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2章
39話 キュレーター②
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「えっ!? ……嶋野さんの、サポート?」
「いわゆる見習い期間、というやつですね。――不満ですか?」
「い……いえ、いえっ! むしろ……めちゃくちゃ嬉しい、っていうか」
自分が犬なら、きっと今頃、馬鹿みたいに尻尾を振っているんだろうなと漣は思う。いきなり一人で任務に出されることはないだろうとは思っていたが、まさか、嶋野と一緒に行動できるなんて。
すると嶋野は、なぜか困ったように苦笑する。照れ笑いかなと期待もしたが、そうではないらしい。
「では、行きましょうか」
促すと、嶋野はさっさと踵を返して部屋の外に向かう。その背中を慌てて追いかけようとして、漣は、そういえば、と足を止め、高階の方を振り返る。
「なぁに?」
「あ、いえ、所長の歌、なんすけど……」
漣が受けた審美眼5のテストで、声楽の実技担当は例によって彼女だった。噂どおり、いや、それ以上のギフトの威力に、ほとんどの受験生は試験中に気を失ってしまった。東京藝大でスカウトを受け、協会に入ったという声楽出身の非ギフテッドの職員ですらそうだったのだから、やはり過酷な試験ではあったのだろう。
かくいう漣も、途中、何度も気を失いかけた。ただ、恐怖を堪え、冷静に耳を傾けるうちに、その底に流れる全く別の響きに漣は気づいた。
「いやー、俺、すっかり聞き入っちゃいました。凄いっす。マジ、最後まで動けなくて」
すると高階は、一瞬驚いたように目を見開き、それから、軽く肩をすくめる。
「あら、そう。それは何よりだったわね」
そんな高階に笑みを返すと、漣は足早に嶋野を追いかける。と、戸口の外で待っていた嶋野が、なぜか面白そうに笑んできた。
「わかったんですね。彼女のギフトの正体」
「はい」
嶋野に並んで歩き出しながら、漣は頷く。
「怖がってたのは、高階さんの方だったんすね」
「そう。あれは、彼女自身の恐怖なのです。とにかく彼女は、観客を強く恐怖している。それも、舞台のプレッシャーといったよくある話ではなく、もっと即物的な恐怖です。おそらく……ギフトが発現する以前、実際に観客の襲撃を受けるなどしたのでしょう。彼女のプライベートを踏み躙る恐れがあるので、詳しい事情を追究したことはありませんが」
「そう、だったんすね、やっぱり」
高階の歌声に通奏低音として含まれていたもの、それは、彼女自身の恐怖だった。舞台の上は、ある意味、恐ろしく無防備な場所だ。大勢の、名も知らない人間の目に晒され、時には悪意にも晒される。そうした場でどうにか身の安全を確保するには、自分が舞台に立つ間だけは何としても観客を遠ざける必要がある。少なくとも、その場に釘付けにする必要が。
エレベーターに乗り込み、地下一階に向かうボタンを押す。
「まさか、読んでませんよね。渡良瀬さんの論文」
「えっ? ……え、ええ」
唐突な、しかも突拍子もない問いに漣は面食らう。やはり、あったのか。少なくとも漣が協会の文書リストを探したときは、そんなものは一つも見つからなかった。渡良瀬の出奔とともに破棄されるか封印されるかしたのだろうとは思っていたが、今の嶋野の口ぶりから察するに、どこかに残ってはいるのだろう。となると、やはり封印されたか。
だとしても……どうして今、この流れでその話を?
「あの、渡良瀬の論文が何か」
すると嶋野は、何事もなかったように階数表示の液晶画面に向き直る。
「いえ……すみません、忘れてください」
地下一階に到着すると、さっそく嶋野に例のチョーカーを差し出された。
「今日の行動予定は、すでにオペレーターに申告していますのでこのまま外に出ても大丈夫です」
言いながら嶋野は、例のチョーカーを漣に差し出してくる。スマートウォッチのベルトだけ長くしたようなスレンダーなデザイン。すでに何度もツアーで外出し、そのたびに首に装着させられるが、本当にこんなものに人の命を刈り取るほどの力が秘められているのか、と、恐怖よりは皮肉な気分を覚える。……が、それを言えば漣の絵に至っては、ただ鑑賞した、というだけで死に至らしめるのだ。理不尽さで言えば、むしろ漣の絵こそ相当だ。
ふと視線に気づいて顔を上げる。嶋野が、じっと漣の首元を見つめている。ちゃんとチョーカーを嵌めているか、責任者としてチェックしているのかもしれない。と、その目が漣の視線を捉え、今度はふ、と笑む。……なぜだろう、ものすごく、照れくさい。
「な、何すか」
「あ、いえ。……半年前のことを思い出していたんです。あの夜、君は、失ったこれまでの人生の大きさに慄き、自分が背負う罪の重さに途方に暮れていました。それが今は、見違えるように逞しい」
「えっ……ていうかそれ、全部、嶋野さんのおかげなんすけど」
「僕の?」
「はい。嶋野さんが俺に示してくれたんですよ。これからどう生きればいいのか、どう償えばいいのか、何もわからなかった俺に、全部、嶋野さんが示してくれた」
すると嶋野は、なぜか寂しそうに目を伏せる。
「それは……言ったでしょう。人間としての僕は、信用しないでくださいと」
