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奇妙な同居人
しおりを挟む「おっかえりなさぁい!」
ドアを開くなり部屋から飛び出した声に、毎度のことながら優人はびくりとなる。
いちいちそんな居酒屋の店員みたいな声を出さなければ家主を出迎えられないのかとうんざりしながら、優人はその奇妙な同居人をじろり見上げた。
すらりとした長身に、キャラもののエプロンさえ似合ってしまうアイドル並みの甘い風貌は、相手が女なら速攻で落とされていたに違いないが、あいにく優人は男だった。
この同居人と出会って、かれこれ半月になる。
最初は戸惑いの方が多かった〝彼〟との共同生活だが、今では、この男の存在にもすっかり慣れてしまい、ドアを開くと彼がいるという状況も、まぁ、ある程度は受け入れられるようになっていた。
そんなわけで、ドアを開いて飛び出すこの大声にもまぁ馴れはしたのだけど、かといって、やかましくないかと言えばそうでもなく。
「うるせぇよ」
わざと苛立ちを込めて答えると、
「だめですよ優人さん。おかえりと言われたらただいまと返す。常識じゃないですか。学校で教わらなかったんですか?」
さも当然とばかりに答える男に、優人は危うくキレかける。
それを言えば、いい歳こいた大の男が〝部屋の精霊〟を自称した揚句、当然のように居候を決め込んでいる時点でそれは常識的とは言えないだろう。
「そもそも非常識な存在が、偉そうに常識語ってんじゃねぇよ」
さらに睨みを効かせて言うと、自称部屋の精は、
「うまい、山田くん座布団一枚!」
と、懲りもせずに言った。いや実際、全く懲りていないのだろう。
「うるせぇ」
ごっ、と踵で床を踏みつける。と、
「痛いっ!」
慌てて額を押さえる自称部屋の精。たて続けに優人が床を踏みつけると、さらに痛い痛いと泣きそうな声で言った。
「や、やめてくださいよ優人さん、乱暴はダメです乱暴は、あたっ!」
「暴力じゃない。躾だ」
躾を終えると、優人はようやくネクタイを解く。
本気なのか、それとも単なるフリなのかは分からないが、とりあえず床や壁を叩くと彼はひどく痛がる。フリだとすればなかなか考えた設定だが、芸がないのは、どこを叩いても頭しか痛がってくれないところだ。せめて寝室は背中、居間は腹という調子で、踏みつける場所で痛がる場所も変われば面白かったのだが。
「あっ、優人さん」
涙目で頭を押さえながら、思い出したように部屋の精が振り返る。
「先にごはんにします? おふろにします? そ、れ、と、も……」
「風呂」
「えー、せめて最後まで言わせてくださいよぉ――いだっ!」
返事の代わりに、優人は思いっきり床を蹴りつけた。
「つーか朝比奈」
「はい」
この自称〝部屋の精〟のことを、優人は便宜上『朝比奈』と呼んでいる。言うまでもなく、建物の名称である『朝比奈ハイツ』にあやかったもので、最初は何だか安易だと渋られたが、だったらポチでどうだと優人が提案したところ、それ以来ひと言も文句を言わなくなった。
「弁当にあんなつまんねーもん描いてんじゃねぇよ」
「あっ、見てくれました?」
「ああ見たよ。ついでに見られたよ。会社の奴にばっちりな」
「ひょっとして、愛妻弁当だなんて言われたりしませんでした?」
端正な顔をにまにまとだらしなく緩める朝比奈を、優人はぎろり睨む。
「つーか、何でそこで嬉しそうな顔するんだお前は」
「そりゃ嬉しいにきまってますよぉ。優人さんの奥さんに間違われるなんて……うふ、うふふふふふふ」
「……きめぇ」
どうもこのバカを相手にしていると疲ればかりが無駄に募って困る。そもそも相手は人間ですらなくて、だから人間の常識が通じないのは仕方ないにしても、この突っ込みどころがありすぎて逆に突っ込みに困る物言いは何とかしてほしい。
ここはさっさと風呂に入ってしまうに限る。手早くジャケットを脱ぎ捨てると、いつものようにそれを朝比奈に放った――と、
