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chap5.浸潤する影

99.許せない一手

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 リリファラッジの舞を眺めるふりをしながら、ストーンは、隣のイルジファルアを盗み見た。彼はグラスを傾けながら、タバコを燻らせている。リリファラッジの舞にさして興味を示す様子もない。リリファラッジを気に入って呼んだというわけではなさそうだ。

 今回のこの酒の席は、まさか親睦を深めたいなどという理由で設けたのではあるまい。

 イルジファルアにしてみれば、キラフィリュイザのことが落ち着いた今、グラス最有力貴族であるストーンは、次に潰すべき標的だ。

 それは分かっている。

 注意を払っていたつもりだった。

 しかし、リリファラッジにくれてやったフィズが、罪人の奴隷であるにもかかわらず、自由に城を歩き回り、剣を振るうなど、その立場に不相応な振る舞いを許されていたことを持ち出され、今回ばかりは、イルジファルアの誘いを断れなかった。

 次の議会でそれを持ち出されれば、ストーンの失策だと咎められることになる。

 イドライナの強大な力に、元老院も目がくらんでいる。今、皆の前で失態を責められ、支持を失うわけにはいかない。

 敵国のキラフィリュイザから来た貴族であるにもかかわらず、イルジファルアを支持する者たちが増えている。
 しかし、陰では死神とも揶揄されているイドライナ家の人間に、この国の実権は渡せない。

 単純に毒殺でも企んでくるかと思ったが、酒に毒は盛られていなかった。今はまだ支持者の数で勝る自分を手にかけることは避けたようだが、かといって、何も仕掛けてこないはずがない。

 リリファラッジを連れ出し、次はどんな手に出るか──それを考えていると、イルジファルアが突然、踊るリリファラッジに、酒の入ったワイングラスを投げつけた。

「もういい。やめろ」
「イルジファルア様……」

 踊りを突然止められたリリファラッジは、怯えた表情でイルジファルアに振り向いた。美しい衣装には酒のシミができている。

「そのような無様な舞では、私を満足させるには程遠いわ。舞はもういい。ここへ来て酌をしろ」

 どうやらイルジファルアには、美しいものを愛する高尚な心持ちなど、存在しないようだ。

 ふざけた要求に、ストーンは苛立ちを隠しつつ、イルジファルアを制止した。

「イルジファルア殿……これは私どもにとって、お気に入りの玩弄物です。あまり虐めないでやってください。なかなか身をわきまえた可愛いものですよ……」
「確かに可愛らしい容姿をしておりますが、あのような舞しか踊れないのでは、踊り子は失格でしょう。踊れないのなら、他の仕事をしてもらうまで。早くしろ!」

 わめくイルジファルアに、リリファラッジは特に動揺する様子もなく、恭しく頭を下げ、たおやかな仕草で酒を注ぐ。
 しかし、一口だけそれを飲んだイルジファルアは、残ったワイングラスの中身をリリファラッジに向かって放ってしまう。

「まずい酒だ。酌もできんのか。役立たずめ」

 そう言って、イルジファルアは、リリファラッジの目の前で、ワイングラスを床に落とし、割ってみせた。

 髪から酒を滴らせながら、リリファラッジはその場に平伏する。

「申し訳ございません。イルジファルア様……ただいま片付け──うっ……」

 床に散らばったガラスの破片を集めようとするリリファラッジの襟元を、イルジファルアが引き寄せる。その醜い顔が、リリファラッジに近づいた。

「舞も酌もなっていないが……その体だけは見事なものだ……」
「う……い、イルジファルア様……あっ!」

 着ていたものをずらされ、リリファラッジの美しい胸元が露わになる。いやらしい視線を這わせるイルジファルアに、リリファラッジも嫌気がさしているのか、ひどく困った顔をしていた。

「なかなか綺麗な肌ではないか……どれ、今度はその体を使って楽しませてもらおう……」
「い、イルジファルア様……どうかお許しください……」
「マヌケなことを申すな。踊り子としても酌婦としても役に立たない者に、別の役割を与えてやろうという慈悲だ。ありがたく受け取れ」
「いや!」

 その男のうす汚い手が、リリファラッジの腰紐に伸びる。
 その手を振り払い、うずくまるリリファラッジは震えていた。

 しかし、イルジファルアは下劣な笑みを浮かべて続ける。

「貴様……脱がされないと裸になれないのか? なんと無礼な……早く脱げ」
「どうか……どうかお許しを……」

 リリファラッジの目尻に涙が光ったような気がした。イルジファルアに跪く手も足も震えている。

 怯えるリリファラッジに向かって伸びるイルジファルアの手を、ストーンは、自分でも気づかないうちに掴んでいた。







 ストーンの制止に、イルジファルアは、不満げな顔で「どうされました?」と問いかけてくる。

 ストーンは、そんな様子にすら腹が立った。

 しかし、イルジファルアの前でリリファラッジを庇って感情を露わにするわけにはいかない。一息吐いてから、ゆっくりと口を開く。

「イルジファルア殿、これは蝶です」
「蝶?」

 イルジファルアの目から離すように、ストーンはリリファラッジを抱き上げ、膝にのせた。小柄なリリファラッジはすっぽりとそこに収まり、驚いた顔でストーンを見ている。その頬に手をやると、平静を保てる気がした。

