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3章
7話 旅立ち
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指定の連絡方法で「回収成功」の一報を受け取った渡良瀬は、さっそく腹心の部下らとともに回収ポイントへと向かった。通常、アートの管理や回収は部下たちに一任している。が、今度ばかりは誰かに任せるわけにもいかなかった。今回回収されたのは、この世界でただ一人、渡良瀬だけが鑑賞を許される作品群だ。回収されたのが本当に彼女の作品かどうかをチェックするには、どうあっても渡良瀬の目が必要になる。
そうでなくとも、彼女の作品は渡良瀬には特別な存在だ。
多くの偽物が横溢するこの世界で、唯一、渡良瀬が本物と認めたアート。やはりここは自ら出迎え、再会の喜びを噛み締めたかったのだ。ただでさえ残り少ない人生で、これほどの幸福を得られる瞬間は、おそらく二度とない。だから――
だから。
指定された有明の倉庫街に姿を見せたのが、高階と海江田、そして凪だったことに、渡良瀬は深い失望を抱いた。彼らがここに渡良瀬を呼び出したということは、おそらくロイド=カーペンターは捕らえられ、さらに、極秘の連絡方法も露見しているということ。いや、それならそれで構わない。挽回ならどうとでもできる。新しいギフテッドを潜り込ませ、今度はさらに周到で綿密な方法でもって光代の作品群を回収する。今回は、正直、焦り過ぎたと渡良瀬自身も思う。いくら余命が短いからといって、これ見よがしの大規模テロと、彼らにとっては無理難題とも取れる要求で掻き回したのは確かに悪手だった。それとも……何か別の要因が? これまで工作員として一度もしくじることのなかったカーペンターが、思わず足を掬われるほどのイレギュラーな事態が?
ふと視線を感じて、横目で周囲を盗み見ると、倉庫の影や屋根の上に、明らかに警察関係者と思しき人間が複数確認された。もっとも、どれだけ雁首を揃えようが渡良瀬には物の数ではない。万一の事態を見越して、わざわざ歌唱系のギフテッドを伴ってきたのだ。彼女のギフトは、耳にしたそばから全身を激痛に襲われる〝痛み〟。渡良瀬が合図をすれば、即座に彼女の独演会が始まる。
一方、十メートルほど隔てて渡良瀬と向き合う凪たちに、これという動きを見せるそぶりはない。傍らには、たったいま彼らが乗ってきたセダンタイプの車が一台。他に、例えば荷物運搬用のトラックらしきものは見えない。やはり光代の絵は、協会の倉庫に置いてきたか。……それも含めて残念だと渡良瀬は思う。てっきり彼女のアートに再会できるつもりで、内心、年甲斐もなく浮かれていたのだ。
「渡良瀬さん」
「待て」
即座の制圧を切り出そうとする部下をさりげなく諫めると、渡良瀬は一歩、かつての友人と部下の前に進み出る。
「君らがここに現れたということは、カーペンターくんは拘束された、ということかね」
「はい」
答えたのは凪だ。渡良瀬がその存在と才能を見出し、与えうる限りのアートの知識と感性とを授けた愛すべき教え子。彼と出会って間もない頃の、世界そのものに怯えきった小動物のような目を、渡良瀬は今もよく覚えている。わずか十歳そこらで大人のあらゆる醜悪さに晒された彼は、そのギフトで他者を支配下に置くことでしか安らぎを得ることができなかった。その後、どうにか懐柔し、部下として使ったが、渡良瀬以外の人間にはまず心を開こうとはしなかった。
その凪も、今や大人になり、彼自身が守りたいもののために渡良瀬と対峙している。その成長は嬉しくもあり、同時に寂しくもあるが、残念ながら今はそうした感慨に浸っている場合ではない。
「僕のギフトで支配下に置きました。今回の呼び出しも、彼に命じてやらせたものです」
「ギフト? お前の? だが、お前のギフトは確か――」
「あなたには伏せていましたが、僕の描く似顔絵は、モデル本人に対しては審美眼5以上の効果を発揮するんです。……すみません、恩人であるあなたに隠し事をしていたことは、謝ります」
そして凪は、冗談ではなく本当に済まなさそうに目を伏せる。なるほど、すっかり心を開かれたと思い込んでいたのは、どうやら渡良瀬の勘違いだったらしい。が、そこを今更責めるつもりはない。むしろ、ギフトに関する情報は、出来る限り伏せておくのがギフテッドとしての嗜みだ。……逆に言えば、ここでそれを開示したということは、今この場で全ての決着をつけるつもりでいるのだ。
