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chap5.浸潤する影

89.初めて感じる恩

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 屋敷を出た時点で、水を持って逃げた男の姿はなかった。

 なんとか市場まで出たシグダードは、来たはいいがどこをどう探していいか分からなかった。
 市場は広い。あてもなく人一人を探すことは無謀にも思えるが、あの水だけは取り返さなくてはならない。

 早朝の市場は、店の準備をする者がまばらにいるくらいで閑散としている。しかし、もうしばらくして市が始まり、人が多くなれば目当ての人物を探すことはもっと困難になるだろう。

「あの男……見つけたら切り裂いてやる……」

 早く、という思いばかりが募り、シグダードはキョロキョロしながら市場を歩いた。

 しかし、慣れない松葉杖ではスピードなど出るはずもなく、それどころかふらついて通行人にぶつかってしまう。

「おい! 気をつけろ! 無礼者め!」

 シグダードがイライラをぶつけるように怒鳴ってやると、ぶつかられた男は、こちらに怒りの形相を向けてくる。

「はあ!? 何言ってやがる! てめえがふらふら歩いてたんだろ!」
「うるさい! 貴様が道を開ければいいんだ!」
「なんだと!」

 男はこちらが苛立っているというのに、シグダードの肩を強く掴んでくる。シグダードは相手を振り払おうとしたが、うまく力が入らない。

「離せ! 急いでいるんだ!」
「謝れよ!」
「謝るのは貴様の方だ! 離せ!」
「てめえ……」
「離せと言っているだろうっ!!」

 我慢の限界だ。シグダードは松葉杖を放り出し、男の頬を殴りつけた。
 体を支えていた松葉杖がなくなり、足を地面についてしまう。途端に足が切り裂かれるように痛む。
 それに耐え切れず、うずくまるシグダードの胸倉を、殴られた男が掴み上げてきた。

「何しやがるっ!!」
「離せ! 急いでいるんだ! 貴様に構っているヒマはない!」
「ざけんな!」

 ついに男は、シグダードに殴りかかってきた。







 殴り合いの末、相手の拳に飛ばされたシグダードは、地面に倒れた。足の怪我さえなければ、負けはしないのに、なぜこんな時に体がまともに動かないのだろう。切れた口の中に流れる血を吐き出し、立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

 男はシグダードに向かって暴言と共に唾を吐きかけてくる。

「さっさと謝れよ! クソ野郎!」
「誰が……貴様なんぞに……」
「んだと、てめえ!」

 逆上した男がシグダードを掴み上げる。その右手がシグダードを殴りつける前に、後ろから割り込んできた男がその腕を掴んで止めた。
 止めた男はどこかで見た顔だが、思い出せない。頭がボーッとしてきたからかもしれない。
 止めに入った男は、苛立つ男を静かになだめ始めた。

「そろそろやめとけよ」
「ジャック! てめえには関係ねーだろ!」

 どうやら二人は知り合いらしく、男は怒鳴りながらも、手を緩めた。

 男が呼んでいたジャックという名前でやっと思い出せた。男を止めたのは、フィズと一緒に街にでたときに会った露天商だ。

 ジャックは男の腕をつかんだまま、ため息をついた。

「ねーけどよ。そろそろやめといた方がいいだろ。殺しちまったらお前が困るぞ」
「俺はこのえっらそーなヤローが謝らねーと気がすまねーんだよ!」
「そんな意地で人殺しになりたくねーだろ? 殺人ともなれば、やる気ねー警備隊どももさすがに飛んでくるぞ」

 ジャックの言葉に、男は舌打ちをしてシグダードを離す。シグダードはその場に倒れこんだ。

 すかさずジャックがシグダードと男の間に入る。

「ここは俺の顔に免じて許してやってくれ。な?」
「……こいつ、お前の知り合いか?」
「知り合いっつーか、あー……なんつーか……俺の店のクレーマーだ」
「クレーマー? そんな奴庇っても意味ねーだろ! 死なせとけ! そんなクズ!」
「まあな……ただ、店の前で殺人は困るんだよ。なっ? 頼むよ」
「ちっ……わーったよ。お前にまで迷惑かける気はねーしな」
「助かる。今度リブの店で酒おごるよ」
「ビールな。一番高いやつ、ジョッキでだぞ!」
「はあ!? ジョッキなら一番安いやつだろ!!」
「ケーチ!」

 男はジャックと言い合いながら去っていく。ジャックはそれを見送った後、倒れたままのシグダードの隣に座り、顔を覗き込んできた。







「シーグー、生きてる? 死んでる?」
「うるさい……」

 シグダードは、手を貸そうとするジャックを押しのけ、フラフラと立ち上がった。
 その態度が気に入らなかったらしく、ジャックは顔を大きく歪めた。

「……ほんっと態度わりーな。ガランが怒るのも無理ねーわ。礼くらい言えよ」
「貴様なんぞに礼を言うくらいなら、虫にでも頭を下げた方がましだ」
「虫には下げられるものが俺に下げられねー理由はなんだよ……おい、お前、フィズはどうした? あの可愛いにーちゃんがいねーとお前と話していられそうにねえ……」

 ジャックはブツブツと不満を言っているが、こんな男に構っている暇はない。早く水を持って逃げた男を探さなくてはならない。

 シグダードは、なんとか歩き出そうとするが、足の痛みに負けて、その場に膝をついてしまう。

 すると、おせっかいなジャックがシグダードの肩に手を置いてくる。

「なんだよ。歩けねーのか?」
「うるさい……離せ……」
「お前……マジで見捨てるぞ……」
「あれを探しに行かないと……」
「あれ? 何言ってんだ? つーかお前、体熱くねえか?」
「あれが……ないと……フィズが……」

