いた。
 様子を見った純一は、香瑠がいつも飲んでいる薬がなくなっている事を知るとそれを買いに行ってくれていた。
 そして落ち着くまで傍に居てくれたらしく、慎二が仕事を終えて着いた頃には、大分落ち着いた香瑠がいた。
 その部屋の匂いはすさまじかった。なのに純一は平気だった。
 だから香瑠は笑いながら「不感症だ」と言った。

「てかさぁ、あのアイツが匂い感じるってことはさぁ」
『ん? どうなるか気になるよねぇ』
「……あと絶対アイツ、独占欲は強そう」
『あ、分かるぅ。だってここまで必死に彼を探してたし、再会しても手出してもないんでしょ? まぁ、六條さんのことだから、手ぇ出したら最後って思ってるんだろうねぇ自分でも』
 確かに彼は自分を客観的にきちんと見ている気がして慎二は頷いた。
 おそらく手放せないからこそ、まだ、手に入れる前に相手へ選択肢を与えている。
 だが結局はその選択肢も答えは一つしかない。そこに行き着くまでの分岐が遠回りなだけだ。
 おそらく、今日のことがなければもっと彼は時間を掛けていっただろう。
 時間はいくらでもある。
 いくらかかってもいい。
 ただ自分の想いだけじゃなくて、相手の想いで結ばれないと意味がない。
 そんなことを言っていた記憶がうすらぼんやりとあった。
『ところで、どうすんのぉ? 遅くなるの? なんか買って行こうか?』
「ん? あー、大丈夫。もう俺も仕事はほとんど終わってるし。むしろ明日以降のほうを考えないとなって感じで」
『ああ、明日仕事来るのかなぁ』
 慎二は「いやぁ」と、語尾を細く長く伸ばして笑った。
「無理でしょぉ」
『よぉし、じゃあ、これからコンビニでコーヒー買っていってやろう。そんで帰ろう』
「おっけ。ちょっと明日の準備とか片付けしとくわ」
 通話を終えると、慎二は軽く笑って身体を伸ばした。
 あれほど焦っている純一を見たことは今までない。それに最近の彼は、今までより肩の力が抜けているように思えた。
 とりあえずは当分の昼飯をおごらせようと思いながら、明日の準備をすることにした。
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