キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗

文字の大きさ
上 下
36 / 53
変わりゆく日常

しおりを挟む
 香瑠の店は小さい面積ながら多くの服が掛っていた。
 壁沿いに設置されたハンガーラックには、色合いで並べているのか、グラデーションになるように服が並んでいて思わず目が向く。
 サイズと色を上手く並べているらしく、狭い店の中はそれ自体が作品のような美しさを持っていた。
 中心にはいくつか季節で入ったばかりの新作を置いているらしく、晴樹はそこが目的のようだった。
 香瑠は店の再開準備をしながら晴樹に服の説明をしている。
 悠人は一人で店の中を見回していた。
 途端、ふわりと身体がふらつくような感覚に襲われる。軽くたたらを踏んだがすぐに元に戻る。
「大丈夫?」
 晴樹の声がして振り返ると香瑠もこちらを見ていた。
「目眩かな」
「大丈夫? 熱中症とかぁ?」
 確かにこの時期は気をつけた方がいい。だが水分についてはコーヒーや紅茶だけでなく、水も飲んでいるつもりだ。
 大丈夫だと思うと付け加えると、香りが近づいて来てずいっと顔を近づけた。
 鼻頭が当たりそうな程近づいてきて、驚いて身を逸らす。
「え、な、なんです?」
 すんっと匂いを嗅ぐようにして、香瑠は眉根を寄せる。
「キミぃ、薬は飲んでるの?」
「え? あー、はい。ずっと、飲んでます」
「ずっと?」
「ええ。毎日飲むタイプのやつで。周期にあわせて量増やすタイプの……」
「帰った方がいいんじゃないかなぁ」
「え?」
 香瑠は顔を離すと晴樹の方をみた。
「宮本さんはα?」
「いや、俺はβっすよ」
「ふぅん。でもじゃあ、今の彼、ちょっと匂ってみてよ」
「え?」
「は? なんですか、突然」
 思わず悠人は香瑠を睨んだ。
「いいからいいから」
 服を一つ手にしていた晴樹を掴んで悠人の前に近づける。
「匂ってみて。それ買うならちょっとサービスしてあげるから」
「え、マジで?」
「おい、晴樹!」
 顔を近づける。
 多分、それほど近い距離になったことは無いのではないかと思うほど。
 香瑠に言われて晴樹は首筋に鼻を近づけた。そっちの方がいいというのはよく分からない。
 クラクラする。やはり熱中症だろうか。だが香瑠のこの反応は嫌な予感しかない。
「なんか、イイ匂いがする」
「はーん。やっぱり?」
「なんかこぉ……傍に置いときたくなるような、イイ匂いっていうか」
 その言葉に悠人は自分の匂いを嗅いでみるが、自分の匂いは自分ではよく分からない。
 香瑠は眉根に皺を刻んだまま、口元に手を当てて考える。
「薬飲んでるって。めっちゃ失礼なのは承知なんだけどぉ、ヒートになったことあるのって、その最初の一回だけなの?」
「そう、ですけど……それからずっと、薬飲んでるんで……」
「はーん。じゃあやっぱもう帰った方が良いよ、キミ」
 そう言って香瑠は眉間の皺を伸して笑みを浮かべた。
「それ、もう薬じゃ抑えられないやつだよ」

 言われた通り悠人は自分の家に向かっていた。
 晴樹は送ろうかと言ったが、その申し出は断った。
 まだ今のうちなら大丈夫じゃないかな、という香瑠の言葉に、悠人は賭けることにした。
「結局さぁ、本心ではやっぱり六條さんのこと好きでしょう? だから多分、薬でも抑えられないヒートがきてるんだよ。予兆とかなかったぁ?」
 予兆と言われると、冬真に薬を増やした方がいいのでは、と言われたことを思い出す。
 だがアレは元々そういう周期だったハズだ。しかし、ちょうどその時期に純一と再会した。
 それが不味かったのか。
 それでもまだ否定する。
 だがそれでも、薬は増やしていたし、いくら好きだと言ってもそんな感情ひとつで、薬の効果さえ薄められるのだろうか。
 香瑠は悠人のそんな問いに、店の天井を見上げながら言った。
「結局六條さんも他のΩの匂いにも反応しないでしょぉ? キミもさぁ、他のαの匂いに反応したことって、ある? ってか匂いを感じたことってある?」
 記憶を一気に手繰った。
 自分がΩだと分かった時から、今日に至るまで。
 地元での高校時代、大学での生活、社会人になってからの会社での日々。
 嫌な記憶もいくつかあるが、それらにも確かにαという存在はいたはずだ。
 だがどこにも、そんな記憶は一切ない。
 匂いでαだろうと分かることは、確かにあったが。それだけだ。
 なんとなく気になる強い匂いがすると言う程度。それを心地よい、好きだと思うことはなく、単純に香水のような香りのようなものと認識して終わっている。
 そして今だ。純一と再会したあの時から、ずっと匂いはしている。
 その香りを感じるとホッとした。昔のような懐かしさを感じ、飲み屋でも、ドライブの時も、ずっと香っている。
「多分、ない……です」
「あったとして、それで薬飲んでるなかでヒートの周期早まったりしたことあるぅ? ほら、あれ。ちょっとの怠さとかそういうやつ。薬飲んでるとヒートそんな感じで終わるでしょ?」
 香瑠に言われて頷いた。そして答える。
「ないです」
「じゃあやっぱり、キミも不感症だ」
 そう言って笑って香瑠は続けた。
「ずっとキミも、六條さんの匂いしか知らないんだよ」

