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それから1ヶ月後の週末、葵は綾人と映画を見に行くため待ち合わせをしていた。
(早く着きすぎたな…)
葵は営業マンなので基本的に10分前行動を心がけているのだが、今は13:30、待ち合わせの時間は14:00なので少々早すぎだ。
(浮かれてるみたいで恥ずかしい…)
実際、前日に着ていく服装を決めるのに散々悩んで、今日もそわそわして家を早く出すぎてしまったので浮かれていることに間違いはないのだが。
あれからまた数回会ってプレイを重ねて、葵は最近会ったばかりとは思えないほど綾人を信頼できるようになっていた。家に行った日の夜もそうだが、綾人はいつも葵を気遣って決して無理を強いない。もちろん理不尽に暴力を振るわれたことなども一度もない。いつでも甘い口調でささやいて、最後にはとろとろに蕩かされて訳がわからなくなる。でも、それは全く嫌ではなくて…
(…まるで、ほんとに愛されてるみたいで……)
葵は自分の女々しい思考にはっとした。葵たちは本当のパートナーではない。ましてや恋人などでも…。
(好きな人が出来たら言って、っていってたもんなあ……好きな人ができたって言ったら綾人さん、どうするんだろうなぁ…)
葵は暗くなりがちな思考を無理矢理振りきって、待ち合わせ場所の駅前の時計の周りのベンチに腰かけスマホで仕事のメールをチェックしながら待つことにした。
10分ほどそうしていたところで見知らぬ男が話しかけてきた。
「お兄さんひとりー?」
「え?」
「待ち合わせ?」
「あぁ、はい、そうですけど…」
「彼女ー?」
「…友人です。」
話しかけてきた男は明るい茶髪のチャラい男だった。こんな男に葵は見覚えはなく、話しかけられるような理由はないのだが…。――今日の葵の服装は大きめの白いトップスにネイビーのスラックスで、それが華奢で色素の薄い葵によく似合っており、さらには葵の童顔が相まって駅前の広場の多くの男の視線を引き寄せている。このチャラい男はそんな男の群れから抜け駆けしてナンパをしているだけなのだが…そんなことに葵は気づいていない。
「そうなのー?お兄さんもう結構待ってるよねぇ?」
「はぁ…。早く来すぎてしまって。」
「そうなの?ならちょっと俺と遊ばない?」
「え…いや、僕ひとを待ってるので…」
「そんなこと言わずにさー、ちょっとお茶しよぉ?ここ暑いし。」
「いや、大丈夫ですから…」
男は断っても断ってもしつこく葵を誘ってくる。葵が一旦この場を離れようとしたときだった。
「お待たせ。」
「あ?」
(!)
そこにいたのはネイビーのシャツにグレーのテーパードパンツでいつもの仕事終わりの服装より少しラフだがそれがよく似合っていて、より人目を引く綾人だった。髪は緩く後ろで結ばれていて驚くほどかっこよく、葵は一言も言葉を発せなかった。
「行こっか。」
「おいー、いま俺が口説いてんだよ。邪魔すんなよな…」
「ん?」
綾人は葵の肩を抱き、チャラ男の方を向いてにっこりと微笑みかけた。葵を口説いていた男もそこそこのルックスではあるのだが、綾人を正面から見てぎょっとした後綾人の笑みの圧力におされてひとつ舌打ちをしてすごすごと退散した。
「あ、ありがとうございます!綾人さん。」
「ううん、俺こそ待たせてごめんね。」
「いえ!僕が早く着きすぎてしまったんです。まだ15分前ですし…。」
「結構待った?」
「いえ!僕もさっき着いたばっかりです。」
「…そっか、なら良かった。まだ映画まで時間あるし、カフェに入って少し涼もうか。」
「そうですね。」
葵と綾人は待ち合わせをした駅から徒歩圏内の映画館に映画を見に来たのだが、まだ映画までは30分以上あるので近くにあるカフェで涼みながら話をして時間をつぶした。綾人の海外でのいろいろな話は葵にはとても興味深く、あっという間に映画の時間が近づいて、映画館に向かうために外に出た。
暑い外で待っていた葵はカフェで適度に涼むことができた。こちらをスマートに気づかってくれる綾人に、葵は胸をときめかせながら隣の綾人の横顔をそっと見た。
(外で見ると綾人さんの目、陽の光に透けて少し緑がかって見える。)
「あお?」
「へ?」
「どうしたの?俺の顔じっと見つめて。」
綾人にくすっと笑いながら尋ねられ、葵は自分がずいぶん長く綾人に見惚れていたのだと気づいた。
「っ、すみません、不躾に…。」
「いや、気にしてないけど…俺の顔に何かついてる?」
「…綾人さんの瞳、外で見ると少し緑っぽく見えるんだなあ、と思って…。」
「ああ、これ、遺伝なんだよね。母方の祖父がカーキっぽい瞳で。純日本人なんだけどね。」
綾人は眉を下げて笑いながらそう言った。
「…僕は好きです。綾人さんの瞳。不思議な色で、綺麗ですね。」
「ありがとう。」
葵が微笑みながら素直な感想を伝えると、綾人は嬉しそうにそう言って笑った。
映画館に着いて、二人は買ってあったチケットの席についた。席は後ろの方で、今日見に来たのが恋愛映画だからか、カップルが多かった。
「恋愛映画ですけど、本当によかったんですか?」
葵たちは葵が妹から『絶対見て!』と言われた今話題の恋愛映画を見に来ていた。葵は仕事の話題作りにもなってちょうどいいと思っていたのだが、綾人はほんとうによかったのだろうか。
「うん、俺も小児病棟の女の子たちに見てって言われてたからちょうどよかったよ。」
そう言うのでほっとして小声で話しながら上映を待った。
