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2章
40話 さいしょのおしごと
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いつぞやと同じく嶋野の車に乗り込み、まず二人が向かったのは練馬にある区美術館だ。
「そこの展示室で、現在、アマチュア画家を中心にしたグループの展覧会が開かれているんです」
ハンドルを操りながら、そう嶋野は語る。
「はぁ。てか……電車移動じゃないんすね」
正直に言うと、久しぶりに乗る電車を楽しみにしていたのだ。昔は毎日のように通勤ラッシュに揉まれながら大学に通っていたのに。……むしろ、だからこそ惜しかったのかも。失われた日常を追体験する機会が。
「ええ。すみません。当面はこれで」
車は目白通りをスムーズに西進し、三十分ほどで目的地に到着する。
練馬区立美術館は、区の美術館というわりに、なかなか立派な建物だ。敷地内のコインパーキングに車を停め、さっそく中に入る。入場料はかからない代わりに展示室の入り口で記帳を求められ、そこに、キュレーターになるに当たって支給された偽の名前を書きこむ。山中健太郎、って誰だそれ。つい噴き出したくなり、しかし、隣で同じく全くの別名を書きこむ竹上聡、もとい嶋野は何食わぬ顔でペンを動かしている。そうだよな、笑っちゃ駄目だよな。でも、秘密組織に属しているんだなというワクワク感だけはどうしても否めない。
展示室はなかなかの広さで、その四隅の壁に、大きさも描法もモチーフも、それに作家もまちまちの油彩画が無造作に並んでいる。
「こういう場所で、ギフテッドが見つかったりするんすか」
以前、高階から、嶋野はよくこういったマイナーな場所でギフテッド探しをしていると聞かされたことがあった。小さな個展や展覧会、果てはフリーマーケットでもギフテッド探しをしている、と。
「ええ。といっても、こうした場所で見つかるのは年に数人程度です。民間企業ならまずクビですね」
そうは言いながら、フロアの奥に進む嶋野は楽しそうだ。
「じゃ、君はそっちの列を」
「は、はい」
指示を受け、さっそく嶋野とは反対側の壁に並ぶ作品のチェックを始める。作品の多くは油彩画だが、モチーフは風景画、人物画、静物画と本当にまちまちだ。それに……こう言っては失礼だが、全体的に、上手い、とはお世辞にも言えない。当然、ギフトをそなえた作品など見つからず、目が虚しく滑るうちにあっという間に壁の一面分を見終わってしまう。
見ると、嶋野はまだ受け持ちの壁にある作品を眺めている。しかも、まだ半分ほど残して。……正直、作品のレベル的には漣が受け持った列と大差はない。何が面白くてそう熱心に眺めているのか。背後からそっと歩み寄ると、嶋野は、今まさに一枚の風景画にじっと見入っている。
「ひょっとして、新しいギフト……?」
すると嶋野は我に返ったように振り返り、それから、照れくさそうに苦笑いをする。
「あ……いえ、この空の色がきれいだなと」
「空?」
「ええ。タイトルは『春の夜明け』、とありますが、実際、大気に湿度と粉塵を含んだ春の空ならではの柔らかな色彩が、じつによく表現されています。コーラルをベースに、青や緑、黄色とさまざまな色彩を点描で乗せたタッチが功を奏していますね」
「えっ、ああ……そっすね」
「それと、構図や空気遠近法を駆使した奥行きの表現が素晴らしい。春の朝の柔らかな空気を、鑑賞者と共有したい、という気持ちがキャンバスから伝わってきます」
キャンバスを見つめながら、そう、しみじみ呟く嶋野は心底楽しそうで、漣は、白けた気分でさっさとチェックを終えた自分を密かに反省する。そうだ、それぞれのキャンバスに込められた気持ちや願いは、かつて漣が壁の落書きに込めたそれと変わらない。
