14 / 18
別れ
しおりを挟む
「……またお母さんから電話ですよ」
伺うように振り返る朝比奈を、優人は横目で冷やかに睨み返す。
朝比奈には不評だが、マヨネーズをかけないと優人は冷やし中華を食べられない。決してマヨラーというわけではないのだが、こと、冷やし中華に限っては昔からそうだった。多分、鼻を刺すあの独特のスープの酸味が苦手なのだろう。
そのマヨネーズかけ冷やし中華を啜りながら、優人は、本日何度目かになる台詞を短く吐き捨てた。
「ほっとけ」
「ほ、ほっとけ、って……でも、こんなに何度もかけてくるってことは、その、結構大事な用なんじゃ、」
「まぁ大事は大事なんだろうな。何せ、あの女にとっちゃ自分たちの娘の将来がかかってるわけだし」
「お母さんの娘? それって……ええと、優人さんの妹さん?」
「……血筋的にはな」
「やっぱり妹さんじゃないですか。その方の将来がかかっているなら、それは、優人さんにとっても大事な用事なんじゃ、」
「だろうな」
他人事のように優人は吐き捨てる。実際、優人に言わせれば他人事以外の何者でもない。
酸味のあるスープを絡めた麺を、細切りにされたキュウリや卵焼きとともにずるずると啜る。キュウリのさくさくとした食感が小気味よく、夢中で貪るうちにいつの間にか綺麗に平らげてしまった。
背後の畳に手を突きながら、ふう、と天井を仰ぐ。
この部屋に引っ越して四か月。今では天井板の木目にもすっかり見慣れてしまった。決して新しい部屋ではないが、南向きの窓からたっぷりと日差しが差し込むせいか、古さのわりに暗い印象は全くない。
実家はそうではなかった。あそこも随分と古い建物だったが、構えばかり大仰で、その中身は陰湿そのものでしかなかった。掃き清められた日本庭園も、重厚な造りの日本家屋も、一見どこぞの旅館のように立派だが、籠る空気はただ重く、幼い優人は、ともすれば窒息しかねないほどだった。
それは多分、長年あの家が後生大事に守ってきた時代錯誤の家風がそうさせたのだろう。 が、所詮は老人たちの自己満足のために、そんなものを守ることに付き合わされる優人としてはたまったものではなかった。
あんな陰鬱な家に今また戻れと言われて、はいと即答できるほど優人もお人よしではない。まして――
「むしろ、お前の方にこそ重要な話かもしれないな」
「えっ? どういうことです?」
「話の成り行き次第では、ひょっとすると俺、ここを出て行かなきゃならないわけで」
わざとおどけた調子で言ってみる。なまじ現実味のある可能性なだけに、深刻顔で口にすると、むしろ本当に実現してしまいそうで忌まわしかったのだ。
「……えっ」
瞬間、朝比奈の顔が凍りつく。無理もない、毎晩あれほど優人を必要だと言って抱く朝比奈が、今の言葉にショックを覚えないわけがないのだ。
「ど、どういうことです、それは……」
「ああ。もし、じいちゃんが半身不随のまま退院するようなことがあったら、実家に戻って面倒を見ろだとよ。それも、その方が介護費用が安く済むからって理由でだぜ」
最後の方は、ほとんど吐き捨てるかたちになる。が、先日の出来事を思い返せば、厭でもこんな口調になってしまうのは否めない。
あれから母や祖母とは一切の連絡を断っている。祖父の病状については、だから優人は全く知らない。
ただ、あんな物言いをされて、それでも家族のことを心配してしまうほど優人はお人好しでもなければ、まして仏でもなかった。
おどけたように肩をすくめると、優人は自嘲交じりに吐き捨てた。
「今回のことでよーく分かった。あいつらにとっちゃ俺なんて所詮は便利な使用人にすぎなかったわけだ。俺が仕事を辞めて介護についた方が安上がりだと……ったく、人の人生を何だと思ってやがる」
「それは……帰ってあげた方がいいのでは」
「えっ?」
一瞬、優人は何を言われたのか分からなかった。
振り返ると、相変わらず朝比奈は優人の隣にきちんと正座したままじっと優人を見つめている。が、その表情は、ついさっき優人に「ここを出るかも」と聞かされたときの呆けたようなそれではなく、何かしらの意思を持った強いものだった。
「お前……今、何つった?」
「ですから……ご実家に戻って、お爺様の介護に当たった方がいいかと」
「は……?」
やっぱり分からない。というより、信じられない。
あの朝比奈が、この家を出て行けと……?