「ああ、これが一日染み込んだ優人さんのにおい……」
ジャケットの裏地に顔を突っ込み、恍惚の表情でくんかくんかやりだす。
「きめぇことやってんじゃねぇよバカ!」
慌ててジャケットをひったくる。すると朝比奈は唇を尖らせて、
「えーだって、優人さんが一日働いて染み込んだにおいですよ?」
「知るか! つーか、んなもん嗅ぐな気持ち悪いっっ!」
「んなとは何ですか、んなとは! 言わせてもらいますけどね、めっちゃくちゃいいにおいなんですよ優人さんの汗! 昨日だって、優人さんの布団を干してたらシーツから優人さんの汗と……のにおいがふわーっと」
「だから、そういうキモいことをドヤ顔で言うなテメーは! ――ちょっと待て。なんか今、すげぇ言葉を濁したろ」
「……いえ別に……」
「おいっ! そこで目ぇそらすな! いいから答えろ、お前、何を嗅いだ!?」
「それは……まぁ仕方ないですよ優人さん。男なら誰しもある生理現象ということで、」
「仕方ないじゃねぇだろおっっ! 嗅ぐな! 今度嗅いだらマジで出て行ってやる!」
すると朝比奈はさっと顔を蒼くして、
「そ、それだけは勘弁してください! 優人さんに出て行かれたら僕、寂しくて死んじゃいますよぉぉ」
勢いで口にした言葉だが、案外てきめんだったらしい。
「だったら、二度と俺のものを嗅ぐな。いいな?」
「ふぁい」
ほとんど涙声で頷く朝比奈。言動だけ見ればまるで子供だが、その外見はモデルも顔負けのイケメンというのが逆に体裁が悪い。
ふたたびジャケットを受け取り、さらにスラックスも受け取って居間に向かう朝比奈の背中を、優人はやれやれと見送った。ただでさえ少なかった残存HPが、今のバカなやりとりで一気にゼロ近くまで削がれた気がする。
もそもそとシャツを脱ぎながら風呂場に向かう。洗面所には古いが大きな鏡があり、優人は風呂に入る前に必ずこの鏡で自分の身体をチェックすることにしている。
子供の頃から体格は貧相な方だった。大学時代はそれでも武道をやって多少は筋肉をつけたのだが、社会人になると、連日続く激務でトレーニングの時間もままならず、ふたたび元の貧相な身体に戻ってしまった。
いやこの際、体格はどうでもいい。
問題は、二十歳を超えてもなおガキっぽい印象を残すこの童顔だ。
子供の頃から女の子みたいだと言われ続けたこの顔は、成長するにつれ多少は男らしさを増したものの、人並みに比べて無駄に大きな目や、逞しさに欠ける丸みをおびた頬のラインは相変わらずで、いっこうに大人の魅力を手に入れる気配を見せない。
大学の頃はそれでも、せいぜいコンパで弄られる程度の害でよかった。が、社会人になると、時にこの容貌がビジネスに影響することもあるから気が気でない。とくに優人のような営業職の場合、客にナメられるか不信を与えたら終わりなのだ。この手の子供っぽい風貌は、だから優人に言わせればハンデでしかなかった。
だからこそ優人は、客の前ではできるだけ大人びた言動を取るよう心がけている。もっとも家に帰ると、その心がけは決まってあのバカに台無しにされてしまうのだが。
下着を脱衣所の洗濯機に抛り込み、さっそく風呂に入る。
湯加減は熱すぎず、むしろ少しぬるめなのが初夏のこの時期にはありがたい。一気に肩の上までつかると、ふぅ、とジジむさい溜息が腹の底から溢れた。
湯船の縁に手脚を預け、湯気にかすんだ天井の白熱灯をぼんやり見上げる。
こうして仕事終わりにゆったり風呂に浸かる時間こそ、社会人としての醍醐味……
「ゆーと、さんっ」
「うわあ!」
いきなり視界に飛び込んできた顔に、慌てた優人はずるりと湯船に沈み込む。ひとしきり手足をばたつかせてようやくお湯から顔を上げると、いつのまに湧いて出たのだろう、湯船から朝比奈がぷっかり顔を出していた。
頭にはなぜか畳んだ手拭い。恰好だけ見れば実に正しい入浴スタイルだ。が――
「人がゆっくりしてるところをいきなり脅かすんじゃねぇよ! あと、風呂は一人で入らせろっていつも言ってるだろ!」