どこかの名も知らぬ誰かが、やはり名も知らぬ誰かに届いてほしいと絵筆を手に取り、キャンバスに託したイメージや願い。それを、一つでも多く拾い上げようと手を伸ばす嶋野。彼が忙しく外を飛び回るのは、そんな声を一つでも多く拾い上げるため、なのかもしれない。
「ほんと……好きなんすね。絵を見るのが」
「ええ。アートがなければ、こんな世界に生きる価値などありません」
「えっ」
どういう意味だ。ところが、すでに嶋野は次の絵に集中していて、漣は質問の機会を逸してしまう。そんな漣の耳にはしかし、今なお嶋野の言葉が――その底冷たい響きがはっきりと残っていた。
――こんな世界に生きる価値などありません。
気を取り直し、今度は楽しむつもりで作品を見直してみる。と、一つ一つの絵に仕込まれた工夫や意図がすんなり入ってくる。構図や色彩の工夫。下地にした過去の表現と、そこに積み上げた本人なりの新しい表現。作者がその一枚にこめた時間や手間暇、愛情。――それらの情報が、茫漠とした塊ではなく、腑分けされ料理されて頭の中に整然と並んでゆく。漣自身が学んだ知識によって。
「視える、でしょう」
不意に内心を見透かされ、漣はぎくりとなる。
「えっ、ええと……はい」
「一説によると、ギフトとは高度に圧縮された情報を指すそうです。キャンバスに落とされた絵具の一滴すら、ギフテッドのそれは自ずと高密度の情報を纏ってしまう。いわば圧縮ファイルのようなものですね。しかし、高度に圧縮されているということは、元は巨大なデータだったということ。それに応じた処理能力がなければフリーズしてしまう。その処理能力を、我々は審美眼と呼び、また情報の圧縮度を鑑賞レベルという名で表現している。アートの理論を学ぶことで審美眼が上がるのは、そういう仕組みだとされています」
「ああ、だから、ギフテッドでなくてもキュレーターにはなれるんすね」
実際、協会には非ギフテッドのキュレーターも数多く所属している。
「ええ、ギフテッドであるか否かは、審美眼とは何のかかわりもありません。……逆に言えば、全ての人間は審美眼を鍛えさえすれば、ギフトの恩恵を正しく受けることができるのです。あくまでも理論上は、ですが」
「そこの展示室で、現在、アマチュア画家を中心にしたグループの展覧会が開かれているんです」
ハンドルを操りながら、そう嶋野は語る。
「はぁ。てか……電車移動じゃないんすね」
正直に言うと、久しぶりに乗る電車を楽しみにしていたのだ。昔は毎日のように通勤ラッシュに揉まれながら大学に通っていたのに。……むしろ、だからこそ惜しかったのかも。失われた日常を追体験する機会が。
「ええ。すみません。当面はこれで」
車は目白通りをスムーズに西進し、三十分ほどで目的地に到着する。
練馬区立美術館は、区の美術館というわりに、なかなか立派な建物だ。敷地内のコインパーキングに車を停め、さっそく中に入る。入場料はかからない代わりに展示室の入り口で記帳を求められ、そこに、キュレーターになるに当たって支給された偽の名前を書きこむ。山中健太郎、って誰だそれ。つい噴き出したくなり、しかし、隣で同じく全くの別名を書きこむ竹上聡、もとい嶋野は何食わぬ顔でペンを動かしている。そうだよな、笑っちゃ駄目だよな。でも、秘密組織に属しているんだなというワクワク感だけはどうしても否めない。
展示室はなかなかの広さで、その四隅の壁に、大きさも描法もモチーフも、それに作家もまちまちの油彩画が無造作に並んでいる。
「こういう場所で、ギフテッドが見つかったりするんすか」
以前、高階から、嶋野はよくこういったマイナーな場所でギフテッド探しをしていると聞かされたことがあった。小さな個展や展覧会、果てはフリーマーケットでもギフテッド探しをしている、と。
「ええ。といっても、こうした場所で見つかるのは年に数人程度です。民間企業ならまずクビですね」
そうは言いながら、フロアの奥に進む嶋野は楽しそうだ。
「じゃ、君はそっちの列を」
「は、はい」
