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61 〝彼〟に託されたもの
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次に目を覚ましたのは、全身を襲う痒みのせいだった。
うおおおお何だこの痒みは!
そんな尋常ならざる感覚に飛び起きると、そこは王宮にある俺、いやアルカディアの寝室で、ただ、漂う雰囲気はなぜか瀟洒とは程遠いものだった。強いて似た雰囲気を挙げるなら、そう、卒修論締め切り前の研究室に漂う荒みきったそれ。床やテーブルにレッドブルだとかモンスターの空き缶がみっちりと並ぶあの感じだ。ここが戦場ならともかく、こんな天蓋つきの洒落たベッド周りにどうして――ところが、謎は意外にもあっさり氷解する。ベッドの周りにはソファやワゴンがいくつも置かれ、それらのソファにはもれなく疲れた顔で眠る聖女さんが横たわっている。中にはマリーの姿もあって、やはり、ひどく疲れた顔で眠りこけていた。
普段は食事を運ぶワゴンには、なぜか新品のシーツや包帯、謎の液体を封じた小瓶が山と盛られている。何というか……病院、っぽいな。そういえば、漂う空気も何となく薬品臭い。
「つーか痒っ!」
ガウンをはだけ、胸板を見る。瞬間、思いがけない光景に俺はぎょっとなる。胸板を覆う巨大なカサブタ。さらに前をはだけると、カサブタは脇腹やへその辺りまで至っている。どうも全身がこの調子らしい。いやーそりゃ痒いわけだぜ!
さいわいカサブタは乾いており、こうした火傷につきものの水膨れや体液の漏出は見られない。ただ、カサブタの規模からして俺が負ったダメージは相当なものだったんだろう。ワンチャン前世の医療技術でも匙を投げられていたかもしれないレベルの大火傷だ。
ひょっとして……いまベッドの周りで眠りこける聖女さんたちは、俺を治療するために集められたとか? だとすると、うう、つくづく申し訳ない。元は俺の無茶が原因でこんなことになったのだ。結果、彼女たちはその治療のために駆り出され、へとへとになるまで働かされたのだろう。
そんな中に一人だけ、俺のベッドに突っ伏して眠る男。珍しく乱れた若草色の髪と、その隙間から覗く、やけに整った顔。ただ、その顔は今はひどく窶れ、目元には濃い隈が浮かんでいる。そういや前回の襲撃時は、俺が死にかけてるなんて情報を世間に流しながら、一方では教会の協力をきっちり拒んでいたっけ。けど今回ばかりは、藁にも縋る思いで教会に頭を下げたんだろうな。ははっ、つくづく調子の良い奴――
いや、うん、マジでごめん。
散々迷惑かけて振り回して、挙句、こいつにとっては許されざることを俺はやらかしてしまった。もし、こいつが俺の所業を知ったら、きっと、いや間違いなく許してはくれないだろう。……ああそうだ、俺の気持ちなんか関係なく、こいつが望むことを、望む通りに叶えてやればよかった。
アルカディアを、この世界に帰してやればよかった――なのに。
「ごめんな……ごめん、ウェリナ」
若草色の髪に手を伸ばし、そろり、と撫でる。少しべとついているのは、しばらくシャワーを浴びていないせいだろう。普段は嫌味なぐらい隙なく身だしなみを整えたこいつが。
それだけ、俺につきっきりだったということか。そういえば夢うつつにも――
――君さえ、生きていてくれたら、それで……っ!
