幼馴染は最強設定!

路地裏乃猫

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あいつのいる朝

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 九月に入ると、さすがに盛夏の頃に較べて朝の訪れは遅くなる。
  朝の四時半にセットしたアラームで目を覚ます。手早く身支度を整え、玄関を出て空を仰ぐと、明けたばかりの藍色の蒼穹には、上弦の月が今なお明々とした輝きを放っていた。
  そんな朝方の町に、俺は一人、ボストンバッグと道着を抱えて自転車を漕ぎ出す。
  目的の場所は、家から自転車で五分ほど走った場所にある。
  まず現われるのは、時代劇にでも登場しそうな瓦屋根つきの白塗りの壁だ。その壁伝いに走ると、やがて『柳沢』と記された表札のかかる屋根瓦つきの巨大な門が現れる。
  その立派な構えの門をくぐると、これまた立派な日本庭園が目の前に現れる。広々とした池に巨大な石灯籠、さらには、枝ぶりも見事な木々が創り出す景色は、歴史の教科書で目にした雪舟の水墨画を何となく彷彿とさせた。
  さらにその奥には、どこの高級旅館かと思わせるような重厚な造りの日本家屋が。
  その建物が豪華なのは、決して外観だけでないことを俺は知っている。これまで結の友人として何度も泊めさせてもらったことがあるが、建物全体に歴史と風格が満ちていて、俺の家族が住まう建売の一戸建てとは、そもそもモノが違うなと子供心に感じたものだ。
  逆に、俺の家に泊まった結に言わせると、俺の家の方がこぢんまりとしていて住みやすそうだとのこと。
  まぁ、それはさておいて――
  そんな、広大な建物や庭を擁する敷地の片隅にそれはある。
  柳沢流合気道本部道場。
  大きさは大体百畳ほど。この手の道場としてはまぁ大きすぎず、かといって小さすぎずといった広さだろう。ほぼ正方形に近い柔道場とちがい、神棚に向かって横に広く、縦に狭いのは、その方が合気道場として勝手が良いからだ。
  また、公共のスポーツ施設のほとんどがビニール畳を用いるのとは違い、ここでは畳目が大きく、普通の畳よりも丈夫な琉球畳が全面に用いられている。
  その道場からは、早くも、布が畳をこする乾いた衣擦れの音が響いている……
  道場前の空き地に自転車を停め、相手の集中を解かないようにそっと引き戸を開く。
  案の定、道場の真ん中にはあいつがいた。
  道場には、神棚の面を除いて全ての壁に採光用の高窓が設けられている。
  その高窓から差し込む金色の陽差しの中、白い空手着に濃紺の袴を穿いた結が、俺たちがシャドー錬と称する一人稽古を延々と繰り返していた。
  うちの流派には、相手の攻撃方法に応じた体の捌き方と、そこから繋がる技に幾通りものパターンがある。初心者はまず、それらをシャドー錬で身体に叩き込むわけだが、初心者がこれをやっても、まるで出来の悪い二足歩行ロボットが不器用に手足を動かしているようにしか見えない。
  ところが有段者、それも結ほどの高段者のそれとなると、もはや技というよりは優雅な舞踏だ。
  無駄のない足運び。指先や爪先の先まで充ちる凛とした緊張。体を返すたびに翻る袴の裾が、優雅な印象をいやましにしている。
  が、その舞いが単なる舞踏と決定的に違うのは、それが、敵を一撃のもとに斃すために生み出された動きだということだ。
  緩やかに畳を舞ったかと思えば、次の瞬間にはひらりと翻し、見えない相手の喉元を突いている――かと思えば、今度は低く体を落とし、流れるような膝行で足払いをかける。
  研ぎ澄まされた刃のように、その動作は精確かつ凶暴だ。しかし同時に、どこまでも優雅で、仄かな色気さえ湛えている。
  そこに窓から差し込む陽光のベールも加わるなら、その姿は、もはや人知れず恍惚と舞いに耽る妖艶な天女と言っていい。
  うっかり見惚れていたせいだろう。
  不意にこちらを振り返った結とばったり目が合ってしまった。
 「……あ」
  何となく気まずくなって俺は目を逸らす。
  男同士、それも五歳の頃から毎日のように顔を合わせる相手に、何を今更という感もある。が、ある頃から俺は、なぜか結と目を合わせることを躊躇うようになっていた。
  理由は――俺にもよく分からない。