指示を受け、さっそく嶋野とは反対側の壁に並ぶ作品のチェックを始める。作品の多くは油彩画だが、モチーフは風景画、人物画、静物画と本当にまちまちだ。それに……こう言っては失礼だが、全体的に、上手い、とはお世辞にも言えない。当然、ギフトをそなえた作品など見つからず、目が虚しく滑るうちにあっという間に壁の一面分を見終わってしまう。
見ると、嶋野はまだ受け持ちの壁にある作品を眺めている。しかも、まだ半分ほど残して。……正直、作品のレベル的には漣が受け持った列と大差はない。何が面白くてそう熱心に眺めているのか。背後からそっと歩み寄ると、嶋野は、今まさに一枚の風景画にじっと見入っている。
「ひょっとして、新しいギフト……?」
すると嶋野は我に返ったように振り返り、それから、照れくさそうに苦笑いをする。
「あ……いえ、この空の色がきれいだなと」
「空?」
「ええ。タイトルは『春の夜明け』、とありますが、実際、大気に湿度と粉塵を含んだ春の空ならではの柔らかな色彩が、じつによく表現されています。コーラルをベースに、青や緑、黄色とさまざまな色彩を点描で乗せたタッチが功を奏していますね」
「えっ、ああ……そっすね」
「それと、構図や空気遠近法を駆使した奥行きの表現が素晴らしい。春の朝の柔らかな空気を、鑑賞者と共有したい、という気持ちがキャンバスから伝わってきます」
キャンバスを見つめながら、そう、しみじみ呟く嶋野は心底楽しそうで、漣は、白けた気分でさっさとチェックを終えた自分を密かに反省する。そうだ、それぞれのキャンバスに込められた気持ちや願いは、かつて漣が壁の落書きに込めたそれと変わらない。
どこかの名も知らぬ誰かが、やはり名も知らぬ誰かに届いてほしいと絵筆を手に取り、キャンバスに託したイメージや願い。それを、一つでも多く拾い上げようと手を伸ばす嶋野。彼が忙しく外を飛び回るのは、そんな声を一つでも多く拾い上げるため、なのかもしれない。
「ほんと……好きなんすね。絵を見るのが」
「ええ。アートがなければ、こんな世界に生きる価値などありません」
「えっ」
どういう意味だ。ところが、すでに嶋野は次の絵に集中していて、漣は質問の機会を逸してしまう。そんな漣の耳にはしかし、今なお嶋野の言葉が――その底冷たい響きがはっきりと残っていた。
――こんな世界に生きる価値などありません。
気を取り直し、今度は楽しむつもりで作品を見直してみる。と、一つ一つの絵に仕込まれた工夫や意図がすんなり入ってくる。構図や色彩の工夫。下地にした過去の表現と、そこに積み上げた本人なりの新しい表現。作者がその一枚にこめた時間や手間暇、愛情。――それらの情報が、茫漠とした塊ではなく、腑分けされ料理されて頭の中に整然と並んでゆく。漣自身が学んだ知識によって。
「視える、でしょう」
不意に内心を見透かされ、漣はぎくりとなる。
「えっ、ええと……はい」
「一説によると、ギフトとは高度に圧縮された情報を指すそうです。キャンバスに落とされた絵具の一滴すら、ギフテッドのそれは自ずと高密度の情報を纏ってしまう。いわば圧縮ファイルのようなものですね。しかし、高度に圧縮されているということは、元は巨大なデータだったということ。それに応じた処理能力がなければフリーズしてしまう。その処理能力を、我々は審美眼と呼び、また情報の圧縮度を鑑賞レベルという名で表現している。アートの理論を学ぶことで審美眼が上がるのは、そういう仕組みだとされています」
「ああ、だから、ギフテッドでなくてもキュレーターにはなれるんすね」
実際、協会には非ギフテッドのキュレーターも数多く所属している。
「ええ、ギフテッドであるか否かは、審美眼とは何のかかわりもありません。……逆に言えば、全ての人間は審美眼を鍛えさえすれば、ギフトの恩恵を正しく受けることができるのです。あくまでも理論上は、ですが」
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