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chap2.消えていく思い出
24.帰れない場所
しおりを挟むシグダードは、隣を歩くフィズの横顔を、足を止めずにうかがった。
彼は目を伏せ、暗く沈んだ顔をしている。
さっきフィズが泣き出した時は焦った。フィズには泣いて欲しくなかった。彼の泣き顔は見たくない。
今はもう愛しているかも分からないのに、彼を手放したくないなんて、自分はいつからこんなにわがままになったのだろう。
フィズには辛い思いをさせていると分かっているのに、そばで笑っていて欲しかった。
しばらく行くと、湖が見えてくる。フィズが木立の向こうに見える水面を指さした。
「あ……湖、見えてきましたね」
あそこまで行けば、鳥に乗って城に帰ることができる。しかし、帰る前に伝えたいことがあった。
「フィズ」
シグダードは、走り出そうとするフィズの手を捕まえた。
彼が不思議そうな顔で振り向く。
「シグ?」
「その……無理を言ってすまない……」
「……気にしないでください……」
フィズはそう言って、無理やり作った笑顔を見せる。その青い目は、剣を振り回していた時には考えられない弱さをはらんでいた。
彼が、今にも消えそうなくらい儚く見えて、胸が熱くなる。
当分、彼を放してやれそうにない。
彼に夢中になっていたら、一瞬、敵の攻撃に対する反応が遅れた。
その隙をついて、くさむらから飛び出してきた狼が、シグダードの腕に食いついた。
「シグ!」
フィズが剣を抜くが、もう遅い。飛び出してきた狼達に、シグダードは肩と足をやられてしまう。激痛に声もなくその場にひざを突いた。
フィズの剣が野獣を切り裂く。彼は、シグダードを背に庇うように立っていた。
しかし、相手は多数だ。勝ち目がない。シグダードとフィズは、すぐに四つの尾を持つ狼たちに囲まれてしまった。
「逃がさないよ」
群れの後ろから、タトキが歩み出てくる。獲物は逃がしたことがないというだけある。このままでは二人とも、食われるだけだ。
「フィ……ズ……」
彼だけでも逃がしたくて、声をかけようとするが、それすらもできそうにない。食いつかれた体からは、血が流れ続けている。激痛に苛まれ、もう動けそうにない。
狼たちが一斉に襲いかかってくる。体のあちこちに噛みつかれながらも、フィズは、シグダードに狼の牙が向かわないように、必死に抵抗していた。
「フィズ……もう……いい……逃げろ……」
消えそうな声で言っても、彼には聞こえないのか、それとも聞く気がないのか、フィズは、シグダードのそばを離れなかった。
その後ろ姿に、異様なものを感じた。フィズが噛みつかれたところから流れる血には、色がなかった。
「フィ……ズ……?」
無色の血──それを見た時、シグダードは、体の中に冷たいものが広がっていく気がした。
いや、そんなはずはないと、浮かんだ嫌な推測を打ち消そうとする。フィズがそんなものなはずがない。
フィズの猛反撃にひるんだ狼達が、一旦飛びかかるのをやめた。数で押せば勝てるとはいえ、狼達も生物だ。自分が殺されるかも知れないと悟れば、後込みしてしまうのだろう。
彼らが飛びかかるのをやめた隙に、フィズは剣先を自分の首もとに向ける。
突然の行動に、タトキは、訝しげな目をしていた。
「何のまね?」
「タトキ……私には奥の手があるんですよ」
フィズは、場に似合わない落ち着き払った様子で答えている。そしてシグダードに振り向いた。彼は、シグダードの目をまっすぐ見ていた。
シグダードは、フィズが彼自身を犠牲にしてでも自分を守ろうとしているのだと思った。後で考えれば、ある意味、本当にそういうつもりだったのかもしれない。
彼は、小さな声で囁いた。
「シグ……ごめんなさい……」
「フィズ……? まさか……」
シグダードが言葉を続けるより早く、フィズは、タトキに向き直り、高らかに宣言した。
