IDLE OR DIE

路地裏乃猫

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 パーティーが終わり、秘書の種田に教わった部屋へと向かう。同じホテルの一二〇七号室。カードキーはあらかじめ受け取っていたから、ノックの後はそのまま部屋に入る。
 部屋の中は真っ暗だった。入り口のダウンライトが一つ灯る以外は、照明は全て落とされている。その、真っ暗な部屋の奥で、窓越しに広がる夜景の煌めきには目もくれずに、一人の男が黙々とラップトップPCのキーボードを叩いている。大方、新しく起案する法案の雛型でも打ち込んでいるのだろう。
 あの日以来、父が笑ったことは一度もない。
 もちろん仕事のために笑うことはある。が、プライベートで心から笑ったことは、ひびきが覚えている限り一度もない。あの日ー-そう、あれはひびきが四歳のときのこと。その日、ひびきは両親と一緒に遊園地に出かけていた。当時はまだ若手官僚として経済産業省に勤めていた父は、今ほどではないにせよ多忙で、その日は、久しぶりに取れた貴重な休日だった。
 政治家と違い、いち官僚にいちいち警護などつくはずもない。何より彼らは、ごく普通の家族として過ごすことを好んだ。なまじ母親が有名人だったぶん、ごく普通の、静かな暮らしに憧れていたのだ。
 だから気付けなかった。密かに迫りくる悪意に。
 あれは、確かジェットコースターだったと記憶している。絶叫系が苦手な父におねだりして一緒に乗ってもらった。涙目になる父と、そんな父を「ひびきのために頑張って」と励ました母。今となっては、父には少し申し訳ないけど美しい思い出だ。直後、あんなことが起こらなければ本当にただの素敵な思い出で終わっていただろう。
 その男はー-今では名前も思い出せないその男は、この日、硫酸を詰めた瓶を懐に隠し持っていた。後の捜査で明らかになったことだが、男は、以前から星屑きららを襲撃する機会を狙っていたらしい。それも、わざわざ夫の目の前で襲うべく、家族全員の行動パターンを調べ上げていたのだそうだ。
 そうして遂に訪れたチャンス。男が狙ったのは、親子がアトラクションから出てきた直後の無防備な瞬間だった。
 --死ねェェェ星屑きららッッ!
 男がぶちまけた硫酸は、しかし母ではなく、その傍らにいた娘のひびきに直撃する。硫酸を浴びたひびきは、その後、救急車で近くの病院に搬送され、一方の犯人は駆け付けた警察官により署へと連行された。後の裁判で、犯人には執行猶予なしの懲役刑が科せられる。だが、母はこの事件がきっかけで、家から一歩も外に出られなくなってしまった。
 ただ。
 そこで悲劇が終わっていれば、父もひびきも、こんなことにはならなかったのだ。
「パパ」
 部屋の電気を灯し、声をかける。ようやく我に返った父は、思い出したように振り返り、それから、「ああ、ひびきか」と目頭を揉む。
「すまない。気付かなかった」
「ううん、いいの・・・そんなことより、いつも言ってるでしょ。仕事の時はちゃんと部屋の明かりをつけてって。余計に目が悪くなるでしょ」
「わかってるよ。ただ・・・暗い方が集中できるんだ。余計なことを考えずに済む」
「それは、わからなくもないけど・・・ところでパパ、何か飲む?」
 テーブルのメニュー表を眺めながら問う。ところが父は「いや」と答えたきり、また手元のPCに目を戻してしまう。
「さっきミネラルウォーターを注文した。そろそろ届くだろう」
 折しも部屋の呼び鈴が鳴り、ボーイが二人分のグラスを持って現れる。まだ新人と思しきボーイは、ひびきの爛れた顔を見るなり一瞬ぎょっとなると、それから気まずそうに曖昧に微笑み、グラスを置いてそそくさと部屋を出て行った。
 運ばれたグラスの一つを父はひびきに差し出すと、残る一つを一気に呷り、そしてまた仕事に戻る。まるで機械のよう。