 家まで早足で歩いていく。
 自分の匂いがどれだけのものか知らない。他のαの人間がどうなるのかもしらない。
 そして自分がどうなるのかも。
 最初のヒートは記憶にあるが、それでもあんなものの比ではないことはなんとなく分かった。
 もう分かった。
 自分がずっと欲しかったのはあの匂いだ。
 唯一あの時、手を伸した純一だけが欲しかった。ずっと。
 だから他の匂いを感じなくなった。
 しかし今、自分が本当に欲しいと願う匂いが、純一傍にいる。
 それに誘発され、薬で抑え切れないほどになってしまったのだ。
 自分の気持ちを認識されたことで、薬は効かなくなったのだ。身体の本能が、欲するものを手に入れるために抑え切れなくなっている。
 唇を噛んで、部屋への道のりを小走りに突き進む。
 階段を駆け上がり、部屋の前までたどり着くと、慌てて鍵を取り出した。
 指先が震えていた。
 落としそうになりながら、鍵を挿して回し、ドアを開けると中に入る。
 すぐに鍵を閉めた。
 息が上がっている。
 スマートフォンを取り出すと、すぐに冬真の連絡先を表示して電話を掛ける。
 数コールで冬真が出ると、開口一番悠人は言った。
「あの、明日……休みたい、です。すみません」
『え? ああ、いいけど……どうした? 体調不良?』
「その、……はい、そうです」
 歯切れの悪い答えを聞いて、冬真は待つように言った。
 どこかへ歩いて行く様子だった。
 冬真はもう一度呼びかけるように声を掛ける。
『もしもし。悠人、お前もしかして、薬が効かなくなった?』
「なんで……分かるんです、それ」
『あー……声で分かる。どうする? 緊急用の強いやつ、知り合いの医者に頼んで貰うことはできるけど。全然休むのは大丈夫だから』
 悠人はその場にしゃがみ込みながら、お願いしますと答えた。

「でも、それどうしよう……晴樹にでも、頼んで持って来て、貰えば……いいですかね」
『アイツなら、大丈夫か……な。でも悠人、お前その原因、分かってんだろ?』
「……なんで、冬真さんもそう言うんです?」
『俺もって、他にも? っていうかまぁ、分かるよ』
「そう、ですか……」
『彼に、連絡は?』
「あ、そうだ。約束……してるから、ダメだって、連絡しないと」
『そーじゃなくて』
 ため息と共に冬真は言った。
『まぁ、いいや。とりあえず俺の方からもまた後で連絡するから。お大事に』
 電話を切ると、悠人は純一とのトーク画面をタップで呼び出す。体調が悪くなったから、今日の夜は無理だと送る。
 画面をスリープさせると、よろよろと立ち上がった。
 靴を脱ぎ部屋に上がる。それさえ億劫で、身体が熱い。
 喉が渇く。否、違うナニカが渇いている。
 渇望している。
 口を開いた。粘っこく、唾液が糸を引き、溢れる吐息が熱を含んでいる。
 あの時と同じだ。
「くそ」
 欲しくて堪らないものを、言葉にする前に悠人は唇を噛んだ。
 少しだけ血の味が口の中に広がった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

王冠にかける恋【完結】番外編更新中

毬谷
BL
完結済み・番外編更新中 ◆ 国立天風学園にはこんな噂があった。 『この学園に在籍する生徒は全員オメガである』 もちろん、根も歯もない噂だったが、学園になんら関わりのない国民たちはその噂を疑うことはなかった。 何故そんな噂が出回ったかというと、出入りの業者がこんなことを漏らしたからである。 『生徒たちは、全員首輪をしている』 ◆ 王制がある現代のとある国。 次期国王である第一王子・五鳳院景(ごおういんけい)も通う超エリート校・国立天風学園。 そこの生徒である笠間真加(かさままなか)は、ある日「ハル」という名前しかわからない謎の生徒と出会って…… ◆ オメガバース学園もの 超ロイヤルアルファ×(比較的)普通の男子高校生オメガです。

