二人で癒す孤独

路地裏乃猫

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迎え

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 こうなることを、きっと心のどこかで予想していたのだろう。
 新藤が告げた言葉にも、だから敦は、大した驚きを覚えることはなかった。
「そうか……出ていったか」
 手元の盃をぐっと呷る。決して上等な品とはいえず、そもそも酒好きですらない敦は、普段なら決して決して手を伸ばさない代物だが、今夜に限っては、どうしても口をつけずにはいられなかった。
 今になって考えるなら、それも、このような結果を恐れての浅はかな抵抗にすぎなかったのかもしれない。とても酔いなしでは聞けないと、ユダヤの精神学者が言うところの無意識がそう敦に働きかけたのかもしれない……
 恐れていたのか? あの男が去ることを? 
 馬鹿な。そもそもあの男は、ただの〝道具〟として屋敷に招いたのだ。その〝道具〟が今さら屋敷を立ち去ったところで、せいぜい余計な食い扶持が減るだけだ。
 手元の安酒を、杯に浮かんだ自分の酔態もろともぐっと飲み干す。
 それにしても、今夜の月は本当に美しい。離れの縁側に腰を下ろし、柔らかな春風に弄られつつ楽しむなら、こんな安い酒でもついつい杯が進んでしまう。
 明日は二日酔いだろうな。そんなことをぼんやり思いつつ、空の猪口に手酌で酒を注いだ、その時だ。
「……今なら、まだ間に合います」
「ん?」
「あの方は……このお屋敷には必要な方です。私には、あの方をお引き留めすることは不可能です。が……旦那さまなら、あるいは……」
「必要ない」
 酔漢特有の据わりの悪い瞳で、のろりと新藤を睨む。
「あの男が出て行きたいと言うのなら、構わん。行かせればいい」
 そして、またもう一杯盃を空ける。窘めるように新藤が軽く顔をしかめたが、敦はそれを見なかったことにして庭に向き直る。
「お前には、いやな役回りを押し付けてしまったな」
「……と、仰いますと」
「創一郎の死を……私のために、次郎に黙っていてくれた。本来なら、兄の帰りを待つ孫に、兄の死を告げずにいることなどできなかったはずだ……なのに……」
「いえ。あれは、あくまでも次郎の年齢を考えての処置でございまして」
 嘘だ、と敦は思う。次郎もすでに十四。あの歳で兄の死を理解できないことなどありえない。現に次郎は、しっかりと兄の死を受け止めたではないか。たとえ、田沢の支えがあったにしろ、だ。
 基本的に新藤は、無粋な嫌味を口にする人間ではない。今の言葉にしても、新藤なりの心づくしの慰めだったのだろう。が、だからこそ今の言葉は、辛辣な苦言として敦の心に深く突き刺さった。
いっそ、孫を傷つけられた苦しみを正直にぶつけられた方がどれだけ楽だったか……
 ――好きだったんだろ。だから創一郎の死を認めたくなかったんだな。
 思えば、あの男はいつでも正直だった。
 腹が立てば怒るし、可笑しければ笑う。許せないことがあれば、はっきり許せないと言う。もちろん田沢には田沢なりの悩みや考えがあり、その多くは彼の胸にしまわれていたとしても、少なくともそれらは、人として真っ当なものだったはずだ。さもなければ、あれほど素直に喜び、そして怒ることはできない。
 腹が減れば飯を食い、眠くなれば子供のように眠る。
そういえば――一度だけ、田沢の寝顔を見たことがある。行為の後で二人して眠ってしまい、その後、ふとしたはずみで敦一人が目を覚ましたことがあった。
 半ば布団からはみ出したまま、四肢を投げ出して眠る田沢は本当に子供のようで、思わず吹き出してしまったことを敦は覚えている。その後、風邪をひくといけないからと腹に布団をかけてやると、暑かったのだろう、すぐに跳ね飛ばされてしまった。
 その、一糸纏わぬ躰のそこかしこには、文字通り無数の傷が刻まれていた。小さな切り傷の痕から、肉を抉られた皮膚を無理やり縫い合わせたかのような痛々しい傷まで、彼の全身という全身が、その身に刻まれた戦争の記憶を静かに物語っていた。
 その時、なぜか涙を流してしまったことを敦は覚えている。
 憐れみではない。まして、彼とともに戦えなかった後ろめたさでもなかった。
 この田沢健吾という男が、生きてここに居てくれることが単純に嬉しかった。長く苦しい旅を終えて、この場所に辿り着いてくれたことが、ただ、嬉しかった。
 あの時、すでに敦は独りではなくなっていた……
 なのに。
 ――うんざりなんだよ……もう、誰かの代わりなんてのは。
 ああそうだ。悪いのは何もかも僕だ。最後まで、あの男をただの〝道具〟としてしか見なかった、この僕が、全てを台無しにしてしまったのだ。
「旦那さま?」
 敦の表情の変化を機敏に察したのだろう、心配顔で新藤が声をかける。その新藤に、敦は不器用に笑ってみせると、静かに言った。
「すまないが……しばらく独りで飲ませてくれ」
 新藤の背中が母屋に消えるのを確かめてから、敦は新たな一杯をぐっと呷った。白い太腿が露わになるのも構わず膝を立て、暑いからと胸をはだけた姿は、お世辞にも紳士のそれとは言えなかったが、もはや敦はそんなことには構わなかった。
 どうせ僕は独りだ。今も、そしてこれからも……
――違いますよ、敦さま。
「えっ?」
 ふと耳元で声がして、敦は顔を上げる。
いつしか目の前に、月明かりを背負った男の影がぬっと立ち尽くしていた。
 今ではほとんど見かけなくなった新品の軍服。その襟には、半ば闇に溶けて見えづらいが、確かに少尉の階級章が縫い付けられている。
 すらりと高い長身と、そして何より、聞き馴染みのあるその声は。
 ――あなたは、独りではありません。
 影は言った。記憶の中のそれと同じ、耳の底に沁み入るような、穏やかで優しい声だった。
 ――敦さまが望むなら、僕はいつでも、あなたを孤独から連れ出して差し上げましょう。
「ど……どうやって……」
 答えの代わりに、その手が、するりと敦の首に伸びる。やがて、その指が敦の白い首筋に巻きつくのを、敦は、さもそれが自然ななりゆきであるかのように受け入れた。
 そして、敦は思い出す。
 あの洞窟でのひとときを。幼い頃からの想い人と、ようやく結ばれ、愛し合ったあの甘美なひとときを……
「……そ……いちろ……」
 薔薇色の唇が、喘ぎながら愛する人の名を呼ぶ。呼吸さえままならないほどの愉悦。だが、それこそが敦の待ち望んだ甘美な死にほかならない。
「あ……が……」
 意識が掠れ、細胞という細胞から感覚が消え失せてゆく。が、それさえも、今の敦には新たな悦びの種でしかなかった。どうしようもなく昂らされ、昇りつめる。吐精よりもなお圧倒的な歓喜と、そして恍惚。
「つれ……て、て……ぼくを……ど、こまで……も」
 切れ長の目尻から、つつ、と涙が滑り落ちる。その涙を、おもむろに顔を寄せた影が尖らせた唇ですっと啄む。
 その唇が、今度は敦の耳元に移り、そして囁く。
 ――ええ、参りましょう。あなたと二人、どこまでも……

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