「……決着、か」
何となしに渡良瀬は呟く。果たして、我々が行きつくべき決着とは何か。
「実はもう一つ、あなたに謝らなくてはならないことがあります」
「……何だ」
改めて身構えつつ問えば、凪は、一本のUSBメモリを渡良瀬に投げてよこす。それを手に取り、部下にノートパソコンに繋ぐよう命じると、間もなく部下は血相を変えて「渡良瀬さん!」と呼んだ。
「確認していただけますか、この映像を」
「映像?」
部下の手からノートパソコンを捥ぎ取り、ディスプレイを覗き込む。デスクトップに展開されたUSBフォルダ。その中にたった一つ、映像データが記録されている。そのタイトルを目にした渡良瀬は、まさか、と瞠目し、画面から凪へと目を戻した。
「どういうことだ」
「タイトルの通りです。……ブラフではありません。ご覧になればわかります」
「……」
改めてファイルに目を戻す。そこには確かに、何度読み直しても『焼却処分 不破光代作品群』と記されている。焼却処分? 光代の作品を? いや、まさか。彼女の作品は紛れもなく人類にとっての至宝だ。たとえ何千、いや何万もの人間が犠牲になろうと、これだけは保存していかなければならない、そんな。
そしてそれは、同じキュレーターである凪や高階も当然わかっているはずだ。
ところが凪も、それに隣に立つ高階も、まっすぐに、探るように渡良瀬を見据えている。まさか、そんなことがあり得るのか? 仮にもキュレーターを名乗る者たちが、人類の至宝である光代のアートを、そんな。
「あー、ちなみに撮影者は俺っす。光代さんの作品を燃やしたのも」
それまで凪の隣に黙って突っ立っていた海江田が、場違いなほど呑気な顔でのそりと会話に割り込んでくる。
「君が? じゃあなおのこと信じられんな。せいぜい審美眼5程度の君が、彼女のアートに触れて生き延びられるとは思えん」
「いや、まぁ俺も最初はそう思ったんすけどね。多分……あれじゃないすかね、俺自身、〝死〟のギフト持ちなもんで、だからこそ違和感に気づいたっつーか、なんかこう、あ、これ違くね? みたいな」
「……」
確かに、それはありうる話かもしれない。同種の自分のギフトと比べることで解像度が上がり、耐性も上がる、といったことが。……残念ながら、渡良瀬にはどう足掻いてもできない経験ではあるが。
「まぁとりあえず、動画を見てくださいよ。――いや、あんたは見なくちゃならない。そんで向き合うべきなんだ。彼女の死と、彼女のアートが遺した本当の声に」
不意にがらりと変わる表情。その気迫と佇まいに、不覚にも気圧される自分に渡良瀬は気づく。……ふざけるな、あんな若造に何がわかる。いや、俺以外の誰にもわかるはずがない。彼女のアートが宿す本当の力や、それに祈りも。
「……随分な大言壮語じゃないか。よかろう、お前のその若さに免じて、鑑賞してやろうじゃないか」
そして渡良瀬は、その動画データを展開する。そして――見る。彼が何よりも愛し、何を犠牲にしても、その美を世界に認めさせようとしたアートが、燃える。燃えている。海江田の手によって箱から暴かれ、中庭の石畳に無造作に積み上げられたキャンバスの山。そこに、仕上げとばかりにペインティングオイルが振り撒かれ、ライターで火をつけられる。――ああ、燃える。燃えている。いっそ滑稽なほど勢いよく。俺の夢。俺の、願いが。
「き、さまが」
ディスプレイから顔を上げ、海江田を睨みつける。よくも、こんな――
「貴様は、自分が何をしたのかわかっているのか! いつか人類の至宝となるはずのアートを、美の基準を、貴様は損なったのだ! それが人類にとってどれほどの損失か想像できるかァ!」
「わかってますよ。ええ、俺は間違ってる」
「――なに?」
思いがけず毅然とした答えに渡良瀬は戸惑う。正しくはその、曇りのないまっすぐな双眸に。彼の行為は、アートに対する紛れもない背信だ。が、その返答には、どれほど重い罪であれ引き受ける覚悟が感じられる。その、腹立たしいまでの潔さ。
「それでも今は、これが正解だと俺は思った。そしてきっと、あの人もそれをわかっている。……わかるんすよ。同じアーティストとして」
その言葉に渡良瀬は思わず目を剥く。同じアーティストとして、だと……?