映画のストーリーは王道の学園もので良くあるような感じではあったが、ヒロインと相手のイケメンのすれ違いが切ない話だった。主人公のヒロインが相手役の何気ない一言で勘違いしてすれ違い、ハラハラしたりもしたがやはり最後はすれ違っていた2人の恋が成就してこれから2人は恋人として甘い時間を過ごすのだ。
(いいな…現実も、いつでもうまくいったらいいのに…)
葵は隣の綾人を見ながら考えた。この映画のようなお話の中でならいつでもハッピーエンドだ。
(あっ……僕、何考えてるんだ…?僕は……綾人さんと………)
「あお?どうしたの?」
「あっ…いや…なんでも…」
「考え事?」
「あ…そうですね。僕も恋人、欲しいなあと。」
「………そう。」
綾人は一瞬すごく冷たい目してから何事もなかったかのように笑った。しかしその笑みもいつもの穏やかなものとは違い、どこか温度のないものに感じた。
「…?」
「なんでもないよ。さあ、行こうか。次は俺の買い物に付き合ってくれる?」
「は、はい。」
そうして葵は綾人に手を引かれて映画館を出てまた駅の近くの高そうなアクセサリーショップに連れていかれた。
「…あおくん、ピアス開いてるよね。」
「あ、はい。…前の人に開けられて。」
「………そう。」
やや気まずい空気のまま綾人はいくつかアクセサリーを見て回った。綾人はピアスを1組オーダーするようで、店員と話し合っていた。どうやら自分用ではなくプレゼントらしいが、かなり綿密に話し合っていて、少し気まずい葵はその間適当にアクセサリーを見ていた。綾人がオーダーを終えて帰ってきてから店を出た。店を出てからも葵は、オーダーメードなんてすごいなあとか、もしかして誰か大切な人にあげるのかなとか、もやもやと考えながら電車で2人で綾人の家に向かった。車でもよかったのだが車で葵を迎えに来ると一度迂回することになるので今日は電車で駅前集合だったのだ。
電車に乗っている間も会話はしていたがどこか気まずく、葵は綾人が怒っているように感じた。
綾人の家に着いて、部屋に帰ってきても若干気まずい空気が残っていた。
「あお。」
夕食まではまだ時間があるし…と葵が考えていたら綾人が葵を呼んだ。
「はい?」
「今日、映画見て何考えてたの?」
「え…?」
「俺といるときは俺のことだけ見てって約束したよね?」
「あ……。」
あのときも正確には綾人のことを考えていたのだが…何となく、綾人にはそれは言えなかった。
「約束破ったらだめだよね?」
「あ、ごめんなさ…」
「おしおきだね?……本当に無理だと思ったらセーフワードは言うこと。」
優しく笑いながらそう言ったが、その目は冷たく、葵は身震いした。
「分かった?返事はちゃんとして。」
「は、はい。」
少しきつめに葵に言ったあと綾人はリビングのソファーに足を組んで座った。
「あお、そこの角で壁向いて立って。"Corner"。」
「はい…。」
葵は命令通りにリビングの隅に壁を向いてたった。
「ん。あお、そこで俺が言うまで"Stay"。」
「はい。」
それからしばらく葵は後ろから視線を感じながら立っていたが、ふと後ろで綾人が動いてどこかに行く気配がした。
「……?」
綾人は何も言わずに立ち上がり、iPadをもってソファーに戻り仕事の書類をiPad上でチェックした。葵には綾人が何をしているかわからないだろうが、綾人は仕事をしながらも葵をしっかりと見ていた。葵からなにか言うことはなく、健気に自分の命令を実行する姿に、綾人も葵が映画館での自分といるにも関わらず『恋人が欲しい』と言ったことに感じた苛立ちは落ち着いていった。
15分ほどCornerさせたところで、綾人はそろそろいいか、と思い水を取りに一度リビングを出た。
その気配を敏感に感じ取った葵は、綾人がとうとう呆れて自分を放って出ていってしまったのではないかと急激に不安になった。ここは綾人の家であるし、もちろんそんなわけはないのだが、それでも綾人の顔も見れず声も聞けない状態でずっと立っていた葵は蓄積したストレスからついに座り込んで泣き出してしまった。
「ひっく、あやとさん…ふっ、うぅ…」
キッチンから帰ってきた綾人はそんな葵の姿を見て驚いて駆け寄った。
「あお!どうしたの?!」
「ぁっ…あゃとさ…」
ポロポロ泣いて目を擦りながら葵は綾人を見た。目は虚ろで、dropしかかっている状態だった。
「あお、もういいよ。おしおきは終わりにしようと思って水取りに行ってただけ。」
「あ…ごめんなさい、僕…」
「あお、いい子。ちゃんと俺の言うこと守れたね。」
「え…?でも…」
「俺がリビング出た時点で終わりのつもりだったから。ちゃんと見てなかった俺が悪い。ごめんね、あおはいい子だよ。俺の言うこときいてくれてありがとう。」
震える葵を抱き抱えてソファーにつれていく。
「あお、こっち見て。"Look"。」
「ぁ…」
綾人がソファーの上で葵を横抱きにして頭を撫でる。綾人と目をあわせた葵は体の震えが止まり、虚ろだった瞳もだんだんと現実に返ってきた。
「ん、えらいね。水、飲める?」
「はい…。」
ゆっくりとコップ1杯水を飲んだ葵は気分が落ち着き、ようやく正気を取り戻した。
「…すみません、落ち着きました。」
「よかった。」
綾人が安心したように笑って頭を撫でる。
「ごめんね、放って行っちゃって。すぐ戻るつもりだったんだけど、不安にさせた。」
申し訳なさそうに眉を下げた綾人に葵は首を振った。
「いえ…。僕こそ、ごめんなさい、なんだか、あやとさんの姿が見えなくて、声も聞こえなくて、どんどん不安になっちゃって…それで、出ていっちゃうの分かったから、余計に不安で、パニックになっちゃって…。」
「…あおは、Cornerが苦手なのかな?」
15分ほどの時間というのは、Cornerのお仕置きの時間としてはむしろ短い方で、その短時間でdropしかけるということはもともと苦手なのだろうか、と綾人は考えた。
