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出会い
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レイの住むアパートに奇妙な一家が引っ越してきたのは、彼がまだ八歳の頃、ベーブ=ルース擁するニューヨークヤンキースがワールドシリーズで初優勝した一九二三年のことだった。
「おい、あれ中国人じゃねぇか?」
ボールを投げる手を止めたトムが、レイに駆け寄りそう耳打ちする。振り返ると、レイの住むボロアパートの前に何だか見慣れない幌馬車が停められ、その幌馬車から、さらに見慣れない風体の一団がせっせと荷物を引き下ろしているのが見えた。
多分、家族連れなのだろう、父親と思しきジャケット姿の男性に、赤ん坊を背負ったワンピース姿の女性、ちょこまかと荷車の周りを駆け回る小さな男の子、それから、父親のいいつけに従いながら黙々と荷物をアパートに運び入れる、下の子よりは大きいが、レイたちに較べればずっと小柄な少年が一人。
ただ異様なのは、父親と思われる男性も、それから赤ん坊を背負った女性も、やけに背丈が小さく、何だか子供が無理やり大人の衣服を着ているように見えたことだ。顔立ちものっぺりとして、いかにも中華料理屋で働く中国人の小間使いのようだ。
髪も、レイやトムたちがブロンドや茶髪なのに対し、一家は皆、そろってカラスのように黒い髪をしている。ただ肌の方は、赤銅色に焼けた父親のそれ以外は、よく言われる黄色ではなく紙のように真っ白だった。
「いや案外、日本人(ジャップ)かもしれねぇぜ」
「ジャップ?」
初めて耳にする言葉にレイが訊き返すのへ、頬が一面そばかすで覆われた赤ら髪のトムは、まるで害虫でも見るような目つきで一家を睨みながら答えた。
「ああ。最近この辺りに増えてんだよ。それはそうと、お前も可哀想だよなレイ」
「俺が? どうして?」
「そりゃそうさ」
トムの代わりに、チビでデブのジュードが引き受ける。三度の飯よりもコークが大好きという筋金入りのコーク・マニアで、今もチョコ・バーで口の周りをべとべとにしながら片手にはコークの瓶をしっかりと握っている。
「だってあいつら、言葉は通じねぇくせにいっつもニヤニヤしてさ、何考えてるかさっぱり分かんねぇんだもん。おまけにあいつら、本当は仕事を休まなきゃいけない日曜日も普通に店を開きやがって。おかげでボビーおじさんが客を取られて大変だって嘆いてたぜ」
彼の言うボビーおじさんとは、この二ブロック先で雑貨屋を営む彼の叔父のことだ。そういえば最近ボビーの機嫌がよろしくないのは、そういう理由があったのか。
「おい見ろよ」
「ん?」
トムが顎で指す方を見ると、今まさに大きい方の子供が馬車から大きな荷物を引っぱり出して抱えるところだった。ところがこの荷物、遠目で見てもやたらと馬鹿でかく、子供が一人で抱えられる大きさでは到底なかった。そうでなくても彼の身体はおそろしく貧相で、マッチ棒のような手脚は見ているだけでぽきんと折れてしまいそうだ。
父親は馬車の主らしき男と何やら喋っているし、母親は下の子供と赤ん坊の世話で手一杯のようだ。このままでは彼一人、荷物に押し潰されてしまう――と思ったまさにその時、レイが怖れていたことが起こった。重みに耐えられなくなったのか、少年の膝ががくり崩れ、さらにまずいことに、中途半端に引っぱり出された荷物が、その間も自重でずるずる少年の身体にのしかかってゆく。
気づくとレイは少年めがけて駆け出していた。
「お、おい待てよ、レイ」
背後で呼び止める声が聞こえたが、構わずレイは走り、危うく少年が荷物に押し潰されるというその時、すんでのところで荷物ごと少年の身体を受け止めた。
実際に触れた少年の身体は、見た目に輪をかけてほっそりとしていた。
「……え?」
少年は、何が起こったのか分からないというようにレイの腕の中でふりかえると、仰ぐようにレイを見上げた。
玉子のような白くて丸い顔に、かすかに紅潮した頬、薄桃色の唇。長い睫毛で縁取られた黒い大粒の眸は、うっかりすると心が吸い込まれそうなほど深く澄んでいる。そうかと思えば小動物のように抜け目なく動いて、いかにも利発な印象だ。
その黒い眸に今、レイの姿が――
何だろう、この気持ちは。
ざわざわして、なのにほっとする。この不思議な気持ちは一体……?
