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2章
17話 黒の解像度①
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「やっぱ5だったかぁ」
キッチンで炊けたばかりのご飯を茶碗によそいながら、口惜しそうに瑠香がぼやく。そんな瑠香のぼやきを軽い笑いで受け流しながら、改めて、馴染んだなと漣は思う。
初日に朝食を振舞われて以来、何となく、瑠香の部屋で朝晩を食べるのが漣の日課になっていた。自分の意志で家を出た以上、なるべく自力で家事をこなしたい。そのつもりで頑張ってはいるし、実際、掃除や洗濯にはずいぶんと慣れた。
ただ、料理だけはいまだに瑠香に頼ってしまう。
確かに、彼女の料理は美味しい。ただ、味の話をすればビュッフェのそれも負けていない。むしろ付近の一流ホテルから取り寄せているという料理は、どれも文句のつけようがない美味さだ。だから瑠香に頼ってしまうのは、単に味の問題ではなく、こんな自分のためにキッチンに立ってくれる人がいる、という事実を、料理とともに噛みしめたいのかもしれない。
世界との関わり。
それを、今では毎日のように意識する。自分が生きる世界のありよう。その世界と自分とを繋ぐ絆。かつて暮らした日常ではあまりにもありふれていて、全てを断ち切られるまで意識すらしなかったもの。
テーブルの中央を飾るのは、大鉢に盛られた照り照りの筑前煮。近頃はこの、九州の甘い醤油で炊いた煮物の方が口に馴染む感じがする。副菜にはほうれん草の胡麻和え、ひじきの煮しめ、そして味噌汁。いつもながら豪華だなと感心しながら、これだけの料理を漣のために用意してくれる瑠香の厚意に涙が出そうになる。それを、年頃の男子ならではの見栄とプライドで堪えながら、漣は慣れた手つきでお茶の準備をする。食事は瑠香が、お茶は漣が用意する。そんな不文律が、いつの間にか二人の間で出来上がっていた。
夕食の準備が整ったところで、瑠香と二人でテーブルに着く。手を合わせ、二人揃っていただきますを唱和すると、さっそく漣は筑前煮に箸を伸ばす。うん、美味い。甘めの醤油と具材から出た旨味が、それぞれの具材にしっかりと浸みている。
「まあ……効果を考えるとね。そっか……5かぁ」
瑠香の審美眼は4。なので現状では、漣の絵を鑑賞することはできない。
「5はねぇ、一回だけ受けたことあるんだけどね……筆記はどうにかなったんだけど、実技の方がどーしても駄目でさぁ」
「へぇ、5の実技って、どんなことやるんすか」
「『魔王』」
「は? ……まおう?」
すると瑠香は、ほうれん草の胡麻和えを口に運びながら「そ」と真顔で頷く。
「5の実技は高階さんが担当してんの。あの人の『魔王』やばすぎ。数日は夢でうなされる」
当時のことを思い出したのか、瑠香はうううと頭を抱える。ああ、初日に嶋野が言っていたのはこれのことか。彼も、高階の『魔王』は魂が凍えると言っていた。漣のギフトにすら平然と耐える嶋野がそこまで言うのだから、やはり効果は相当なのだろう。
「まぁでも、5なんてキュレーターになりたいって人ぐらいしか受けないんだけどね。あー、でも漣くんの作品が5ならあたしも受けなきゃだなぁ」
そして瑠香は、はぁ、と溜息をつく。そんな瑠香に申し訳なさを覚えつつ、漣は、自分の作品を見たいがためにここまで真剣に悩んでくれる人がいるのだと、素朴な事実を噛み締める。
この施設では、住人の作品はほぼすべて協会によって管理されている。
絵画系、工芸系のギフテッドは、スケッチや習作に至るまでアトリエに保管するか、さもなければ協会に提出する義務を負う。これは、審美眼の低い住人が鑑賞レベルの高い作品とエンカウントすることを防ぐための措置で、この義務を怠った場合、例えば鑑賞ツアーなど一時外出の許可が一定期間降りなくなる。
