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2章
1話 それでも俺は
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「世界で初めてギフトの存在を科学的に認知したのは、ナチス政権下のドイツの科学者たちでした」
車を出発させて間もなく、そう、嶋野は切り出す。
すでに日は西の空に沈み、車窓を流れる町は夜の装いに染まりつつある。幹線道路沿いの大型店舗やファミレスは派手にライトアップされ、黒いカンバスを背景に、自身の存在を声高に主張している。
漣にしてみればごく近所の、見慣れたはずの郊外の夜景。にもかかわらず、今夜に限ってはひどく余所余所しく見え、世界から拒絶されたような感覚に、漣は、枯れたはずの涙がまたぞろ零れそうになるのを必死に堪えていた。
そんな漣を慰めるつもりで、嶋野も世話話を切り出してくれたのだろうか。何にせよ、彼の柔らかなテノールは耳に優しく、聞いているだけで逆立つ心の毛並みを均されるような心地がする。
「じゃあ、結構最近なんすね。てっきり……もっと古くから研究されてんのかと思ってました。ダヴィンチの時代とか」
ナチスーー国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ったのは、たしか一九三二年。ギフトに関する研究の本格化がさらにその数年後だとして、長い永いアートの歴史に比べるならあまりにも浅い。
「実はダヴィンチも、ギフトに関する研究を行なっていたのではないか、と我々は見ています。公開こそされていませんが、事実、それを推察させる資料が多数見つかっています」
「え……マジすか」
「ええ。ただし科学的な手法でギフトの実在が証明されたのは、先にもお話ししたとおり二十世紀のドイツの科学者たちの功績です。彼らは、時には人体実験も含む非人道的な方法で実験を繰り返し、これが実在の力であることを突き止めました」
その非人道的な方法とやらの詳細に、漣はあえて触れないことにした。医学生の端くれとして、その手の話は主に倫理学の授業でうんざりするほど聞かされている。
「ただ、そもそも十九世紀以前は、研究対象となるべきギフテッドの作品が少なかったことも事実です。これは僕の持論なんですが、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ギフテッドの世界にも変化が……一種のカンブリア爆発的な進化が起きたのでは、と考えられるのです。この頃、自然科学や精神医学の発達によって人間の知覚領域は一気に拡大しました。無意識の発見や量子力学による宇宙観の再定義……そうした変革により、アートの世界もまた進化を余儀なくされ、結果、印象派など、それまでの伝統的描法を逸脱した新たなモードが次々と誕生しました。これに関しては、一般に写真の登場がその原因とされることが多いのですが、写真など光学機器の登場は、あくまで要因の一つにすぎません。何にせよ、そうした知覚領域の拡大によって、アーティストが一枚の絵に込める情報量も爆発的に増加した。そのように解釈する以外、ギフテッドの発生が近代以降に偏っていることの説明がつかないのです。もちろん、時の権力者によって人知れず排除されてきた、といった説もあるにはありますが……と、そういえば何の話でしたっけ?」
「えっ? え……ええと、」
急に話を振られ、漣は慌てる。正直に言うと、話の後半は意味がわからず、ほとんど耳が滑っていた。
「何でしたっけ……ギフトを発見したのは、ナチスの科学者……とか何とか」
「ああそうでした。第二次大戦後、研究者たちは敗戦と東西分断で混乱する祖国を捨ててアメリカへと渡りました。その一人が、ニューヨークの美術愛好家とともに立ち上げた組織が、今日、我々が所属する藝術協会の母体とされています」
「な……るほど」
途中ずいぶんと脱線してしまったが、要するに、組織の来歴が話のテーマだったようだ。
ただ、難しい話に頭の糖分を盗られたおかげか、ほんの少し、気持ちが軽くなった心地がする。それを狙っての雑談ならありがたいが、実際のところはわからない。というのも、この嶋野凪という男は妙な掴みようのなさがある。紳士的なようで高圧的。何より、多くの人間を殺めてしまった漣のことも、それを理由に責めるそぶりはない。むしろ、漣を殺人鬼として拒絶した父こそ、人間的には正しいと思う。
