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その美しい人(義弟×義兄)

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 その美しい人と出会ったのは、妻との結婚式の場だった。

 彼は、妻の兄と名乗った。長く病みついており、事前の挨拶の場には顔を出すことができなかったそうだ。もっとも、妻の方からもう一人兄がいると事前に伝えられていたから、彼の登場そのものにはさして驚かなかった。

 ただ、困った、とだけ思った。

 一目惚れ、なんて言葉がある。私はどちらかといえば用心深い人間で、周囲もそのような評価を私に寄せていた。妻の父親が会社の後継者に私を選んだのもこの性格のためで、少なくとも、一目惚れなどという三文小説じみた軽率な愚行とは無縁の人間だと、その瞬間までは自認していた。

 しかし事実、あれは一目惚れだった。

 彼は美しかった。決してふしだらな印象ではないものの、ただ黙ってそこに立つだけで、狂おしいほどの色香が匂い立った。ほっそりと痩せた体躯。青白く透ける肌、と、そんな白肌に病的に映えるほの紅い目尻。グロテスクに冴える唇。絹に似てつややかな黒髪と、そんな黒髪越しにひっそりと覗く大粒の瞳ーー抱きたい、と、何度思ったか知れない。事実、妻を抱くたびに私は、乱れ悶える彼女の姿に義兄の面影を重ねた。それが、夫として罪深い行為と知りながら。

 義兄は、その後も入退院を繰り返した。もともと身体の弱い人だったらしく、私は、彼が入院するたびに献身的な義弟を装いつつ病室に足を運んだ。

 そんな私の不純な見舞いを、何も知らないあの人はいつだって歓迎してくれた。だが、そこに義理の弟に向ける以上の好意はなかった。君には関心がないわけじゃない、ただ、敢えて個人的な親交は持ちたくないのだ、と、あの人は言った。どのみち僕は遠からず死ぬ。君に今以上の好意を抱けば名残が惜しくなる。私に限らず誰に対しても彼はそういう態度で、だからその笑みは、常に透明で色がなかった。

 そんな彼の美しくも悲しい笑みを目にするたび、私は、どうしようもなく欲情した。その透明な笑みを穢し、搔き乱し、私ただ一人のものにできたなら。ふしだらに赤い唇を奪って、痩せた腰が折れるまで蹂躙できたなら。……そうした劣情を、義弟らしい健康的な笑みで器用に押し包みながら、私は、病室で彼と朗らかに笑い合った。

 彼が亡くなったのは、私たちが最初の子を授かる半年ほど前のことだ。

 当時すでに妻の妊娠が判っていたからまだ良かった。さもなければ私は、喪失感から自ら命を断っていたかもしれない。それほどにあの人の死は私には耐えがたく、そして、妻の妊娠は喜ばしかった。極端と極端が釣り合って、あの頃、ようやく私は心の平衡を保たせていたのだ。

 だから産まれた息子のことを、私は誰よりも愛そうと誓った。

 愛せなかった妻への罪滅ぼしという面もあったが、何より、あの子は私の命の恩人だった。これからは妻と子だけを愛して生きよう。家庭を設けた男なら誰しもが抱くべき決意を、私は、父親になってようやく固めるに至ったのだ。

 だが、結果から言えば、妻の方は私に罪滅ぼしを許してはくれなかった。妻も義兄と同様、決して丈夫な方ではなかった。出産後は頻繁に病みつくようになり、息子が二歳になるかならないの頃、線香の煙が掻き消えるように、ふ、と旅立ってしまった。これから罪滅ぼしをという矢先に……

 いや。

 それを言えばそもそも私は、本当に罪滅ぼしを望んでいたのだろうか。

 妻の葬儀場でお悔やみの言葉を頂戴しながら、私は、義兄を喪った時ほどには心を乱されない自分に気付いていた。これからは家族だけを愛すると誓いながら、私の心は、なお義兄のもとにあったのだろう。だとすれば……償っていたつもりで、私は、何一つ償えてはいなかったのだ。

 だから。

 これは、そんな私への罰だ。



「お父さん」

 先日十四歳になったばかりの息子が、そう、無邪気に私を呼ぶ。そこにいるのは確かに私の息子で、しかしその顔は、その声は、完全にあの人のものだ。

 稀に血は、両親より親戚の特徴を色濃く発現させてしまうことがある。成長のたびに義兄、本人にとっては伯父に当たる男の特徴を具えてゆく息子は、私には、あたかも私のひそやかな罪を暴く神の残酷な采配に見えた。

 決して穢してはならない人間に、私が唯一求めた人間の面影を授けるなど。

「明日は三者面談だよ。大丈夫? 忘れてない?」

「あ、ああ……心配するな。予定なら、ちゃんと合わせてある」

「よかった。お父さん、たまに忘れちゃうから」

 そして屈託なく微笑む息子は、ああ、やはりあの人に似ている。否応なく思い出すあの人の透明な、それでいて扇情的な笑み。そんな彼に人知れず抱いた深い深い劣情ーー

 駄目だ。

 息子の笑みから、こんな穢い感情を連想するなど許されるわけがない。……そうして陥る無間地獄。尽きせぬ自己嫌悪と罪悪感。それでも抱いてしまう穢れた感情。これは、息子への期待なのか。お前は、いや貴方は、あの人の生まれ変わりなのか? ならばあの頃、限りある余命から私へ向けることを躊躇った関心を、あるいはそれ以上の感情を、どうか、どうかーー

「お父さん、もしかして気分悪い?」

「えっ、あ、いや……」

 心配顔で覗き込む息子の黒い瞳から、私は慌てて目を逸らす。わかっている。この子はあの人の生まれ変わりなんかじゃない。そんなことは百も承知で……ああ、でも、その黒い瞳も本当によく似ている。口に含んで転がせば、きっと甘いだろうと期待したあの人の、黒飴みたいにつややかな瞳。

 わかっている、わかっているとも。でも。

「……大丈夫、お父さんは、大丈夫だから」
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