「はい。このワガママな蝶は、最上の蜜を与えてくれる者の前でなければ、拗ねて舞わないのです。どうやらあなたでは最上の蜜は用意できないようだ」
「あなたはそれをくれてやっていると言うのですか? ストーン殿。奴隷同然のその男に? ずいぶんと慈悲深いお方だ……どうやら、噂は本当だったようだ……」
「噂?」
「ええ。皆、羨ましがっております。あなたがその踊り子を独占してしまっていると。ずいぶんとワガママな男が、あなたの言うことなら素直に聞くそうではありませんか」
「うまい餌をくれる飼い主に、ペットが懐くのは当然でしょう?」
「ペットのためなら法も曲げますか……」
「……何のことでしょう?」
「だいぶ苦労しましたよ……ストーン殿。皆その踊り子を褒め称えることはしても、その男自身のことになると口が固い……ずいぶんとあなたを恐れている様子だ。特に……あなたに流刑にされたイヴィルのこととなると……そんなにまでして、その男を独占したかったのですか?」
「なにをおっしゃっているのです? あれは、イヴィルが身分を利用して悪行を繰り返していたことを咎めただけです。確かにリリファラッジもあれの被害にあっておりましたが……」
「でしょうな。なにしろ、それの兄は王の温情を踏みにじり、王座の間を汚した罪人ですから……呼ばれれば従わざるを得なかったのでしょうな……」
「……」

 よく働く地獄耳だ。

 リリファラッジは、ヴィザルーマの先代、ファースの慰みものとして城にやってきたサリファレッドの弟だ。二人はその容姿と舞ですぐに城の貴族たちを虜にした。爵位を持たないくせに、王に気に入られ、異例の厚遇を受けていたサリファレッドと、次々に貴族たちを魅了するリリファラッジは、常に嫉妬の対象だった。しかし、日常的な嫌がらせなど気にも留めない二人は、人の憎悪すら、美しさの糧にしているようだった。

 ストーンもまた、リリファラッジに魅了された一人だった。
 最初は部屋に誘っても、言葉巧みにかわされていた。他のどの貴族が誘っても、それは同じだったらしい。

 しかし、ヴィザルーマが王座についた時に、リリファラッジの立場は一変した。
 ファースが王でなくなったことで、サリファレッドは王の寵愛を受けた者という立場を失った。本来なら城から追放されるはずだったが、ヴィザルーマは、長く父に仕えてくれた男を城から追い出すなどとんでもないと言い、彼にはこれからも城に仕えてくれと命じた。
 しかし、サリファレッドはそれを受け入れず、その場でナイフを取り出し、自らの喉笛を切り裂いて自害してしまった。
 兄が王の温情を踏み躙り、あまつさえ眼前で刃物を取り出し、血で王座の前を汚す大罪を犯したことで、リリファラッジは罪人の弟になってしまった。
 それから彼は、貴族たちに呼ばれればその部屋へ赴くようになった。密室で行われた饗宴が表沙汰になることはなくとも、彼を妬んでいた者たちは想像したことを楽しげに流布し、すぐにリリファラッジは体を使って貴族に取り入る淫魔だと噂がたった。

 しばらく城を離れていたストーンが、リリファラッジに話を聞こうと、彼を部屋に呼んだとき、彼は疲れ切っていて、美しかった舞は見る影もないものになっていた。
 以前のリリファラッジを取り戻したい一心で、「何か願いはないか」と聞いたストーンに、リリファラッジは、イヴィルの名を上げ、それを追放してほしいと、うわ言のように言った。

 イヴィルは、貴族たちの間でも評判の良くない乱暴者で、身分をたてに、使用人や、自分より爵位の低い者たちを弄ぶ男だった。サリファレッドの件で、肩身の狭いリリファラッジを最初に部屋に呼びつけたのも彼だったらしい。死罪にしたかったが、流刑にとどめたのは、ストーンの最後の理性だった。

 イヴィルが流刑になり、サリファレッドの件を口にする者はいなくなった。皆、イヴィルの二の舞にはなりたくなかったのだろう。その話はタブーになった。しかし、消えたわけではない。

 もしもリリファラッジに、どんなものでもいいから爵位があれば、妻にすることができたかもしれない。もしもリリファラッジの兄が、あんな真似をしていなければ、慰みものとして屋敷に迎え侍らせた。しかし、どちらもできない。

 どれだけ美しくとも、どれだけその舞が皆を魅了しようとも、リリファラッジは貴族の隣で肩を並べることは許されない。彼はこの城の貴族達にとって、お気に入りの愛玩動物だ。気を引くための贈り物をしたり、慰みものにすることはあっても、決して、家に迎えることはしない。玩具と貴族、その壁を超えるつもりなど、毛頭ない。しかし返す言葉が見つからないストーンに、イルジファルアは嫌な笑みを見せる。

「ストーン殿、そう言えばあなたはまだ独身でしたな。あなたほどの方なら、求婚に来る貴族の姫君など星の数ほどいるはずです。なぜいまだに妻を設けないのです? あなたにふさわしい高貴な家柄の姫君より、あなたを魅了する方がいらっしゃるのですか? 是非とも教えていただきたい……その方は、どういったお家柄でしょう?」
「……」

 こんなものは挑発だ。ストーンの前でリリファラッジを痛めつけ、動揺を誘っているのだ。
 
 それでも切り返しの言葉が見つからず、ストーンは押し黙ってしまう。

 すると突然、リリファラッジが声を上げた。

「もう! 難しい話はやめてください! イルジファルア様! 私、甘い蜜がないと踊れないんです!! ストーン様はそれをいーっぱいくださる方だから懐いているだけのこと! 誤解しないでください!!」
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