中でも悪質な違反だと認められた場合――たとえば、審美眼の低い住人にわざと鑑賞レベルの高い作品を譲るなどした場合、十九階にある特別監視室にて、二十四時間、風呂やトイレに至るまで監視される生活を余儀なくされる。期間中は、内部での交流すら断たれてしまう、らしい。
「……すみません」
何となく申し訳なくなって詫びると、瑠香は両手を突き出し、「いやいやいや」と左右に振る。
「いいんだよ別に! ……あ、そうだ、漣くんもテスト受けなよ! 審美眼が上がったらさ、みんなの作品も見られるようになるし!」
「えっ? あ……はい。実はそのつもりで、すでに次のテストに申し込んでます」
さらに、協会の制度を使って放送大学に登録(もちろん偽名だ)し、美術史や技法など、美術関連の授業を受講している。審美眼のテストでは、そうした知識も多く問われるからだ。
「ほんと!? じゃあさ……あたしの作品が、だいたい鑑賞レベル3なんだよね。だから……」
そして瑠香は、何かを期待する目でじっと漣を見る。これは……最低でも3は取ってくれという話だな、と、彼女が使う独特なデザインのスプーンを眺めながら漣は思う。
瑠香の専攻は工芸。中でも、主に食器や日用品をメインに彫っている。そんな彼女のギフトは〝克服〟。その名の通り、使用者に苦手なものを克服させる効果があるらしい。発動条件は作品に触れること。食器として使えば、嫌いだったものが食べられるようになる。文具として使えば苦手な教科が好きになる。
単純に、良い効果だと思う。それでも審美眼の低い漣が勝手に彼女の作品に触れれば、罰を受けるのは瑠香の方なのだ。ただでさえ世界とのつながりを重んじる瑠香に、それを断たれるなどという過酷な罰は負わせられない。彼女の作品に触れようと思えば、こちらが努力して歩み寄るしかないのだ。それに――
「大丈夫です。どのみち俺、5を目指すつもりでいますし」
「えっマジ? なになに? 5で見たい作品あんの? えーと、いま鑑賞レベル5なのは、長澤さんの油彩画と、あと新藤さんのエッチングと――」
「キュレーターになりたいんです、俺」
「――えっ」
キッチンで炊けたばかりのご飯を茶碗によそいながら、口惜しそうに瑠香がぼやく。そんな瑠香のぼやきを軽い笑いで受け流しながら、改めて、馴染んだなと漣は思う。
初日に朝食を振舞われて以来、何となく、瑠香の部屋で朝晩を食べるのが漣の日課になっていた。自分の意志で家を出た以上、なるべく自力で家事をこなしたい。そのつもりで頑張ってはいるし、実際、掃除や洗濯にはずいぶんと慣れた。
ただ、料理だけはいまだに瑠香に頼ってしまう。
確かに、彼女の料理は美味しい。ただ、味の話をすればビュッフェのそれも負けていない。むしろ付近の一流ホテルから取り寄せているという料理は、どれも文句のつけようがない美味さだ。だから瑠香に頼ってしまうのは、単に味の問題ではなく、こんな自分のためにキッチンに立ってくれる人がいる、という事実を、料理とともに噛みしめたいのかもしれない。
世界との関わり。
それを、今では毎日のように意識する。自分が生きる世界のありよう。その世界と自分とを繋ぐ絆。かつて暮らした日常ではあまりにもありふれていて、全てを断ち切られるまで意識すらしなかったもの。
テーブルの中央を飾るのは、大鉢に盛られた照り照りの筑前煮。近頃はこの、九州の甘い醤油で炊いた煮物の方が口に馴染む感じがする。副菜にはほうれん草の胡麻和え、ひじきの煮しめ、そして味噌汁。いつもながら豪華だなと感心しながら、これだけの料理を漣のために用意してくれる瑠香の厚意に涙が出そうになる。それを、年頃の男子ならではの見栄とプライドで堪えながら、漣は慣れた手つきでお茶の準備をする。食事は瑠香が、お茶は漣が用意する。そんな不文律が、いつの間にか二人の間で出来上がっていた。
夕食の準備が整ったところで、瑠香と二人でテーブルに着く。手を合わせ、二人揃っていただきますを唱和すると、さっそく漣は筑前煮に箸を伸ばす。うん、美味い。甘めの醤油と具材から出た旨味が、それぞれの具材にしっかりと浸みている。
