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家族

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 夜間用通用口を抜け、案内板を頼りに目的の部屋に向かう。 
  すっかり灯りの落ちた建物の中で、唯一、光が灯っているのがどうやら優人の目指す救急救命室らしい。
  その救命室から漏れる明かりを浴びて、廊下に見覚えのある二つの影が立っていた。
  すらりとした身体を包むポロシャツにスラックス。いかにも日曜日のマイホームパパといった格好は優人の義父の磯部氏だろう。普段は正月の挨拶時ぐらいにしか顔を合わせないが、あの路傍のゴミでも見るような眼差しは年に一度も浴びれば十分だ。
  そして、その傍らに幽霊のように侍るワンピース姿の小柄な女は。
 「じいちゃんの容体は」
  どちらにかけるともなく声をかける。とりわけ女の方には、極力視線を向けないよう気をつけた。
  その女の方が、優人の問いに答える。
 「ええ、何とか命だけは取り留めたのだけど……」
  言いながら女は、隣に立つ夫の顔色を横目でそっと伺う。こんな時間に煩わせて申し訳ないと言わんばかりの遜った視線に、優人はふと烈しい苛立ちを覚えた。
  仮にもあんたの親がこんなことになっているのに、その卑屈な態度は何だ――
  とはいえ、母親とその再婚相手とのパワーバランスを知らないわけでもない優人は、苛立ちはしても今更それを指摘することはしない。
  バツ持ちの女が再婚する相手としては破格のスペックだった磯部氏を、優人の母は今も尊敬、というより畏敬している。畏れているのだから逆らうことは許されず、ふた昔前の良妻賢母さながらに夫の背後に従っているのは息子の目から見ても滑稽でしかない。
 「だけど……何だよ」
  せめてものつもりで、そんな苛立ちを叩きつけるように鋭く問い直す。と、
 「ひょっとすると、お父さんには重度の麻痺が残るかもしれない」
 「……え?」
  代わりに磯部氏が口にした答えに、今度は優人が打ちのめされる羽目になった。
  ――麻痺? ……どういうことだ?
  曰く、今回祖父が起こした脳梗塞は、たとえ手術が成功し命を取り留めたとしても、半身不随などの深刻な麻痺が残る可能性もある病気だとのこと。その場合、言うまでもないことだが必要となるのが家族、あるいはヘルパーによる介護だ。
 「それでね優人、その、介護の件なんだけど、」
  母が何かを言いかけたその言葉を、磯部の声が鋭く遮る。
 「きみ、実家に戻って介護を手伝いなさい」
 「は……?」
  信じられない気持ちで優人は母親の夫を見つめ返す。
  今、この馬鹿は何と言った……?
 「な……何を言ってるんですか……実家からだと俺の会社は遠いし、そもそも会社に勤めていたら、介護に割く時間なんてほとんど、」
 「だったら辞めればいいだろう」
 「は?」
 「聞けばきみの給料は、せいぜい二十万と少し……これぐらいの金額なら、むしろホームに預ける方が高くつくというものだ。なに、必要な生活費なら、私の方から出してやらんでもないから安心しろ。――なぁ、真由子」
  真由子と呼ばれた優人の母は、少し驚いたように切れ長の目を見開くと、それから、何かを諦めたように力なく項垂れた。
 「え、ええ……もちろん私たちも、手伝える限りのことはするわ……でも私たちも、これから娘の大学進学でまとまったお金が要るし、お父さんのホーム代に割く余裕は……正直、今はないの」
 「……あんたなぁ」
  磯部にではなく、母親に向かって優人は呻く。
  あんたという呼び方を強いて使ったのは、今は目の前の女を母親とは呼びたくなかったからだ。それほどに、優人の母に対する憎悪はかつてないほどに増幅していた。
  が、そんな優人の気を知らない母は、なおも縋るように言う。
 「ねぇお願い。あの子の……あなたの妹のためにも、ここは私たちに力を貸してちょうだい。ほら私たち、家族じゃないの。家族っていうのは、こういう時にお互い支え合うために存在するものでしょ?」
  咄嗟に妹と言い換えたのは、少しでも優人の心を動かすことを狙っての苦肉の策に違いない。が、今の優人には、ただ浅ましいだけの悪知恵でしかなかった。
  そもそも妹の存在を引き合いに出されたところで、父母に倣って優人をただの厄介人としか見ない不愛想な小娘に情など湧くはずもない。
 「ねぇお願い、優人、」
 「何が家族だふざけんな!」
  空気を震わす怒号が、甘える母親の言葉を一蹴する。何事かという顔で処置室から数人の医師や看護師が顔を覗かせたが、優人はそんなことには構わなかった。
  とにかく許せなかった。
  今まで散々自分を拒んでおいて、いざとなれば手のひらを返したように家族などという美名を振りかざす身勝手なこの女が。よしんばこの女の言うとおり、それが家族というものだとするなら、優人はそんなものを必要としなかったし、何より欲しくなかった。
  気まずく凍りついた空気を、最初に破ったのは磯部だった。
 「きみ」
  動揺を紛らわすつもりだろう、眼鏡のつるを指先でくいと上げながら、
 「おじいちゃんが最悪の状態になるかもしれないという時に、きみは何とも思わないのか? 十年以上もきみを育ててくれた、いわば父親同然の存在なのだろう?」
 「だから何なんですか」
 「は?」
 「確かに祖父には養育を受けました。大学にも出してもらった。ですが、愛された記憶は一つもない。祖母にしても同様です。そこにいる母……オバサンにも」
  自分との距離を突きつけるべく、わざとのように言い直す。が、てっきり子供のように腹を立てると思われた母は、その言葉には何の反応も見せず、むしろ聞こえなかったかのように黙り込んでしまった。改めて思い知った息子との距離感に愕然としたのか、それとも単に意図が伝わらなかったのか。
 「……それとも何ですか?」
  母から磯部に目を移し、冷やかに睨みつけながら優人は言った。
 「邪魔者は邪魔者同士、あの古臭い家の中で仲良く過ごしてろ、と、そうおっしゃりたいわけですかね?」
  図星を突かれたのだろう。磯部は、普段は仮面のような顔をさっと赤くした。
 「き、君……仮にも父親に対して何だその言い方は!」
 「俺の父親は、顔も知らないどこぞの無責任クソ野郎ですよ。んで俺は、そのクソ野郎とあんたの奥さんがベッドで散々気持ちいいことやって生まれたクソ野郎ジュニアです」
  にやにやと露悪的な嗤笑を浮かべて磯部の顔を覗き込む。すでに崩れかけた磯部の仮面じみた顔が、いよいよ怒りで崩壊するのを優人はこの上なく愉快に眺めた。
  やがて。
 「もういい不愉快だ、帰る!」
  言い捨てると、磯部は逃げるようにきびすを返した。
 「真由子も行くぞ! いつまでもこんな奴に構って、梨花に一人で留守番させておくわけにはいかないからな」
  そんな夫の背中を、優人の母親は慌てて引き止める。
 「ちょ、ちょっと待ってよあなた……お父さんはどうするの?」
 「金なら明日にでも持ってくればいい! とにかく俺は帰る!」
  父のことを問われて金がどうのと答えるあたり、どうやら磯部氏は、義理の父の容体よりも金のことが気にかかるらしい。捨て台詞よろしく言い捨てると、あとは振り返ることなく夜間通用口の方へと消えていった。
 
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