「優人さんのご家族がどのようなご事情を抱えているのか……ご家族に対して優人さんがどのような感情を抱いているか、僕には詳しいことはわかりません。でも……それでも、ご家族の誰かが困っているのなら、助けてあげた方がいいと僕は思います」
「か……家族っっても、単に血が繋がってるってだけで、別に、愛情とかそんなのは全然、」
「今は失われていても、いつか取り戻せるかもしれないじゃないですか!」
叩きつけるような声に優人は黙り込む。そうでなくとも優人は、思いもよらない朝比奈の言葉に動揺しているのだ。
――何故だ。お前は俺の……
「と……取り戻す? 元々ありもしないものをどうやって、」
「ないわけがありません。ないと思っているのは、それは優人さんの思い込みで、」
「ないものはねぇんだ! それとも何だ? お前まで俺を邪魔者扱いするのか!? 拒むのか!? 見捨てるのか!? あいつらみたいに!」
「……見捨てる?」
「ああそうだよ。俺はあいつらに棄てられた! 楽しい新婚生活を送るには前の夫の子供なんざ目障りだって、そんな理由で俺は母親に見捨てられたんだ! ……そんな奴のために、今度はじいちゃんの介護を引き受けろだと!? 冗談じゃねぇよ!」
優人の言葉に、今度は朝比奈がぐっと口を引き結ぶ。
そういえば、今まで優人が家族について朝比奈に打ち明けたことは一度もなく、だからこそ朝比奈は、家に戻れなどという、優人に言わせればふざけているとしか言えない台詞も平気で口にできたのだろう。
が、今の言葉を聞けば、さすがにその意見も改めるだろう……
「それでも」
「は?」
「戻った方がいいと……僕は思います」
「な……ん、だって?」
「仕事も……それに部屋も、替えがきかないということはありません。でも家族は……一度失ってしまえば、もう、替えなどききませんから」
それを言えば――お前だって。
悔しさとも苛立ちともつかない感情に、優人はぎゅっと奥歯を噛みしめる。が、そんな優人の感情に気づかない朝比奈は、なおも言った。
「戻ってあげてください。僕からもお願いします」
その言葉に、優人の中で何かが切れた。
「わかったよ」
「えっ、本当ですか、」
「ああ」
振り返り、冷ややかに朝比奈を睨みつける。
「お前が、俺のことをどんなふうに考えてるかよぉーくわかった。……散々俺のこと必要だとかヌカしておいて、結局、お前もあいつらと同類だったわけだ」
その言葉に、ようやく自分が優人にどう思われているかに気づいたらしい朝比奈は、滑稽なほどさっと表情を凍らせた。
「ち……違います! 僕は、」
「うるせぇ裏切者!」
叩きつけるように怒鳴りつける。かつて、宮野に別れを告げられた時にも感じることのなかった憎悪が、身内にふつふつと込み上げるのを優人は止めることができなかった。
分かってくれると信じていた。
どんな時でも自分に味方してくれると、寄り添ってくれると信じていた……なのに。
「ああそうだよ裏切者だ! それも最低最悪のな!」
ひっと朝比奈は息を呑むと、言い訳でもするつもりだろう、何かを言いかけるように口を開き、だが結局は言葉が見つからずに諦めたのか、黙って長い睫毛を伏せた。
そんな朝比奈の姿は、今の優人にはあまりにも見るに堪えなかった。
「失せろ。もう二度と、お前の顔なんか見たくない」
最後通牒のつもりで優人は吐き捨てた。
これでいい――
どうせ自分は最初から独りだった。誰かを求めてつらい思いを味わうぐらいなら、いっそ、このまま独りの人生を貫いた方がいい。
家族など要らない。
家族など所詮、いざという時に面倒事をなすりつけ合うだけの醜い関係でしかない。血のつながりにしても、所詮は生物学的な問題にすぎない。絆は単なる美名。そんなものには何の価値もない。
宮野の一件で、優人は厭というほど学んだ。
他人は誰も、誰一人、優人の幸福など心から望んではいない。口では尤もらしいことを言いながら――否、そういう連中に限って、優人の幸福など歯牙にもかけていないのだ。
優人の幸福を守れるのは、優人一人だけだ。だから――
守ってやる。守り抜いてやる。俺の幸せを。たとえ独りきりになっても。
「……?」
そういえば、あれから朝比奈の返事がない。横目でそっと様子を伺うと、さっきまで隣にいたはずの朝比奈は、いつの間にか跡形もなく姿を消していた。