「まあ……効果を考えるとね。そっか……5かぁ」
瑠香の審美眼は4。なので現状では、漣の絵を鑑賞することはできない。
「5はねぇ、一回だけ受けたことあるんだけどね……筆記はどうにかなったんだけど、実技の方がどーしても駄目でさぁ」
「へぇ、5の実技って、どんなことやるんすか」
「『魔王』」
「は? ……まおう?」
すると瑠香は、ほうれん草の胡麻和えを口に運びながら「そ」と真顔で頷く。
「5の実技は高階さんが担当してんの。あの人の『魔王』やばすぎ。数日は夢でうなされる」
当時のことを思い出したのか、瑠香はうううと頭を抱える。ああ、初日に嶋野が言っていたのはこれのことか。彼も、高階の『魔王』は魂が凍えると言っていた。漣のギフトにすら平然と耐える嶋野がそこまで言うのだから、やはり効果は相当なのだろう。
「まぁでも、5なんてキュレーターになりたいって人ぐらいしか受けないんだけどね。あー、でも漣くんの作品が5ならあたしも受けなきゃだなぁ」
そして瑠香は、はぁ、と溜息をつく。そんな瑠香に申し訳なさを覚えつつ、漣は、自分の作品を見たいがためにここまで真剣に悩んでくれる人がいるのだと、素朴な事実を噛み締める。
この施設では、住人の作品はほぼすべて協会によって管理されている。
絵画系、工芸系のギフテッドは、スケッチや習作に至るまでアトリエに保管するか、さもなければ協会に提出する義務を負う。これは、審美眼の低い住人が鑑賞レベルの高い作品とエンカウントすることを防ぐための措置で、この義務を怠った場合、例えば鑑賞ツアーなど一時外出の許可が一定期間降りなくなる。
中でも悪質な違反だと認められた場合――たとえば、審美眼の低い住人にわざと鑑賞レベルの高い作品を譲るなどした場合、十九階にある特別監視室にて、二十四時間、風呂やトイレに至るまで監視される生活を余儀なくされる。期間中は、内部での交流すら断たれてしまう、らしい。
「……すみません」
何となく申し訳なくなって詫びると、瑠香は両手を突き出し、「いやいやいや」と左右に振る。
「いいんだよ別に! ……あ、そうだ、漣くんもテスト受けなよ! 審美眼が上がったらさ、みんなの作品も見られるようになるし!」
「えっ? あ……はい。実はそのつもりで、すでに次のテストに申し込んでます」
さらに、協会の制度を使って放送大学に登録(もちろん偽名だ)し、美術史や技法など、美術関連の授業を受講している。審美眼のテストでは、そうした知識も多く問われるからだ。
「ほんと!? じゃあさ……あたしの作品が、だいたい鑑賞レベル3なんだよね。だから……」
そして瑠香は、何かを期待する目でじっと漣を見る。これは……最低でも3は取ってくれという話だな、と、彼女が使う独特なデザインのスプーンを眺めながら漣は思う。
瑠香の専攻は工芸。中でも、主に食器や日用品をメインに彫っている。そんな彼女のギフトは〝克服〟。その名の通り、使用者に苦手なものを克服させる効果があるらしい。発動条件は作品に触れること。食器として使えば、嫌いだったものが食べられるようになる。文具として使えば苦手な教科が好きになる。
単純に、良い効果だと思う。それでも審美眼の低い漣が勝手に彼女の作品に触れれば、罰を受けるのは瑠香の方なのだ。ただでさえ世界とのつながりを重んじる瑠香に、それを断たれるなどという過酷な罰は負わせられない。彼女の作品に触れようと思えば、こちらが努力して歩み寄るしかないのだ。それに――
「大丈夫です。どのみち俺、5を目指すつもりでいますし」
「えっマジ? なになに? 5で見たい作品あんの? えーと、いま鑑賞レベル5なのは、長澤さんの油彩画と、あと新藤さんのエッチングと――」
「キュレーターになりたいんです、俺」
「――えっ」
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