「え?」
「今まで、Cornerのお仕置きってされたことある?」
「いえ…痛いのしかされたことないです。」
今までの――あの男の、お仕置きといえばほとんどがあの男の機嫌が悪いときに、理不尽な理由で鞭や道具で叩かれたり、道具を使って無理に犯されたりだとか、そんなものばかりだった。
「そっか。Cornerしてるとき、ずっと不安だった?」
「……はい。そんなわけないって分かってるのに、寂しくて、ひとりぼっちになったような気がして…」
「なるほど…。あおはたぶん、これ苦手なんだね。」
誰にでも得手不得手があるように、Subにも得意なお仕置き、苦手なお仕置きはある。おそらく葵はCornerなど、Domと離れたりするお仕置きは苦手なのだろう。
「今度からは、不安になったり無理だと思ったらちゃんとセーフワード言ってね?そこまであおを追い詰めることするつもりはないけど、今回みたいなこともあるし、言ったって怒ったりしないから。」
「はい…」
「いい子。目を離してごめんね。」
比較的手軽なお仕置きを選んだつもりだったが葵をdropさせかけてしまい、綾人は反省した。
(あおがまともなDomと関係を結ぶのは初めてだって分かってたのに…失敗したな…)
葵の『恋人が欲しい』発言が思った以上に効いていた綾人は常にない失敗を悔やみながらも心にしっかりと葵のNG行為を刻み込んだ。
その後夕食はケータリングを活用してから、一緒に風呂に入った。葵ははじめは恥ずかしがっていたが、心配そうな綾人に葵が折れる形になった。
「傷、良くなってるね。」
綾人が葵を後ろから抱くようにして2人で湯船に使ったまま、綾人が葵の腹の傷を見て言った。
「…はい。おかげさまで。」
綾人にまじまじと体を見られて恥じらいながら葵は返答した。綾人の家に泊まった日の次に会ったときに綾人にもらった薬を塗っていたので、ほとんど痕にならずに傷は治りかけていた。
「よかった。痕は残らなそうだね。あおの肌きれいだから、痕になってほしくないと思ってたんだ。」
「綾人さんにいただいた薬が効いてるみたいです。ありがとうございます。」
「うん、どういたしまして。」
微笑みながら綾人がまた葵の頭を撫でた。
(やっぱり綾人さんに頭撫でられるの、好きだな…)
葵はうっとりと目を閉じた。
しばらくそうしたまま2人でおしゃべりをして体がよく暖まったところで風呂を上がった。
風呂場から出てリビングにかえってきた2人はお茶を飲みながらまたすこし話をした。一区切りついたところで時計を見ると、少し早いがもう寝るにはいい時間だった。
「今日はもう寝ようか。」
「そうですね。」
綾人が一度dropしかけたこともあり、心配なので今日はもう寝ようという話になり、綾人がそう言い出したところで寝室に向かうだろうと思い、立とうとしたら綾人に髪を触られた。
「…あやとさん?」
「髪、まだ少し濡れてるね。」
「え?そうですね…?」
「このまま寝ちゃったら風邪引くよ。俺が乾かしてあげる。」
「それなら綾人さんだって。」
綾人の方が少し髪が長いので綾人の少し癖のある髪の方がまだ湿気ているように見える。
「俺はいいよ。…あおのサラサラの髪触りたいだけだし。」
いたずらっぽく綾人が笑ってそう言ったので葵も素直に返した。
「僕も綾人さんのふわふわの髪、触りたいし乾かしたいです。」
「…ふふ、じゃあ髪かわかしあいっこしようか。」
綾人はきょとんとしたあと笑ってそう言った後、ドライヤーを取ってきた。
「どっちからやる?」
「じゃあ、僕に先にやらせてください。」
そう言うと綾人はソファーの前に座った。Domを見下ろすことになった葵はすこし落ちつかなさを感じながらもドライヤーを使って綾人の髪を乾かした。
「わ、綾人さんの髪、やっぱりふわふわですね。気持ちいい。」
「そう?天パなだけだよ。」
綾人の髪を触りながら嬉しそうに言う葵に綾人もつられて笑う。
「美容院行ったのもずいぶん前だし、人に髪さわられるの久しぶりだなあ。」
ポツリと綾人が呟いた。
「そうなんですか?」
「うん。昔はもう少し短かったんだけど、忙しくて面倒だし伸びっぱなしにしてたんだよね。」
「なるほど。でも、すこし長めなの綾人さん似合ってますよ。」
髪が短い綾人も見てみたいな、と思いつつ葵が率直な感想を述べた。
「そう?あおがそう言うならこのままでいいか。」
「下ろしてるのも結んでるのも僕は好きですよ。」
「ほんと?うれしい。」
だいたい乾ききったな、というタイミングで葵は手を止めた。
「綾人さん、できました。」
「ありがとう。いい子だね。」
葵の頭を撫でて褒めたあと、今度は逆に葵をソファーの前に座らせた。
「じゃあ乾かすね。」
「お願いします。」
綾人が葵の色素の薄い髪に手を差し込んでドライヤーを電源をいれた。
「あおの髪は茶色っぽいけどサラサラだね。もしかして地毛?」
「そうなんです。生まれつき色素が薄くて。」
「瞳の色も薄いし肌も真っ白で綺麗だよね。」
「そうですか?でも、日に焼けると真っ赤になるし、目も日焼けすると痛いし、結構大変なんですよ。」
「そうなんだ。」
綾人の髪をさわる手つきが優しく、気持ちよくて葵はどんどんまぶたが重くなっていった。
「あお、気持ち良さそう。寝ちゃってもいいよ。」
「ん…ありがとうございます…」
綾人が葵の髪を乾かし終わったときには葵はもうほとんど夢の中だった。葵をソファーに持たれかけさせて、ドライヤーを片付けた綾人は葵の顔をのぞきこんだ。
「あお、寝室いこうか。」
「…はぃ」
葵は辛うじて目を開けていたので綾人は声をかけた。
「立てる?」
