二人で癒す孤独

路地裏乃猫

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凶報

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「若頭、あいつですぜ」
 舎弟の一人が、市場に並ぶ露店の一つを顎で示す。台の後ろに陣取っているのは、舎弟曰く、つい三日ほど前からこのヤミ市に現れた新参者だという。
 坊主頭をしばらく放っておけばこうなるだろうというイガクリ頭に、とても商売をやる人間のそれとは思えない、人を拒むような鋭い眼光。何より、背筋に定規でも入れているかのような美しい姿勢は紛れもなく職業軍人のそれだ。
 ただ、それにしてはやけに表情が卑屈で、軍人然とした全体の印象にそぐわない。
 などと健吾が観察を働かせているところへ、舎弟が案の定というべき情報を告げる。
「あの野郎、元陸軍少佐だか何だか知らねぇが、俺らがいくら言ってもショバ代を払おうとしねェんです。何とか言ってやって下さいよ」
 そう言って、米搗きバッタよろしく健吾にぺこぺこと頭を下げるのは、この一帯でショバ代の回収を任される下っ端組員の一人だ。
 ボールのような丸顔に、刃物で引っ掻いたような向う傷が走っているのが何とも痛々しいが、実際は、昔同棲していた女に包丁で斬りつけられてできた傷だと健吾は知っている。そもそもこの男は、戦争の間、鉄格子の中で毎日きっちり三食を食らう生活を送っていた果報者だ。その後、焼け跡から金属を集める軽作業に動員されたが、ほどなく終戦を迎え、出所して今に至る。
 極道のくせに根性も度胸もなく、ただ、強い奴に対する嗅覚とお太鼓の上手さだけで舎弟頭にまでのし上がった、所詮は人間のクズだ。そのクズが、あの厳めしい元軍人にまともな口を利けるはずがなく、だから、いくら言っても云々の話はどうせ嘘に違いない。
 肌着に腹巻、派手なだけでまるで似合っていないスーツと、埃まみれの革靴。
 どこを切り取っても、健吾の美意識にはまるでそぐわない。その下品なだけの取り合わせには、むしろ吐き気すら覚えるほどだ。
 とはいえ、かく言う健吾も決して褒められた格好とは言えなかった。スーツは薄汚れた木綿の白。シャツに至っては下品な柄物しか手に入らず、それを仕方なく身に着けている始末だ。
 ただ靴だけは、組に出入りする日系人の米兵に銀座のPXで調達させた新品の革靴を履いている。靴だけは何があっても手を抜かない。健吾のゆるぎない美学がそうさせたのだ。
 そうしてスーツと革靴に身を包んだ健吾は、ぼろぼろの復員服を纏っていた時と違い、道行く女たちの目をおおいに惹いた。日本人離れした長身と精悍な顔立ち。かつて映画会社のスカウトマンたちが競って声をかけた田沢健吾がそこにはいた。
 ただ、ここに目敏い部下がいれば、昔の彼との決定的な違いを鋭く見抜いていたことだろう。確かに、髭も剃り肉付きも戻った彼は、一見すると昔の彼と何も変わらない。
 が、違うのだ。とりわけ目の輝きが。
 少なくとも以前の彼は、こんな、退屈に倦み果てたような瞳を持っていなかった。
「おい、あんた」
 挨拶もそこそこに、男の売り台に足を叩き込む。
 ぎろり、と男が舐めつけてくるのを、健吾もまた鋭く睨み返す。睨みながら健吾は、妙な違和感をぬぐえなかった。
 確かに威圧感はある。少なくとも、あの根性なしの舎弟たちを追い返す程度には――ただ、それを措いても、このいやらしさは何だ。この、毛穴から滲み出るような卑屈さは。
 少なくとも、戦場で見た将校にこんな卑しい眼をした奴はいなかった……
 が、そんなことは、今の健吾にはどうでもよかった。
