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2章
30話 信頼のバランス①
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嶋野の部屋は、瑠香も一時期暮らした監視用の部屋と同じ十九階にあった。
下のフロアに比べると、別世界なほどに殺風景な廊下を歩きながら、このドアの向こうに今も誰かが監禁されているのかな、と、嫌な想像を漣は働かせる。ただ、自分の手で瑠香を押し込んだ嶋野にしてみれば、嫌な想像、どころではなかっただろう。扉を横目に廊下を行き交いながら、あるいは罪悪感を抱いたのかもしれないし、ルールだからと割り切っていたのかもしれない。
昼間、瑠香たちに話を聞いたあとで、漣はむしょうに嶋野と話がしたくなった。
別に謝罪をしろと言うつもりはない。それは、嶋野としても仕方のない成り行きだっただろうから。だからこそ、その仕方のない成り行きに縛られ、奪えば死ぬとわかる相手から瑠香のギフトを奪ったことをどう思っているのか、嶋野本人の口から聞きたかった。その上で、もし罪悪感に苦しんでいるのなら――
いや、違うな。
そう漣は自嘲する。本当に知りたいのはそこじゃない。瑠香には悪いが……
三原によると、渡良瀬という人物は、四年ほど前まで藝術協会日本支部の長を務めていた男だそうだ。要するに、高階の前任者である。ところが四年前、上層部を中心に派閥争いが起き、負けた渡良瀬は協会から姿を消す。……そう、消したのだ。本来、一度入所したら死ぬまで行動を管理されるはずのギフテッドが。もちろん、腕の神経を殺せばいつでも出ることはできる。ただ、三原によると、渡良瀬がそうした手術を受けたという話は一度も聞かなかったそうだ。
これは三原の想像だが、渡良瀬は、何かしらのイレギュラーな方法で協会を抜けたのではないか、とのことだ。
実は渡良瀬は、以前から協会本部――ニューヨークの――と対立していたらしい。詳しい理由は三原にはわからなかったが、ただ、ギフテッドの在り方をめぐる対立ではあったようだ。
その渡良瀬が、抜けるときも大人しく本部の方針に従ったとは思えない。つまり……三原の想像が正しければ、渡良瀬という男はギフトを保持したまま協会を飛び出した、ということになる。しかも消えたのは、渡良瀬一人ではなかった。当時、彼の手足として働いていた数人のギフテッドも同時期に姿を消す。そんな中、渡良瀬と親子のように親しくしていた嶋野だけは、なぜか協会に居残ることを選んだ。三原の嶋野に対する忌避感は、単純に、瑠香のことがあったからだけではない。三原は疑っているのだ。嶋野は、渡良瀬が協会の動向を探るためにあえて残したスパイではないか、と。
やがて廊下の奥に、嶋野、とプレートを掲げたドアが現れる。さっそくドアホンのスイッチに手を伸ばし、ふと漣は、その指先を止める。
もし、三原の推理が事実なら、あの人が漣に良くしてくれたのも、その、渡良瀬とかいう男の意向である可能性もあるのだ。確かに、希少性も危険性も桁違いに高いギフトだ。その持ち主の情報は、スパイとしては何を措いても探りたいところだろう。……では、これまでの漣に対する嶋野の言動は全て演技だったのか、と問われると、わからない。単に思考を拒否しているだけかもしれないが。
「あー……もう」
会う前からこんなに疲れるなんて。今日はこのまま帰ってしまおうか。でも……明日にはまたどこかに飛んでいるかもしれない人だ。直接会って話すなら、在宅中だとわかる今しかない。そう自分を鼓舞し、えい、とスイッチを押す。沈黙。ああこれは不在ですねとがっかり半分、安堵半分で踵を返しかけたその時、スピーカーから聞き覚えのある声が返ってきた。
『おや、海江田くんですか。どうしました?』
「えっ……あ、ええと……いえ、」
『待ってください。すぐに行きます』
ブツッと通話の切れる音がし、辞去のタイミングを失った漣は居たたまれない気持ちでその場に立ち尽くす。そんな漣の耳に届く、ドア越しに近づく足音。やがて目の前のドアが勢いよく開け放たれ、戸口に素っ裸の男が現れる。素っ裸の――
「ちょっ、何でェェェ!?」
「どうしました?」
怪訝そうに、嶋野は人形のように小さな頭を軽く傾げる。その嶋野は、辛うじてボクサーパンツを身に着ける以外は、文字通り生まれたままの一糸まとわぬ姿で、白磁のような肌に、そこだけ色づく濃い桃色の乳首が恐ろしく卑猥だ。……いや、相手は同性だろうが。なのに、何だって俺はこんなに慌てて。
「えっ、ええと……ナニ中……だったんすか」
まさか、恋人を連れ込んでそういう……?