「あ、ありがとう」
我に返り、それが少年の発した言葉だと気づいた後で、意外にも正確な英語の発音にレイは驚いた。
「何だお前、英語喋れるのか?」
「う、うん……だって僕、アメリカの生まれだし……」
「え? お前、ジャップじゃねぇの?」
すると少年は、何だか恥ずかしいような、情けないような妙な顔をした。ただでさえ白かった顔が余計に青褪めて、あれ? とレイが思ったとき、ほとんど独り言のように少年は言った。腕に触れる小さな身体がかすかに慄えていた。
「二度と……その名前で僕らを呼ばないで」
どういうことだ、と振り返ると、友人二人がにやにやとからかうようにレイを眺めている。どうやら〝ジャップ〟というのは少年やその一族に対する侮辱の言葉だったらしい。
レイはかっと耳の後ろが熱くなるのを感じた。一つは友人への怒りのために。もう一つは、何も知らずに侮辱的な言葉を口にしたことの恥ずかしさのために。
医者を務める彼の父親から、レイは常日頃、ルーツや肌の色で誰かを差別することを厳しく戒められていた。そうでなくともレイは、この子にだけは悪い印象を抱かせたくなかった。ひときわ綺麗な彼の眸がそう思わせたのかもしれない。
「ご、ごめん……そういう意味だとは知らなくて……」
慌てて謝ると、少年は、ううん、と微笑んだ。
「知らなかったんじゃ仕方ないよね」
とりあえず荷物を荷車に押し戻すと、レイは少年の前に右手を突き出した。
「レイだ。レイ=アンダース。ここのアパートの二階に住んでる。よろしく」
その手を、少年のほっそりとした手が握り返す。うっかり力加減を間違えると、蝶の標本のように崩れてしまうかと思うほど、それは繊細な造りをしていた。
「キッペイ=マカベだ。今度、父がリトル・トーキョーの理髪店に勤めることになって、エンパイヤズバレーから引っ越してきたんだ」
「キッペー?」
うん、と柘榴(ざくろ)色の唇を緩める少年に、なぜかレイは照れくさくなって俯いた。その実、喉の奥では刻みつけるように何度も少年の名前を復唱していた。
「おい、あれ中国人じゃねぇか?」
ボールを投げる手を止めたトムが、レイに駆け寄りそう耳打ちする。振り返ると、レイの住むボロアパートの前に何だか見慣れない幌馬車が停められ、その幌馬車から、さらに見慣れない風体の一団がせっせと荷物を引き下ろしているのが見えた。
多分、家族連れなのだろう、父親と思しきジャケット姿の男性に、赤ん坊を背負ったワンピース姿の女性、ちょこまかと荷車の周りを駆け回る小さな男の子、それから、父親のいいつけに従いながら黙々と荷物をアパートに運び入れる、下の子よりは大きいが、レイたちに較べればずっと小柄な少年が一人。
ただ異様なのは、父親と思われる男性も、それから赤ん坊を背負った女性も、やけに背丈が小さく、何だか子供が無理やり大人の衣服を着ているように見えたことだ。顔立ちものっぺりとして、いかにも中華料理屋で働く中国人の小間使いのようだ。
髪も、レイやトムたちがブロンドや茶髪なのに対し、一家は皆、そろってカラスのように黒い髪をしている。ただ肌の方は、赤銅色に焼けた父親のそれ以外は、よく言われる黄色ではなく紙のように真っ白だった。
「いや案外、日本人(ジャップ)かもしれねぇぜ」
「ジャップ?」
初めて耳にする言葉にレイが訊き返すのへ、頬が一面そばかすで覆われた赤ら髪のトムは、まるで害虫でも見るような目つきで一家を睨みながら答えた。
「ああ。最近この辺りに増えてんだよ。それはそうと、お前も可哀想だよなレイ」
「俺が? どうして?」
「そりゃそうさ」
トムの代わりに、チビでデブのジュードが引き受ける。三度の飯よりもコークが大好きという筋金入りのコーク・マニアで、今もチョコ・バーで口の周りをべとべとにしながら片手にはコークの瓶をしっかりと握っている。
「だってあいつら、言葉は通じねぇくせにいっつもニヤニヤしてさ、何考えてるかさっぱり分かんねぇんだもん。おまけにあいつら、本当は仕事を休まなきゃいけない日曜日も普通に店を開きやがって。おかげでボビーおじさんが客を取られて大変だって嘆いてたぜ」