 何事にもけじめというものがある。そして、この市場で風呂敷を広げようと思うなら、最低でも売り上げの三分の一を組に収めなければいけない決まりになっている。それが嫌なら別のヤミで商売をするか、とにかく、ここではない別の場所で警察の目に怯えながら店を開いてもらうことになる。
 そのけじめを守らせるのが健吾の役目なら、今はその役目を果たさなければ。
「ここが大久保組の仕切るヤミだと知って店開いてンのか? エェ?」
 が、男は答えない。ただ、ふてくされたような顔で健吾をじっと睨み据える。
 そのふてぶてしい態度に、脇で舎弟どもが吠えるのを片手で制すると、改めて健吾は店の売り物を見渡した。
 おそらくは軍の放出品と思しき新品の衣類や日用品に紛れ、本来は配給で国民に配られるべき砂糖や小麦粉の類がひっそりと並んでいる。
「……こいつは、どこで手に入れた」
 すると男は、あからさまにむっとなって、
「貴様に関係あるか。商売の邪魔だ、帰れ」
「そういうわけにはいかねぇんだよ。さっきも言っただろ、ここは俺らの縄張りなんだっってよ。その俺らの縄張りで、勝手な商売されちゃ困るんだよ。――っつーかよ、こりゃ何だよ少佐。テメェまさか、お上の倉庫から勝手にかっぱらってきて売り出してンじゃねぇだろうな? あン?」
 男のしかめっ面からみるみる血の気が失せる。どうやら図星だったらしい。
「だっ……だったら、何だというのだっ貴様っ!」
 そう喚く男の顔は、わずかに残っていた軍人らしい威風さえすでに投げ売りにしていた。
 そんな男の様子を、通りすがりの買い物客が愉快な見世物を見る目で眺める。いいぞもっとやれと野次さえ飛んで、健吾を応援する声さえ上がりはじめる。
 それでも男は、甲高く喚き続ける。
「お、俺とて人間だ! 生活を……生きねばならんのだ! ただでさえ俺たちは仕事を失って……わかるか? わからんだろうな! 貴様のような破落戸に、国のために戦って捨てられた俺のこの苦しみは!」
「言いたいことはそれだけか」
 健吾は台に飛びあがると――
 男の顔を、跳びかかりざま靴の底で思いっきり蹴りつけた。
「ぎゅへっ!?」
 聞いたことのない悲鳴を上げて男があおのけに吹っ飛ぶ。がらくたの山に叩きつけられた男の姿は随分と痛ましかったが、なおも健吾は容赦せず、舎弟たちに「奴の服を剥げ」と命じると、自分は、台の上に立ち尽くしたままシャツのボタンを解きはじめた。
「や、やめろっ、何をするっ!」
 そう叫ぶ間も、男の軍服はみるみる剥ぎ取られてゆく。やがて、褌一丁で転がされた躰は、殻を剥かれた茹で玉子のようにつるりとしていた。
「おい、あんた」
 そんな男に、健吾は、露わにした自分の脇腹を指して言う。
「あんたも軍人なら、この傷がどうやって出来たものか分かるな?」
 健吾が指し示した場所には、大人でも目をそむけたくなるほどの痛々しい傷がくっきりと刻まれていた。かつて、島嶼部の戦闘で砲弾の破片に抉られてできた傷で、医療物資に事欠くなかで無理やりに縫いつけたせいか、皮膚がひどい引き攣れを起こし、見るも醜い傷痕となって残ってしまったのだ。
「これでもまだ俺の言いたいことが分からねェってんなら、今度は別の傷を見せてやろうか? えぇ?」
 ぐっと言葉を詰まらせる男に、さらに健吾は畳みかける。
「国のために戦ったっつうなら、俺も、それに、そのへんの飲み屋で管を巻くオッサン達だってそうだろうさ。あそこで物乞いをしてる片足のオッサンも……いや、それを言えば、ここにいるほとんどの連中は国のために戦った。ガキどもは遊びたい盛りなのを我慢して工場で飛行機を作ったし、女どもは夫の留守を必死で守った……テメェ一人が戦ったなんてよォ、思い上がりも大概にしろよこの野郎ッッ!」
 健吾の啖呵に、人垣から割れるような拍手と歓声が沸き起こる。が、当の健吾は決して浮かなかった。依然として心には、癒えがたい虚しさばかりがしつこく巣食っていた。