違う。あんなの……ただの聞き間違いだ。生死の境を彷徨う俺の脳裏にふとよぎった都合の良い幻。……ああ、そうだ。こいつが許すわけがない。あんなにもアルカディアを想い、愛し、そのために俺をアルカディアに塗り変えようとすらした男だ。そのウェリナが……言うわけないんだ、あんな……
それでも。
俺は、戻ってきてしまった。お前に会いたくて。お前に愛されたくて。……ああ、そうだよ。俺はさ、お前に愛されたかったんだ。アルカディアの代わりとしてじゃなく。でも……それは全部俺のエゴで、やっぱりお前は、アルカディアに戻ってきてほしかったんだよな。
うんしょ、と足を動かしてみる。結構長いこと寝かされていたせいだろうか、腕も足も固まってうまく動かない。それでもゆっくりと、ストレッチを交えつつ関節をほぐしてゆき、ようやく三角座り程度ならこなせるようになった頃、それまで死んだようにベッドに突っ伏していたウェリナがもぞもぞと身を起こす。
――しまった。
そう、なぜか俺は身構える。どうやら俺は、こいつにバレないよう部屋を抜け出るつもりだったらしい。我が事なのに「らしい」なんて表現も妙な話だが、実際、目を覚ましたウェリナに狼狽える自分が確かにいた。
そんなウェリナのエメラルドの双眸が、おもむろに俺の姿を捉える。
「……おはよう」
つい口にしてしまってから、いやおはようって何だよと俺は自嘲する。いっそ……またぞろアルカディアを演じてやろうか。彼の魂が戻ってきたっつー体裁で……いや、やっぱ無理だな。俺よりもずっと深く彼を知るウェリナを、今後一生騙し通せるとは思えない。
なので俺は答える。俺として。
「戻ってきてやったぜ」
「うん」
いとも素直にウェリナは頷く。ウェリナは気づいているはずだ。目の前の男がアルカディアではなく、名も知らぬ異世界人であることを。
そう、気づいているはずなんだ……なのに。
「何、だよ……その目」
するとウェリナは、またしても「うん」と頷きながら涙ぐんだ目をしばたたかせる。……やめてくれよ。そんな、感極まった目をされたら期待しちまうだろ。夢うつつに交わした会話が嘘じゃなかったのかも、なんて。
俺でもいいのか、って。
お前に俺として愛されたいと、願ってもいいのか、って。
そんな俺に、ウェリナはそっと手を伸ばしてくる。やがて、その指先が俺の頬に触れ、ざり、と奇妙な触感を肌に与える。カサブタ越しの、痒みを伴うもどかしい感触。それでもウェリナの手つきは切ないほどに優しく、温かい。
「おかえり。……待ってた。君を」
ベッドに乗り出しながら、ウェリナがくちびるを寄せてくる。それを、俺はさりげなく顔を伏せて避ける。いや、君をって何だよそれ。だからやめろっってんだろ期待しちまうだろそんな――なのに、俺の目頭はいじましくも熱を持つ。苦しい。罪悪感で胸がはちきれそうだ。そうでなくとも、ただでさえイザベラの熱風に焼かれた肺はうまく酸素を取り込んでくれない。
やめろ。もうやめてくれ。俺は、アルカディアじゃ――
「君、名前は」
「……は?」
思わず顔を上げた俺のくちびるを、ふ、と柔らかなものが覆う。すぐに舌が滑り込んできて、俺はしかし、それを拒むことなく受け入れる。いや違う、拒めないんだ。久しぶりに新鮮な水にありついた砂漠の旅人みたいに、俺の身体は、心は――魂は、ウェリナのぬくもりを存分に貪る。
会いたかった。
こいつにも、それにアルカディアにも、正直、悪いとは思ってる。でも……不思議と後悔はない。そう、本音を言えば俺は後悔してなどいないのだ。だって会いたかったんだから、俺が。
そんな俺の汚さ醜さなど知らないウェリナは、無我夢中で俺を貪りながらベッドに押し倒してくる。ウェリナの唾液は甘く、体臭は怖いほどにかぐわしい。そういえば、宮殿の廊下で初めてこいつと二人きりで喋ったとき、柑橘を思わせるビターな香りにわけもなくドキドキしたっけ。ひょっとするとあの時にはもう、俺の身体や心はこいつに囚われていたんだろう。あるいは、そう、魂さえも。
「……で、名前は?」
長い長いキスの後で、それでも名残を惜しむようにおもむろにくちびるを解くと、そう、ウェリナは問うてくる。