「…はい。」
葵は目を擦り、眠そうにしながら立ち上がって綾人と寝室に入った。一緒にベッドにはいり、綾人が葵を後ろから抱きしめた。
「おやすみ、あお。」
「…おやすみなさい、あやとさん。」
綾人のあたたかい腕の中で綾人のシトラスのような匂いに包まれながら葵は安心して眠りについた。
あれから綾人は葵と色々話をして、少しずつ葵の得意不得意が分かってきた。葵の話によると、痛みは我慢できるが道具を使ったプレイは少し苦手らしい。また、ほかにもプレイしたなかで不安そうだったのは、あの日綾人が予想した通りDomと離れたり姿が見えない、声が聞こえないといったものだった。これらはあれ以来、葵がdropしたり本格的に追い詰められる前に綾人が気づいて止めてcareに入ったので本人はそこまで気づいていないかもしれないが、やめておいた方がいいだろう。
(それにしても、あおの元パートナーは酷すぎる…)
葵の過去を聞いた夜にも思ったことだが、それ以来さらに少しずつ明かされるプレイ内容は酷いものだった。自分の欲を発散するためだけに命令して葵の限界を越えてもなおプレイを続け、あげくそれで失敗したりdropしたりしたら葵を責める。Domとしても最低だが、それ以前に人として品性を疑うレベルだった。
(そんなやつにあおの初めてをくれてやったなんて、信じたくないな…)
なかでも、初めての夜の話は特に酷い。完全に犯罪だ。葵はもう済んだことだし事を荒立てたくないと言っていたので、その気持ちは尊重はするが…。もう二度と会ってはほしくない。
(……いや、そもそもあんなのをあおの初めてだと認める必要もないな。)
あんなのはプレイとは呼べないし、合意も愛もなくキスもしないようなセックスも、セックスではない。
(俺があおの初めてを何もかも塗り替えたい。…あおが望んでくれるのなら、全部いい思い出と替えてあげられる。)
綾人は葵の過去を考えると暗くなりがちな思考を未来の事を考えて明るく持ち直した。
(最近では俺とのプレイでspaceにも入りかけてくれてるし。)
葵の気持ち良さそうに蕩けた顔を思い出して綾人はうっそりと笑った。
(今日は会う予定じゃなかったんだけど、会いたくなってきたな…俺は明日休みだし、週末だからあおも休みだと思うんだけど…電話してみようかな)
その頃葵は仕事帰りに家へと歩いていた。今日は葵のマンションがある駅から2つ隣の駅前の居酒屋で後輩と共に接待をして、葵はほどよく酔って火照った体を冷ますために20分ほどの自宅までの道を歩くことにしたのだ。葵は暗い夜道を月に照らされながら綾人のことを考えていた。綾人を見たときに感じる自分の気持ちは一体どういったものなのか。最近葵は綾人の姿を見ると嬉しくなるし、目が合って話をすると幸せな気持ちになる。
(パートナーとして上手くいってるってことなのかな…?)
あれからも葵は綾人の家に行って食事を作ったり、逆に家に呼んだり、外で買い物をしたりなどとプレイもそれ以外も充実したパートナー生活を送っていた。
(綾人さんがすごく褒めてくれるから、ちょっと自信もついてきたかも…)
綾人はことあるごとに葵を褒める。綾人にご飯を作ったとき、手作りのお菓子を渡したとき、コマンドを実行できたとき、上手に奉仕できたとき…など挙げ出すときりがないほどだ。あの低めの甘い声で褒められると体がぽかぽかして、幸せで、頭がふわふわしてなにも考えられなくなってくる。
(幸せだな……でも…)
葵と綾人は恋人ではない。そのため、いつ離れることになるかはわからない。綾人はパートナーと恋人を別に考えていると言っていたが綾人に恋人ができたとき、その相手がSubやSwitchだったとしたらそちらとパートナーとなるのが普通だろうし、相手がNormalだった場合も恋人の他にパートナーがいるということに理解を得られない可能性が高い。
(というか、綾人さんなら恋人がいるのにパートナーとしての関係を続けたりしないだろうな…)
そんな不誠実な関係を綾人が続けるとは思えない。プレイのためだけだとしても、恋人の他に特定の人を作ったりはしないのではないだろうか。
(ということは、綾人さんに恋人ができたら僕は…)
葵はこれからのことを考えて落ち込んだ。綾人が熱のこもった瞳で自分ではない誰かを見つめて、甘い声で名前を呼び、優しい手つきで体に触れる。想像しただけで泣きそうになった。
(…そういえば、あのピアス、誰にあげるんだろう…)
前に映画を見に行ったときに綾人がオーダーしていたピアスは、誰かへのプレゼントのようだった。随分時間をかけてオーダーしていたし、大切な人への贈り物なのだろう。
(好きな人、いるのかな――――――嫌だな)
葵は自分の思考にはっとした。
(え…僕……綾人さんのことが
好きなのか…?)
ブーーーッブーーーッ
葵が自分の思考に呆然としていたとき、突然ポケットにいれていたマナーモードのスマホが振動して、電話がかかってきたことを知らせた。相手の名前を見て心臓が大きく音をたてたが、葵はとっさに電話に出た。―――否、出ようとした、その時。
「むぐっ!」
スマホを見るために道の端によって立ち止まり、視線をおとした葵の背後から葵の口に手が延びて何者かに口を塞がれた。
「んんーっ!!」
その何者かに細い路地に押し込まれながらも、相手を見ようともがきつつ振り返った。
「!!!」
「久しぶりだなあ……葵。おとなしくしろよ。"Stay"だ。」
葵は相手と目を合わせて、葵がその顔を見て驚く間に男がそう言い、とたん葵の体は凍りついたように動かなくなった。
「それから……"Kneel"」
葵の耳元で低く男が囁いた。
(なんで……?!)
