ギフテッド

路地裏乃猫

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2章

32話 信頼のバランス③

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「……え?」

「僕を憎みたくなかった、ということは、裏を返せば僕の行為が君にとって憎悪するに足るものだった。だからこそ君は、僕に納得できる説明を求めた。……でしょう?」

「……」

 ああ、そうだ。

 瑠香たちに話を聞いた時から――否、美術館で三原に田柄の話を聞かされた時から、胸の底にくすぶり続けた黒いもやつき。その正体が、ようやく漣の中で形を得る。……そうだ。本当は、納得なんかできていなかった。もっとも、怒りの対象は嶋野ではない。協会、ひいては、あまりにも厳格にギフトを封じ込めるこの世界そのもの。

 確かに、封じ込めるべき危険なギフトは存在する。漣のギフトはその最たる例だろう。だが、瑠香のギフトはそうじゃない。少なくとも……一時は田柄を救ったのだ。

「憎いのは、嶋野さんじゃない。……どうしてギフトは封じられなきゃいけないんです。確かに、ギフトの危険性は承知しています。俺のもそうですけど、嶋野さんのだって、使い方次第じゃ本当に危険だって……でも、そうじゃないギフトだってあるんです。無害だったり、誰かの役に立てるものだったり……少なくとも瑠香さんの〝克服〟は、一時的にせよ田柄さんを救った。そういう、世界との共存の仕方だって、あるんじゃないですか」

 いつも口癖のように、世界との繋がりを愛おしむ瑠香の寂しげな横顔を思い出す。こんなルールがなければ、瑠香の人生はもっと満たされていた。多くの人にギフトを愛され、求められて。なのに……

「せめて……ポジティブなギフトだけは、規制を緩くしてもいいんじゃないですか。少なくとも、瑠香さんのギフトは、誰かを幸せにできるギフトです。そういうギフトに限って隔離せず社会に還元すれば、より多くの人が幸せになれる。……いえ、わかってます。これも、例外を作ると駄目なんですよね。というか……何がポジティブで何がネガティブかなんて、どうやって線引きするんだって話で」

「ええ。だからこそ現状、協会では、ギフテッドは例外なく保護する方針を取っています。ただ……それも決して一枚岩ではないのです。実のところ、ギフトの効果を積極的に社会に還元すべきだと主張する派閥も存在します」

「渡良瀬……って人ですか」

 嶋野の声には確かに、誰かを懐かしむ響きがあった。見ると嶋野は、サンドイッチを運ぶ手を止めたまま、切れ長の目を見開いてじっと漣を見つめている。……どうやら図星だったようだ。

「その名前を、誰に」

「えっ? ……あ、ああ、三原さんが。あ、でも雑談のついでにポロッと出ただけで、詳しいことは何も……」

 本当は、嶋野とは親子のような関係だったと聞いているが、二人の過去に何があったかわからない以上、あまり無神経なことは言えない。

 気まずい沈黙がテーブルを包む。見ると嶋野は、見たことがないほど深刻な顔で何かを考え込んでいる。いや、これは……迷っているのか。

 やがて嶋野は、迷いを振り切るように短く溜息をつく。

「え……ええ。彼は、ここの前の所長でして、そして……僕を、ギフテッドとして保護してくださった方です。僕は……あの人に憧れて、キュレーターの仕事に就きました」

 言いにくそうに、それでもどうにか言葉を紡ぐ嶋野はひどく痛々しい。やはり二人の間には、何か、第三者が迂闊に踏み入るべきでない過去があるのかもしれない……

 わかっている。でも。

「じゃあどうして、嶋野さんは協会に残ったんですか」

 すると嶋野は、それを聞くのかと言いたげに苦い顔をする。……わかっている。それでも聞かずにはいられないのだ。漣は、嶋野のことを何も知らない。どんな人間で、どんな過去を持ち、どんなことに喜びや悲しみを見出すのか。どんな傷を負い、どんな葛藤を経てここにいるのか。