「名前を知りたい。君の名前を」
「そ、れは……」
やはり、俺が俺だと――アルカディアではないと認識しているということか。その上で、じゃあ今のキスが意味するのは……
「いいのか、俺ので」
「ああ」
低く濡れた声が、ウェリナの喉からこぼれる。瞬間、俺の胸の奥で箍が外れたように温かなものが溢れる。安堵と、それ以上に大きな喜び。願ってはならなかった願い。それが、まさか――
「俺の……名前は……」
知って欲しい、俺の名前を。
その声で、くちびるで呼んで欲しい。
その、不意にこみ上げた欲望を俺はしかし、ぐっと喉奥に押し込める。別に、今更アルカディアとは別人だと知られるのが怖くなったわけじゃない。ただ俺は、ここで俺の名を名乗るのは悪い気がしたのだ。ウェリナに、ではなくアルカディアに。
おそらく彼は、今この瞬間も俺の名前で俺の人生を生きている。彼が、元の世界に帰れないことをどう捉えているのかはわからない。ただ、あの記事のコメントから垣間見えた彼の心は、決して今の状況を悲観しているふうではなかった。むしろ彼なりに〝俺〟としての第二の人生を前向きに踏み出しているようでもあった。
「――アルカディア」
すると案の定、ウェリナは苦い顔をする。かつての恋人を名乗られて不愉快に感じたのか、それとも単に気遣われたと捉えたのか。まぁ、ぶっちゃけ俺にしてみればどっちでもいいんだ。
アルカディアが〝俺〟を全力で生きるなら、俺も〝アルカディア〟を全力で生きる。別に彼を演じようってわけじゃない。クリステン王国の王太子アルカディアとして、全力で生きるってことだ。いやーこの国の民衆は運が良いなぁ。骨の髄まで近代民主主義が染みついた先進的で科学的な転生野郎が将来の国王に内定してんだからなぁハッハッハ吹かすぜ異世界チートの風! ……とまぁ、イキるのはそのぐらいにしてだ。とりあえず、元の名前についてはもういいのだ。強いて言うならそれは、俺とアルカディアだけの秘密。
「ま、そういうことだから。……何なら引き続き、アルって呼んでもらっても構わないぜ。呼びにくいってんなら、アルカディアでもいい」
「えっ、いや、けど、」
「うるせぇな。俺がアルカディアっったらアルカディアなんだよ。……それ以外の名前を名乗るつもりはねぇ。お前も……だから、受け入れろ」
彼がもう、この世界には存在しない事実を。
そう言外に伝えると、ウェリナは痛みを堪えるように目を窄め、やがて、「ああ」と呻きながら俺に口づけてくる。今度のキスはやけにしょっぱくて、それでも俺は、あえてそのことには触れずに奴のくちびるを受け入れる。
そんな俺の脳裏にふとよぎる、彼の――アルカディアの最後の言葉。
――僕は、彼のヒーローにはなれなかった。でも君なら、あるいは。
彼のヒーロー? それはつまり……ウェリナの? わからない。でも、あの声は確かに、俺に何かを託したがっているようだった。
俺は……彼の何を託されたのだろう。いや、それ以前に、あの声色は――
うおおおお何だこの痒みは!
そんな尋常ならざる感覚に飛び起きると、そこは王宮にある俺、いやアルカディアの寝室で、ただ、漂う雰囲気はなぜか瀟洒とは程遠いものだった。強いて似た雰囲気を挙げるなら、そう、卒修論締め切り前の研究室に漂う荒みきったそれ。床やテーブルにレッドブルだとかモンスターの空き缶がみっちりと並ぶあの感じだ。ここが戦場ならともかく、こんな天蓋つきの洒落たベッド周りにどうして――ところが、謎は意外にもあっさり氷解する。ベッドの周りにはソファやワゴンがいくつも置かれ、それらのソファにはもれなく疲れた顔で眠る聖女さんが横たわっている。中にはマリーの姿もあって、やはり、ひどく疲れた顔で眠りこけていた。
普段は食事を運ぶワゴンには、なぜか新品のシーツや包帯、謎の液体を封じた小瓶が山と盛られている。何というか……病院、っぽいな。そういえば、漂う空気も何となく薬品臭い。
「つーか痒っ!」
ガウンをはだけ、胸板を見る。瞬間、思いがけない光景に俺はぎょっとなる。胸板を覆う巨大なカサブタ。さらに前をはだけると、カサブタは脇腹やへその辺りまで至っている。どうも全身がこの調子らしい。いやーそりゃ痒いわけだぜ!