彼の言うボビーおじさんとは、この二ブロック先で雑貨屋を営む彼の叔父のことだ。そういえば最近ボビーの機嫌がよろしくないのは、そういう理由があったのか。
「おい見ろよ」
「ん?」
トムが顎で指す方を見ると、今まさに大きい方の子供が馬車から大きな荷物を引っぱり出して抱えるところだった。ところがこの荷物、遠目で見てもやたらと馬鹿でかく、子供が一人で抱えられる大きさでは到底なかった。そうでなくても彼の身体はおそろしく貧相で、マッチ棒のような手脚は見ているだけでぽきんと折れてしまいそうだ。
父親は馬車の主らしき男と何やら喋っているし、母親は下の子供と赤ん坊の世話で手一杯のようだ。このままでは彼一人、荷物に押し潰されてしまう――と思ったまさにその時、レイが怖れていたことが起こった。重みに耐えられなくなったのか、少年の膝ががくり崩れ、さらにまずいことに、中途半端に引っぱり出された荷物が、その間も自重でずるずる少年の身体にのしかかってゆく。
気づくとレイは少年めがけて駆け出していた。
「お、おい待てよ、レイ」
背後で呼び止める声が聞こえたが、構わずレイは走り、危うく少年が荷物に押し潰されるというその時、すんでのところで荷物ごと少年の身体を受け止めた。
実際に触れた少年の身体は、見た目に輪をかけてほっそりとしていた。
「……え?」
少年は、何が起こったのか分からないというようにレイの腕の中でふりかえると、仰ぐようにレイを見上げた。
玉子のような白くて丸い顔に、かすかに紅潮した頬、薄桃色の唇。長い睫毛で縁取られた黒い大粒の眸は、うっかりすると心が吸い込まれそうなほど深く澄んでいる。そうかと思えば小動物のように抜け目なく動いて、いかにも利発な印象だ。
その黒い眸に今、レイの姿が――
何だろう、この気持ちは。
ざわざわして、なのにほっとする。この不思議な気持ちは一体……?
「あ、ありがとう」
我に返り、それが少年の発した言葉だと気づいた後で、意外にも正確な英語の発音にレイは驚いた。
「何だお前、英語喋れるのか?」
「う、うん……だって僕、アメリカの生まれだし……」
「え? お前、ジャップじゃねぇの?」
すると少年は、何だか恥ずかしいような、情けないような妙な顔をした。ただでさえ白かった顔が余計に青褪めて、あれ? とレイが思ったとき、ほとんど独り言のように少年は言った。腕に触れる小さな身体がかすかに慄えていた。
「二度と……その名前で僕らを呼ばないで」
どういうことだ、と振り返ると、友人二人がにやにやとからかうようにレイを眺めている。どうやら〝ジャップ〟というのは少年やその一族に対する侮辱の言葉だったらしい。
レイはかっと耳の後ろが熱くなるのを感じた。一つは友人への怒りのために。もう一つは、何も知らずに侮辱的な言葉を口にしたことの恥ずかしさのために。
医者を務める彼の父親から、レイは常日頃、ルーツや肌の色で誰かを差別することを厳しく戒められていた。そうでなくともレイは、この子にだけは悪い印象を抱かせたくなかった。ひときわ綺麗な彼の眸がそう思わせたのかもしれない。
「ご、ごめん……そういう意味だとは知らなくて……」
慌てて謝ると、少年は、ううん、と微笑んだ。
「知らなかったんじゃ仕方ないよね」
とりあえず荷物を荷車に押し戻すと、レイは少年の前に右手を突き出した。
「レイだ。レイ=アンダース。ここのアパートの二階に住んでる。よろしく」
その手を、少年のほっそりとした手が握り返す。うっかり力加減を間違えると、蝶の標本のように崩れてしまうかと思うほど、それは繊細な造りをしていた。
「キッペイ=マカベだ。今度、父がリトル・トーキョーの理髪店に勤めることになって、エンパイヤズバレーから引っ越してきたんだ」
「キッペー?」
うん、と柘榴(ざくろ)色の唇を緩める少年に、なぜかレイは照れくさくなって俯いた。その実、喉の奥では刻みつけるように何度も少年の名前を復唱していた。
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