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chap8.爛れた感情

140.舞い降りた正体不明の男

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 フィズが毒のことをリリファラッジに話した日の夜、イルジファルアがそれを知り、リーイックがナルズゲートと、王の行方を話しながら情事にふけっているとは、露ほども知らないシグダードは、リブの店のカウンターで、ぼんやり頬杖をついていた。

 とうに店は始まっている。カウンターの向こうではリブが酒を作り、リューヌが慌ただしく皿を洗っていた。そんな二人の前で、シグダードは一人、カウンターに座ったまま、水の入ったコップを片手にぼんやりしていた。

 隣に座っていた、未だに客扱いされないジャックが呆れたように言う。

「なあ、お前。そろそろ注文取りに行けよ」

 しかし、シグダードは立ち上がる気になれなかった。

 確かに店は満席状態、リブもリューヌも忙しそうだが、今日はやる気が出ない。
 ウエイターのはずのシグダードがそんな様子だから、店の客たちは各々、カウンターにまで注文に来ていて、ただでさえ狭い店の中は、半ば混乱しかかっていた。

 それでも、シグダードは上の空だった。昼間、リリファラッジに言われたことが気になっていたからだ。

 時計はどこにあるのか。

 毒を撒くために使われた時計のことなど、気にしたこともなかった。ただ、フィズを救うことに夢中になっていたが、リリファラッジの言うことももっともだ。

 ヴィザルーマが、キラフィリュイザの城を救うために、わざわざ力を貸したとは、どうしても思えない。
 しかし、自分の国であるグラスへ舞い戻りたかっただけなら、今こうして、ずっと何もせずに潜伏ということはないはずだ。

 ヴィザルーマの生存について知る者は、チュスラス側にはいないようだが、時間が経てばたつほど、気づかれる可能性は高くなる。
 それなら、そうなる前にヴィザルーマは、シグダードの城を悪夢に導いたあの時計を片手に、反旗を翻すつもりなのかもしれない。

「まさか……あいつ、自分の城で…………いた!」

 積み上げていた思考が崩れる。カウンターの向こうのリブに、トレイで殴られて。

「なにをする! リブ!!」
「いい加減にしろ。お前だけクビにして店から追い出してもいいんだぞ」
「ぐ……お前は気づかないのか!? 城を狙う輩がいるかもしれないんだぞ!!」
「お前の城はもうない」
「そうじゃない! グラスの城だ!!」
「なぜお前がグラス城の心配してるんだ?」
「あの城にはフィズがいる。あそこが落ちれば、フィズはどうなる? フィズ以外はどうなってもいいが、フィズまで巻き込まれるのを黙って見ているわけにはいかん!」
「……お前ほど素直に生きると楽なのか……?」
「楽なものか。今のこの状況を考えろ!」
「状況を考えなきゃならないのはお前の方だ。これだけ混んでるんだぞ。ぼやっとしてないで、さっさと注文とって酒運べ。嫌ならクビだ」

 リブはかなり苛立っているらしく、どん、とビールジョッキを置く。去り際に「明日出ていくか?」と言われ、そろそろ運ばないわけにはいかなくなる。

「くそ……グラス城が毒まみれになるかもしれないという時に酒か……! お前はこんなところで何をしている!?」

 目の前に乱暴にジョッキをおかれて、客であるテッテンラックは目を丸くする。

「な、なんだよ……相変わらず態度最悪だな……」
「だからなんだ。こうして運んでやっただけでもありがたく思え。ついでに運んだ代金も払え。金貨だ。何枚でもいい。出せ」
「なんで金貨出してお前に酒運ばれなきゃならないんだよ!! 逆に慰謝料欲しいわ!!」
「なんだと貴様!! 私がお前なんぞに愛想をくれてやってるんだぞ! 喜びに咽び泣け!!」
「泣くか馬鹿!! おいリブ! こいつクビにしろ!! 酒がまずくなる!!」

 怒ったテッテンラックとシグダードが掴み合いになったところで、店のドアが激しい音を立てて開き、一人の男が飛び込んでいた。小柄で金髪の童顔な彼は、以前シグダードが助けた、ジェットという行商だ。