 こんな奴らが起こした戦争のために、戦友は……創一郎は。
「帰るぞ」
 台から飛び降り、舎弟たちに命じる。
「ま、待ってくださいよ若頭、結局どうするんですコイツ」
「ほっとけ。どうせそいつは、二度とこのシマじゃ商売できねぇだろうさ」
 へい、と舎弟は頷くと、行きがけの駄賃のつもりだろう、部下に命じて店のものを次々と持ち出させた。
 その強奪を、健吾は見苦しいと思いながら、しかし、あえては止めなかった。
 国民に分け与えられるべき配給品を横領した元少佐にきつい灸を据える意味もあった。が、それ以前に、健吾たちヤクザは慈善団体ではない。あくまで非合法の暴力組織なのだ。その事実を、健吾のまわりで無邪気に歓声を上げる野次馬どもに思い知らせる必要があった。
 そう。所詮俺は、鼻つまみ者の破落戸でしかないのだ……
 健吾が預かる組の支部は、新宿駅近くの焼け残った廃ビルに置かれている。
 ビルの周囲には、誰が集めたわけでもないが戦争で親を失い、食い詰めた子供や若者がたむろし、ちょっとした貧民街を形成している。彼らは正式に盃こそ受けていないが、組員の指示があればいつでも飛び出して行く、いうなれば便利な鉄砲玉として半ば公然と組に飼われているのだった。
「おい」
 健吾は足を止めると、背後に従う舎弟に言った。
「さっき盗ったあれ、こいつらに分けてやれ」
 えっ、と舎弟が声を上げる。
「そんな、もったいない! どれも新品の服ばかりですぜ兄貴っ。組直営の店で売っ払えば、かなりまとまった金に――いでででっ!」
 舎弟の言葉は途中で悲鳴に変わる。健吾が、その耳たぶをきつく引っ張ったのだ。
「俺の命令が聞こえないンならよ、この耳はもう要らねぇよな?」
「いだっ、いだだだっ、わかりやしたっ、分けます! 分けますからっ!」
 ふん、と健吾はつまらなそうに鼻を鳴らすと、突き飛ばすように舎弟の耳から手を離した。そのまま踵を返し、ビルの薄暗い階段を一段飛ばしで登る。
 健吾の事務所は、二階廊下奥の、擦り硝子の嵌め込まれたドアを開いた先にある。
 健吾が組に戻る五日前までは、その同じ部屋に舎弟が居座っており、おかげで今も、部屋は舎弟の俗悪な成金趣味に飾り立てられたままだ。一体どこの屋敷から強奪してきたのか、かさばるばかりで大して趣味の良くない巨大な壺やら剥製が所狭しと居座る事務室は、少なくとも、健吾の美意識とは相入れない。
 その、俗悪な趣味の事務室へと続くドアを開いた、その時だ。
「健吾さん!」
「は?」
 意外な人物の姿が目に飛び込んできて、健吾は呆然となる。
 事務所のソファから弾かれたように立ち上がったのは、この辺りの子供にしてはやけに上品な顔つきの少年――次郎だった。
「な……何で、テメェがここに……」
 まさか、屋敷を追い出されてヤクザの盃を受けに来たのか……?
 いや、と健吾は思い直す。若頭に収まってからというもの、健吾は子供に盃を分けることを一切禁じている。部下にも、だから部屋に通すなと厳命していた。そうでなくとも次郎は、こんな極道に憧れるような下品な育ち方はしていない。
 が、健吾の困惑と舎弟らの静止をよそに、次郎は健吾に駆け寄ると、今にも泣き出しそうな涙目で健吾を見上げた。その瞼がひどく泣き腫らしているのは、ひょっとすると、健吾がここに来る前から泣いていたのかもしれない。
 その表情に、一抹の不安と同情を覚えた健吾は、しかし次の瞬間、次郎が口にした言葉に、そんな感情すら吹き飛ばされる羽目になった。
「今すぐ屋敷に戻ってください! お願いします!」
「はァ? な……何でだよ」
「な、何でって……大変なんですよ! 旦那さまが!」
「……えっ?」
 大変? 敦が? 