それとも、これがギフテッドという生き物なのか。
ペンの試し描き程度の絵でも、他者の精神を容易にハックできてしまう異能。そうした能力と日常的に付き合っていると、いずれ、一般的な倫理観を保てなくなるということか。
……そんな人間に、俺も、いつか。
その間も車は、混み合う下り車線を横目に快適な速度で都心へと駆けてゆく。それにしてもいい車だ。足回りのなめらかさと加速の鋭さは、サバンナを駆けるネコ科の獣を思わせる。乗り込む時に車種を聞いたが、マツダのRX-8とかいう車らしい。詳しい人間ならすぐにピンときたのだろう。が、あいにく漣は車のことはほとんどわからない。
「嶋野さんは……責めないんすか。俺が、人を殺したこと」
すると嶋野は、ハンドルを手にしたまま小さく肩を竦める。
「責めるも何も、君に責はありませんからね」
「えっ? ……いや悪いでしょ、殺してるんすよ実際、その……人を、」
「しかし君は知らなかった。ギフトの存在も、その効果も。君は、心から溢れ来るものを、目の前のカンバスにただ描きつけたにすぎません。確かに、他人の所有物や公共物への落書きは褒められたことではありませんが」
「でも俺が殺したッッ!」
ほとんど悲鳴じみた声で漣は叫ぶ。雑談のおかげで一旦は収まった後悔や罪悪感が、またしてもぶり返してくる。……ああそうだ、俺が背負う罪の重さは、あんな雑談で紛れるほど軽いものじゃない。
「そんなの……言い訳ですよ。どう言い繕おうが、要するに、俺が……」
救命室から運び出される、もはや物言わぬ骸と化した患者たち。そんな元患者たちを、ストレッチャーごと霊安室へと運び込む医師や看護師たちのやるせない横顔。
どんな顔で医者を続ければいいと慟哭する父の涙。
忘れたい。忘れてしまいたい。でも――
「忘れなさい」
そんな漣の回想を、色のない声が断ち切る。
「こればかりは、君一人ではどうしようもないことです。それに……それでもなお君は、表現を続ける道を選んだ。その覚悟をこそ、今は大事にしてください」
「……っ」
ああ、そうだ――漣は思う。俺は、選んだのだ。父に人殺しと追い立てられたからでも、母に行けと促されたからでもない。あの瞬間、間違いなく俺は、自分の意志でこの道を選んだ。
描きたい。描き続けたい。だから。
車を出発させて間もなく、そう、嶋野は切り出す。
すでに日は西の空に沈み、車窓を流れる町は夜の装いに染まりつつある。幹線道路沿いの大型店舗やファミレスは派手にライトアップされ、黒いカンバスを背景に、自身の存在を声高に主張している。
漣にしてみればごく近所の、見慣れたはずの郊外の夜景。にもかかわらず、今夜に限ってはひどく余所余所しく見え、世界から拒絶されたような感覚に、漣は、枯れたはずの涙がまたぞろ零れそうになるのを必死に堪えていた。
そんな漣を慰めるつもりで、嶋野も世話話を切り出してくれたのだろうか。何にせよ、彼の柔らかなテノールは耳に優しく、聞いているだけで逆立つ心の毛並みを均されるような心地がする。
「じゃあ、結構最近なんすね。てっきり……もっと古くから研究されてんのかと思ってました。ダヴィンチの時代とか」
ナチスーー国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ったのは、たしか一九三二年。ギフトに関する研究の本格化がさらにその数年後だとして、長い永いアートの歴史に比べるならあまりにも浅い。
「実はダヴィンチも、ギフトに関する研究を行なっていたのではないか、と我々は見ています。公開こそされていませんが、事実、それを推察させる資料が多数見つかっています」
「え……マジすか」
「ええ。ただし科学的な手法でギフトの実在が証明されたのは、先にもお話ししたとおり二十世紀のドイツの科学者たちの功績です。彼らは、時には人体実験も含む非人道的な方法で実験を繰り返し、これが実在の力であることを突き止めました」
その非人道的な方法とやらの詳細に、漣はあえて触れないことにした。医学生の端くれとして、その手の話は主に倫理学の授業でうんざりするほど聞かされている。