踵を返すと、背中越しに「さ、行きますよ」と漣を促す。その、どこか所在なげな背中に、漣は黙って従った。
「いわゆる見習い期間、というやつですね。――不満ですか?」
「い……いえ、いえっ! むしろ……めちゃくちゃ嬉しい、っていうか」
自分が犬なら、きっと今頃、馬鹿みたいに尻尾を振っているんだろうなと漣は思う。いきなり一人で任務に出されることはないだろうとは思っていたが、まさか、嶋野と一緒に行動できるなんて。
すると嶋野は、なぜか困ったように苦笑する。照れ笑いかなと期待もしたが、そうではないらしい。
「では、行きましょうか」
促すと、嶋野はさっさと踵を返して部屋の外に向かう。その背中を慌てて追いかけようとして、漣は、そういえば、と足を止め、高階の方を振り返る。
「なぁに?」
「あ、いえ、所長の歌、なんすけど……」
漣が受けた審美眼5のテストで、声楽の実技担当は例によって彼女だった。噂どおり、いや、それ以上のギフトの威力に、ほとんどの受験生は試験中に気を失ってしまった。東京藝大でスカウトを受け、協会に入ったという声楽出身の非ギフテッドの職員ですらそうだったのだから、やはり過酷な試験ではあったのだろう。
かくいう漣も、途中、何度も気を失いかけた。ただ、恐怖を堪え、冷静に耳を傾けるうちに、その底に流れる全く別の響きに漣は気づいた。
「いやー、俺、すっかり聞き入っちゃいました。凄いっす。マジ、最後まで動けなくて」
すると高階は、一瞬驚いたように目を見開き、それから、軽く肩をすくめる。
「あら、そう。それは何よりだったわね」
そんな高階に笑みを返すと、漣は足早に嶋野を追いかける。と、戸口の外で待っていた嶋野が、なぜか面白そうに笑んできた。
「わかったんですね。彼女のギフトの正体」
「はい」
嶋野に並んで歩き出しながら、漣は頷く。
「怖がってたのは、高階さんの方だったんすね」
「そう。あれは、彼女自身の恐怖なのです。とにかく彼女は、観客を強く恐怖している。それも、舞台のプレッシャーといったよくある話ではなく、もっと即物的な恐怖です。おそらく……ギフトが発現する以前、実際に観客の襲撃を受けるなどしたのでしょう。彼女のプライベートを踏み躙る恐れがあるので、詳しい事情を追究したことはありませんが」
「そう、だったんすね、やっぱり」
高階の歌声に通奏低音として含まれていたもの、それは、彼女自身の恐怖だった。舞台の上は、ある意味、恐ろしく無防備な場所だ。大勢の、名も知らない人間の目に晒され、時には悪意にも晒される。そうした場でどうにか身の安全を確保するには、自分が舞台に立つ間だけは何としても観客を遠ざける必要がある。少なくとも、その場に釘付けにする必要が。
エレベーターに乗り込み、地下一階に向かうボタンを押す。
「まさか、読んでませんよね。渡良瀬さんの論文」
「えっ? ……え、ええ」
唐突な、しかも突拍子もない問いに漣は面食らう。やはり、あったのか。少なくとも漣が協会の文書リストを探したときは、そんなものは一つも見つからなかった。渡良瀬の出奔とともに破棄されるか封印されるかしたのだろうとは思っていたが、今の嶋野の口ぶりから察するに、どこかに残ってはいるのだろう。となると、やはり封印されたか。
だとしても……どうして今、この流れでその話を?
「あの、渡良瀬の論文が何か」
すると嶋野は、何事もなかったように階数表示の液晶画面に向き直る。
「いえ……すみません、忘れてください」
地下一階に到着すると、さっそく嶋野に例のチョーカーを差し出された。
「今日の行動予定は、すでにオペレーターに申告していますのでこのまま外に出ても大丈夫です」
言いながら嶋野は、例のチョーカーを漣に差し出してくる。スマートウォッチのベルトだけ長くしたようなスレンダーなデザイン。すでに何度もツアーで外出し、そのたびに首に装着させられるが、本当にこんなものに人の命を刈り取るほどの力が秘められているのか、と、恐怖よりは皮肉な気分を覚える。……が、それを言えば漣の絵に至っては、ただ鑑賞した、というだけで死に至らしめるのだ。理不尽さで言えば、むしろ漣の絵こそ相当だ。
ふと視線に気づいて顔を上げる。嶋野が、じっと漣の首元を見つめている。ちゃんとチョーカーを嵌めているか、責任者としてチェックしているのかもしれない。と、その目が漣の視線を捉え、今度はふ、と笑む。……なぜだろう、ものすごく、照れくさい。
「な、何すか」
「あ、いえ。……半年前のことを思い出していたんです。あの夜、君は、失ったこれまでの人生の大きさに慄き、自分が背負う罪の重さに途方に暮れていました。それが今は、見違えるように逞しい」
「えっ……ていうかそれ、全部、嶋野さんのおかげなんすけど」
「僕の?」
「はい。嶋野さんが俺に示してくれたんですよ。これからどう生きればいいのか、どう償えばいいのか、何もわからなかった俺に、全部、嶋野さんが示してくれた」
すると嶋野は、なぜか寂しそうに目を伏せる。
「それは……言ったでしょう。人間としての僕は、信用しないでくださいと」
踵を返すと、背中越しに「さ、行きますよ」と漣を促す。その、どこか所在なげな背中に、漣は黙って従った。
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