「すみません。優人さんが独りで寂しそうでしたので、つい」
悪びれもせず答えると、朝比奈は腹立たしいほどにっこりと微笑んだ。
その姿は、だが、よく見るとかなり気色が悪い。
そもそもここのバスタブは、お世辞にも決して広い方ではなく、全身で浸かろうと思えば、小柄な優人でも膝を折って入らなければならないほどなのだ。そんなバスタブに、まして男二人が同時に入れるわけがなく、ではどうして朝比奈がお湯から顔を出しているのかというと、そもそも水面から下の身体が存在しないのだった。
最初にこの光景を見たとき、優人は結構本気で腰を抜かしてしまって、しばらく風呂から上がることができなかった。もっとも、今となってはすっかり見慣れてしまい、不必要に驚くこともなくなったのだが、それでも気持ち悪いことに変わりはない。
「ついって何だよついって! っていうか勝手に人をぼっち扱いすんなっ!」
「でも……一人より二人の方が楽しくていいと思うんですけど」
「そりゃお前の主観だろうが。俺は一人がいいんだよ! つーかとっとと出ろ!」
このっ、このっ、と手でお湯を浴びせると、遊んでくれると勘違いしたのか、何もないお湯の中からにゅうと腕を伸ばし、ばしゃばしゃとお湯を弾き返してきた。
「負けませんよ! えいっ、えいえいっ」
「そうじゃねぇよ! いいから消えろっっ!」
とうとう業を煮やした優人、朝比奈の頭を湯船の中にぎゅうと押さえつける。頭は何の抵抗もなく湯船の中にずぼりと沈み、そして跡形もなく消えた。
あいつのことだ、死んではいないだろう。少し後味が悪いが、とりあえずこれでゆっくりできる――と。
「ぶはぁ!」
その手を跳ねつけて、朝比奈の身体が勢いよく水面に踊り出す。イルカショーさながらの水飛沫に思わずうっと目をつむり、濡れた顔をぬぐって再び瞼を開いたときには、ほんの目と鼻の先に、男としては一番見たくないものが我が物顔でぶら下がっていた。
しかも悔しいことに、優人のそれよりも立派ときている……。
「んもう苦しいですよ――って、なに見てるんですか優人さんのえっち!」
なぜか嬉しそうに手でそこを隠す朝比奈。そんな朝比奈を、もはや突っ込む気も起こらず黙って見上げていると、
「あ、あれ? ひょっとして僕の身体に見惚れちゃった……とか?」
「は?」
その言葉にようやく優人は我に返ると、洗い場に転がしてあった洗面器を手に取り、フリスビーの要領で思いきり朝比奈の顔に叩きつけた。
かこん、と、洗面器は小気味よい音を立てて朝比奈の額にヒットした。
「いたい……うう……今日の優人さんはなんだか暴力的だなぁ」
「やかましい! とっとと出ろっ!」
朝比奈は涙声でなおも「うう」と呻くと、洗面器を当てられた額をさすりながら、のろのろとバスタブを出た。
その身体を、優人は横目でそっと盗み見る。
腹立たしいことに朝比奈は、部屋のくせに体格だけは妙に立派だったりするのだ。しなやかに伸びた四肢に、痩せてはいるが程よく筋肉のついた身体は、ただでさえ自分の貧相な身体にコンプレックスを持つ優人としては、どうしても羨まずにはいられない。
もっとも、そんなことは本人の前では口が裂けても言えないが。
「ところで優人さん」
そのしなやかな背中がふと振り返り、言った。
「また痩せました? さっき鏡越しに見て思ったんですけど」
返事の代わりに、優人は洗面器に汲んだお湯を勢いよくぶっかけた。
「あっ床が濡れちゃったじゃないですか! うち木造だから、湿気とか、そういうのホント困るんですよぉ」
「知るか」
バスタブから身を乗り出すようにしてノブに手を伸ばすと、優人は内側からドアをぴしゃりと閉ざした。
風呂から上がると、ついさっき朝比奈が濡れたとぶうたれた床は綺麗に拭き清められ、脱衣所の洗濯機の上には着替えが用意されていた。
いちいち子供じみた言動の目立つ朝比奈だが、なぜかこういう気だけは良く回る。本来なら絶対に許せなかった朝比奈との同居に、最終的に優人が折れた理由もそこにあった。