「ただ、そもそも十九世紀以前は、研究対象となるべきギフテッドの作品が少なかったことも事実です。これは僕の持論なんですが、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ギフテッドの世界にも変化が……一種のカンブリア爆発的な進化が起きたのでは、と考えられるのです。この頃、自然科学や精神医学の発達によって人間の知覚領域は一気に拡大しました。無意識の発見や量子力学による宇宙観の再定義……そうした変革により、アートの世界もまた進化を余儀なくされ、結果、印象派など、それまでの伝統的描法を逸脱した新たなモードが次々と誕生しました。これに関しては、一般に写真の登場がその原因とされることが多いのですが、写真など光学機器の登場は、あくまで要因の一つにすぎません。何にせよ、そうした知覚領域の拡大によって、アーティストが一枚の絵に込める情報量も爆発的に増加した。そのように解釈する以外、ギフテッドの発生が近代以降に偏っていることの説明がつかないのです。もちろん、時の権力者によって人知れず排除されてきた、といった説もあるにはありますが……と、そういえば何の話でしたっけ?」
「えっ? え……ええと、」
急に話を振られ、漣は慌てる。正直に言うと、話の後半は意味がわからず、ほとんど耳が滑っていた。
「何でしたっけ……ギフトを発見したのは、ナチスの科学者……とか何とか」
「ああそうでした。第二次大戦後、研究者たちは敗戦と東西分断で混乱する祖国を捨ててアメリカへと渡りました。その一人が、ニューヨークの美術愛好家とともに立ち上げた組織が、今日、我々が所属する藝術協会の母体とされています」
「な……るほど」
途中ずいぶんと脱線してしまったが、要するに、組織の来歴が話のテーマだったようだ。
ただ、難しい話に頭の糖分を盗られたおかげか、ほんの少し、気持ちが軽くなった心地がする。それを狙っての雑談ならありがたいが、実際のところはわからない。というのも、この嶋野凪という男は妙な掴みようのなさがある。紳士的なようで高圧的。何より、多くの人間を殺めてしまった漣のことも、それを理由に責めるそぶりはない。むしろ、漣を殺人鬼として拒絶した父こそ、人間的には正しいと思う。
それとも、これがギフテッドという生き物なのか。
ペンの試し描き程度の絵でも、他者の精神を容易にハックできてしまう異能。そうした能力と日常的に付き合っていると、いずれ、一般的な倫理観を保てなくなるということか。
……そんな人間に、俺も、いつか。
その間も車は、混み合う下り車線を横目に快適な速度で都心へと駆けてゆく。それにしてもいい車だ。足回りのなめらかさと加速の鋭さは、サバンナを駆けるネコ科の獣を思わせる。乗り込む時に車種を聞いたが、マツダのRX-8とかいう車らしい。詳しい人間ならすぐにピンときたのだろう。が、あいにく漣は車のことはほとんどわからない。
「嶋野さんは……責めないんすか。俺が、人を殺したこと」
すると嶋野は、ハンドルを手にしたまま小さく肩を竦める。
「責めるも何も、君に責はありませんからね」
「えっ? ……いや悪いでしょ、殺してるんすよ実際、その……人を、」
「しかし君は知らなかった。ギフトの存在も、その効果も。君は、心から溢れ来るものを、目の前のカンバスにただ描きつけたにすぎません。確かに、他人の所有物や公共物への落書きは褒められたことではありませんが」
「でも俺が殺したッッ!」
ほとんど悲鳴じみた声で漣は叫ぶ。雑談のおかげで一旦は収まった後悔や罪悪感が、またしてもぶり返してくる。……ああそうだ、俺が背負う罪の重さは、あんな雑談で紛れるほど軽いものじゃない。
「そんなの……言い訳ですよ。どう言い繕おうが、要するに、俺が……」
救命室から運び出される、もはや物言わぬ骸と化した患者たち。そんな元患者たちを、ストレッチャーごと霊安室へと運び込む医師や看護師たちのやるせない横顔。
どんな顔で医者を続ければいいと慟哭する父の涙。
忘れたい。忘れてしまいたい。でも――
「忘れなさい」
そんな漣の回想を、色のない声が断ち切る。
「こればかりは、君一人ではどうしようもないことです。それに……それでもなお君は、表現を続ける道を選んだ。その覚悟をこそ、今は大事にしてください」
「……っ」
ああ、そうだ――漣は思う。俺は、選んだのだ。父に人殺しと追い立てられたからでも、母に行けと促されたからでもない。あの瞬間、間違いなく俺は、自分の意志でこの道を選んだ。
描きたい。描き続けたい。だから。
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