さいわいカサブタは乾いており、こうした火傷につきものの水膨れや体液の漏出は見られない。ただ、カサブタの規模からして俺が負ったダメージは相当なものだったんだろう。ワンチャン前世の医療技術でも匙を投げられていたかもしれないレベルの大火傷だ。
ひょっとして……いまベッドの周りで眠りこける聖女さんたちは、俺を治療するために集められたとか? だとすると、うう、つくづく申し訳ない。元は俺の無茶が原因でこんなことになったのだ。結果、彼女たちはその治療のために駆り出され、へとへとになるまで働かされたのだろう。
そんな中に一人だけ、俺のベッドに突っ伏して眠る男。珍しく乱れた若草色の髪と、その隙間から覗く、やけに整った顔。ただ、その顔は今はひどく窶れ、目元には濃い隈が浮かんでいる。そういや前回の襲撃時は、俺が死にかけてるなんて情報を世間に流しながら、一方では教会の協力をきっちり拒んでいたっけ。けど今回ばかりは、藁にも縋る思いで教会に頭を下げたんだろうな。ははっ、つくづく調子の良い奴――
いや、うん、マジでごめん。
散々迷惑かけて振り回して、挙句、こいつにとっては許されざることを俺はやらかしてしまった。もし、こいつが俺の所業を知ったら、きっと、いや間違いなく許してはくれないだろう。……ああそうだ、俺の気持ちなんか関係なく、こいつが望むことを、望む通りに叶えてやればよかった。
アルカディアを、この世界に帰してやればよかった――なのに。
「ごめんな……ごめん、ウェリナ」
若草色の髪に手を伸ばし、そろり、と撫でる。少しべとついているのは、しばらくシャワーを浴びていないせいだろう。普段は嫌味なぐらい隙なく身だしなみを整えたこいつが。
それだけ、俺につきっきりだったということか。そういえば夢うつつにも――
――君さえ、生きていてくれたら、それで……っ!
違う。あんなの……ただの聞き間違いだ。生死の境を彷徨う俺の脳裏にふとよぎった都合の良い幻。……ああ、そうだ。こいつが許すわけがない。あんなにもアルカディアを想い、愛し、そのために俺をアルカディアに塗り変えようとすらした男だ。そのウェリナが……言うわけないんだ、あんな……
それでも。
俺は、戻ってきてしまった。お前に会いたくて。お前に愛されたくて。……ああ、そうだよ。俺はさ、お前に愛されたかったんだ。アルカディアの代わりとしてじゃなく。でも……それは全部俺のエゴで、やっぱりお前は、アルカディアに戻ってきてほしかったんだよな。
うんしょ、と足を動かしてみる。結構長いこと寝かされていたせいだろうか、腕も足も固まってうまく動かない。それでもゆっくりと、ストレッチを交えつつ関節をほぐしてゆき、ようやく三角座り程度ならこなせるようになった頃、それまで死んだようにベッドに突っ伏していたウェリナがもぞもぞと身を起こす。
――しまった。
そう、なぜか俺は身構える。どうやら俺は、こいつにバレないよう部屋を抜け出るつもりだったらしい。我が事なのに「らしい」なんて表現も妙な話だが、実際、目を覚ましたウェリナに狼狽える自分が確かにいた。
そんなウェリナのエメラルドの双眸が、おもむろに俺の姿を捉える。
「……おはよう」
つい口にしてしまってから、いやおはようって何だよと俺は自嘲する。いっそ……またぞろアルカディアを演じてやろうか。彼の魂が戻ってきたっつー体裁で……いや、やっぱ無理だな。俺よりもずっと深く彼を知るウェリナを、今後一生騙し通せるとは思えない。
なので俺は答える。俺として。
「戻ってきてやったぜ」
「うん」
いとも素直にウェリナは頷く。ウェリナは気づいているはずだ。目の前の男がアルカディアではなく、名も知らぬ異世界人であることを。
そう、気づいているはずなんだ……なのに。
「何、だよ……その目」
するとウェリナは、またしても「うん」と頷きながら涙ぐんだ目をしばたたかせる。……やめてくれよ。そんな、感極まった目をされたら期待しちまうだろ。夢うつつに交わした会話が嘘じゃなかったのかも、なんて。
俺でもいいのか、って。
お前に俺として愛されたいと、願ってもいいのか、って。
そんな俺に、ウェリナはそっと手を伸ばしてくる。やがて、その指先が俺の頬に触れ、ざり、と奇妙な触感を肌に与える。カサブタ越しの、痒みを伴うもどかしい感触。それでもウェリナの手つきは切ないほどに優しく、温かい。
「おかえり。……待ってた。君を」