「光代のことを何も知らん若造が、知ったようなことをッッ!」
「少なくとも、あんたよりはわかってるつもりですよ。そもそも、あんたはギフテッドじゃない。アーティストですらない。……ただ、異様にアートへの造詣が深く、そんで、審美眼が高いってだけの単なる批評家だ」
「――っ、」
なぜこいつがそのことを。思わず凪を、次いで高階を睨むと、二人は、最初と変わらぬ静かな双眸でじっと渡良瀬を見据えている。
ああ、そうだ――胸の内で渡良瀬は呻く。
そう、彼は、ついぞアーティストにはなれなかった。若い頃こそアートの道を志し、懸命に技術を磨いていた。そんな渡良瀬の前に、ある時、彼女は稲妻のように舞い降りた。不破光代。そう、彼女との出会は、渡良瀬の運命を根本から狂わせた。やがて光代はギフテッドとして協会に保護されるが、そんな彼女を追って、渡良瀬は非ギフテッドでありながら自らその門戸を叩いた。ただ、光代という才能と共にありたい一心だった。彼女の才能がどこに向かうのか、どこに届くのか、それを最期まで見届けたくて――
「彼女はただ、創作そのものが楽しくて……そんで、その喜びを誰かと分かち合いたい、本当に、それだけの人だったんだ。他人の命を奪い取ってでも自分の表現を世界に見せびらかしたいだとか、そんなことは、何一つ望んじゃいなかったんだ」
「黙れッッ! だ……だとしても、俺は……キュレーターとしての俺は、彼女の才能を世界に認めさせたい! 不破光代というアーティストを、彼女の示す新時代の美の基準を、さもなければ、俺は――っ、」
その時、不意打ちのように渡良瀬を強烈な眩暈が襲う。さてはこちらを狙う特殊部隊に麻酔銃でも打たれたかと思ったが、すぐに、違う、と気付く。この眩暈はいつものあれだ。持病を原因とした貧血。そしてこの持病は、おそらく、二度と回復に向かうことはない。
膝をつき、その場に崩れ落ちる。辛うじて残る体力を振り絞り、部下にリサイタルを命じたその時、明らかに彼女のそれではない歌声が周囲に響き渡る。その声に渡良瀬は聞き覚えがあった。かつて、渡良瀬自身が保護した新宿の歌姫。客に暴行を受け、それをきっかけにギフトが発現し、もはや外の世界では生きられなくなった憐れな籠の鳥。
その籠の鳥が、かつての哀れさが嘘のように朗々と、美しい歌声を響かせる。
「――っ、あ」
その場にしゃがみ込み、ひいい、と悲鳴を上げながら怯えたように周囲を見回す部下たち。どうやら高階のギフトにかかってしまったらしい。さすがに渡良瀬は、今更彼女のギフトにかかることはないが、それでも持病由来の眩暈は収まらない。どころか今度は、薬で鎮めたはずの痛みすらぶり返してくる。
こんなところで。何一つ、願いを果たせないままで――
――彼女はただ、創作そのものが楽しくて。
――その喜びを、誰かと分かち合いたい。
「……っ」
ああ、そうだ。
最後まで、彼女は何も求めなかった。……いや違う、本当は気づいていたのだ。彼女が、創ることの喜びを誰かと分かち合いたかったこと。だが、すでにアーティストの道を捨てた渡良瀬には、その喜びを彼女に与えることができなかった。
結局、俺は何一つ差し出すことができなかった。何も、何も……
深い自省に陥る渡良瀬の脳裏をよぎる、古くも懐かしい記憶。ああ、なぜ俺はあの時、力尽きた君を抱き止めてやらなかったのだろう。だがこれも、渡良瀬は本当の理由に気付いている。要するに最後まで、不破光代という一人の人間に向き合うことができなかったのだ。
高階の合図とともに、あらかじめ待機していた捜査員たちが物陰から次々と現れる。彼らは、今回のようなギフテッド案件を含む機密性の高い捜査を担う公安の職員たちで、半年前、海江田のグラフティが世間を騒がせた時にも随分と世話になっている。
彼らは渡良瀬とその身柄を確保すると、さっそく覆面パトカーに押し込み、どこかへ――おそらくは本庁へと出発していった。その、次第に遠ざかるパトカーの後姿を見送りながら、終わったんだな、と凪は思う。
