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エピローグ
アーティストたち
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高階から、渡良瀬が入院中の病院で亡くなったと報せが届いたとき、例によって嶋野は、明らかに強がりだとわかるぎこちない笑みを浮かべた。
「まぁ、そろそろだとは思っていましたが……」
メール用のアプリを閉じると、嶋野は、目の前のハンバーガーにかぶりつく。今日は東京駅周辺を回る計画で、午前中は有楽町の東京国際フォーラムで開催中のアートフェアを巡ってきた。午後からは銀座方面を回る予定だが、その前にまずはエネルギー補給を、ということで、フォーラム内のハンバーガー専門店で早めのランチを摂っていた。
高階からのメールが届いたのはそんな時だった。
三十秒ほどかけて、嶋野は口のものをじっくり咀嚼すると、オレンジジュースと一緒に喉に流し込み、ふう、と溜息をつく。
「すぐに呑み込めるものを、長く咀嚼するのは相変わらず慣れません」
「駄目ですよ」
ぼやく嶋野に釘を刺すと、漣は手元のハンバーガーにかぶりつく。フレッシュでボリューミーな野菜と、肉汁たっぷりの分厚いパテが、いかにも専門店のそれらしい食べ応えだ。口の中にじわりと広がるビーフの風味と、野菜のシャキシャキとした歯触りがたまらない。
「言ったでしょ。俺と一緒に飯食う時は、しっかり噛んで呑み込むって。……ていうか大丈夫なんすかね。もうすぐ俺の研修期間が終わるってのに、これじゃ一人で食事なんかさせられませんよ」
「それはこっちの台詞ですよ。この前だって君、急な予定の変更をオペレーターに連絡しそびれて、危うく死にかけたじゃないですか。あと、君はあくまで研修を受ける側です。そこは履き違えないように」
「アートに関しては、でしょ。飯に関しては、むしろこっちが教える側なんで」
すると嶋野は、むぅ、と白い頬をむくれさせる。出会った当初はスマートで包容力のある大人という印象が強かった嶋野だが、長く付き合えば付き合うほど狭量だったり子供っぽかったりと意外な一面に気づかされる。ただ、それを不快だと感じることはなく、むしろ、そんな一面が覗くたびに漣は海岸で綺麗な貝殻を見つけたような気分になる。それを拾って、誰も知らない心の小瓶に集めるのが漣のひそやかな楽しみだ。
二口目も嶋野はゆっくり咀嚼すると、今度はお冷と一緒に呑み込み、呟く。
「結局……組織の現状については何一つ語られずじまいでしたね」
「そ……っすね」
半年前の逮捕劇の後、渡良瀬とその部下には当局による粘り強い取り調べが行なわれた。渡良瀬に限れば、あの後すぐに癌の治療のため入院となったが、その病室にも捜査員たちは足繁く通い、聴取を行なった。……にもかかわらず、彼らの口からは何一つ有益な情報は得られなかった。何かしらのギフトの影響か、単に、組織への強い忠誠のためかはわからない。ただ、少なくとも渡良瀬に限れば、最期まで口を割ることなく見事に逃げおおせたわけだ。
「でも……こうやってキュレーターを続けていたら、いつか必ず、会えると思うんで」
無論、それは瑠香のことで、嶋野もその点はわかっているのか、あえて混ぜ返すことはしない。代わりにポテトを一本つまんで口に放り込むと、「そうですね」と小さく呟く。
「ただ、残念ながらそれは、あなたの望む形での再会にはなりえないでしょう。むしろ……あなたにとっては辛い再会になるかもしれません」
「わかってます。それでも……一応、けじめなんで。俺なりの」
すると嶋野は、何が可笑しいのかふふ、と笑う。ただ、その目元はどこか寂しげだ。
「相変わらず律儀ですね、君は」
そしてまた一口、ハンバーガーにかぶりつく。それをまた時間をかけてゆっくり咀嚼、嚥下すると、口元についたケチャップをナプキンで軽く拭う。
「最近……料理の味が、少しずつわかるようになってきました」
「え、まじすか?」
それは素直に嬉しい。つい声を弾ませる漣に、嶋野は、今度はふわりと優しく笑む。
「君のおかげです。君と出会えて、僕の世界はまた少し広くなった」
「えっ? あ……」
何だろう、ものすごく照れくさい。何となしに視線をコンコースへと移した漣は、植栽の脇にあるベンチに腰を下ろす青年に目を留める。年齢は漣と同じか、少し年下ぐらいだろうか。その彼は、膝に置いたスケッチブックの上で何やら忙しく鉛筆を動かしている。どうやら近くのベンチやカフェでくつろぐ客や、目の前を通り過ぎる通行人をスケッチしているらしい。その横顔はどこまでも真剣で、なのに、どこか楽しげだ。
ぱちっ、とサインペンのキャップを外す音がして、見ると、嶋野がメモ帳にスケッチを始めている。モデルは、あのデッサン中の青年のようだ。対抗意識に火をつけられたのだろうか。ただ、その横顔はあくまでもエンジョイ勢のそれだ。
――独りじゃないよ。
耳の奥で、聞き覚えのある声が囁く。ああ、そうだ。彼女は独りじゃない。あの青年の中にも、そして嶋野の中にも不破光代はいる。アートを通じて生きる喜びを得る全てのアーティストの中に彼女はいる。――逆に言えば、彼女を宿す限りそれは何人であれアーティストに違いないのだ。
もちろん、そう、漣自身も。