  そんな俺に構わず、不機嫌そうにむくれて結は言う。
 「遅かったね、遼」
  今朝は五時から、結と二人で演武の稽古をすることになっていた。その約束の時間に遅れたと、結は文句を言っているのだ。
 「自宅から徒歩三十秒のおめーに言われたかぁねーよ」
 「でも遅刻は遅刻だよ。ほら早く着替えて。稽古の時間がなくなっちゃうだろ」
 「あいよ」
  三和土で靴を脱いで靴箱にしまう。道場に上がる際には神棚に向けて正座し一礼。この道場における礼儀の一つだ。
  道場の時計を見ると、すでに五時を十分以上も回っている。なるほど、結が怒るのも無理はない、か……
  一般の門下生も集まっての朝練は午前六時から七時までで。それまでは、基本的に自由に道場を使うことができる。
  更衣室なんて気の利いたものはここにはない。いや一応、八畳ほどの小部屋が道場の奥にあるにはあるのだが、そこは基本的に、女性の門下生が着替えに使うための場所で、男性の門下生は、ほかの門下生の稽古の邪魔にならないよう道場の隅でこそこそと着替える。
  道場の隅で学ランとシャツを脱ぎ、ボストンバッグから取り出した道着に袖を通す。その間も、遅刻を咎める結の視線が背中にちくちくと刺さって痛いことこの上ない。
  さて、その道着だが、大抵の門下生は布地の丈夫な柔道着に袴を重ね、それを稽古着にしている。が、あのごわごわとした肌触りが苦手な俺は、柔道着ではなく布地が薄くて動きやすい空手着を使っている。
  空手着を身に着けたら、腰に黒帯を締め、その上から紺の袴を穿く。前後の紐をきつく締めたら、いよいよ身支度は完了だ。
  と――瞬間。
 「隙ありっ!」
  ごちっ。
  だしぬけに、硬いもので脳天をしたたか叩かれた。
 「ってぇぇ……」
  涙目を堪えつつ振り返ると、木剣を手にした結が、形の良い唇をむすっと尖らせたまま上目遣いで俺を睨め上げていた。
 「隙だらけだよ、遼。そんなんだから、先週もああやって不覚を取られるのさ。武道家たる者、いつ何どき敵に襲われても応対できるようでなきゃ駄目だ」
 「べ、別に俺は武道家じゃねぇし……」
 「それより、さっさと準備運動済ます。さもないと、ほら、また斬るよ!」
  さっきのシャドー錬で見せた色気はどこへやら。早くしろと木剣を振り回し、地団太を踏む今の結は完全に小学生だ。
  手早く準備運動を済ませ、まずは小手返しなどの基本的な技をお互いに掛け合う。
  小手返しというのは、相手の手を上から握り、体を捌きつつ相手の手首を捻るというシンプルな技だ。柳沢流だけでなく、他の流派の道場でも初心者用の技としてレクチャーされていて、技としては初歩の初歩、素人でもわりと手軽に使える簡単な護身術だ。
  先週、電車で痴漢を捕えるときに使ったのもこの技だった。まぁ、ちょっとした痴漢を撃退するには、それなりに効果的な技と言えるだろう。
  続けて、いくつかの基本技をお互いにかけ合い、そして投げ合う。
  合気道の稽古においては、技をかける技術と同じぐらい技を受ける技術が重視される。
  これは、初心者だけでなく黒帯の熟練者にとってもそうで、どんな熟練者も、自分より技量に劣る人間に投げさせてでも受けの技術を磨くことを怠らない。
  そうして軽く身体をアップしたら、いよいよ演武の稽古だ。
  今から約二か月後の十一月半ば、我が柳沢流では流派全体の演武大会を企画している。
  この大会には、本部の門下生はもちろん、全国にある支部からも代表者が参加する。
  中でも次期当主の座が約束される結の演武は、当たり前だが門下生や支部道場の注目の的となる。そんな注目度ナンバーワンの演武に、毎年のように受け身役を振られる俺にとって、演武大会は憂鬱なイベントでしかなかった。
  が、俺が結の相方を命じられる理由にも一理あって、ガキの頃からガタイが良く、今も身長が一八五を超える俺が、せいぜい一六〇ちょいのチビにぽんぽん投げられる絵面は、道場としても、合気道は非力な人間に向いた武道ですよと宣伝するにはうってつけのパフォーマンスになるわけだ。
  そういう事情もあって、ガキの頃から結の受けをやらされてきた俺だが、正直なことを言えば、今年は少し勘弁してほしいとも思っていて。
  事実、昨晩も俺は……
 「こらっ!」
