ギフテッド

路地裏乃猫

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2章

5話 パイプをくわえた男

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 エレベーターを降りると、そこは文字通り別世界だった。

 一瞬、さっきまでの殺風景な廊下を嵐が襲ったのでは、という奇妙な錯覚に襲われる。もちろんそんなことはなく、厳密には、さっきと同じ間取りのフロアがこちらは恐ろしく散らかっている、というだけの話だ。

「この棟は、二階から五階が事務所、六階から十九階が居住用フロアになっています。この七階に、海江田くんの部屋を用意しました」

「俺の部屋?」

「ええ。案内します」

 そして嶋野は、今度はカオスそのものの廊下を、やはり何食わぬ顔で歩き出す。

 さいわい廊下はそれなりに幅があり、散らかってはいても歩くのに支障はない。それでも、巨大な石材や木材があちこちに放置される光景はやはり異様だ。他にも、ペンキや梯子、スケボーにキックボード。一体どこで乗り回すつもりなのか、見るからにお高めなロードバイクまで放置されている。

 他にも、青々と茂るアロエの鉢やマネキンの頭、ペンキで大きく『フリーマーケット』と書かれた看板と、明らかに非売品と思しき某フライドチキン屋のカーネルサンダース像……

「なんか……カオス、っすね」

「ええ……消防法上、共用部に私物を置いてはいけないと指導してはいるのですが」

 苦い顔をする嶋野には悪いと思いつつ、漣は密かにほっとしていた。

 所長室のあった二十階の殺風景ぶりに、漣は、どれだけ窮屈な暮らしを強いられるのかと内心恐々としていた。が、この廊下のカオスぶりから察するに、それは杞憂だったようだ。むしろ、アーティストの収容施設という情報から当初想像していたとおりの、楽しげな雰囲気がこの廊下からは伝わってくる。

 ただ、どういうわけか人の気配は感じられない。

「あの、皆さんどこに……?」

「おそらく、イベントの打ち上げで三階の食堂に集まっているんでしょう。……ああ、そういえば今日はフリマの日でしたね」

「フリマ?」

「どうします、せっかくなので皆さんに挨拶しますか」

「えっ……い、いやいやいや! お仲間だけで集まってるところに、いきなり部外者が乗り込んだら、それこそ寒いだけでしょ!」

 と、いうのは半ば言い訳で、実際は、これ以上頭と心を擦り減らしたくなかった。
 自分がギフテッドであること。多くの人間を殺めてしまったこと。その上で、なお、描くことを選び取ってしまったこと。

 父を裏切り、医師の道を捨てたこと。

 あまりにも多くの出来事に、悲劇に、何より自らが犯した罪に、本音を言えば今にも心が潰れそうだった。この状態で見知らぬ人々とのコミュニケーションを強いられるのは、漣にしてみれば拷問と変わらない。そうでなくとも漣は、本来、社交性とは無縁の人種なのだ。

「やはり苦手ですか、そういった場は」

「……え?」

「いえ、君の絵からは、他者とのコミュニケーションの難しさ、傷つきひび割れる心の痛みが感じられました。他者との触れ合いは、君にとって、必ずしも安らぎには繋がらない。なので、ああいった賑やかな場は、あまり好みではないのかな、と思いまして――どうしました?」

「えっ、あ、いえ……」

 つい、嶋野を凝視してしまっていた。慌てて目を逸らすも、気まずさは拭えない。

 改めて、あの落書きにどれだけ〝自分〟を描きつけていたのかと思い返し、恥ずかしさに漣は死にたくなる。思えば今までの漣は、この絵が誰かに届くことを願いながら、その実、届くイメージをまるで持てていなかった。だからこそ、あんなにもあけすけに〝自分〟を描きつけていられたのだ。透明人間が、渋谷交差点のど真ん中でも平気で裸踊りができるように。

 それが今は、裸の心許なさを知ったアダムのように恥ずかしく、耐えがたい。

「てか……何でもわかっちゃうんすね……はずかし……」

「ええ。じつに興味深い自画像でした。あれは、ピカソの『パイプをくわえた男』を参考にしたのですか」

「えっ? パイプ……何です?」

「『パイプをくわえた男』。キュビズム期のピカソが描いた肖像画です」

 言いながら嶋野は、スマホに一枚の絵を表示する。全体的に煤けたモザイク画を思わせる絵には、所どころに目や指、何かの記号と思しきものがちらほらと描かれている。ただ……これを肖像画と言われると。むしろ、何かの暗号表と言われた方がまだ納得できそうだ。

「肖像画……なんすか、これ」

「ええ。モデルとなった人物の多様な側面を分解、再構築するかたちで描かれた、紛れもない肖像画です。基本的に人は、一つの貌のみで生きるわけではありません。時間的、空間的、社会的にさまざまな貌を持っています。家族に対する態度をそのまま会社に持ち込む人は少ないでしょう。そういう、一人の人間が持つ多様な貌を、一つの画面に再構築したのがこの作品です」

「……はぁ」

 相変わらず、蘊蓄になると止まらないなこの人。

「この作品と同様、海江田くん、君の絵にはじつに多彩な君が描かれていました。窮屈な生き方を強いられる君。不本意な環境で周囲を偽る君。小さな植木鉢じみた世界で、それでも自我という根を懸命に張る君」

「や……めてくださいよ、そんな、ピカソと並べるだなんて……」

 それ以上に、あの絵についてこれ以上言及されるのは耐えられない。気まずさに俯くと、何が面白いのか嶋野はふふっと喉を鳴らして笑う。結構、意地が悪いなこの人。

 そういえば。

 ふと、高階に会う前に抱いた問いがよみがえる。なぜ嶋野は生きているのだろう。見れば死に至るはずの漣のアート。それを目にして、なお死なずに済んでいるのだろう。そういう体質なのか、それとも、ギフテッドにはギフトが効かないのか。

「どうしました?」

「あ……いえ、嶋野さんは平気なんすか。俺の絵を見ても……」

「ああ。僕の審美眼は5プラスなんです。それでもギリギリセーフといった感じでしたが」

「……審美眼」

 そういえば、高階もそんな単語を口にしていた。一般的には美術品の価値を正しく見定める目を指すが、文脈を踏まえると、〝キュレーター〟と同様、何かしらのローカルな意味がありそうだ。

「何すか、その審美眼って」

 すると嶋野は、「ああ」、と何かを思い出した顔をする。

「そういえば、説明がまだでしたね。まあ、この話は若干長くなりますので、とりあえず部屋に入ってしまいましょう」

 やがて嶋野は、とあるドアの前で足を止める。一般的なマンションで見られるプッシュプルハンドル式の黒い扉。その傍らには、ホテルなどでも見かける黒いカードリーダーが設置されている。

 そこに嶋野は、ジャケットの胸ポケットから取り出したカードをさっと通す。ピッと短い電子音が鳴り、同時に、ガチャリ、と錠の開く重い音がする。

「こちらが、今日から君の住まいとなる部屋です」
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