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第二章

7.目覚め

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 僕はあのとき死んだはずだった。淫魔に取り憑かれた美鈴を助けてくれるという女の声に導かれ、美鈴の体を拘束した。
 その直後に襲った激痛。腹部を刺し貫いた鋭利な刃物。脳裏に焼き付く切っ先の形状は刀のようなものだった。内蔵や腹部を通る大動脈を貫かれ、出血多量、もしくは出血性ショックによって死亡した……はずだった。
 今も鮮明に残る死の感覚はまぎれもない現実だった。あれは本当に夢だったのだろうか。
 覚醒直後のまどろみの中で天井を見つめていると、ふと違和感に気づく。継ぎ目がなく清潔感のあるオフホワイトの天井。それは僕の寝室のものではなかった。慌てて飛び起きて周囲を見回す。
「……ここは……どこだ?」
 見覚えのない部屋にまるでモデルルームに迷い込んだような錯覚を覚える。
 8畳ほどの広さの一室。壁も天井と同じオフホワイトで統一されている。家具は今寝ているシングルベッドの他にはシンプルな勉強机と本棚しかない。本棚と机が並んで設置されている場所の反対側の壁には、クローゼットが備え付けられていた。
 机にはノートパソコンが置いてあり、クローゼットの前には場違いなアコースティックギターが立てかけられている。壁にはポスターも貼られていない、少し殺風景な部屋だった。
 視線を落とすとベッドカバーや上掛け毛布はモスグリーンで統一されていて、僕が着ているのは水色と白のストライプ柄のパジャマだ。
 僕のセンスでは絶対に選ばないような寝具とパジャマ。まるで寝ている間に誘拐され、他人の部屋で寝かされていたかのような違和感があった。
「一体どういうことなんだ……」
 いい知れぬ不安に駆られ、叫びたい衝動にかられる。ふと目に入ってきた窓をベッドから降りて開けてみた。少しひんやりした爽やかな空気とともに視界に広がる光景に、僕は目を見張る。
「え……」
 窓からの眺望ちょうぼうは4階か、5階くらいの高さのものだった。
 窓外を見下ろすと建物の敷地内から伸びる歩道が目に入ってくる。土色のレンガで舗装されている瀟洒しょうしゃな道。その左右には青葉が茂る雑木林が続いている。歩道は下へと傾斜していて、新緑の林の中を貫くようにまっすぐに伸びていた。
 自然豊かな土地に立つ建物。そのことを頭に入れ、視線を正面に向けると、清々しい青空に朝日が昇っていた。
 そして、遠景には丘の上に佇む赤紫色の屋根とチョコレート色の壁を持つ巨大な洋館。
 その建物をしばらく凝視し、ようやく自分が今いる場所がどこであるかを悟った。
「男子寮……」
 正面の建物と対をなす青紫色の屋根を持つ巨大な洋館を思い浮かべる。

 僕が通う『私立成琉学園しりつせいりゅうがくえん』は学生の自主自立の精神を尊重し、確かな知識に基づく思考力、さらにそれをためらわずに実行する行動力を兼ね備えた、次世代のリーダーたる人材を育成することを標榜ひょうぼうする国内有数の一貫校だ。
 その教育方針に基づき、成琉学園では学園生の主体的な行動を促し自立心を育むために、親元を離れて生活することも推奨し、遠方からの入学を希望する学生も積極的に受け入れている。 
 都市部から離れた風光明媚ふうこうめいびな地域に確保された広大な敷地の中央には、中等部と高等部の校舎と充実した関連施設。
 それを取り巻くように大小いくつもの学生寮と寮生向けの生活支援施設が点在していた。
 学生寮の中でも最大の収容人数を誇る第一学生寮は敷地内の北の端にある丘の上に建っており、東側には赤紫色の屋根の女子寮、西側には青紫色の屋根の男子寮が雑木林を隔てて向かい合うようにそびえ立っていた。

 ようやく今いる場所を把握したものの、謎は深まるばかりだった。
 そもそも僕の住んでいたのは学園から二駅ほど離れた住宅街の一戸建てだ。僕は寮生活がしたかったが、ローンの返済で経済的な余裕がないと母親に反対されて渋々自宅から通っていたのだ。
 お手上げだ。僕にはこの状況を説明できるような記憶は全くない。
 致命傷を負ったはずの体には痛みは全くなく、腹部に傷は1つもない。ふと思いついて机の上に置いてあったスタンド式の鏡を覗いてみる。
「あれ、髪が……短い?」
 鏡の中の僕は左右を刈り上げた短髪のヘアスタイルになっていた。髪型のせいなのか、顔も少し幼く見える。
 僕の髪はもっと長かったはずだ。前髪も短く、スポーティな印象を受ける髪型。鏡の中の自分が苦笑いを浮かべる。
 我ながら顔の造形は悪くないと思うのだが、いかんせん自信のなさが表情に出てしまっている。
 こんなんじゃモテないのは当然だろう。もちろん、モテないのは見た目のせいではないのは自覚しているが……。
 神妙な顔で鏡を凝視していると、背後でメロディが鳴り響いた。
 軽快なリズムに乗せて奏でられる吹奏楽のメロディ。それは運動会のときによく流れる曲だった。天国と地獄。そんな曲名だった気がする。
 耳を澄ませて音の出処でどころを探る。そしてようやく枕の下に置いてあったスマホから鳴っていることがわかった。メロディはスマホにセットされた目覚ましアラームの通知音だったのだ。タイマーを止め、目に入ってきた時計を見る。
 2018年5月16日水曜日午前5時44分。
「これは……どういうことだ?」
 昨日は2018年11月17日水曜日だったはずだ。この表示が本当なら僕は約半年前に時間跳躍タイムリープしたことになる。
 流行りのファンタジー小説じゃないんだから荒唐無稽こうとうむけいにもほどがある。学園の男子寮で目覚めただけならまだしも、過去に戻ってしまっているなんて。
 誰かのいたずらなのではないか。安易な推論が浮かぶが、僕は即座に否定した。いくらなんでも大掛かり過ぎる。僕を騙すために多大な労力を払う人間がいるとは思えない。
 寝ている間に一人の人間を拉致して男子寮に寝かし、タイムリープしたようにお膳立てする。
 それは周到な準備を重ねて初めて実現できることだ。ありえない。テレビのドッキリ番組じゃないんだから。
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