  不意打ちのように腕を極められ、しまったと思った時には、もう俺の身体は畳にしたたか叩きつけられていた。
  ギブのつもりで、無事な方の手でばんばん畳を叩く。が、普段はここで縛めを解いてくれるはずの結は、今日に限ってはなかなか腕を解いてくれない。
 「いででででで! 離せ! マジで肩が外れるっ!」
  が、結の答えはにべもない。
 「稽古中に気を抜いた遼が悪い」
 「あ、ああそうだな悪かった! 俺が悪かったから!」
 「反省してる?」
 「あ、ああ、してるしてる」
 「本当?」
  ふわ、と嗅ぎ慣れた汗のにおいが鼻先に漂う。首を捻りつつ振り返ると、深く身を屈めた結が、畳に突っ伏する俺の顔を食い入るように覗き込んでいた。
  その、ほっそりとした顎の向こうには、これまた抓めば折れそうな鎖骨が、軽くはだけた道着の襟からちらりと覗いている……
 「ほ……本当、だよ」
  なぜか気まずくなって、目を逸らしつつ答える、と、
 「そう。ならいいけど」
  不承不承という顔で、ようやく腕の縛めを解いてくれた。
  身を起こしながら息をつき、軽く肩を回して調子を確かめる。とりあえず筋や関節は痛めていないようだ。
 「ねぇ」
 「な……今度は何だよ」
 「遼って最近ぼーっとしてること多いよね。それに、稽古の時も気が抜けてるっていうか」
 「……は?」
 「ひょっとして、僕が指導に当たってるからって気を抜いてる? だとしたら、まぁ、緊張感のある指導ができていない僕のせいでもあるんだろうけどさ」
  言葉では自分の非を挙げながら、その口調は明らかに俺の不注意を非難している。
  結が師範代としての役目を初めて任じられたのは、彼が十六歳の誕生日を迎えて間もない頃だった。彼の父である柳沢流二代目が、息子に次代当主としての自覚を身につけさせるべくそうしたのだが、以来、週二日、それも参加者の少ない朝稽古の時間に、結は指導者として道場に立っている。
  そして俺は、そんな結の稽古に必ず参加することにしている。それもこれも、心配性な結の母親に頼まれてそうしているのだが、それでも稽古中は、門下生の一人として普通に接している――つもりだ。
 「別に、そういうわけじゃねぇよ」
 「じゃあ何だよ。僕に非があって、それが直せることなら極力改善してみるけど?」
  相変わらずその口調は刺々しくて、反省を装いながら俺を攻撃していることは明らかだ。
 「ねぇ、遼」
 「こ……今度は何だよ」
 「君も知ってると思うけど、僕の演武は、門下生の人たちにとっては柳沢流の行く末を占う重要な試金石でもあるんだ。次期当主である僕がしょぼい演武なんか見せたら、支部の道場長ばかりじゃない、全門下生の人たちをがっかりさせることになる」
 「わ、わかってるよ、んなこと……」
  結にしてみれば、自分の演武が成功するか否かは、いわば師範代としての資質を試される重要な場面だ。たとえ万が一にでも気の抜けた演武などできないと思う気持ちは、毎年のように結の相方を務める身として俺もよく分かっている……つもりだ。
  合気道は、気を合わせるとも書くとおり、仕手、つまり技を仕掛ける者と受け、すなわち技を受ける者の気――呼吸とか感情とか、あるいはバイオリズムといった総合的な何か――が噛み合うことで初めて技が完成する。
  そんな合気道の技を模擬的に披露する演武には、だから、仕手と受けとの高度なユニゾンが要求される。初心者の演武の場合、ただ型を追うだけでもまぁ許されるが、結ほどの高段者の場合、そんな付け焼刃じみた演武では見る側がまず納得しない。
  そして結は、こと合気道に関してはつねに高いものを求める人間だ。その結が、今の俺の状態に苛立つ気持ちはよく分かる……
  ただ。
 「お前、ほんとに合気道のことしか頭にねぇのな」
  なぜ、そんな言葉を口にしてしまったのか俺自身にも分からない。ただ、どこまでも演武のことしか頭にない結に、つい苛立ちを感じてしまったのも事実で。
 「……そんなに俺が不安なら、別の奴と組めばいいだろ」
 「えっ、何?」
  怪訝そうに結が振り返る。
  小声で呟いた言葉は、どうやら結の耳には届かなかったらしい。何だか急に馬鹿らしくなった俺は、大人しく稽古に戻った。
 
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