 憧れたはずの渡良瀬と別れ、なぜ一人、協会に留まったのか。スパイとしてか。それとも、彼なりの信念があったのか。
 
「あの人は現在、テロリストとして国際手配がなされています」

「――は?」

 テロリスト。その、思いがけない単語に漣が面食らっていると、さらに嶋野は続ける。怖いほど色のない、淡々とした語り口だった。

「あの人は所長時代から、社会とギフテッドとの間に設けられた壁を取り払い、共存させてゆくべきだと主張していました。それこそが、人類のあるべき未来の姿だと。……結果、本部の指示により更迭され、ここ日本支部は、現在の高階さんを中心とする体制へと移行しました」

「で……渡良瀬とそのシンパは協会を飛び出した、と?」

「ええ。しかも厄介なことに、彼らは未だにギフトを温存している。通常、ギフテッドが協会を辞める際には、手術によってギフトを手放す必要があります。……ところが、あの人は所長の椅子を去る間際、施設のサーバーにウイルスを仕込みました。協会にアクセス権を返上した後でも、バックドアからサーバーに侵入し、データを改竄できるウイルスをです。そうして彼はデータを不正に改竄し、架空の非ギフテッド職員のIDを複数偽造しました」

「なるほど。つまり、そのIDを使って……?」

「はい。ご存じのように非ギフテッドの職員は、外出の際にあんな物騒なものを装着する必要はありませんから」

 ここでいう物騒なものとは、例のチョーカーを指しているのだろう。爆弾つきの。

 嶋野はコーヒーカップを手に取ると、一口啜り、ふう、と重い溜息をつく。何とも不味そうな飲み方だが、こんな話題が肴では、どんなに美味いコーヒーも味わうどころではないだろう。まして……嶋野にしてみれば、おそらく最も触れてほしくない過去の一つなのだ。

 その証拠に嶋野は、未だに質問の答えを避けている。

「あの……さっきの質問ですが、その、答えたくなければ、もう、」

 すると嶋野は、一瞬、痛みを堪えるように顔を顰め、それから無理やり口角を吊り上げる。どうやら笑おうとしているらしい。でも、残念ながら全く笑えていない。……こんな時ぐらい、無理に笑わなくてもいいのに。

「いいんです。せっかくここまで話したんですし。……ええ、理由は単純です。確かに、あの人の掲げる理想は美しかった。ギフテッドと非ギフテッドの間に何の垣根も設けない世界。問題はその方法です。あの人は、ギフトを――アートをテロに用いることを厭わなかった」

「はぁ……えっ、ちょっと待ってください。垣根を取っ払うために、テロなんか起こしたらむしろ逆効果じゃないですか」

 例えば、漣のギフトの被害者やその遺族が、壁の落書きのせいであんな目に遭ったと知れば、もう二度と、落書きを目に入れようとはしないだろう、ともすれば絵画そのものを恐れるようになるかもしれない。

「ええ。だからこそ僕は協会に残った。これが、先程の質問の答えです。――ご存じのように、僕はとても冷たい人間です。田柄さんが亡くなった時も、僕を慕ってくれた彼女のために、僕は、涙ひとつ流すことができなかった。ただ、そんな僕にも守りたいものはある。人とアートとの関係がそれです」

 残りのコーヒーをくっと飲み干すと、嶋野はまたぎこちなく笑う。

「今のところ僕は、あの時の選択を後悔していません。あのまま渡良瀬さんに従っていたら、今頃、多くのテロ事件に関わることになっていたでしょう。実際、公表こそされていませんが、すでに国内外で何十件ものテロが彼の主導で引き起こされています」