凪を地獄から救い出し、新たな人生を授けてくれた人。そのことに、凪は今でも深く感謝している。ただ、それはそれとして、やはりあの人の理想は、凪のそれと相容れるものではなかった。
「お疲れさまでした。……面倒をかけましたね、海江田くん」
すると、それまで険しい眼差しでパトカーを見送っていた海江田は、大人びた表情を一転、ころんと子犬じみた顔で振り返る。
「いいんすよ。てかむしろ、俺なんかが言い返して良かったのかなって。どう見てもポッと出の部外者でしょ、俺。どうせなら高階さんとか嶋野さんがガツンと言ったほうが、なんつーか、締まったんじゃないすかね」
「そんなことはありませんよ。少なくとも君は部外者じゃない。彼女のアートに触れ、その願いを汲み取り、渡良瀬さんに伝えた君は、紛れもなく今回の一件の功労者です」
そう言って凪が笑いかけると、海江田はどこか照れくさそうに微笑む。と、その笑みが不意に失せ、今度は痛ましげに渡良瀬に目を向ける。
「あと……やっぱあの人、癌、だと思いますよ。それも……末期の」
「やはり……そうですか」
「はい。あ、いや、俺は医師じゃないんで、勝手な診断はできないんすけど、ただ……実家の病院で、ああいう感じの患者さん、たくさん見てきてるんで……」
気まずそうに言葉を選びながら紡ぐ海江田に、わかってます、と目顔で伝える。
半年前、久しぶりに渡良瀬と再会した時から薄々感じていた違和感。確かに、元からスレンダーな人ではあったが、二年ぶりに再会した渡良瀬は、単にスレンダーというだけでは片付かない異様な細り方をしていた。先日の襲撃時、さらに肉が削げ落ちた渡良瀬を目の当たりにした凪は、いよいよ疑念を深めずにはいられなかった。渡良瀬は、明らかに何らかの病気に侵されている――
「おそらく……あの人が焦っていたのはそのせいでしょう。今回のテロも、これまでのあの人の手口に照らすなら、あまりにも性急かつ乱暴すぎた。本来、あなたという、計画に必要なはずのピースを欠いたまま強引に実行に移ったことも、今にして思えば妙だったんです。……そうですか、やはり」
「寂しい、ですか」
「えっ」
意外な指摘に、凪はつい驚いた声を漏らす。見ると海江田は、どこか気の毒そうな、詫びるような目で凪を見つめている。彼はただ、渡良瀬の異変を指摘しただけ。気に病む必要などないのだ。なのに。
「まぁ、寂しくないといえば、嘘になります。ただ……子供とは、いつか親元を離れゆくものです」
そう、これは必要な別れなのだ。あるいは、そう巣立ち。
「あなたと一緒ですよ」
ぎこちない、でも精一杯の笑みとともに凪は告げる。すると海江田は、一瞬、何か強い痛みを堪えるような顔をし――それから、今度はその痛みを押し殺すように笑んだ。
そうでなくとも、彼女の作品は渡良瀬には特別な存在だ。
多くの偽物が横溢するこの世界で、唯一、渡良瀬が本物と認めたアート。やはりここは自ら出迎え、再会の喜びを噛み締めたかったのだ。ただでさえ残り少ない人生で、これほどの幸福を得られる瞬間は、おそらく二度とない。だから――
だから。
指定された有明の倉庫街に姿を見せたのが、高階と海江田、そして凪だったことに、渡良瀬は深い失望を抱いた。彼らがここに渡良瀬を呼び出したということは、おそらくロイド=カーペンターは捕らえられ、さらに、極秘の連絡方法も露見しているということ。いや、それならそれで構わない。挽回ならどうとでもできる。新しいギフテッドを潜り込ませ、今度はさらに周到で綿密な方法でもって光代の作品群を回収する。今回は、正直、焦り過ぎたと渡良瀬自身も思う。いくら余命が短いからといって、これ見よがしの大規模テロと、彼らにとっては無理難題とも取れる要求で掻き回したのは確かに悪手だった。それとも……何か別の要因が? これまで工作員として一度もしくじることのなかったカーペンターが、思わず足を掬われるほどのイレギュラーな事態が?