「み、みんなっ!! 大変だ!!」

 突然大声を上げ入ってきたジェットに、客の半数が面倒くさそうに振り返り、もう半分は酔って気づかないのか、酒を飲み続けている。

 まだ荒い息を吐いているジェットに、ジャックが近づいていき、背中を撫でた。

「おいおい……ジェット、なんの騒ぎだ……?」

 彼はけれども、自分のことにはかまっていられないようで、汗を拭うこともせずに、顔を上げ叫んだ。

「大変だっ……! ヴィザルーマ様がっ……ヴィザルーマ様がっ……!!」

 ヴィザルーマ、と繰り返すジェットのことが気になって、シグダードは彼に近づく。

「どうした? ヴィザルーマがどうしたと言うんだ?」
「ヴィザルーマ様がっ……い、生きていたんだ!!」
「なに……?」

 突然の先王生存の報告に、酒場の中はざわつく。誰もがそんなはずないと、何を言っているんだと、そんな話をしていたが、シグダードだけは、なぜそれをこの男が知っているんだと驚愕していた。

 半ば呆れた声が繰り返される中、ジェットはなおも叫ぶ。

「本当だっ……本当にっ!! ヴィザルーマ様は生きていたんだっ!! いっ、今っ……! 今、広場に来ているっ!!」
「なんだと!?」

 誰もが叫んで、我先に店を出ていく。

 人波に揉まれそうになるジェットを守って、シグダードは、群衆が出て行ったドアの先を見やった。

「ヴィザルーマ……どういうつもりだ……」

 逃げ回っていたかと思えば、急に出てきた。あれの目的は、いつかグラスの王として返り咲くことだ。今こうして出てきたということは、その時が来たということだろうか。

 シグダードは、自分の腕の中で震えているジェットに振り向いた。

「おい!! ヴィザルーマが生きていたと言うのは本当か!?」
「う、うん……いま、広場で演説してる……! 本当に……ヴィザルーマ様は生きていたんだ!!」
「……案内しろ。リブ! リューヌを頼む!」

 何が起こったのかわからず、怯えているリューヌをリブに託して、シグダードはジェットを連れ、ジャックと共に店を飛び出した。

 ジェットの案内で広場に向かって走るが、すぐに恐ろしいほどの人だかりに阻まれて、先へ進めなくなってしまう。

 ジェットの話では、広場とやらは、ここからまっすぐ大通りを先に行ったところにあるようだ。大規模な朝市が開かれるほど広いらしいが、そこにすら入りきらなかった人が、大通りを埋め尽くしている。押し合いへし合いの騒ぎで、もうこれ以上先に進めそうになかった。

 だんだん苛立ってきたシグダードは、舌打ちをしてジェットに言った。

「くそ……ヴィザルーマはこの先か!?」
「う、うん……僕も、ちらっとしか見てなかったけど……」
「まさか、今更別人だとは言わないだろうな!?」
「そ、それは……言わないけど……あ! 見て!!」

 彼が指す先を、シグダードも見やった。普段は、楽士などが演奏を楽しむ場だろうか、木製の小さな舞台に、一人の男が立って、群衆に手を振っている。あの男がヴィザルーマだろうか。

 先に進もうとしても、沸き立つ群衆はかき分ける隙すら与えないほどにひしめいていて、舞台の上の男に歓声を送っている。

 遠目に見えたその男は、簡素な服装をしていて、顔を隠すためだろうか、大きなフードをかぶっていた。それのせいで、ここからでは誰なのかはっきりしない。
 背後には従者だろうか、二人の男を従えていた。背格好だけなら、一人はベジャッズに似ているような気がしたが、彼らもフードで顔を隠していて、その正体を窺い知ることはできない。

 舞台の上の男は、声を上げる群衆に向かって、彼らの声を抑えるような仕草をして、声を張り上げた。

「こうしてまた美しいこの国に戻ってくることができて、私は嬉しい!!」

 わああ、と言う歓声。誰もが拳を振り上げ、夜の街が揺れるほどだ。

「聞いて欲しい。我が愛しき民達よ。今、グラスの城にいるチュスラス・グラス、あの男は私の息子ではない!! 偽物だ!!」

 突然の告白に、広場が再びざわつく。誰もが周りの人と顔を見合わせていた。

 隣にいるジェットも、シグダードを見上げ、不思議そうにしている。

「どういうことだろう……チュスラス様が偽物なんて……」

 しかし、シグダードには、彼の質問に答える余裕はなかった。

 舞台の上の男の正体を探ろうと、その声に集中する。それは確かにヴィザルーマの声のようにも聞こえるが、そうでないような気もした。

 舞台の男はなおも続ける。

「私の真の息子、チュスラス・グラスは、すでに殺された!! コーリゼブル・キリゼブルの毒によって!! あれは魔力を持つものを狙う毒! チュスラスは、それによって無残に殺され、私だけが逃げ延びた…………私は……あの勇敢な男によって生かされたのだ! あの城はっ……! 今は、毒で満ちている!! いつかそれはこの街をも包むだろう! 私は……それを阻止しなくてはならない!!」