 でも機械だって、休みなく働けばいつかは壊れてしまう。
 いや、あるいはもうとっくに壊れているのかも。父も、それにひびき自身も。
「悪かったな、急に呼び出して」
「ううん。塚本さんにせがまれたんでしょ。じゃあしょうがないわ」
「そう。どうしてもひびきに会いたいって聞かなくてね。まぁ、パパとしても、あの人にはいつも良い記事を書いてもらってるし、頭が上がらないんだよ」
 彼の記事ならひびきも目を通している。が、典型的な提灯記事で、正直、読んでいるこっちが恥ずかしくなる内容だ。あんな人間でも大学で教鞭を執れるのかと呆れるが、この世には、〝正しい〟ことさえ主張していればそれなりの地位を約束される世界があるらしい。
 だが、その〝正しさ〟は常に移ろいゆくものだ。
 例えば、かつてはアイドルになること、それを応援することは、どちらかといえば正しい部類だった。少なくとも違法ではなかった。だからこそ、多くの少年少女がアイドルを夢見たのだし、それを応援する人間も数多くいた。トップアイドルになるべく努力する少年少女、と、それを全力で推すファンの関係は、時に美談として語られもした。
 父が、その〝正しさ〟を変えるまでは。
 父が政治家を志したのは、母の死がきっかけだった。事件の後、重度の鬱病を患った母は、ある日、自宅のベランダから飛び降り、死んだ。ハウスキーパーが目を離した一瞬の出来事だった。
 その様子を、退院したばかりのひびきも偶然目にしていた。小柄な人だったから、一瞬、そのまま空に飛び立ってしまうかのように見えたことをよく覚えている。・・・でも、あの人は人間で、当たり前に墜落した彼女は、搬送先の病院で治療の甲斐もなく死んでしまった。
 そんな母の死を、メディアはまたもセンセーショナルに報じた。
 連日、顔写真つきの記事がゴシップ誌を飾った。父とひびきは毎日のようにマイクとカメラを向けられ、ひびきは悲しみのせいではなく、激変した日々のために口がきけなくなった。一体、私たちが何をしたのだろう。母は確かにアイドルだった。でも、同時にごく普通の人間でもあったのだ。ベランダから飛び出せば重力に負けて墜落する、同じ血肉を持つ人間だった。なのに。
 ー-ごめんな、ひびき。
 あの頃、父は毎日のようにひびきに謝った。
 ー-こんな世界、間違ってるよな。ごめんな。
 後で知ったことだが、この頃、すでに父は政党から立候補の打診を受けていたらしい。政党としては、ニュースで俄かに高まった父の知名度を利用したかったのだろう。何にせよ父は、直後の選挙で政界入りを果たす。連日メディアで報じられたことによる知名度と同情票とが追い風になったかたちだ。
 だが、それだけでは単なる時の人で終わっていた。父を終わらせなかったのは、この世界の〝正しさ〟を変えてやるという鋼の決意だ。
 その父は、今も走り続けている。
 母を奪い、父とひびきを傷つけたこの世界を変えるために。
「・・・あまり、頑張り過ぎないでね」
 向かいのソファに腰を下ろし、夜景に目を向ける。まるで銀河みたい。一つ一つの輝きが夜空に輝く星のよう。でも、あれは星などではなくて、どこかの家族が、あるいは恋人たちが営む暮らしの輝きなのだ。
 あんなことが起きなければー-
 世界がこんなかたちじゃなければ、私たちも、あの明かりの一つとして無邪気に輝いていられたんだろうか。パパとママと私の三人で。
「ところでさっき、文朝の記者がママの追悼記事を書きたいと言ってきたわ。どうする? パパ」
「いいんじゃないか。ただし、記事は今の法案が通ってからにしてもらおう」
「それってー-」
 現在審議中の法案は、報道も含めて他者の肖像権を冒してはならない、というもの。事件直後の速報や指名手配の写真など、一部の例外は認めるにせよ、基本的に実在人間の肖像のメディア使用は禁止される。速報性のない文朝のそれには、母の写真の利用は当然認められないだろう。