葵は崩れ落ちながら、もう二度と会うこともないと思っていた、よく知った男を睨みあげた。
「おいおい、そう睨むなよ葵?お前が恋しがってるかと思って来てやったのに。」
葵をにたにたと笑いながら見下ろす男は、葵をさんざんいたぶったあの男だった。
(早く着きすぎたな…)
葵は営業マンなので基本的に10分前行動を心がけているのだが、今は13:30、待ち合わせの時間は14:00なので少々早すぎだ。
(浮かれてるみたいで恥ずかしい…)
実際、前日に着ていく服装を決めるのに散々悩んで、今日もそわそわして家を早く出すぎてしまったので浮かれていることに間違いはないのだが。
あれからまた数回会ってプレイを重ねて、葵は最近会ったばかりとは思えないほど綾人を信頼できるようになっていた。家に行った日の夜もそうだが、綾人はいつも葵を気遣って決して無理を強いない。もちろん理不尽に暴力を振るわれたことなども一度もない。いつでも甘い口調でささやいて、最後にはとろとろに蕩かされて訳がわからなくなる。でも、それは全く嫌ではなくて…
(…まるで、ほんとに愛されてるみたいで……)
葵は自分の女々しい思考にはっとした。葵たちは本当のパートナーではない。ましてや恋人などでも…。
(好きな人が出来たら言って、っていってたもんなあ……好きな人ができたって言ったら綾人さん、どうするんだろうなぁ…)
葵は暗くなりがちな思考を無理矢理振りきって、待ち合わせ場所の駅前の時計の周りのベンチに腰かけスマホで仕事のメールをチェックしながら待つことにした。
10分ほどそうしていたところで見知らぬ男が話しかけてきた。
「お兄さんひとりー?」
「え?」
「待ち合わせ?」
「あぁ、はい、そうですけど…」
「彼女ー?」
「…友人です。」
話しかけてきた男は明るい茶髪のチャラい男だった。こんな男に葵は見覚えはなく、話しかけられるような理由はないのだが…。――今日の葵の服装は大きめの白いトップスにネイビーのスラックスで、それが華奢で色素の薄い葵によく似合っており、さらには葵の童顔が相まって駅前の広場の多くの男の視線を引き寄せている。このチャラい男はそんな男の群れから抜け駆けしてナンパをしているだけなのだが…そんなことに葵は気づいていない。
「そうなのー?お兄さんもう結構待ってるよねぇ?」
「はぁ…。早く来すぎてしまって。」
「そうなの?ならちょっと俺と遊ばない?」
「え…いや、僕ひとを待ってるので…」
「そんなこと言わずにさー、ちょっとお茶しよぉ?ここ暑いし。」
「いや、大丈夫ですから…」
男は断っても断ってもしつこく葵を誘ってくる。葵が一旦この場を離れようとしたときだった。
「お待たせ。」
「あ?」
(!)
そこにいたのはネイビーのシャツにグレーのテーパードパンツでいつもの仕事終わりの服装より少しラフだがそれがよく似合っていて、より人目を引く綾人だった。髪は緩く後ろで結ばれていて驚くほどかっこよく、葵は一言も言葉を発せなかった。
「行こっか。」
「おいー、いま俺が口説いてんだよ。邪魔すんなよな…」
「ん?」
綾人は葵の肩を抱き、チャラ男の方を向いてにっこりと微笑みかけた。葵を口説いていた男もそこそこのルックスではあるのだが、綾人を正面から見てぎょっとした後綾人の笑みの圧力におされてひとつ舌打ちをしてすごすごと退散した。
「あ、ありがとうございます!綾人さん。」
「ううん、俺こそ待たせてごめんね。」
「いえ!僕が早く着きすぎてしまったんです。まだ15分前ですし…。」
「結構待った?」
「いえ!僕もさっき着いたばっかりです。」
「…そっか、なら良かった。まだ映画まで時間あるし、カフェに入って少し涼もうか。」
「そうですね。」
葵と綾人は待ち合わせをした駅から徒歩圏内の映画館に映画を見に来たのだが、まだ映画までは30分以上あるので近くにあるカフェで涼みながら話をして時間をつぶした。綾人の海外でのいろいろな話は葵にはとても興味深く、あっという間に映画の時間が近づいて、映画館に向かうために外に出た。
暑い外で待っていた葵はカフェで適度に涼むことができた。こちらをスマートに気づかってくれる綾人に、葵は胸をときめかせながら隣の綾人の横顔をそっと見た。
(外で見ると綾人さんの目、陽の光に透けて少し緑がかって見える。)
「あお?」
「へ?」
「どうしたの?俺の顔じっと見つめて。」
綾人にくすっと笑いながら尋ねられ、葵は自分がずいぶん長く綾人に見惚れていたのだと気づいた。
「っ、すみません、不躾に…。」
「いや、気にしてないけど…俺の顔に何かついてる?」
「…綾人さんの瞳、外で見ると少し緑っぽく見えるんだなあ、と思って…。」
「ああ、これ、遺伝なんだよね。母方の祖父がカーキっぽい瞳で。純日本人なんだけどね。」
綾人は眉を下げて笑いながらそう言った。
「…僕は好きです。綾人さんの瞳。不思議な色で、綺麗ですね。」
「ありがとう。」
葵が微笑みながら素直な感想を伝えると、綾人は嬉しそうにそう言って笑った。
映画館に着いて、二人は買ってあったチケットの席についた。席は後ろの方で、今日見に来たのが恋愛映画だからか、カップルが多かった。
「恋愛映画ですけど、本当によかったんですか?」
葵たちは葵が妹から『絶対見て!』と言われた今話題の恋愛映画を見に来ていた。葵は仕事の話題作りにもなってちょうどいいと思っていたのだが、綾人はほんとうによかったのだろうか。
「うん、俺も小児病棟の女の子たちに見てって言われてたからちょうどよかったよ。」
そう言うのでほっとして小声で話しながら上映を待った。
映画のストーリーは王道の学園もので良くあるような感じではあったが、ヒロインと相手のイケメンのすれ違いが切ない話だった。主人公のヒロインが相手役の何気ない一言で勘違いしてすれ違い、ハラハラしたりもしたがやはり最後はすれ違っていた2人の恋が成就してこれから2人は恋人として甘い時間を過ごすのだ。