伺うように振り返る朝比奈を、優人は横目で冷やかに睨み返す。
朝比奈には不評だが、マヨネーズをかけないと優人は冷やし中華を食べられない。決してマヨラーというわけではないのだが、こと、冷やし中華に限っては昔からそうだった。多分、鼻を刺すあの独特のスープの酸味が苦手なのだろう。
そのマヨネーズかけ冷やし中華を啜りながら、優人は、本日何度目かになる台詞を短く吐き捨てた。
「ほっとけ」
「ほ、ほっとけ、って……でも、こんなに何度もかけてくるってことは、その、結構大事な用なんじゃ、」
「まぁ大事は大事なんだろうな。何せ、あの女にとっちゃ自分たちの娘の将来がかかってるわけだし」
「お母さんの娘? それって……ええと、優人さんの妹さん?」
「……血筋的にはな」
「やっぱり妹さんじゃないですか。その方の将来がかかっているなら、それは、優人さんにとっても大事な用事なんじゃ、」
「だろうな」
他人事のように優人は吐き捨てる。実際、優人に言わせれば他人事以外の何者でもない。
酸味のあるスープを絡めた麺を、細切りにされたキュウリや卵焼きとともにずるずると啜る。キュウリのさくさくとした食感が小気味よく、夢中で貪るうちにいつの間にか綺麗に平らげてしまった。
背後の畳に手を突きながら、ふう、と天井を仰ぐ。
この部屋に引っ越して四か月。今では天井板の木目にもすっかり見慣れてしまった。決して新しい部屋ではないが、南向きの窓からたっぷりと日差しが差し込むせいか、古さのわりに暗い印象は全くない。
実家はそうではなかった。あそこも随分と古い建物だったが、構えばかり大仰で、その中身は陰湿そのものでしかなかった。掃き清められた日本庭園も、重厚な造りの日本家屋も、一見どこぞの旅館のように立派だが、籠る空気はただ重く、幼い優人は、ともすれば窒息しかねないほどだった。
それは多分、長年あの家が後生大事に守ってきた時代錯誤の家風がそうさせたのだろう。 が、所詮は老人たちの自己満足のために、そんなものを守ることに付き合わされる優人としてはたまったものではなかった。
あんな陰鬱な家に今また戻れと言われて、はいと即答できるほど優人もお人よしではない。まして――
「むしろ、お前の方にこそ重要な話かもしれないな」
「えっ? どういうことです?」
「話の成り行き次第では、ひょっとすると俺、ここを出て行かなきゃならないわけで」
わざとおどけた調子で言ってみる。なまじ現実味のある可能性なだけに、深刻顔で口にすると、むしろ本当に実現してしまいそうで忌まわしかったのだ。
「……えっ」
瞬間、朝比奈の顔が凍りつく。無理もない、毎晩あれほど優人を必要だと言って抱く朝比奈が、今の言葉にショックを覚えないわけがないのだ。
「ど、どういうことです、それは……」
「ああ。もし、じいちゃんが半身不随のまま退院するようなことがあったら、実家に戻って面倒を見ろだとよ。それも、その方が介護費用が安く済むからって理由でだぜ」
最後の方は、ほとんど吐き捨てるかたちになる。が、先日の出来事を思い返せば、厭でもこんな口調になってしまうのは否めない。
あれから母や祖母とは一切の連絡を断っている。祖父の病状については、だから優人は全く知らない。
ただ、あんな物言いをされて、それでも家族のことを心配してしまうほど優人はお人好しでもなければ、まして仏でもなかった。
おどけたように肩をすくめると、優人は自嘲交じりに吐き捨てた。
「今回のことでよーく分かった。あいつらにとっちゃ俺なんて所詮は便利な使用人にすぎなかったわけだ。俺が仕事を辞めて介護についた方が安上がりだと……ったく、人の人生を何だと思ってやがる」
「それは……帰ってあげた方がいいのでは」
「えっ?」
一瞬、優人は何を言われたのか分からなかった。
振り返ると、相変わらず朝比奈は優人の隣にきちんと正座したままじっと優人を見つめている。が、その表情は、ついさっき優人に「ここを出るかも」と聞かされたときの呆けたようなそれではなく、何かしらの意思を持った強いものだった。
「お前……今、何つった?」
「ですから……ご実家に戻って、お爺様の介護に当たった方がいいかと」
「は……?」
やっぱり分からない。というより、信じられない。
あの朝比奈が、この家を出て行けと……?
