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1章
4話 本当の自分
しおりを挟む「……止められるわけ、ねえんだよな」
自嘲気味に吐き捨てると、漣は公衆トイレの個室を出て洗面台の前に立つ。薄汚れた鏡に映るのは、オーバーサイズの黒のパーカーと、口元のバンダナで正体を隠した不審な男。だが、この姿こそ本当の自分だと漣は思う。大学のカーテンウォールに映る人畜無害な医学生は、漣に言わせればただの擬装だ。
誰も――友人も、家族でさえ、この姿の漣を知らない。
例えば試験シーズンが終わって、久しぶりに試験勉強から解放された夜。漣は、同科の連中が居酒屋へ打ち上げに繰り出す代わりに、このパーカーを纏って夜の町へと走り出す。そうして、今ここにいる自分と、本当の自分との間にできたズレをどうにか埋め直す。傍目には子供じみた違法行為。それでも漣にしてみれば、それは必要な行為なのだ。自分は誰なのか、どこにいるのか、それらを見失わないためにも。
パーカーのぶんだけ軽くなったドラムバッグには、近所のホームセンターで買い集めたカラースプレー。だが、描き始めの頃こそ何十色と使い分けていたが、ある時、プリンタは赤と黄、青、それから黒の四色で全ての色を表現していることに気付き、漣もそれに倣うようにした。いちいちスプレー缶を持ち変える手間が省けるうえ、こちらの方がより多彩な色を表現できる感があるのだ。何より、荷物が軽く済むのが良い。
トイレの横に停めていた自転車にふたたび跨る。人けのない夜の公園を横切り、さっそく今夜のポイントへ。漣の地元である西東京は、集団昏倒事件への警戒のせいか見回りの警官が増えている。マスコミはガス漏れ事故という見解で一致しているが、警察の方では毒ガスによるテロの疑いを捨てていないのだろう。
夜道をさらに自転車で駆けること二十分。三鷹駅の近くまで来たところでようやく手頃な壁を見つけ、漣は自転車を止める。表通りから外れた住宅地にぽつんと設けられたコインパーキング。その奥にある無骨なブロック壁が今夜の獲物、もといカンバスだ。
場所選びはいつだって真剣勝負だ。人の目が多いと、描いている最中に見つかる恐れがあるし、かといって、鑑賞者のいないアートはアートたり得ない。やはり、多少の人通りは必要だ。
作者と鑑賞者、その間に生まれる関係性こそがアートをアートたらしめる。だからこそアーティストは、より多くの人間に自身のアートが触れられることを望むのだ。
――たとえ、見知らぬ誰かが犠牲になるとしても。
ふと浮かんだ心の声を、漣は慌てて押し殺す。
ふざけるな。見たら死ぬ絵だのギフテッドだの、そんなもの、所詮は真偽不明の噂でしかない。……でも、もし噂が事実なら? もし本当に、あれらの絵が一連の昏倒事件の原因だとしたら?
それだけじゃない。
あの絵はすでに、二名もの人命を奪っている。
「は……はっ」
溜息だか笑声だかわからない声を吐くと、漣はバッグから黒のスプレー缶を取り出し、壁に吹き付ける。
だとしても、俺は描き続けるしかない。俺が俺であり続けるために。父のため病院のために机に噛りつく俺は、所詮、表向きの擬装でしかない。本当の俺はここにいる。
ここにいるんだ。だから。
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