ふと視線を感じて、横目で周囲を盗み見ると、倉庫の影や屋根の上に、明らかに警察関係者と思しき人間が複数確認された。もっとも、どれだけ雁首を揃えようが渡良瀬には物の数ではない。万一の事態を見越して、わざわざ歌唱系のギフテッドを伴ってきたのだ。彼女のギフトは、耳にしたそばから全身を激痛に襲われる〝痛み〟。渡良瀬が合図をすれば、即座に彼女の独演会が始まる。
一方、十メートルほど隔てて渡良瀬と向き合う凪たちに、これという動きを見せるそぶりはない。傍らには、たったいま彼らが乗ってきたセダンタイプの車が一台。他に、例えば荷物運搬用のトラックらしきものは見えない。やはり光代の絵は、協会の倉庫に置いてきたか。……それも含めて残念だと渡良瀬は思う。てっきり彼女のアートに再会できるつもりで、内心、年甲斐もなく浮かれていたのだ。
「渡良瀬さん」
「待て」
即座の制圧を切り出そうとする部下をさりげなく諫めると、渡良瀬は一歩、かつての友人と部下の前に進み出る。
「君らがここに現れたということは、カーペンターくんは拘束された、ということかね」
「はい」
答えたのは凪だ。渡良瀬がその存在と才能を見出し、与えうる限りのアートの知識と感性とを授けた愛すべき教え子。彼と出会って間もない頃の、世界そのものに怯えきった小動物のような目を、渡良瀬は今もよく覚えている。わずか十歳そこらで大人のあらゆる醜悪さに晒された彼は、そのギフトで他者を支配下に置くことでしか安らぎを得ることができなかった。その後、どうにか懐柔し、部下として使ったが、渡良瀬以外の人間にはまず心を開こうとはしなかった。
その凪も、今や大人になり、彼自身が守りたいもののために渡良瀬と対峙している。その成長は嬉しくもあり、同時に寂しくもあるが、残念ながら今はそうした感慨に浸っている場合ではない。
「僕のギフトで支配下に置きました。今回の呼び出しも、彼に命じてやらせたものです」
「ギフト? お前の? だが、お前のギフトは確か――」
「あなたには伏せていましたが、僕の描く似顔絵は、モデル本人に対しては審美眼5以上の効果を発揮するんです。……すみません、恩人であるあなたに隠し事をしていたことは、謝ります」
そして凪は、冗談ではなく本当に済まなさそうに目を伏せる。なるほど、すっかり心を開かれたと思い込んでいたのは、どうやら渡良瀬の勘違いだったらしい。が、そこを今更責めるつもりはない。むしろ、ギフトに関する情報は、出来る限り伏せておくのがギフテッドとしての嗜みだ。……逆に言えば、ここでそれを開示したということは、今この場で全ての決着をつけるつもりでいるのだ。
「……決着、か」
何となしに渡良瀬は呟く。果たして、我々が行きつくべき決着とは何か。
「実はもう一つ、あなたに謝らなくてはならないことがあります」
「……何だ」
改めて身構えつつ問えば、凪は、一本のUSBメモリを渡良瀬に投げてよこす。それを手に取り、部下にノートパソコンに繋ぐよう命じると、間もなく部下は血相を変えて「渡良瀬さん!」と呼んだ。
「確認していただけますか、この映像を」
「映像?」
部下の手からノートパソコンを捥ぎ取り、ディスプレイを覗き込む。デスクトップに展開されたUSBフォルダ。その中にたった一つ、映像データが記録されている。そのタイトルを目にした渡良瀬は、まさか、と瞠目し、画面から凪へと目を戻した。
「どういうことだ」