ところが嶋野は、相変わらず怪訝な顔のまま「いえ、普通に入浴中だったんですが」と答える。確かに、よく見ると髪も肌もびしょ濡れだ。そうでなくとも……普通はそっちを連想するものだろう。
「ん? ……海江田くん、ひょっとして飲んでます?」
「えっ? ……飲む?」
「ええ。顔が赤いようなので。……へぇ、海江田くんは飲むと赤くなるタイプなんですね。僕は、いくら飲んでも酔えないし赤くもならないので、正直ちょっとうらやましいです」
「いえ……つーか服着てくださいっっ!」
我ながら意味不明な返しだなと自覚しつつ、力強く苦言する。そう、それだ。とにかく服を着ろ。客を迎えるのに裸って何だよいい歳こいた大人が――って、そういえばこの人の年齢知らないな。いや、年齢だけじゃない。出身はどこだとか、好きな食べ物は何だとか、どんなタイプが好みだとか。
渡良瀬ついて問いただすよりも先に、聞くべきことがあるんじゃないか、もっと。
「服? ……ああ、確かに。こんな格好で来客を出迎えるのはマナーに反していますね。――わかりました。では、先に食堂で待っていてください。五分ほどで向かいます」
「えっ? ……食堂すか?」
不本意にも声に落胆が滲む。部屋には……上げてもらえないのか。
「ええ。何なら君の部屋でも……どうしました?」
「あ、いえ……ええと……」
中を覗きたい気持ちが先走り、つい嶋野の肩越しに奥をチラ見してしまう。と、さすがに意図を察したのだろう、嶋野は「ああ、すみません」と苦笑する。
「僕の部屋は、その……今の君に見られるとまずいものばかりなので」
「今の……俺?」
「ええ。まだゼロでしたよね、君の審美眼」
「えっ? ……あ、ああ、なるほど」
おそらく嶋野は、例のフリマで他のギフテッドから作品を集めまくっているのだろう。いかにも嶋野らしいと納得しつつ、言いようのないもやつきも漣は覚える。
「じゃあ次のテストで、俺、絶対5を取りますんで、そしたら見せてください」
「次……? いやいや、さすがに初回で5は無理ですよ」
「は? 医学部ストレート合格を舐めないでくださいよ」
「ああ……そういえば、君、秀才だったんですよね。……ひょっとして今、怒ってますか?」
「おこってませんけど!!!!」
いや怒っとるがなと脳内で自分に突っ込むと、漣は、ふう、と一つ溜息をつく。そもそも自分は、なぜ、そして、何に腹を立てているんだ。
「じゃあ……食堂で待ってますんで」
言い残すと、漣は一人でエレベーターに向かう。まだ話らしい話は何も交わしていないのに、すでに絵を一枚描き終えたみたいに頭が疲れている。
下のフロアに比べると、別世界なほどに殺風景な廊下を歩きながら、このドアの向こうに今も誰かが監禁されているのかな、と、嫌な想像を漣は働かせる。ただ、自分の手で瑠香を押し込んだ嶋野にしてみれば、嫌な想像、どころではなかっただろう。扉を横目に廊下を行き交いながら、あるいは罪悪感を抱いたのかもしれないし、ルールだからと割り切っていたのかもしれない。
昼間、瑠香たちに話を聞いたあとで、漣はむしょうに嶋野と話がしたくなった。
別に謝罪をしろと言うつもりはない。それは、嶋野としても仕方のない成り行きだっただろうから。だからこそ、その仕方のない成り行きに縛られ、奪えば死ぬとわかる相手から瑠香のギフトを奪ったことをどう思っているのか、嶋野本人の口から聞きたかった。その上で、もし罪悪感に苦しんでいるのなら――
いや、違うな。
そう漣は自嘲する。本当に知りたいのはそこじゃない。瑠香には悪いが……
三原によると、渡良瀬という人物は、四年ほど前まで藝術協会日本支部の長を務めていた男だそうだ。要するに、高階の前任者である。ところが四年前、上層部を中心に派閥争いが起き、負けた渡良瀬は協会から姿を消す。……そう、消したのだ。本来、一度入所したら死ぬまで行動を管理されるはずのギフテッドが。もちろん、腕の神経を殺せばいつでも出ることはできる。ただ、三原によると、渡良瀬がそうした手術を受けたという話は一度も聞かなかったそうだ。
これは三原の想像だが、渡良瀬は、何かしらのイレギュラーな方法で協会を抜けたのではないか、とのことだ。
実は渡良瀬は、以前から協会本部――ニューヨークの――と対立していたらしい。詳しい理由は三原にはわからなかったが、ただ、ギフテッドの在り方をめぐる対立ではあったようだ。
その渡良瀬が、抜けるときも大人しく本部の方針に従ったとは思えない。つまり……三原の想像が正しければ、渡良瀬という男はギフトを保持したまま協会を飛び出した、ということになる。しかも消えたのは、渡良瀬一人ではなかった。当時、彼の手足として働いていた数人のギフテッドも同時期に姿を消す。そんな中、渡良瀬と親子のように親しくしていた嶋野だけは、なぜか協会に居残ることを選んだ。三原の嶋野に対する忌避感は、単純に、瑠香のことがあったからだけではない。三原は疑っているのだ。嶋野は、渡良瀬が協会の動向を探るためにあえて残したスパイではないか、と。