あの自称〝部屋の精〟は、家事の面ではとにかく良く気が回り、そして、何をやらせても抜群に上手いのだ。
朝になれば食卓に朝食を用意してくれるし、会社から戻ると晩飯が準備されている。溜まった洗濯物はきちんと洗濯され、おまけに風呂が沸かされているとなると、これはこれで便利だなと思ってしまうのも人情で。
連日朝から深夜まで仕事づめを強いられる優人は、当然だが家に帰っても家事などやる気が起こらず、かといって、休日に溜まった家事をこなそうにも疲れて身体が動かない。
そこへくると、タダで家事をこなしてくれる彼の存在は、まぁ、ありがたいと言えないわけでもなかった。
部屋着にしているTシャツとジャージパンツに着替えて居間に入ると、テーブルにはすでに夕食の準備が整えられていた。
テーブルといっても洒落たものではなくて、量販店で買った安物のコタツ台だ。そのコタツ台に、唐揚げやポテトサラダ、ごぼうのきんぴら炒め、青菜のおひたしと、これまた庶民的な料理が所狭しと並んでいる。
ただ一品一品が、一人暮らしの男には恐ろしく量が多い。
「あ、上がりました?」
そんな食卓の横では、右手にしゃもじ、左手に空の茶碗を手にしたエプロン姿の朝比奈がきちんと正座している。
「今日はどれぐらい召し上がります?」
「少なめで」
「えー、ダメですよ優人さん、男の子なんだからもっと食べないと」
「だったら最初から訊くな」
が結局、茶碗にはいつもより多めにご飯がよそわれた。
正直、このおかずの量で山盛り一杯の白飯というのはかなりきつい。しかも時刻は、すでに午後の十時を回っている。
「優人さん、これ、最近話題の塩麹で作った大根のお漬物です。どうぞ食べてみてください」
言いながら輪切り大根を敷きつめたタッパーをぐいぐい突き出してくる朝比奈を、優人はぎろり睨みつけた。
「こんだけおかずを用意しといて、まだ食わせる気かよ」
「大丈夫ですよ、男の子なんですし」
どうもこのバカの頭には、男イコールとにかく食いしん坊という等式が成り立っているらしい。が、もともと小食な優人には正直迷惑な思い込みだ。
相変わらず朝比奈は、タッパーを手にしたまま満面の笑みで優人を見つめている。
「ほっとけよ。……食いたきゃ勝手に食うし」
テレビのリモコンに手を伸ばし、適当にチャンネルを合わせる。しばらくザッピングしてみるが、これといって見たいと思える番組がなく、とりあえず適当に選んだバラエティをBGM代わりにだらだら眺めていると、
「優人さん、今日は契約取れました?」
「……いや」
「ということは……これで七連敗かぁ。やっぱり投資用不動産の売買ってむずかしいんですねぇ。あ、でも気を落とさないでくださいね。まだ仕事をはじめて一か月ですし、これからですよ、これから、」
「ああもううるさいっ! 何なんだよお前は! 人がテレビ見てるのに横から話しかけてくんなっ!」
「だって……寂しいじゃないですか」
「何が寂しいだよ子供じゃあるまいし!」
まるで理由にならない答えに、いよいよ優人がキレかけた、その時だ。
「ん?」
長押のハンガーにかけたスーツから、かすかなバイブ音がして優人は顔を上げる。
立ち上がり、スーツの懐からスマホを取り出した優人は、そこに表示されたメールの差出人名に思わず眉を寄せた。
念のためメールを開き、文面を読む。
――今度、おじいちゃんの傘寿のお祝いをしようと思います。よければ優人の都合の良い日時を教えてください。 母より
「どうしたんですか、優人さん」
朝比奈が怪訝そうに優人の顔を見上げる。その顔が不安げなのは、よっぽど優人が剣呑な表情を浮かべていたということだろう。
「いや、別に」
そっけなく答えると、優人は手元のメールを速攻で消去した。
応援ありがとうございます!
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