(いいな…現実も、いつでもうまくいったらいいのに…)
葵は隣の綾人を見ながら考えた。この映画のようなお話の中でならいつでもハッピーエンドだ。
(あっ……僕、何考えてるんだ…?僕は……綾人さんと………)
「あお?どうしたの?」
「あっ…いや…なんでも…」
「考え事?」
「あ…そうですね。僕も恋人、欲しいなあと。」
「………そう。」
綾人は一瞬すごく冷たい目してから何事もなかったかのように笑った。しかしその笑みもいつもの穏やかなものとは違い、どこか温度のないものに感じた。
「…?」
「なんでもないよ。さあ、行こうか。次は俺の買い物に付き合ってくれる?」
「は、はい。」
そうして葵は綾人に手を引かれて映画館を出てまた駅の近くの高そうなアクセサリーショップに連れていかれた。
「…あおくん、ピアス開いてるよね。」
「あ、はい。…前の人に開けられて。」
「………そう。」
やや気まずい空気のまま綾人はいくつかアクセサリーを見て回った。綾人はピアスを1組オーダーするようで、店員と話し合っていた。どうやら自分用ではなくプレゼントらしいが、かなり綿密に話し合っていて、少し気まずい葵はその間適当にアクセサリーを見ていた。綾人がオーダーを終えて帰ってきてから店を出た。店を出てからも葵は、オーダーメードなんてすごいなあとか、もしかして誰か大切な人にあげるのかなとか、もやもやと考えながら電車で2人で綾人の家に向かった。車でもよかったのだが車で葵を迎えに来ると一度迂回することになるので今日は電車で駅前集合だったのだ。
電車に乗っている間も会話はしていたがどこか気まずく、葵は綾人が怒っているように感じた。
綾人の家に着いて、部屋に帰ってきても若干気まずい空気が残っていた。
「あお。」
夕食まではまだ時間があるし…と葵が考えていたら綾人が葵を呼んだ。
「はい?」
「今日、映画見て何考えてたの?」
「え…?」
「俺といるときは俺のことだけ見てって約束したよね?」
「あ……。」
あのときも正確には綾人のことを考えていたのだが…何となく、綾人にはそれは言えなかった。
「約束破ったらだめだよね?」
「あ、ごめんなさ…」
「おしおきだね?……本当に無理だと思ったらセーフワードは言うこと。」
優しく笑いながらそう言ったが、その目は冷たく、葵は身震いした。
「分かった?返事はちゃんとして。」
「は、はい。」
少しきつめに葵に言ったあと綾人はリビングのソファーに足を組んで座った。
「あお、そこの角で壁向いて立って。"Corner"。」
「はい…。」
葵は命令通りにリビングの隅に壁を向いてたった。
「ん。あお、そこで俺が言うまで"Stay"。」
「はい。」
それからしばらく葵は後ろから視線を感じながら立っていたが、ふと後ろで綾人が動いてどこかに行く気配がした。
「……?」
綾人は何も言わずに立ち上がり、iPadをもってソファーに戻り仕事の書類をiPad上でチェックした。葵には綾人が何をしているかわからないだろうが、綾人は仕事をしながらも葵をしっかりと見ていた。葵からなにか言うことはなく、健気に自分の命令を実行する姿に、綾人も葵が映画館での自分といるにも関わらず『恋人が欲しい』と言ったことに感じた苛立ちは落ち着いていった。
15分ほどCornerさせたところで、綾人はそろそろいいか、と思い水を取りに一度リビングを出た。
その気配を敏感に感じ取った葵は、綾人がとうとう呆れて自分を放って出ていってしまったのではないかと急激に不安になった。ここは綾人の家であるし、もちろんそんなわけはないのだが、それでも綾人の顔も見れず声も聞けない状態でずっと立っていた葵は蓄積したストレスからついに座り込んで泣き出してしまった。
「ひっく、あやとさん…ふっ、うぅ…」
キッチンから帰ってきた綾人はそんな葵の姿を見て驚いて駆け寄った。
「あお!どうしたの?!」
「ぁっ…あゃとさ…」
ポロポロ泣いて目を擦りながら葵は綾人を見た。目は虚ろで、dropしかかっている状態だった。
「あお、もういいよ。おしおきは終わりにしようと思って水取りに行ってただけ。」
「あ…ごめんなさい、僕…」
「あお、いい子。ちゃんと俺の言うこと守れたね。」
「え…?でも…」
「俺がリビング出た時点で終わりのつもりだったから。ちゃんと見てなかった俺が悪い。ごめんね、あおはいい子だよ。俺の言うこときいてくれてありがとう。」
震える葵を抱き抱えてソファーにつれていく。
「あお、こっち見て。"Look"。」
「ぁ…」
綾人がソファーの上で葵を横抱きにして頭を撫でる。綾人と目をあわせた葵は体の震えが止まり、虚ろだった瞳もだんだんと現実に返ってきた。
「ん、えらいね。水、飲める?」
「はい…。」
ゆっくりとコップ1杯水を飲んだ葵は気分が落ち着き、ようやく正気を取り戻した。
「…すみません、落ち着きました。」
「よかった。」
綾人が安心したように笑って頭を撫でる。
「ごめんね、放って行っちゃって。すぐ戻るつもりだったんだけど、不安にさせた。」
申し訳なさそうに眉を下げた綾人に葵は首を振った。
「いえ…。僕こそ、ごめんなさい、なんだか、あやとさんの姿が見えなくて、声も聞こえなくて、どんどん不安になっちゃって…それで、出ていっちゃうの分かったから、余計に不安で、パニックになっちゃって…。」
「…あおは、Cornerが苦手なのかな?」
15分ほどの時間というのは、Cornerのお仕置きの時間としてはむしろ短い方で、その短時間でdropしかけるということはもともと苦手なのだろうか、と綾人は考えた。
「え?」
「今まで、Cornerのお仕置きってされたことある?」