「タイトルの通りです。……ブラフではありません。ご覧になればわかります」
「……」
改めてファイルに目を戻す。そこには確かに、何度読み直しても『焼却処分 不破光代作品群』と記されている。焼却処分? 光代の作品を? いや、まさか。彼女の作品は紛れもなく人類にとっての至宝だ。たとえ何千、いや何万もの人間が犠牲になろうと、これだけは保存していかなければならない、そんな。
そしてそれは、同じキュレーターである凪や高階も当然わかっているはずだ。
ところが凪も、それに隣に立つ高階も、まっすぐに、探るように渡良瀬を見据えている。まさか、そんなことがあり得るのか? 仮にもキュレーターを名乗る者たちが、人類の至宝である光代のアートを、そんな。
「あー、ちなみに撮影者は俺っす。光代さんの作品を燃やしたのも」
それまで凪の隣に黙って突っ立っていた海江田が、場違いなほど呑気な顔でのそりと会話に割り込んでくる。
「君が? じゃあなおのこと信じられんな。せいぜい審美眼5程度の君が、彼女のアートに触れて生き延びられるとは思えん」
「いや、まぁ俺も最初はそう思ったんすけどね。多分……あれじゃないすかね、俺自身、〝死〟のギフト持ちなもんで、だからこそ違和感に気づいたっつーか、なんかこう、あ、これ違くね? みたいな」
「……」
確かに、それはありうる話かもしれない。同種の自分のギフトと比べることで解像度が上がり、耐性も上がる、といったことが。……残念ながら、渡良瀬にはどう足掻いてもできない経験ではあるが。
「まぁとりあえず、動画を見てくださいよ。――いや、あんたは見なくちゃならない。そんで向き合うべきなんだ。彼女の死と、彼女のアートが遺した本当の声に」
不意にがらりと変わる表情。その気迫と佇まいに、不覚にも気圧される自分に渡良瀬は気づく。……ふざけるな、あんな若造に何がわかる。いや、俺以外の誰にもわかるはずがない。彼女のアートが宿す本当の力や、それに祈りも。
「……随分な大言壮語じゃないか。よかろう、お前のその若さに免じて、鑑賞してやろうじゃないか」
そして渡良瀬は、その動画データを展開する。そして――見る。彼が何よりも愛し、何を犠牲にしても、その美を世界に認めさせようとしたアートが、燃える。燃えている。海江田の手によって箱から暴かれ、中庭の石畳に無造作に積み上げられたキャンバスの山。そこに、仕上げとばかりにペインティングオイルが振り撒かれ、ライターで火をつけられる。――ああ、燃える。燃えている。いっそ滑稽なほど勢いよく。俺の夢。俺の、願いが。
「き、さまが」
ディスプレイから顔を上げ、海江田を睨みつける。よくも、こんな――
「貴様は、自分が何をしたのかわかっているのか! いつか人類の至宝となるはずのアートを、美の基準を、貴様は損なったのだ! それが人類にとってどれほどの損失か想像できるかァ!」
「わかってますよ。ええ、俺は間違ってる」
「――なに?」
思いがけず毅然とした答えに渡良瀬は戸惑う。正しくはその、曇りのないまっすぐな双眸に。彼の行為は、アートに対する紛れもない背信だ。が、その返答には、どれほど重い罪であれ引き受ける覚悟が感じられる。その、腹立たしいまでの潔さ。
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その言葉に渡良瀬は思わず目を剥く。同じアーティストとして、だと……?
