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第二章、二人の任務
7.約束だぞ
しおりを挟む主人に置いていかれてしまったセリューは、まだ心の整理がつかないまま、城の廊下を厨房に向かって歩いていた。
まだ朝早い。この時間なら、ダンドは厨房で仕込みをしているはずだ。元々ダンドは、執事ではなく厨房で働くシェフだった。今でも、執事としての仕事をするのは、昨日のような魔物が現れたり、何か事件が起こってセリューが忙しくなったり、魔物や竜などを相手に戦うときだけで、普段は厨房にいる。
魔物を操っていた犯人は捕まったし、今日一日、城の平穏を保つくらい、セリューひとりでもできそうだ。しかしオーフィザンは、ダンドと協力しろと言っていた。オーフィザンがそう言ったのなら、そうしなくてはならない。主人の命令は絶対だ。
口は利かない、いや、無駄なことは言わない。これからは、信頼できる相棒ではなく、ただの、たまに一緒に仕事をする他人、くらいに考えておけばいい。何も考えずに、怒りだけは伝えて、ほかの余計な感情は持たなければいい。
そう思い、できるだけ何も考えないようにしながら歩いて、セリューは厨房にたどり着いた。
すると、ちょうどそこから出てきた料理人が、セリューに挨拶をする。
「セリュー様、おはようございまーす。ダンド呼びに来たんすか?」
「……なぜわかるのです?」
「……」
自分でも全く気づかないうちに、平素ではあり得ないくらいに険悪な顔になっているセリューに、料理人は少し驚いたようだったが、一歩下がって戸惑いながら答える。
「だ、だって朝飯の時間まだだし、セリュー様がこういう時間に来るのって、だいたいダンド呼びに来る時じゃないっすか……」
「……」
「……喧嘩でもしたんすか?」
「喧嘩?」
「すっげー機嫌悪いみたいだから……呼ぶのやめます?」
「……いいえ。呼んでください。それと、喧嘩などしていません」
「……はあい……」
セリューは、できるだけの笑顔を作ったつもりだった。
しかし、うまくいかなかったようだ。
料理人は、少し怯えた顔をして、厨房の中に入っていく。
これではいけない。
動揺していたら、昨日のダンドに負けたようではないか。腹が立っているだけで、動揺はしていない。そう伝えなくてはならない。
しばらく待つと、ダンドが出てくる。彼はまるで昨日のことなどなかったかのような笑顔で、セリューに駆け寄って来た。
「おはよう! セリュー! やっぱり来たんだ!」
「……私がくることを予測していたのか?」
「うん。来るだろうなって思ってた」
「……それなら」
「オーフィザン様、出かけたんだろ? そういう時はいつも、俺とセリューで城を守るじゃん」
「そっちか……」
「違う理由で来たの?」
「ちっ……違わない……そうだ。それで来た……」
「やっぱり。食堂に行ってて。セリューの朝食、もう準備してあるから」
彼は終始笑顔だった。それはいつものことだが、今はそんな態度がセリューの心を大きく揺さぶる。
まるで、昨日のことなど日常の出来事の一つで、気にもとめていない、そう言われている気がした。
ますます腹が立つ。こちらにとっては眠れないほどのことだったのに。
「…………私はすぐに仕事に戻ります」
「朝食、食べないの?」
「いりません。今日は一日、オーフィザン様がいらっしゃらないのです。そんなものを食べている時間はありません」
「……セリュー?」
「私はこれから、城中にこのことを伝えてきますので、あなたは庭の見回りをお願いします」
「……なんでそんなに他人行儀なの?」
「他人だからです。では、私はこれで」
「待って!!」
すぐに立ち去ろうとすると、腕をつかまれた。もう力づくで言いなりにされて堪るものかと、思い切りその手を振り払う。
「触るなっ!! お前とは二度と組まないっ!!」
怒りだけを込めて睨み付ける。
けれど、ダンドも怯まない。
「…………そんなに嫌だった?」
「嫌だ。お前など、もうただの他人だ!! 赤の他人だ!! 信頼した私がバカだった……二度と触れるな!」
昨晩のことを思い出し、セリューはいつの間にか、魔法の槍を呼び出す犬の宝石を握りしめていた。
あんな風に襲ってくる男など、理性のない魔物と変わらない。
拒絶されたダンドは、悲しい顔をするわけでもなく、反省する風でもなく、感情が見えないような表情で言った。