「いえ…痛いのしかされたことないです。」
今までの――あの男の、お仕置きといえばほとんどがあの男の機嫌が悪いときに、理不尽な理由で鞭や道具で叩かれたり、道具を使って無理に犯されたりだとか、そんなものばかりだった。
「そっか。Cornerしてるとき、ずっと不安だった?」
「……はい。そんなわけないって分かってるのに、寂しくて、ひとりぼっちになったような気がして…」
「なるほど…。あおはたぶん、これ苦手なんだね。」
誰にでも得手不得手があるように、Subにも得意なお仕置き、苦手なお仕置きはある。おそらく葵はCornerなど、Domと離れたりするお仕置きは苦手なのだろう。
「今度からは、不安になったり無理だと思ったらちゃんとセーフワード言ってね?そこまであおを追い詰めることするつもりはないけど、今回みたいなこともあるし、言ったって怒ったりしないから。」
「はい…」
「いい子。目を離してごめんね。」
比較的手軽なお仕置きを選んだつもりだったが葵をdropさせかけてしまい、綾人は反省した。
(あおがまともなDomと関係を結ぶのは初めてだって分かってたのに…失敗したな…)
葵の『恋人が欲しい』発言が思った以上に効いていた綾人は常にない失敗を悔やみながらも心にしっかりと葵のNG行為を刻み込んだ。
その後夕食はケータリングを活用してから、一緒に風呂に入った。葵ははじめは恥ずかしがっていたが、心配そうな綾人に葵が折れる形になった。
「傷、良くなってるね。」
綾人が葵を後ろから抱くようにして2人で湯船に使ったまま、綾人が葵の腹の傷を見て言った。
「…はい。おかげさまで。」
綾人にまじまじと体を見られて恥じらいながら葵は返答した。綾人の家に泊まった日の次に会ったときに綾人にもらった薬を塗っていたので、ほとんど痕にならずに傷は治りかけていた。
「よかった。痕は残らなそうだね。あおの肌きれいだから、痕になってほしくないと思ってたんだ。」
「綾人さんにいただいた薬が効いてるみたいです。ありがとうございます。」
「うん、どういたしまして。」
微笑みながら綾人がまた葵の頭を撫でた。
(やっぱり綾人さんに頭撫でられるの、好きだな…)
葵はうっとりと目を閉じた。
しばらくそうしたまま2人でおしゃべりをして体がよく暖まったところで風呂を上がった。
風呂場から出てリビングにかえってきた2人はお茶を飲みながらまたすこし話をした。一区切りついたところで時計を見ると、少し早いがもう寝るにはいい時間だった。
「今日はもう寝ようか。」
「そうですね。」
綾人が一度dropしかけたこともあり、心配なので今日はもう寝ようという話になり、綾人がそう言い出したところで寝室に向かうだろうと思い、立とうとしたら綾人に髪を触られた。
「…あやとさん?」
「髪、まだ少し濡れてるね。」
「え?そうですね…?」
「このまま寝ちゃったら風邪引くよ。俺が乾かしてあげる。」
「それなら綾人さんだって。」
綾人の方が少し髪が長いので綾人の少し癖のある髪の方がまだ湿気ているように見える。
「俺はいいよ。…あおのサラサラの髪触りたいだけだし。」
いたずらっぽく綾人が笑ってそう言ったので葵も素直に返した。
「僕も綾人さんのふわふわの髪、触りたいし乾かしたいです。」
「…ふふ、じゃあ髪かわかしあいっこしようか。」
綾人はきょとんとしたあと笑ってそう言った後、ドライヤーを取ってきた。
「どっちからやる?」
「じゃあ、僕に先にやらせてください。」
そう言うと綾人はソファーの前に座った。Domを見下ろすことになった葵はすこし落ちつかなさを感じながらもドライヤーを使って綾人の髪を乾かした。
「わ、綾人さんの髪、やっぱりふわふわですね。気持ちいい。」
「そう?天パなだけだよ。」
綾人の髪を触りながら嬉しそうに言う葵に綾人もつられて笑う。
「美容院行ったのもずいぶん前だし、人に髪さわられるの久しぶりだなあ。」
ポツリと綾人が呟いた。
「そうなんですか?」
「うん。昔はもう少し短かったんだけど、忙しくて面倒だし伸びっぱなしにしてたんだよね。」
「なるほど。でも、すこし長めなの綾人さん似合ってますよ。」
髪が短い綾人も見てみたいな、と思いつつ葵が率直な感想を述べた。
「そう?あおがそう言うならこのままでいいか。」
「下ろしてるのも結んでるのも僕は好きですよ。」
「ほんと?うれしい。」
だいたい乾ききったな、というタイミングで葵は手を止めた。
「綾人さん、できました。」
「ありがとう。いい子だね。」
葵の頭を撫でて褒めたあと、今度は逆に葵をソファーの前に座らせた。
「じゃあ乾かすね。」
「お願いします。」
綾人が葵の色素の薄い髪に手を差し込んでドライヤーを電源をいれた。
「あおの髪は茶色っぽいけどサラサラだね。もしかして地毛?」
「そうなんです。生まれつき色素が薄くて。」
「瞳の色も薄いし肌も真っ白で綺麗だよね。」
「そうですか?でも、日に焼けると真っ赤になるし、目も日焼けすると痛いし、結構大変なんですよ。」
「そうなんだ。」
綾人の髪をさわる手つきが優しく、気持ちよくて葵はどんどんまぶたが重くなっていった。
「あお、気持ち良さそう。寝ちゃってもいいよ。」
「ん…ありがとうございます…」
綾人が葵の髪を乾かし終わったときには葵はもうほとんど夢の中だった。葵をソファーに持たれかけさせて、ドライヤーを片付けた綾人は葵の顔をのぞきこんだ。
「あお、寝室いこうか。」
「…はぃ」
葵は辛うじて目を開けていたので綾人は声をかけた。
「立てる?」
「…はい。」
葵は目を擦り、眠そうにしながら立ち上がって綾人と寝室に入った。一緒にベッドにはいり、綾人が葵を後ろから抱きしめた。
「おやすみ、あお。」
「…おやすみなさい、あやとさん。」
綾人のあたたかい腕の中で綾人のシトラスのような匂いに包まれながら葵は安心して眠りについた。