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「少なくとも、あんたよりはわかってるつもりですよ。そもそも、あんたはギフテッドじゃない。アーティストですらない。……ただ、異様にアートへの造詣が深く、そんで、審美眼が高いってだけの単なる批評家だ」
「――っ、」
なぜこいつがそのことを。思わず凪を、次いで高階を睨むと、二人は、最初と変わらぬ静かな双眸でじっと渡良瀬を見据えている。
ああ、そうだ――胸の内で渡良瀬は呻く。
そう、彼は、ついぞアーティストにはなれなかった。若い頃こそアートの道を志し、懸命に技術を磨いていた。そんな渡良瀬の前に、ある時、彼女は稲妻のように舞い降りた。不破光代。そう、彼女との出会は、渡良瀬の運命を根本から狂わせた。やがて光代はギフテッドとして協会に保護されるが、そんな彼女を追って、渡良瀬は非ギフテッドでありながら自らその門戸を叩いた。ただ、光代という才能と共にありたい一心だった。彼女の才能がどこに向かうのか、どこに届くのか、それを最期まで見届けたくて――
「彼女はただ、創作そのものが楽しくて……そんで、その喜びを誰かと分かち合いたい、本当に、それだけの人だったんだ。他人の命を奪い取ってでも自分の表現を世界に見せびらかしたいだとか、そんなことは、何一つ望んじゃいなかったんだ」
「黙れッッ! だ……だとしても、俺は……キュレーターとしての俺は、彼女の才能を世界に認めさせたい! 不破光代というアーティストを、彼女の示す新時代の美の基準を、さもなければ、俺は――っ、」
その時、不意打ちのように渡良瀬を強烈な眩暈が襲う。さてはこちらを狙う特殊部隊に麻酔銃でも打たれたかと思ったが、すぐに、違う、と気付く。この眩暈はいつものあれだ。持病を原因とした貧血。そしてこの持病は、おそらく、二度と回復に向かうことはない。
膝をつき、その場に崩れ落ちる。辛うじて残る体力を振り絞り、部下にリサイタルを命じたその時、明らかに彼女のそれではない歌声が周囲に響き渡る。その声に渡良瀬は聞き覚えがあった。かつて、渡良瀬自身が保護した新宿の歌姫。客に暴行を受け、それをきっかけにギフトが発現し、もはや外の世界では生きられなくなった憐れな籠の鳥。
その籠の鳥が、かつての哀れさが嘘のように朗々と、美しい歌声を響かせる。
「――っ、あ」
その場にしゃがみ込み、ひいい、と悲鳴を上げながら怯えたように周囲を見回す部下たち。どうやら高階のギフトにかかってしまったらしい。さすがに渡良瀬は、今更彼女のギフトにかかることはないが、それでも持病由来の眩暈は収まらない。どころか今度は、薬で鎮めたはずの痛みすらぶり返してくる。
こんなところで。何一つ、願いを果たせないままで――
――彼女はただ、創作そのものが楽しくて。
――その喜びを、誰かと分かち合いたい。
「……っ」
ああ、そうだ。
最後まで、彼女は何も求めなかった。……いや違う、本当は気づいていたのだ。彼女が、創ることの喜びを誰かと分かち合いたかったこと。だが、すでにアーティストの道を捨てた渡良瀬には、その喜びを彼女に与えることができなかった。
結局、俺は何一つ差し出すことができなかった。何も、何も……
深い自省に陥る渡良瀬の脳裏をよぎる、古くも懐かしい記憶。ああ、なぜ俺はあの時、力尽きた君を抱き止めてやらなかったのだろう。だがこれも、渡良瀬は本当の理由に気付いている。要するに最後まで、不破光代という一人の人間に向き合うことができなかったのだ。
高階の合図とともに、あらかじめ待機していた捜査員たちが物陰から次々と現れる。彼らは、今回のようなギフテッド案件を含む機密性の高い捜査を担う公安の職員たちで、半年前、海江田のグラフティが世間を騒がせた時にも随分と世話になっている。
彼らは渡良瀬とその身柄を確保すると、さっそく覆面パトカーに押し込み、どこかへ――おそらくは本庁へと出発していった。その、次第に遠ざかるパトカーの後姿を見送りながら、終わったんだな、と凪は思う。
凪を地獄から救い出し、新たな人生を授けてくれた人。そのことに、凪は今でも深く感謝している。ただ、それはそれとして、やはりあの人の理想は、凪のそれと相容れるものではなかった。