 再びの歓声。
 シグダードにしてみれば、嘘塗れで嫌になるような演説だが、広場も、大通りまで、すごい盛り上がりようだ。

「力を貸してくれ!! 勇気ある臣民たちよ!!」

 聞いていた群衆は歓声をあげ、拳を振り上げる。

 隣のジェットまでもが、感動に涙を流していた。

「ヴィザルーマ様……この国に秩序を取り戻すために、戻ってきてくださったんだ……」
「何を言っているんだ、お前は。あいつはずっと、こそこそ隠れ回っていただけだ! だいたい、あれが本物のヴィザルーマだと、なぜ言える!?」

 呆れて言うシグダードに、ジェットは確信に満ちた目で言った。

「だってあれを見てよ! 本物のヴィザルーマ様だ!!」
「そんなこと、分かるものか! あの男は大嘘つきの卑怯者だぞ!!」
「ば、ばか!!」

 ジェットは慌ててシグダードの口を塞ぐ。そして、叱りつけるように小声で言った。

「なんてこと言うんだ! ヴィザルーマ様は優しい王様だよ!! チュスラスが立ってから、この国はおかしくなったんだ……この国を正しく導くために帰ってきてくださったのに!!」
「馬鹿なことを言うな! あの男はフィズを生贄に差し出した下衆だ!!」

 カッとなって、話してはいけないことまで怒鳴り声とともにぶつけてしまう。

 それでも、ジェットは全く理解できないと言ったように首を傾げただけで、隣にいたジャックも、呆れたように言った。

「なにわけわかんないこと言ってんだ……そんなの、誰が信じるんだよ……」
「なんだと!?」

 胸ぐらを掴み上げると、ジャックはひどく冷めた目でシグダードを見上げる。

「見てみろよ」

 彼が顎で指した先には、民衆の真ん中で歓声を受け、手を振る男。フードの下から覗く微笑みだけで、まるで何かが降臨したかのような騒ぎだ。

「あのヴィザルーマ様と、今のみすぼらしい上に乱暴で偉そうなだけの浮浪者のお前。誰がお前なんか信じるんだよ?」
「……」

 否定したかった。声を発することもできなくなりそうな怒りのままに。

 けれど体が動かない。

 ジャックの言うことももっともだと思ってしまったからだ。

 今のシグダードが何を言おうとも、そんなことを信じる輩はいない。そもそも、キラフィリュイザに毒が撒かれた話ですら、誰も信じていない。

 対して、あの男はどうだ。輝かしい舞台で民衆の声援を受ける姿は、まるで英雄ではないか。

 しかし、これだけの騒ぎになると、ここへくるのは歓声をあげる者だけとはいかなくなる。
 沸き立つ群衆のその間を縫って、数人の兵士たちが舞台の上の男に近づいていった。

「なんだこれは!! なんの騒ぎだ!!」

 集まった者たちを怒鳴りつける彼らにまで、舞台の男は笑顔を向ける。
 失われたはずの男の顔を見つけたからだろうか、騒ぎを収めにきたはずの兵士たちまで、動きを止めてしまった。

 舞台の上の男は、兵士たちに微笑む。

「チュスラスに言われてきたか……可哀想に。お前たちのことも、私は必ず救う…………」
「…………まさか……ほ、本当に…………」

 驚愕し、動けない兵士達から、一歩下がって、ヴィザルーマが手を下ろすと、その足元に輝く円が現れ、その中から、真っ白な竜が現れた。
 竜はヴィザルーマを乗せて飛び上がり、夜の空に、死んだはずの王は舞い上がった。

 集まった人から、わあ、と言う声が上がり続け、中には涙を流す者までいる。

 魔法を使って飛んで見せただけで、驚くこともないはずだ。しかし、誰もが、ヴィザルーマが戻ってきたと、その生存を涙しながら喜んでいる。

 シグダードにとっては、呆れるような光景だった。演出めいた宣言に嫌気がさす。あの男が生きてここへ戻ってきたのは、昨日今日の話ではない。それなのに、このお祭り騒ぎはなんだ。

 その男は従者達を連れ、白い竜の背から手を振り、広場から遠ざかり、星空の中に消えていく。

 王が去った後も、熱狂は収まる気配がなく、広場は人々の熱で沸いていた。
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