 さすがに文章にまで手を入れると、それは純粋な検閲になる。いま父を支持する人々も、そうなると一気に手のひらを裏返すだろう。父もそのあたりの勘所をわかっているから、これ以上の戦線拡大は求めない。一方で、写真の利用が叶わなくなると、どうあっても記事はインパクトを欠くものになる。売り上げが上がらなければ、いずれあの手のゴシップ誌は先細りになるだろう。最小限のリスクで最大の効果を上げる。父は、とても賢い人だとひびきは思う。
「そうね、それがいいわ」
 やがて仕事がひと段落ついたのか、父はラップトップを閉じる。が、部屋の明かりはつけない。この夜景を今の状態でもう少し眺めていたいのかな、とひびきは思う。むしろそうであってほしい。
「先日、新宿でまたひとつ地下ライブハウスが摘発されたことは知っているね」
「ええ」
「そこで拘束された主催者が、取り調べで奇妙なことを口走っているそうだ。ライブ当日、ステージに燐光学園の生徒が飛び入りで参加し、アイドルとして歌った、と。事実だとすれば由々しき事態だ。何のために君をあの学園に送り出したか、ひびき、覚えているね?」
「アイドル文化の絶滅。聖地、燐光学園でその芽を根絶やしにすれば、復権を目論む連中にとっては大きなダメージになる。だから」
「そうだ。もう誰にも、ママのような悲しい運命は辿らせない。生身の人間が背負うことのできる想いには、そもそも限界があるんだ。限界が来れば、不本意にせよ誰かを裏切らずにはいられなくなる。そして・・・それまで寄せられた憧憬や崇敬、思慕は容易く憎悪に変わってしまう」
「・・・ええ」
 事件後、警察署に連行された犯人は、そこで母に対するあらん限りの罵詈雑言を並べ立てたという。ファンを裏切った売女。金目当てでエリートの男と結婚した尻軽女。これぐらいはまだ優しい方で、調書には他にも、普通の女性ならまず耐えられない屈辱的な言葉が並んだ。
 それらを取調室のマジックミラー越しに聞きながら、父は何度も奴を殴り殺してやると叫び、そのたびに捜査員に引き留められたという。それまで一度も声を荒げたことのなかった温厚な父が、だ。
 アイドルなんて。
 そう、あんなものは所詮、人の心と人生を狂わすだけの麻薬だ。
「調べによると、現場から逃走した人物の中には、組織に協力していた燐光学園の生徒も含まれていたらしい。こちらは、逮捕者の証言ですでに身元が明らかになっている。詳細は追ってメールで送る」
「逮捕するの?」
「判断するのは警察だ。ただ現状、逮捕者の証言以外にこれという証拠は挙がっていないようだ。現状、令状の請求は難しいから、引っ張るにしても任意同行というかたちでやるだろう」
「そう・・・ごめんなさい。私の力が及ばなくて」
 すると父は、安易に慰めるでもなく「そうだな」とあっさり肯定する。
「改めて、生徒会長として風紀の引き締めに励んでもらいたい。僕の娘である君には、決して難しいことではないはずだ」
「はい」
 僕の娘。母が死んでから、父はこの言い回しを多用するようになった。まるで、ひびきは母とは違うのだと言いたげに。それは多分、父なりの励ましなのだろう。君は、自ら死を選ぶような人間じゃない、と。
 アイドルになって、集めた賞賛で自ら身を亡ぼすような人間じゃない、と。
「ひびき」
 立ち上がった父が、ミニテーブルを回り込み、ひびきのソファに歩み寄る。そのまま身を乗り出すようにして、ひびきの額に軽く口づけてきた。硫酸で肌が溶け落ちた醜い額に。
「愛してるよ、ひびき。さっきはああ言ったが、本当は、ひびきが幸せなら、それだけでパパは充分なんだ」
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