「タトキ! 退いてください! さもないと、私はこの場で自爆します!」
「……は?」
タトキが間の抜けたの声をあげる。彼にはその意味が分からないのだろう。
けれど、フィズはさらに続けた。
「私は……雷魔族です!」
「なっ……!」
タトキの驚愕の声が響く。
一方シグダードは、自分の嫌な推測が当たってしまった絶望に、言葉もでない。
知ってしまった事実に、シグダードの中のフィズへの感情が、瓦解の音を立てて変形していく。
フィズは、かつてシグダードの母を殺し、父を壊した雷魔族と同じ種族だった。
言葉だけなら信じなかったかも知れないが、彼の傷口からは魔族特有の血が流れている。他の種族にはあり得ない、無色透明な血が。
フィズは、シグダードの前に立って、さらに続けた。
「タトキ……退かないのなら、今この場ですべての魔力を爆発させますよ」
「……ちっ……! 退くぞ!」
タトキの号令を聞いて、狐妖狼達は森の中へ退いていく。血を流すフィズと、渦巻く黒い感情に沈んでいくシグダードを残して。
*
二人だけになり、シグダードは、血まみれのまま、フィズにゆっくりと近づいた。
「フィズ……お前……」
「シグ……その……私は……」
「──っ!!」
自分が大怪我をしていることも忘れて、シグダードは、哀しい目をするフィズにつかみかかる。
「フィズ……お前……ま、魔族……」
「はい……」
フィズは、顔を伏せた。
その態度を見て頭に血が上ったシグダードは、彼の襟元を掴む手に力を入れる。
「フィズ! 貴様! なぜ……なぜ……」
問い詰める声は、怒りに震えていた。吐く息は荒々しく、途切れ途切れになっていた。最大の憤怒というものは、息をすることすら難しくするらしい。
また、雷魔族が自分を弄びにきた。母を奪い、父を絶望させた雷魔族が、今度は自分を狙ってきたと思うと、シグダードは、今にもフィズの首を切り落としたい衝動に駆られた。
これまでフィズとすごした時間を忘れていたら、そうしただろう。初めからそうだと知っていれば、最大の苦痛を与えながら殺してやったのに、今まで何も知らず、そうしなかった自分すら腹立たしい。
フィズは、シグダードに追い縋るように喚いた。
「シグ! 落ち着いてください!」
「落ち着け? またお前達が私の前に現れたのに? 今度は何をする気だ!!」
「シグ! 違います! 私は何もする気はありません!!」
「ならばなぜここに来た!?」
「それは……」
「何をしに来た!?」
「な、何もする気はありません!」
「ふざけるなぁ!!」
逆上したシグダードは、フィズを殴りつける。倒れ込む彼に馬乗りになると、フィズは哀しい目のままシグダードを見上げていた。
そんな目が、ますます腹立たしい。
「何もする気はない!? そんな戯言に騙されるか!」
「本当です! 私は……何もする気はありません!」
「このっ……!」
どれだけ殴っても、フィズは「何もする気はない」と繰り返すばかりだった。らちがあかないと感じたシグダードは、彼の鳩尾を打って気絶させた。
「城に帰ったら……何をしてでも聞き出してやる……」
ぐったりしたフィズを担ぎ上げると、初めて彼を担いだ時と同じように軽かった。
なぜ初めて会った時に気づかなかったのだろう。あの時、彼の体を濡らしていたのは、汗などではなく、色のない魔族の血だったのに。
愛してくれたと思ったのに。そばにいたいと思ったのに。
フィズがしてきたことすべてが、自分を騙すためだったように思えてくる。
一度は愛したはずなのに、その過去すら憎くてたまらない。
せめて愛さなければ、こんなにも憎むことはなかったのかもしれない。
しかし、もう遅い。
シグダードは、初めて彼に会った湖のほとりを目指しながら、燃え上がる憎悪と、そばにいてほしいと思った恋人を永遠に失った哀しみに縛られていった。
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