「テロ……ギフトを使った?」

「はい。表向きは事故として処理されていますが、いずれもギフトの存在を隠蔽するための措置にすぎません。例えば先週、ニューヨークのホテルで乱闘騒ぎが起きたでしょう。あれも調査の結果、ホテルのロビーに飾られたギフテッドの作品が原因だったことが判明しています。ギフトは〝怒り〟。効果は三原さんのそれと同様ですが、あちらは絵画でした。しかも、鑑賞レベルは5」

「5……って、んなの、」

「ええ。キュレーターでもない限り、まず抗えない。そうしたテロを、あの人はこれまで世界各地で引き起こし、なお繰り返そうとしている」

 俯く嶋野は、怒りよりは悲しみの方が色濃く見えた。慕っていたはずの人間が、自分の信念とは真逆の行為に手を染めている。漣も、もし嶋野がそんな奴と共謀し、あまつさえテロで人々を傷つけていたら、胸が潰れるほど辛い思いを強いられていただろう。

「だから……瑠香さんの作品を回収したんですね。瑠香さんの行為を許すと、渡良瀬って人のことも許したことになる」

 すると嶋野は、一瞬はっと目を見開き、それから、長い睫毛を静かに伏せる。その表情は、何か強い痛みを堪えているようにも見えた。人間としての僕を信じるな――そう嶋野は言った。僕は冷たい人間だ、と。でも今、この人は確かに傷ついて、その痛みに苦しんでいる。

 心がない、だなんて嘘だ。

「俺は、支持します。何があろうと……誰に何と言われようと、嶋野さんを」

「えっ」

 はっと顔を上げると、嶋野は驚いた目で漣を見つめる。やがてぎこちなく笑むも、結局うまく笑みを作れずに、どこか気まずそうに目を伏せる。

「あの夜の返礼のつもりなら……そんな気遣いは要りません。さっきも言ったように、そもそも僕には――」

「それは俺が決めることです。そして俺は、嶋野さんを信じたい」

 返答は、なかった。ただ嶋野は、呆然と漣を見つめる。一方、言いたいことを言い切ってしまった漣は、とりあえず残りのカレーを黙々と胃袋に収めた。そうして漣が皿を空にした頃、不意に嶋野は席を立つと、テーブルを回り込み、漣の背後に立つ。そして――

「えっ?」

 またしても不意に、嶋野は漣の肩に腕を回し、頭頂部に鼻先を埋めてくる。つむじに触れる嶋野の吐息。安堵とも悲しみの吐露ともつかない溜息に、なぜか漣はどきりとなる。確かに……心を開いてほしいとは思ったが、まさか、こんなかたちで。

「あ、あの、なにを」

「すみません、しばらく、このままで」

 呟くと、嶋野は漣を抱きしめる腕にぐっと力を込める。前回も嶋野に抱きつかれたが、あの時のそれは、くずおれそうな漣を支えるための腕だった。……でも今回は、むしろ漣の方が嶋野に縋られている感がある。枝先をほんのひととき、気紛れな小鳥に雨宿りで拝借されるような。

 世界と繋がるって、こういうことかな。

 ふと、普段の瑠香の口癖を思い出す。世界との繋がり。それは別にギフテッドだとかアートの在り方だとか、そんな難しい議論の上じゃなく、ただ、誰かの心の支えになったり、逆に誰かを支えにしたり、そういうささやかな営みの中にこそあるんじゃないか。

 胸元の嶋野の手にそっと手を重ねる。嶋野の手は、気の毒なほど小刻みに震えていて、彼もまた世界の片隅に放り出されて不安なのだと、以前、抱き寄せた瑠香のことを思い出しながら漣は思う。ここでは、皆、不安なのだ。世界の一部になれない孤独だとか悲しみを、喉元に押し込めながらどうにか笑っている。

「やっぱり……君に出会えてよかった」

 なおも漣のつむじに顔を埋めながら、嶋野が囁く。あの晩かけられたものと似た言葉。ただ、あの時のそれは、あくまでも漣のギフトに対して、といった響きがあった。でも今回は――

「俺も、嶋野さんに出会えて、よかったです」
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