ベッドに乗り出しながら、ウェリナがくちびるを寄せてくる。それを、俺はさりげなく顔を伏せて避ける。いや、君をって何だよそれ。だからやめろっってんだろ期待しちまうだろそんな――なのに、俺の目頭はいじましくも熱を持つ。苦しい。罪悪感で胸がはちきれそうだ。そうでなくとも、ただでさえイザベラの熱風に焼かれた肺はうまく酸素を取り込んでくれない。
やめろ。もうやめてくれ。俺は、アルカディアじゃ――
「君、名前は」
「……は?」
思わず顔を上げた俺のくちびるを、ふ、と柔らかなものが覆う。すぐに舌が滑り込んできて、俺はしかし、それを拒むことなく受け入れる。いや違う、拒めないんだ。久しぶりに新鮮な水にありついた砂漠の旅人みたいに、俺の身体は、心は――魂は、ウェリナのぬくもりを存分に貪る。
会いたかった。
こいつにも、それにアルカディアにも、正直、悪いとは思ってる。でも……不思議と後悔はない。そう、本音を言えば俺は後悔してなどいないのだ。だって会いたかったんだから、俺が。
そんな俺の汚さ醜さなど知らないウェリナは、無我夢中で俺を貪りながらベッドに押し倒してくる。ウェリナの唾液は甘く、体臭は怖いほどにかぐわしい。そういえば、宮殿の廊下で初めてこいつと二人きりで喋ったとき、柑橘を思わせるビターな香りにわけもなくドキドキしたっけ。ひょっとするとあの時にはもう、俺の身体や心はこいつに囚われていたんだろう。あるいは、そう、魂さえも。
「……で、名前は?」
長い長いキスの後で、それでも名残を惜しむようにおもむろにくちびるを解くと、そう、ウェリナは問うてくる。
「名前を知りたい。君の名前を」
「そ、れは……」
やはり、俺が俺だと――アルカディアではないと認識しているということか。その上で、じゃあ今のキスが意味するのは……
「いいのか、俺ので」
「ああ」
低く濡れた声が、ウェリナの喉からこぼれる。瞬間、俺の胸の奥で箍が外れたように温かなものが溢れる。安堵と、それ以上に大きな喜び。願ってはならなかった願い。それが、まさか――
「俺の……名前は……」
知って欲しい、俺の名前を。
その声で、くちびるで呼んで欲しい。
その、不意にこみ上げた欲望を俺はしかし、ぐっと喉奥に押し込める。別に、今更アルカディアとは別人だと知られるのが怖くなったわけじゃない。ただ俺は、ここで俺の名を名乗るのは悪い気がしたのだ。ウェリナに、ではなくアルカディアに。
おそらく彼は、今この瞬間も俺の名前で俺の人生を生きている。彼が、元の世界に帰れないことをどう捉えているのかはわからない。ただ、あの記事のコメントから垣間見えた彼の心は、決して今の状況を悲観しているふうではなかった。むしろ彼なりに〝俺〟としての第二の人生を前向きに踏み出しているようでもあった。
「――アルカディア」
すると案の定、ウェリナは苦い顔をする。かつての恋人を名乗られて不愉快に感じたのか、それとも単に気遣われたと捉えたのか。まぁ、ぶっちゃけ俺にしてみればどっちでもいいんだ。
アルカディアが〝俺〟を全力で生きるなら、俺も〝アルカディア〟を全力で生きる。別に彼を演じようってわけじゃない。クリステン王国の王太子アルカディアとして、全力で生きるってことだ。いやーこの国の民衆は運が良いなぁ。骨の髄まで近代民主主義が染みついた先進的で科学的な転生野郎が将来の国王に内定してんだからなぁハッハッハ吹かすぜ異世界チートの風! ……とまぁ、イキるのはそのぐらいにしてだ。とりあえず、元の名前についてはもういいのだ。強いて言うならそれは、俺とアルカディアだけの秘密。
「ま、そういうことだから。……何なら引き続き、アルって呼んでもらっても構わないぜ。呼びにくいってんなら、アルカディアでもいい」
「えっ、いや、けど、」
「うるせぇな。俺がアルカディアっったらアルカディアなんだよ。……それ以外の名前を名乗るつもりはねぇ。お前も……だから、受け入れろ」
彼がもう、この世界には存在しない事実を。
そう言外に伝えると、ウェリナは痛みを堪えるように目を窄め、やがて、「ああ」と呻きながら俺に口づけてくる。今度のキスはやけにしょっぱくて、それでも俺は、あえてそのことには触れずに奴のくちびるを受け入れる。
そんな俺の脳裏にふとよぎる、彼の――アルカディアの最後の言葉。
――僕は、彼のヒーローにはなれなかった。でも君なら、あるいは。
彼のヒーロー? それはつまり……ウェリナの? わからない。でも、あの声は確かに、俺に何かを託したがっているようだった。
俺は……彼の何を託されたのだろう。いや、それ以前に、あの声色は――
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