 話しながらも、次第に意識が遠くなってきた。体から力が抜けると、全身がひどく火照っていることに気づいた。

「おい! シグ!」

 ジャックが呼ぶ声が聞こえる。しかし、それに答えることすらできずに、シグダードは気を失った。







 目をさますと、シグダードは小さなベッドに寝かされていた。シミだらけのきたない天井が見える。どうやらどこかに運ばれたようだ。首を動かすと、額から冷たく濡れたタオルが落ちた。

 そこは狭い部屋で、シグダードが寝ているベッドと小さなテーブルがおかれていた。

 床ではジャックが腰を下ろし、商品らしきガラス瓶に紐を通している。
 彼は、シグダードが起きたことに気づいたのか、手を止めて振り向いた。

「シグ……起きたのか?」
「どこだ……? ここは……」
「リブの店だよ。お前が倒れたから連れてきた。体調悪いなら先に言えよ。つーか、熱あんのにケンカすんな。マジのバカだな」
「熱?」
「俺がすぐ止めずに見てたせいで死なれたら寝覚めわりーからな。医術士呼んで薬もらってやった。傍観の詫びに代金は俺が持ってやるよ」

 熱があるなんて、気づかなかった。しかし、彼の言う医術士の薬のおかげか、今はあの頭がボーッするような感じがない。足は痛いが、今はそんなことはどうでもいい。体さえ動くなら、早くあの水を探しに行きたい。

 シグダードは、痛む体を無理やり起こし立ち上がった。

 けれど、ジャックがすぐに止めてくる。

「どこ行くんだ! 俺の話、聞いてたか!?」

 彼が肩に触れた瞬間、全身がひどく痛んだ。

 シグダードの腕や足には、所々に絆創膏やガーゼが貼ってある。先ほどのケンカで負った傷だろうが、今はおとなしく寝ている場合ではない。

「あれを……探しに行かないと……」
「あれ? 捜し物か? なんだか知らんが、行っても倒れるだけだ」

 ジャックの言うとおりのようだ。再び全身がひどく痛み、シグダードはその場にうずくまった。

 すると、ジャックが呆れように言う。

「どれだけ大事かしらねーけど、今は寝とけ。リブに言っといてやるから」
「ダメだ……あれがないと……フィズが……」
「フィズ? フィズの大事なものか?」
「あれがないと……」

 あの水がなくては、フィズと通信することができない。シグダードは必死に立ち上がろうとするが、体が思い通りに動かなかった。

「ぐ……」
「シグ、おとなしくしてろ」

 ジャックが、自分の肩にシグダードの腕を回す。そのまま体を支えられながら、シグダードは布団に戻された。

 どれだけ頑張ってみても、体はまともに動きそうにない。こんなことをしていては、あの男が水を捨ててしまうかもしれない。しかし、今のシグダードでは、あれを探すことは不可能だ。

 シグダードは、ベッドのわきに立つジャックに視線を移した。もう彼に頼むしかない。

「おい、お前……ジャックだったな……」
「頼む……私の代わりにあれを探してくれ……」
「は? 何をだよ。つーか、俺は店が」
「頼む! あれがないと……頼む!」

 渋るジャックに、シグダードは必死に食い下がる。今頼めるのは彼しかいない。

 するとジャックは困ったように言った。

「そう言われてもな……何なくしたんだよ? 財布か?」
「違う……ただ……あれがないと……フィズが……」
「フィズの大切なものか?」
「……」
「参ったな」

 突然のことに、ジャックはやはり難色をしめす。しかし、今彼に断られれば、もう水を探せない。

 シグダードは彼に向かって叫んだ。

「頼む! 私にできることなら……なんでもする!!」
「つってもお前、その体だろ?」
「く……」

 彼の言う通りだ。できることなら、と言ってみても、今のシグダードでは、できることなどほとんどない。

 やはり、無理な相談のようだ。彼とはただの顔見知りだ。彼にこちらの願いを聞く義理はないし、以前彼にしたことを思い出せば、彼がなんの見返りもなく、水を探してくれるとは思えない。

 頼むことを諦めたシグダードは、ベッドから起き上がり、立ち上がろうとした。しかし、結局また倒れてしまう。

 するとすぐにジャックが駆け寄ってきて体を支えようとする。

「おい!」
「は、離せ……」

 シグダードは力の入らない体で、ジャックを押し返そうとするが、今の力では彼の体は動かせない。熱のせいか、話すことまで辛くなってきた。
 それでもシグダードは、フィズとの通信手段を失いたくない一心で、なんとか前に進もうと足掻く。
 しかし、結局ジャックにおさえられ、ベッドに戻されてしまう。

 ジャックはシグダードを見下ろしながら、長い溜息をついた。

「ったく、これ脅迫だろ……わーったよ。探してやる」

 思いがけない言葉に、シグダードはジャックを見上げる。

「ほ、本当か?」
「気はすすまねーがな。お前、マジで俺に感謝しろ……って……」

 シグダードは起き上がり、ジャックの手を取った。他人の手を握って、こんなにありがたく感じたのは初めてだ。

「ありがとう……本当に……ありがとう……」

 これまで、こんな風に他人に礼を言うことなどなかった。しかし、今は言わずにはいられない。口からありがとうという言葉が溢れる。絶対に諦めることはできない水だが、自分では探しに行くことすらできない。断られて当然なのに、引き受けてくれた彼の手がとても頼もしく思えた。

「ありがとう……ジャック……」
「……言っとくけどな、見つかる保証はねーぞ。だけど、市場の奴らに頼んでやるから、ふらふらで死にそうなお前が一人で探すよりは見つかるはずだ」
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