あれから綾人は葵と色々話をして、少しずつ葵の得意不得意が分かってきた。葵の話によると、痛みは我慢できるが道具を使ったプレイは少し苦手らしい。また、ほかにもプレイしたなかで不安そうだったのは、あの日綾人が予想した通りDomと離れたり姿が見えない、声が聞こえないといったものだった。これらはあれ以来、葵がdropしたり本格的に追い詰められる前に綾人が気づいて止めてcareに入ったので本人はそこまで気づいていないかもしれないが、やめておいた方がいいだろう。
(それにしても、あおの元パートナーは酷すぎる…)
葵の過去を聞いた夜にも思ったことだが、それ以来さらに少しずつ明かされるプレイ内容は酷いものだった。自分の欲を発散するためだけに命令して葵の限界を越えてもなおプレイを続け、あげくそれで失敗したりdropしたりしたら葵を責める。Domとしても最低だが、それ以前に人として品性を疑うレベルだった。
(そんなやつにあおの初めてをくれてやったなんて、信じたくないな…)
なかでも、初めての夜の話は特に酷い。完全に犯罪だ。葵はもう済んだことだし事を荒立てたくないと言っていたので、その気持ちは尊重はするが…。もう二度と会ってはほしくない。
(……いや、そもそもあんなのをあおの初めてだと認める必要もないな。)
あんなのはプレイとは呼べないし、合意も愛もなくキスもしないようなセックスも、セックスではない。
(俺があおの初めてを何もかも塗り替えたい。…あおが望んでくれるのなら、全部いい思い出と替えてあげられる。)
綾人は葵の過去を考えると暗くなりがちな思考を未来の事を考えて明るく持ち直した。
(最近では俺とのプレイでspaceにも入りかけてくれてるし。)
葵の気持ち良さそうに蕩けた顔を思い出して綾人はうっそりと笑った。
(今日は会う予定じゃなかったんだけど、会いたくなってきたな…俺は明日休みだし、週末だからあおも休みだと思うんだけど…電話してみようかな)
その頃葵は仕事帰りに家へと歩いていた。今日は葵のマンションがある駅から2つ隣の駅前の居酒屋で後輩と共に接待をして、葵はほどよく酔って火照った体を冷ますために20分ほどの自宅までの道を歩くことにしたのだ。葵は暗い夜道を月に照らされながら綾人のことを考えていた。綾人を見たときに感じる自分の気持ちは一体どういったものなのか。最近葵は綾人の姿を見ると嬉しくなるし、目が合って話をすると幸せな気持ちになる。
(パートナーとして上手くいってるってことなのかな…?)
あれからも葵は綾人の家に行って食事を作ったり、逆に家に呼んだり、外で買い物をしたりなどとプレイもそれ以外も充実したパートナー生活を送っていた。
(綾人さんがすごく褒めてくれるから、ちょっと自信もついてきたかも…)
綾人はことあるごとに葵を褒める。綾人にご飯を作ったとき、手作りのお菓子を渡したとき、コマンドを実行できたとき、上手に奉仕できたとき…など挙げ出すときりがないほどだ。あの低めの甘い声で褒められると体がぽかぽかして、幸せで、頭がふわふわしてなにも考えられなくなってくる。
(幸せだな……でも…)
葵と綾人は恋人ではない。そのため、いつ離れることになるかはわからない。綾人はパートナーと恋人を別に考えていると言っていたが綾人に恋人ができたとき、その相手がSubやSwitchだったとしたらそちらとパートナーとなるのが普通だろうし、相手がNormalだった場合も恋人の他にパートナーがいるということに理解を得られない可能性が高い。
(というか、綾人さんなら恋人がいるのにパートナーとしての関係を続けたりしないだろうな…)
そんな不誠実な関係を綾人が続けるとは思えない。プレイのためだけだとしても、恋人の他に特定の人を作ったりはしないのではないだろうか。
(ということは、綾人さんに恋人ができたら僕は…)
葵はこれからのことを考えて落ち込んだ。綾人が熱のこもった瞳で自分ではない誰かを見つめて、甘い声で名前を呼び、優しい手つきで体に触れる。想像しただけで泣きそうになった。
(…そういえば、あのピアス、誰にあげるんだろう…)
前に映画を見に行ったときに綾人がオーダーしていたピアスは、誰かへのプレゼントのようだった。随分時間をかけてオーダーしていたし、大切な人への贈り物なのだろう。
(好きな人、いるのかな――――――嫌だな)
葵は自分の思考にはっとした。
(え…僕……綾人さんのことが
好きなのか…?)
ブーーーッブーーーッ
葵が自分の思考に呆然としていたとき、突然ポケットにいれていたマナーモードのスマホが振動して、電話がかかってきたことを知らせた。相手の名前を見て心臓が大きく音をたてたが、葵はとっさに電話に出た。―――否、出ようとした、その時。
「むぐっ!」
スマホを見るために道の端によって立ち止まり、視線をおとした葵の背後から葵の口に手が延びて何者かに口を塞がれた。
「んんーっ!!」
その何者かに細い路地に押し込まれながらも、相手を見ようともがきつつ振り返った。
「!!!」
「久しぶりだなあ……葵。おとなしくしろよ。"Stay"だ。」
葵は相手と目を合わせて、葵がその顔を見て驚く間に男がそう言い、とたん葵の体は凍りついたように動かなくなった。
「それから……"Kneel"」
葵の耳元で低く男が囁いた。
(なんで……?!)
葵は崩れ落ちながら、もう二度と会うこともないと思っていた、よく知った男を睨みあげた。
「おいおい、そう睨むなよ葵?お前が恋しがってるかと思って来てやったのに。」
葵をにたにたと笑いながら見下ろす男は、葵をさんざんいたぶったあの男だった。
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