やがて廊下の奥に、嶋野、とプレートを掲げたドアが現れる。さっそくドアホンのスイッチに手を伸ばし、ふと漣は、その指先を止める。
もし、三原の推理が事実なら、あの人が漣に良くしてくれたのも、その、渡良瀬とかいう男の意向である可能性もあるのだ。確かに、希少性も危険性も桁違いに高いギフトだ。その持ち主の情報は、スパイとしては何を措いても探りたいところだろう。……では、これまでの漣に対する嶋野の言動は全て演技だったのか、と問われると、わからない。単に思考を拒否しているだけかもしれないが。
「あー……もう」
会う前からこんなに疲れるなんて。今日はこのまま帰ってしまおうか。でも……明日にはまたどこかに飛んでいるかもしれない人だ。直接会って話すなら、在宅中だとわかる今しかない。そう自分を鼓舞し、えい、とスイッチを押す。沈黙。ああこれは不在ですねとがっかり半分、安堵半分で踵を返しかけたその時、スピーカーから聞き覚えのある声が返ってきた。
『おや、海江田くんですか。どうしました?』
「えっ……あ、ええと……いえ、」
『待ってください。すぐに行きます』
ブツッと通話の切れる音がし、辞去のタイミングを失った漣は居たたまれない気持ちでその場に立ち尽くす。そんな漣の耳に届く、ドア越しに近づく足音。やがて目の前のドアが勢いよく開け放たれ、戸口に素っ裸の男が現れる。素っ裸の――
「ちょっ、何でェェェ!?」
「どうしました?」
怪訝そうに、嶋野は人形のように小さな頭を軽く傾げる。その嶋野は、辛うじてボクサーパンツを身に着ける以外は、文字通り生まれたままの一糸まとわぬ姿で、白磁のような肌に、そこだけ色づく濃い桃色の乳首が恐ろしく卑猥だ。……いや、相手は同性だろうが。なのに、何だって俺はこんなに慌てて。
「えっ、ええと……ナニ中……だったんすか」
まさか、恋人を連れ込んでそういう……?
ところが嶋野は、相変わらず怪訝な顔のまま「いえ、普通に入浴中だったんですが」と答える。確かに、よく見ると髪も肌もびしょ濡れだ。そうでなくとも……普通はそっちを連想するものだろう。
「ん? ……海江田くん、ひょっとして飲んでます?」
「えっ? ……飲む?」
「ええ。顔が赤いようなので。……へぇ、海江田くんは飲むと赤くなるタイプなんですね。僕は、いくら飲んでも酔えないし赤くもならないので、正直ちょっとうらやましいです」
「いえ……つーか服着てくださいっっ!」
我ながら意味不明な返しだなと自覚しつつ、力強く苦言する。そう、それだ。とにかく服を着ろ。客を迎えるのに裸って何だよいい歳こいた大人が――って、そういえばこの人の年齢知らないな。いや、年齢だけじゃない。出身はどこだとか、好きな食べ物は何だとか、どんなタイプが好みだとか。
渡良瀬ついて問いただすよりも先に、聞くべきことがあるんじゃないか、もっと。
「服? ……ああ、確かに。こんな格好で来客を出迎えるのはマナーに反していますね。――わかりました。では、先に食堂で待っていてください。五分ほどで向かいます」
「えっ? ……食堂すか?」
不本意にも声に落胆が滲む。部屋には……上げてもらえないのか。
「ええ。何なら君の部屋でも……どうしました?」
「あ、いえ……ええと……」
中を覗きたい気持ちが先走り、つい嶋野の肩越しに奥をチラ見してしまう。と、さすがに意図を察したのだろう、嶋野は「ああ、すみません」と苦笑する。
「僕の部屋は、その……今の君に見られるとまずいものばかりなので」
「今の……俺?」
「ええ。まだゼロでしたよね、君の審美眼」
「えっ? ……あ、ああ、なるほど」
おそらく嶋野は、例のフリマで他のギフテッドから作品を集めまくっているのだろう。いかにも嶋野らしいと納得しつつ、言いようのないもやつきも漣は覚える。
「じゃあ次のテストで、俺、絶対5を取りますんで、そしたら見せてください」
「次……? いやいや、さすがに初回で5は無理ですよ」
「は? 医学部ストレート合格を舐めないでくださいよ」
「ああ……そういえば、君、秀才だったんですよね。……ひょっとして今、怒ってますか?」
「おこってませんけど!!!!」
いや怒っとるがなと脳内で自分に突っ込むと、漣は、ふう、と一つ溜息をつく。そもそも自分は、なぜ、そして、何に腹を立てているんだ。
「じゃあ……食堂で待ってますんで」
言い残すと、漣は一人でエレベーターに向かう。まだ話らしい話は何も交わしていないのに、すでに絵を一枚描き終えたみたいに頭が疲れている。
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