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10.そのままでは抱きしめられない

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 泥だらけの体を、しがみつくように抱きしめられて、焦って暴れても、ますます力を入れられてしまう。

 すると、激しく体が痛んだ。

「いっっ…………あっ…………!! いたっ……!!」

 声を上げた僕から、殿下の腕が解けていく。

 さっき、地下で鞭で撃たれた時の傷が痛んだ……
 殿下が回復の魔法をかけてくださったのに……

 ずっと回復なんてろくにしてこなかったからかもしれない。毒だって、これまでちゃんと解毒してこなかった。少し回復の魔法をかけたくらいでは足りないこと、僕にだって分かってる。

 全身を走る痛みに負けて、大きく震えた僕の服の中から、あの小さな鳥籠が落ちた。それは少し歪んでいる。

 地下牢で、これを持っていることが見つかってしまった時、目の前でディラロンテに踏みつけられたんだ。その後は必死に守ったけど、拷問が終わった後、籠は歪んでしまっていた。それを魔法で治していたから、体の回復に回す魔力はなかったんだ。

 落ちたそれに手を伸ばす。何度もこんな風にしては、目の前で、それを踏み躪られた。

 早く取り返さないと、また壊される……

 そう思ってしまって、目が涙で覆われていく。すると目の前には、いもしないはずのディランテ達がいて、いつもみたいに僕の目の前で、僕が持っていたはずのものを踏みつけて笑っていた。

 泣きながら落ちたものに手を伸ばすと、僕より早くそれを拾う手があった。ロティンウィース様だった。

「あ…………」

 恐怖で立ち尽くす僕に、殿下は小さなそれを拾って、差し出してくれる。

「……大切なものなのか?」
「…………」

 僕は、震えながら、それに手を伸ばした。

 返されたものに触れる。それは無事だった。壊されてなんかいない。そもそも、ロティンウィース様はそんなことしない。

「あ、ありがとう……ございます…………これは、ま、魔物と戦うためのもので…………大切なものです……ありがとうございます……」
「……気にしないでくれ。それより、早く体を回復させよう……」
「でっ……でもっ…………」
「でもだと? 何を言われようが俺はトルフィレを癒すからな。そのままでは……」

 そう言って、殿下は僕に顔を近づけてくる。すぐそばまで殿下の顔が来て、僕は飛び退くつもりだったのに、もう体が動かなかった。

「殿下…………?」
「……そのままでは、俺が愛しただけで壊れそうだ……」
「………………………え?」

 何を言い出すんだ? 殿下は……

 殿下は優しい人だし、多分、民たちみんなを大切に思っているんだろう。僕もその中の一人ってことかな……?

 それはとても嬉しいんだけど……

 な、なんだか、こんなにそばでそんなことを言われると、とても緊張するっ……!

 恥ずかしくて、殿下の顔を見ていられなくて、僕はすぐに顔をそむけてしまった。こんなの無礼じゃないのか? そう思うのに、緊張して何もできないでいると、背後から、声が聞こえた。

「トルフィレーーーー!! こんなところで何をしている!?」

 ふざけたような声に振り向けば、路地裏に、コンクフォージが入ってくるのが見えた。

 多分、僕のことを嬲りたくて、わざわざ探しにきたんだろう。この男は、いつも僕に近づいてきては、僕が悪いことをしたと言って、ディラロンテに告げ口をする。

「トルフィレ……今日は一段と汚らしいな…………泥だらけだ。くさっ……臭うぞ。ゴミの臭いだ」

 わざわざ鼻をつまんで歩いてきたコンクフォージは、僕の前で立ち止まる。

「魔物退治に行ったんじゃなかったのか? こんなところで何をしている? もしかして……またサボっていたのか?」

 横柄な態度で言うこの男は、僕にいつも言いがかりをつけて、ディラロンテの機嫌をとっている。今も、僕がサボっていたと糾弾することに夢中で、一緒に傭兵の姿をした人がいることには気づいていないらしい。その方がいいけど。こんな奴が殿下に近づいて欲しくない。

 コンクフォージはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて言った。

「こんなところで泥に塗れて……泥遊びか? 人とは思えないな……豚か何かなんじゃないのか?」
「…………ま、魔物退治になら……今から行きます……」
「じゃあ今まで何をしていたんだ……? やっぱりサボっていたな! クズめ!!」
「違いますっ…………大事な……用があって……」

 そうだ。僕は、僕にとって大切な用があって、ここまで来たんだ。そして、ずっと心残りだったことを解決することができたんだ。

 けれどそんなこと、コンクフォージにはどうでもいいらしい。

「お前の用なんか、どうでもいい。そもそも、そんな権利があると思っているのか? 悪徳令息がっ……お前は言われた仕事だけを黙ってひたすらこなすことしか許されないんだ。お前の用? そんなことを考えるなんて、図々しいんだよっ……! 奴隷がっっ……!!」
「………………あの……こ、コンクフォージ様…………」
「俺の名前を呼ぶな!! 汚らしい!! お前に呼ばれるなんて、吐き気がする!!!!」
「…………吐いていいです……」

 ぼそっと言うと、コンクフォージの顔が激しく歪んだ。僕が言い返したことなんて、なかったからだろう。

「……何か言ったか? 臭い奴隷が、俺に、今意見したのか?」
「…………お、教えて……欲しいことがあるんです…………」
「お前が? 教えろ? 何を図々しいっ……! 身の程知らずめ! 近寄るな! 服が汚れる!!」
「…………ぼ、僕がっ……間違えて襲ったロティンウィース殿下が怒っていて……処罰を望んでいると言うのは……ほ、本当……なんですか?」

 震えながら、聞いた。

 普段、何も言わずに足蹴にされるだけの僕が、こんなことを言い出して、コンクフォージは少し驚いたようだった。

 けれど、すぐにニヤリと笑う。

「……ああ。そうだよ。殿下はお怒りだ!! お前のようなクズは、死ぬまで鞭で打って働かせろと言われている! 感謝しろよ? 俺たちはお前に、償いをさせてやっているんだ!! 王子殿下は、お前が死ぬまで苦しむことをお望みなんだよ!!」
「俺はそんなことは言っていない」

 あっさりと、すぐそばにいた傭兵風の人が否定する。大きな剣を担いで、フードで顔を隠したその人の正体を知っている僕は、心に溜まっていた苦しいものが、やさしく消えていくかのようだった。

 本当に、嘘だったんだ……

 けれど、僕が殿下を傷つけたことは、変わらない。だったら……せめて今は、殿下のことを精一杯守ろう。
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