「そ、そりゃ一体――」
 どういうことだと訊きかけて、慌てて健吾は唇を噛む。
 もう二度と、あの屋敷には戻らないと固く誓ったのだ。たとえ戻ったところで待つのは、創一郎の代わりを演じさせられるだけの空虚な暮らしでしかない。
 が、それは、今の健吾にとっては絶対に聞き入れられない願いだった。
 誰かの――創一郎の代わりにあいつを抱くなど。
「し、知るかよ! あんな奴のことなんて――おい誰だ! こんなガキ部屋に通したのは! とっとと抓み出せ!」
 健吾の命令に、部下の一人が「えっ」と顔を蒼くする。
「い、いいんですかい若頭? 何でもこのガキ、子爵さまのお使いだとかで……」
「うるせぇ! 子爵か柄杓の使いだか知らねぇが、とにかくガキを部屋に通すな! 目障りだッ!」
 次郎に背を向け、部屋の奥にある両袖の事務机に腰を下ろす。背後で、部下が次郎を取り押さえたのだろう、少年特有の甲高い悲鳴が、健吾の耳に鋭く突き刺さる。
 それでも健吾は振り返ることなく、何でもない顔で靴を磨きはじめる。
 そうだ。もう構うな。構うものか。あんな奴……
「また首を縊られたんですよっっ!」
「……え?」
 次郎の言葉に、覚えず健吾は振り返る。
 案の定、次郎は部下の腕に取り押さえられていた。が、その目は怯えるどころか、まっすぐに健吾を――健吾だけを見つめている。
 その大粒の瞳から、ぽろ、と涙が溢れて、そして頬に零れた。
「……健吾さんのせいですよ」
 その震える唇が、絞り出すように呻いた。
「健吾さんが見捨てるから……あんなに、助けて差し上げてくれって……お願いしたのに、なのに……」
「け、けど、俺は、」
「健吾さんのせいですよっっ!」
 次郎の怒号に、不覚にも健吾は気圧される。ついさっき、闇市で元陸軍軍人を気迫で圧倒した健吾が、今、声変わりも済まない小柄な中学生に圧倒されていた。
 ここがヤクザの事務所だということや、それに、健吾がヤクザだということは、今の次郎には頭にないらしい。健吾の刺青を見て腰を抜かしていた、あの次郎が、だ。
 それほどに、今は敦のことで頭がいっぱいなのだろう。
 ただ、その瞳はどこまでも哀しげで、何より、ひどく寂しげで……
 そういえば、あの時の敦の目もそうだった。
 ――僕も……独りは、いやだ。
 ――僕を、抱いてくれ。満たしてくれ。君のその熱で。
 思えば、あの瞬間まで敦は、独りきりで愛する人の死と向き合っていたのだ。それは、ある意味では恐ろしく孤独なことだったろう。誰とも哀しみを分かち合えずに、とても、寂しかったに違いない。
 そのためにうまく真実に向き合えず、でも、頭では向き合わなければと分かっているから、余計に引き裂かれ、苦しむ羽目になる。
 寂しかっただろう。何より、苦しかっただろう。
 その敦が、たとえ、かりそめにしろ誰かのぬくもりを求めたとして、健吾にそれを責める資格はない。
 気付くと健吾は蹴るように立ち上がっていた。
「今、敦は?」
 次郎を離すよう目顔で部下に命じながら、そう次郎に訊く。
「ね……眠っていらっしゃいます。でも……その、ちっとも目を覚まされなくて」
 解放された次郎が、手の甲で涙を払いながら答える。その時には、すでに健吾は靴を履き直し、たったいま登ってきたばかりの階段へと大股で引き返していた。
 階段を一段飛ばしで駆け下りる。外にたむろする子供たちがいっせいに立ち上がり、さっきの礼のつもりだろう、深々と頭を下げる。が、今の健吾には、そんな子供たちに声をかけてやる暇さえ惜しかった。
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