【完結済み】乙男な僕はモブらしく生きる

木嶋うめ香
BL
本編完結済み(2021.3.8) 和の国の貴族の子息が通う華学園の食堂で、僕こと鈴森千晴(すずもりちはる)は前世の記憶を思い出した。 この世界、前世の僕がやっていたBLゲーム「華乙男のラブ日和」じゃないか? 鈴森千晴なんて登場人物、ゲームには居なかったから僕のポジションはモブなんだろう。 もうすぐ主人公が転校してくる。 僕の片思いの相手山城雅(やましろみやび)も攻略対象者の一人だ。 これから僕は主人公と雅が仲良くなっていくのを見てなきゃいけないのか。 片思いだって分ってるから、諦めなきゃいけないのは分ってるけど、やっぱり辛いよどうしたらいいんだろう。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

平凡な男子高校生が、素敵な、ある意味必然的な運命をつかむお話。

しゅ
BL
平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。 基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。 一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。 それでも宜しければどうぞ。

あと一度だけでもいいから君に会いたい

藤雪たすく
BL
異世界に転生し、冒険者ギルドの雑用係として働き始めてかれこれ10年ほど経つけれど……この世界のご飯は素材を生かしすぎている。 いまだ食事に馴染めず米が恋しすぎてしまった為、とある冒険者さんの事が気になって仕方がなくなってしまった。 もう一度あの人に会いたい。あと一度でもあの人と会いたい。 ※他サイト投稿済み作品を改題、修正したものになります

金の野獣と薔薇の番

むー
BL
結季には記憶と共に失った大切な約束があった。 ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎ 止むを得ない事情で全寮制の学園の高等部に編入した結季。 彼は事故により7歳より以前の記憶がない。 高校進学時の検査でオメガ因子が見つかるまでベータとして養父母に育てられた。 オメガと判明したがフェロモンが出ることも発情期が来ることはなかった。 ある日、編入先の学園で金髪金眼の皇貴と出逢う。 彼の纒う薔薇の香りに発情し、結季の中のオメガが開花する。 その薔薇の香りのフェロモンを纏う皇貴は、全ての性を魅了し学園の頂点に立つアルファだ。 来るもの拒まずで性に奔放だが、番は持つつもりはないと公言していた。 皇貴との出会いが、少しずつ結季のオメガとしての運命が動き出す……? 4/20 本編開始。 『至高のオメガとガラスの靴』と同じ世界の話です。 (『至高の〜』完結から4ヶ月後の設定です。) ※シリーズものになっていますが、どの物語から読んでも大丈夫です。 【至高のオメガとガラスの靴】  ↓ 【金の野獣と薔薇の番】←今ココ  ↓ 【魔法使いと眠れるオメガ】

【完結】僕はキミ専属の魔力付与能力者

みやこ嬢
BL
【2025/01/24 完結、ファンタジーBL】 リアンはウラガヌス伯爵家の養い子。魔力がないという理由で貴族教育を受けさせてもらえないまま18の成人を迎えた。伯爵家の兄妹に良いように使われてきたリアンにとって唯一安らげる場所は月に数度訪れる孤児院だけ。その孤児院でたまに会う友人『サイ』と一緒に子どもたちと遊んでいる間は嫌なことを全て忘れられた。 ある日、リアンに魔力付与能力があることが判明する。能力を見抜いた魔法省職員ドロテアがウラガヌス伯爵家にリアンの今後について話に行くが、何故か軟禁されてしまう。ウラガヌス伯爵はリアンの能力を利用して高位貴族に娘を嫁がせようと画策していた。 そして見合いの日、リアンは初めて孤児院以外の場所で友人『サイ』に出会う。彼はレイディエーレ侯爵家の跡取り息子サイラスだったのだ。明らかな身分の違いや彼を騙す片棒を担いだ負い目からサイラスを拒絶してしまうリアン。 「君とは対等な友人だと思っていた」 素直になれない魔力付与能力者リアンと、無自覚なままリアンをそばに置こうとするサイラス。両片想い状態の二人が様々な障害を乗り越えて幸せを掴むまでの物語です。 【独占欲強め侯爵家跡取り×ワケあり魔力付与能力者】 * * * 2024/11/15 一瞬ホトラン入ってました。感謝!

処理中です...