「お疲れさまでした。……面倒をかけましたね、海江田くん」
すると、それまで険しい眼差しでパトカーを見送っていた海江田は、大人びた表情を一転、ころんと子犬じみた顔で振り返る。
「いいんすよ。てかむしろ、俺なんかが言い返して良かったのかなって。どう見てもポッと出の部外者でしょ、俺。どうせなら高階さんとか嶋野さんがガツンと言ったほうが、なんつーか、締まったんじゃないすかね」
「そんなことはありませんよ。少なくとも君は部外者じゃない。彼女のアートに触れ、その願いを汲み取り、渡良瀬さんに伝えた君は、紛れもなく今回の一件の功労者です」
そう言って凪が笑いかけると、海江田はどこか照れくさそうに微笑む。と、その笑みが不意に失せ、今度は痛ましげに渡良瀬に目を向ける。
「あと……やっぱあの人、癌、だと思いますよ。それも……末期の」
「やはり……そうですか」
「はい。あ、いや、俺は医師じゃないんで、勝手な診断はできないんすけど、ただ……実家の病院で、ああいう感じの患者さん、たくさん見てきてるんで……」
気まずそうに言葉を選びながら紡ぐ海江田に、わかってます、と目顔で伝える。
半年前、久しぶりに渡良瀬と再会した時から薄々感じていた違和感。確かに、元からスレンダーな人ではあったが、二年ぶりに再会した渡良瀬は、単にスレンダーというだけでは片付かない異様な細り方をしていた。先日の襲撃時、さらに肉が削げ落ちた渡良瀬を目の当たりにした凪は、いよいよ疑念を深めずにはいられなかった。渡良瀬は、明らかに何らかの病気に侵されている――
「おそらく……あの人が焦っていたのはそのせいでしょう。今回のテロも、これまでのあの人の手口に照らすなら、あまりにも性急かつ乱暴すぎた。本来、あなたという、計画に必要なはずのピースを欠いたまま強引に実行に移ったことも、今にして思えば妙だったんです。……そうですか、やはり」
「寂しい、ですか」
「えっ」
意外な指摘に、凪はつい驚いた声を漏らす。見ると海江田は、どこか気の毒そうな、詫びるような目で凪を見つめている。彼はただ、渡良瀬の異変を指摘しただけ。気に病む必要などないのだ。なのに。
「まぁ、寂しくないといえば、嘘になります。ただ……子供とは、いつか親元を離れゆくものです」
そう、これは必要な別れなのだ。あるいは、そう巣立ち。
「あなたと一緒ですよ」
ぎこちない、でも精一杯の笑みとともに凪は告げる。すると海江田は、一瞬、何か強い痛みを堪えるような顔をし――それから、今度はその痛みを押し殺すように笑んだ。
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主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ゾンビ発生が台風並みの扱いで報道される中、ニートの俺は普通にゾンビ倒して普通に生活する
黄札
ホラー
朝、何気なくテレビを付けると流れる天気予報。お馴染みの花粉や紫外線情報も流してくれるのはありがたいことだが……ゾンビ発生注意報?……いやいや、それも普通よ。いつものこと。
だが、お気に入りのアニメを見ようとしたところ、母親から買い物に行ってくれという電話がかかってきた。
どうする俺? 今、ゾンビ発生してるんですけど? 注意報、発令されてるんですけど??
ニートである立場上、断れずしぶしぶ重い腰を上げ外へ出る事に──
家でアニメを見ていても、同人誌を売りに行っても、バイトへ出ても、ゾンビに襲われる主人公。
何で俺ばかりこんな目に……嘆きつつもだんだん耐性ができてくる。
しまいには、サバゲーフィールドにゾンビを放って遊んだり、ゾンビ災害ボランティアにまで参加する始末。
友人はゾンビをペットにし、効率よくゾンビを倒すためエアガンを改造する。
ゾンビのいることが日常となった世界で、当たり前のようにゾンビと戦う日常的ゾンビアクション。ノベルアッププラス、ツギクル、小説家になろうでも公開中。
表紙絵は姫嶋ヤシコさんからいただきました、
©2020黄札
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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