「じゃあ、もう触れない」
「……なに?」
「俺はセリューが好きだけど、襲いたいわけじゃない。嫌われるのは嫌だ。だから、セリューが嫌だって言うことはしないって約束する」
「……と、当然だ」
「うん。約束する。セリューと組めなくなるの、嫌だし」
「そ、そうか……約束だぞ!!!! 私が嫌だと言ったらするな!!」
「いいよ」
「……」
意外すぎるほどにあっさり引き下がられ、拍子抜けしてしまう。俺が奪うと言っていたくせに、あっさりしすぎてはいないか。
触れないと約束されたのに、今度は新しい不満が湧いてくる。ただ、なにが不満なのか分からない。満たされない穴が空いてしまった気分だ。
いや、これは安心したせいだと、セリューは考え直した。これでもう、襲われることはない。
セリューとしても、昨日のことは腹立たしいが、ダンドと二度と組めなくなると、大幅に仕事の効率が悪くなることはわかっていた。
「そ、それなら……こ、今回だけは許してやらなくも……」
ふり向こうとして、体がすくみ上がる。
いつの間にかダンドは、体と体が触れてしまいそうなほど、そばにいた。
「言ってみろよ」
不思議なまでの自信に満ちた声。
拒絶すれば引き下がる、彼はそう言ったばかりだ。
一言いやだと言えばいいし、逃げることもできる。
それなのに、なぜか嫌だと言うことも、逃げることも、考えられなかった。
見つめ合っていた視線は、勝手に唇に下りていく。
昨日のキスを思い出す。こんなことをしていては、まるで待っているようではないか。
「い……」
嫌だと言おうとして開いた唇は、それ以上動かなかった。
降伏したそこに、柔らかいキスが降りてくる。昨日教えられたキスとは違う、優しくて甘い口づけだった。
丁寧に、繊細なものを撫でるように、怯えていた唇を吸われ、体から敵意が抜けていく。
いたわるように大きな手が、セリューの頬に触れ、顎に触れ、今度は昨日知ったばかりの深いキス。
腰に回された腕が、痛いくらいにセリューを抱きしめ、深く奥まで彼が侵入してくる。もう拒絶するどころか、気づけば自分から唇を開いていた。
けれど不意に、お預けでもするかのように、ダンドは唇を離してしまう。
突然取り上げられて、見上げるセリューを、ダンドは勝ち誇った笑みで見下ろしていた。
一瞬で湧き上がる悔しさ。
セリューは、精一杯強がって相手を振り払った。
赤くなっている顔を見られたくなくて、さっと背中を向けてやる。
「か、勘違いするな!! い、今のは……く、口寂しかっただけだ!! 口付けを許したわけじゃない!!」
苦しすぎる言い訳に、ダンドは何も言わない。
よもや笑っているのではないかと振り向けば、彼はやはり口元に手を当て、笑いを堪えているようだ。
「……口が寂しいの? 朝食、食べる?」
「いらん!! おかしなものを食べたせいで胸焼けがする!!!!」
「じゃあ、体が慣れるまであげようか?」
「いるか馬鹿!! に、二度と食わん!! 私は仕事に戻る!!!! 今日は別行動だ! お前が庭、私が城だ!!」
「一緒に行かない?」
「行かないっっっっ!!!! 城は平穏だっ!! 城一人、庭一人で十分だ!!」
もう今日は、ダンドのそばにいられそうにない。このままだと、ずるずる言いなりになりかねない。
とにかく一刻も早く逃げていきたいのに、そうはさせてくれないものが、この城にはいる。
厨房の奥から、何かが壊れるような大きな音と悲鳴。そして、怒号。
「馬鹿猫ーーーーっっっっ!!!!」
「ぎゃあああああああああーーーーーーっ!!!!」
こんな事態はいつものこと。おそらくまた、クラジュが何かしでかしたのだろう。
見張り役のオーフィザンがいなくなると、クラジュはいつもドジを踏んで、とんでもないことをしでかす。それの後片付けをするのは、いつもセリューの役目だ。
この程度のこと、予測できたはずなのに、ダンドのことで頭がいっぱいだった。
それにしても、こんな時にまで騒ぎを起こすとは、何と腹立たしいペットだろう。
朝っぱらから余計な仕事が増え、湧いてきた怒りで、顔が歪んでいく。
ダンドが、やれやれといった様子でセリューの肩にポンと手を置いた。
「クラジュだね……またドジしたのかな……セリュー、そんな怖い顔しないの。一緒に行こうか。深呼吸をして、怒りを鎮めてからね」
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