傍らのカーテンウォールに目を向ける。そのガラス壁に、元医学生であり、重い罪を負った咎人であり、そして、不破光代を宿す一人のアーティストが映っている。
自分が、海江田漣が、映っている。
「まぁ、そろそろだとは思っていましたが……」
メール用のアプリを閉じると、嶋野は、目の前のハンバーガーにかぶりつく。今日は東京駅周辺を回る計画で、午前中は有楽町の東京国際フォーラムで開催中のアートフェアを巡ってきた。午後からは銀座方面を回る予定だが、その前にまずはエネルギー補給を、ということで、フォーラム内のハンバーガー専門店で早めのランチを摂っていた。
高階からのメールが届いたのはそんな時だった。
三十秒ほどかけて、嶋野は口のものをじっくり咀嚼すると、オレンジジュースと一緒に喉に流し込み、ふう、と溜息をつく。
「すぐに呑み込めるものを、長く咀嚼するのは相変わらず慣れません」
「駄目ですよ」
ぼやく嶋野に釘を刺すと、漣は手元のハンバーガーにかぶりつく。フレッシュでボリューミーな野菜と、肉汁たっぷりの分厚いパテが、いかにも専門店のそれらしい食べ応えだ。口の中にじわりと広がるビーフの風味と、野菜のシャキシャキとした歯触りがたまらない。
「言ったでしょ。俺と一緒に飯食う時は、しっかり噛んで呑み込むって。……ていうか大丈夫なんすかね。もうすぐ俺の研修期間が終わるってのに、これじゃ一人で食事なんかさせられませんよ」
「それはこっちの台詞ですよ。この前だって君、急な予定の変更をオペレーターに連絡しそびれて、危うく死にかけたじゃないですか。あと、君はあくまで研修を受ける側です。そこは履き違えないように」
「アートに関しては、でしょ。飯に関しては、むしろこっちが教える側なんで」
すると嶋野は、むぅ、と白い頬をむくれさせる。出会った当初はスマートで包容力のある大人という印象が強かった嶋野だが、長く付き合えば付き合うほど狭量だったり子供っぽかったりと意外な一面に気づかされる。ただ、それを不快だと感じることはなく、むしろ、そんな一面が覗くたびに漣は海岸で綺麗な貝殻を見つけたような気分になる。それを拾って、誰も知らない心の小瓶に集めるのが漣のひそやかな楽しみだ。
二口目も嶋野はゆっくり咀嚼すると、今度はお冷と一緒に呑み込み、呟く。
「結局……組織の現状については何一つ語られずじまいでしたね」
「そ……っすね」
半年前の逮捕劇の後、渡良瀬とその部下には当局による粘り強い取り調べが行なわれた。渡良瀬に限れば、あの後すぐに癌の治療のため入院となったが、その病室にも捜査員たちは足繁く通い、聴取を行なった。……にもかかわらず、彼らの口からは何一つ有益な情報は得られなかった。何かしらのギフトの影響か、単に、組織への強い忠誠のためかはわからない。ただ、少なくとも渡良瀬に限れば、最期まで口を割ることなく見事に逃げおおせたわけだ。
「でも……こうやってキュレーターを続けていたら、いつか必ず、会えると思うんで」
無論、それは瑠香のことで、嶋野もその点はわかっているのか、あえて混ぜ返すことはしない。代わりにポテトを一本つまんで口に放り込むと、「そうですね」と小さく呟く。
「ただ、残念ながらそれは、あなたの望む形での再会にはなりえないでしょう。むしろ……あなたにとっては辛い再会になるかもしれません」
「わかってます。それでも……一応、けじめなんで。俺なりの」
すると嶋野は、何が可笑しいのかふふ、と笑う。ただ、その目元はどこか寂しげだ。
「相変わらず律儀ですね、君は」
そしてまた一口、ハンバーガーにかぶりつく。それをまた時間をかけてゆっくり咀嚼、嚥下すると、口元についたケチャップをナプキンで軽く拭う。
「最近……料理の味が、少しずつわかるようになってきました」
「え、まじすか?」
それは素直に嬉しい。つい声を弾ませる漣に、嶋野は、今度はふわりと優しく笑む。
「君のおかげです。君と出会えて、僕の世界はまた少し広くなった」
「えっ? あ……」
何だろう、ものすごく照れくさい。何となしに視線をコンコースへと移した漣は、植栽の脇にあるベンチに腰を下ろす青年に目を留める。年齢は漣と同じか、少し年下ぐらいだろうか。その彼は、膝に置いたスケッチブックの上で何やら忙しく鉛筆を動かしている。どうやら近くのベンチやカフェでくつろぐ客や、目の前を通り過ぎる通行人をスケッチしているらしい。その横顔はどこまでも真剣で、なのに、どこか楽しげだ。
ぱちっ、とサインペンのキャップを外す音がして、見ると、嶋野がメモ帳にスケッチを始めている。モデルは、あのデッサン中の青年のようだ。対抗意識に火をつけられたのだろうか。ただ、その横顔はあくまでもエンジョイ勢のそれだ。
――独りじゃないよ。
耳の奥で、聞き覚えのある声が囁く。ああ、そうだ。彼女は独りじゃない。あの青年の中にも、そして嶋野の中にも不破光代はいる。アートを通じて生きる喜びを得る全てのアーティストの中に彼女はいる。――逆に言えば、彼女を宿す限りそれは何人であれアーティストに違いないのだ。
もちろん、そう、漣自身も。
傍らのカーテンウォールに目を向ける。そのガラス壁に、元医学生であり、重い罪を負った咎人であり、そして、不破光代を宿す一人のアーティストが映っている。
自分が、海江田漣が、映っている。
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