「優人さんのご家族がどのようなご事情を抱えているのか……ご家族に対して優人さんがどのような感情を抱いているか、僕には詳しいことはわかりません。でも……それでも、ご家族の誰かが困っているのなら、助けてあげた方がいいと僕は思います」
「か……家族っっても、単に血が繋がってるってだけで、別に、愛情とかそんなのは全然、」
「今は失われていても、いつか取り戻せるかもしれないじゃないですか!」
叩きつけるような声に優人は黙り込む。そうでなくとも優人は、思いもよらない朝比奈の言葉に動揺しているのだ。
――何故だ。お前は俺の……
「と……取り戻す? 元々ありもしないものをどうやって、」
「ないわけがありません。ないと思っているのは、それは優人さんの思い込みで、」
「ないものはねぇんだ! それとも何だ? お前まで俺を邪魔者扱いするのか!? 拒むのか!? 見捨てるのか!? あいつらみたいに!」
「……見捨てる?」
「ああそうだよ。俺はあいつらに棄てられた! 楽しい新婚生活を送るには前の夫の子供なんざ目障りだって、そんな理由で俺は母親に見捨てられたんだ! ……そんな奴のために、今度はじいちゃんの介護を引き受けろだと!? 冗談じゃねぇよ!」
優人の言葉に、今度は朝比奈がぐっと口を引き結ぶ。
そういえば、今まで優人が家族について朝比奈に打ち明けたことは一度もなく、だからこそ朝比奈は、家に戻れなどという、優人に言わせればふざけているとしか言えない台詞も平気で口にできたのだろう。
が、今の言葉を聞けば、さすがにその意見も改めるだろう……
「それでも」
「は?」
「戻った方がいいと……僕は思います」
「な……ん、だって?」
「仕事も……それに部屋も、替えがきかないということはありません。でも家族は……一度失ってしまえば、もう、替えなどききませんから」
それを言えば――お前だって。
悔しさとも苛立ちともつかない感情に、優人はぎゅっと奥歯を噛みしめる。が、そんな優人の感情に気づかない朝比奈は、なおも言った。
「戻ってあげてください。僕からもお願いします」
その言葉に、優人の中で何かが切れた。
「わかったよ」
「えっ、本当ですか、」
「ああ」
振り返り、冷ややかに朝比奈を睨みつける。
「お前が、俺のことをどんなふうに考えてるかよぉーくわかった。……散々俺のこと必要だとかヌカしておいて、結局、お前もあいつらと同類だったわけだ」
その言葉に、ようやく自分が優人にどう思われているかに気づいたらしい朝比奈は、滑稽なほどさっと表情を凍らせた。
「ち……違います! 僕は、」
「うるせぇ裏切者!」
叩きつけるように怒鳴りつける。かつて、宮野に別れを告げられた時にも感じることのなかった憎悪が、身内にふつふつと込み上げるのを優人は止めることができなかった。
分かってくれると信じていた。
どんな時でも自分に味方してくれると、寄り添ってくれると信じていた……なのに。
「ああそうだよ裏切者だ! それも最低最悪のな!」
ひっと朝比奈は息を呑むと、言い訳でもするつもりだろう、何かを言いかけるように口を開き、だが結局は言葉が見つからずに諦めたのか、黙って長い睫毛を伏せた。
そんな朝比奈の姿は、今の優人にはあまりにも見るに堪えなかった。
「失せろ。もう二度と、お前の顔なんか見たくない」
最後通牒のつもりで優人は吐き捨てた。
これでいい――
どうせ自分は最初から独りだった。誰かを求めてつらい思いを味わうぐらいなら、いっそ、このまま独りの人生を貫いた方がいい。
家族など要らない。
家族など所詮、いざという時に面倒事をなすりつけ合うだけの醜い関係でしかない。血のつながりにしても、所詮は生物学的な問題にすぎない。絆は単なる美名。そんなものには何の価値もない。
宮野の一件で、優人は厭というほど学んだ。
他人は誰も、誰一人、優人の幸福など心から望んではいない。口では尤もらしいことを言いながら――否、そういう連中に限って、優人の幸福など歯牙にもかけていないのだ。
優人の幸福を守れるのは、優人一人だけだ。だから――
守ってやる。守り抜いてやる。俺の幸せを。たとえ独りきりになっても。
「……?」
そういえば、あれから朝比奈の返事がない。横目でそっと様子を伺うと、さっきまで隣にいたはずの朝比奈は、いつの間にか跡形もなく姿を消していた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
17
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる