二人で癒す孤独

路地裏乃猫

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少年

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 敦の家に向かう車内は、ひどく重苦しい沈黙に包まれていた。
 先程、健吾が車に乗り込むさいに新藤と名乗った運転手兼執事の初老の男は、終始無言のままハンドルを握り、いっこうに口を開く気配を見せない。かといって、健吾と並んで後部座席に座る敦が場を取り持ってくれたかといえばそうでもなく、車窓越しに雨模様の空を眺めたまま、健吾の方を振り返ろうともしない。
 もっとも、相手は自分を辱めた強姦魔なのだから、強いて言葉を交わしたくない気持ちは分かる。ただ、そうなると今度は、敦の言う「恩返し」の意味がわからなくなる。
 分かっていることといえば、何も分からないということ――それだけだ。
 居心地の悪さを紛らわすべく、横目でさりげなく敦を盗み見る。
 相変わらずその顔は人形のように美しく、呆けたような無表情が、その人工的な印象をいよいよ際立たせている。つんと尖った小ぶりな鼻に、白磁の肌。紅く熟れた形の良い唇――その、一見人工物めいた唇が、意外にも柔らかいことを健吾はよく知っている。
 長い睫毛に縁取られた鳶色の瞳は、怒りも、苦痛さえも――否、一切の感情を浮かべることなく、今はただガラス玉めいて薄い瞼の奥に静かに収まっている。
 が、健吾は知っている。
 その、死人めいた瞳が隠し持つ感情の激しさを。もっとも今は、そのような気配はおくびにも感じられないけれども……
 やがて車は、上等な屋敷が立ち並ぶ区画へと入っていった。
 おそらくは麻布近辺だろう。悉く焼き尽くされた下町方面とは違い、大きな建物が燃えずに残っている。庭が広いために延焼を免れたのか、それとも、あえて米軍が狙わずにいたのかは分からない。が、これらの建物の多くが現在、駐留する米軍将兵の住居として接収されていることだけは事実だ。
 やがて車は、とある屋敷の門の前で停まった。
「ここ……か?」
 車を降り、目の前の門を見上げた健吾は、その威容に改めて棒立ちになった。
 どこぞの山寺かと見間違えるほど立派な瓦屋根つきの大門は、それだけでも堂々たる構えだ。が、後で思えば、この時の驚きさえも所詮は序の口でしかなかったのだ。
 事実、門をくぐった健吾は今度こそ本当に面食らった。
「……んだ、ありゃぁ」
 健吾が驚くのも無理はなかった。よくもこんな立派な屋敷が焼けずに残っていたな、と呆れるほどの堂々たる和風邸宅が、広々とした庭園の向こうに甍を構えていたのだから。
「あれが……あんたの家か」
「はい。こちらが清島子爵さまのお屋敷でございます」
 代わりに答えたのは、敦の背後に影のように侍る執事の新藤だ。
 小柄だが、その躰つきは意外とかっちりしており、真っ白な髪とは裏腹に、背筋の方はすっと伸びて全体に若々しい印象を与える。
 一つ一つの挙措は洗練され、しかも、その一つ一つに敦への忠誠心が滲み出ている。にもかかわらず、敦を辱めたはずの健吾に対してはこれという敵意は見せず、いっそ潔いほどの無関心――主人の人間関係に対する適度な無関心と不干渉は、彼のような人間には重要なマナーの一つなのだろう――を貫いている。
「へ、へぇ……随分と立派なお宅じゃねぇか……」
 改めて健吾は、白壁に囲まれた広大な敷地を見渡した。
 広々とした庭園には、これまた見渡すほど広い人工池が設けられている。中ノ島には人の背丈ほどもある石灯篭が置かれ、池の片隅では、枝振りも見事な紅白の梅が今を盛りと花弁を綻ばせている。今日はあいにくの空模様だが、晴天の日にはさぞ鮮やかな色彩を庭の緑に添えることだろう。
 目が覚めるほどの豪奢な日本庭園だが、一方の邸宅も負けていない。
 総瓦葺きの二階建ての邸宅は、いかにも明治か大正前期に造られたと思しき重厚な造りで、たとえば、健吾が生まれた頃に流行りはじめた文化住宅のような安っぽさとはまるで無縁なのだ。あるいは震災以前の建物なのかもしれない。だとすれば、今回の戦災をまぬがれたことといい、よほど好運に恵まれた建物と言えるだろう。
 が、よく見ると、屋根瓦の一部が剥げ落ちていたり、壁の一部が煤けて黒ずんでいたりと、さすがに無傷というわけにはいかなかったらしい。庭木や白壁の一部も燃え落ちており、ありあわせの廃材を打ちつけて応急処置を施している。
 ただ、それさえも建物全体にみちる威厳を損なうまでには至らず、復員以来すっかり焦土に見慣れてしまった健吾の目には、とくに鮮烈な印象を与えた。
「旦那さまぁ!」
 ふと、屋敷の方から甲高い声がして振り返る。見ると、中学生ぐらいの年頃の少年が、傘も差さずにこちらに駆け寄るところだった。
 よれよれの白シャツに黒ズボン。おそらく中学校の制服だろう。が、その割には、着ている本人はやけに幼く見える。太っているわけではないが丸みのある顔立ちと、ぱっちりと見開いた大きな瞳が、そういう印象を際立たせているのだろう。
 よく見るとなかなか端正な顔をしていて、あと五年もすればかなりの好青年に成長するに違いない――が、今はまだ、あどけなさを残す未熟なガキでしかない。
 やがて少年は敦の前に駆けつけると、狩りの成果を誇る仔犬の瞳でその顔を見上げた。
「言いつけどおり、お風呂を沸かしておきました! お風邪を召されないうちに是非っ!」
 すると敦は、なぜか横目で健吾をちらりと見て、
「ありがとう。すまないが、先に私の客人を案内してはくれないか」
「えっ……この方は?」
「今朝も話した私の命の恩人だよ」
「は、話したって、てめぇまさか、あのことを!?」
 敦の言葉に、それまで様子を見守っていた健吾もさすがに言葉を挟む。
 ――いくら何でも、こんな子供に……?
「ああ。首を縊ろうとしたところを引き止めてくれた恩人だと話している」
 自分の意が通じていないのか、どこかズレた返答をよこす敦を、健吾は苦々しく睨みつける。先程のやりとりといい、どうも、この敦という男は余人に掴みづらい部分があって困る。
「そ、そうじゃねぇよ……ええとだな、その……あのことも話したのかって訊いてんだよっ!」
「あのこと?」
「だ、だからぁ……」
 ちら、と横目で少年を伺う。
 ここで下手に興味を示されでもした日には、後で何かと面倒だ――
「えっ」
 瞬間、健吾は面食らった。少年が、すでに顔をくしゃくしゃに歪め、目から鼻から滝のように水を流していたからだ。
「あ……あひがどうごじゃいまふ、だじゃわはん……」
 どうやら、「ありがとうございます、田沢さん」と言っているらしい――が、いかんせん鼻声がひどく、まともな言葉を成していない。
 それは措いたとして、なぜ健吾が感謝されなくてはいけないのか。
「だじゃわさんがだずげでぐれながっだら、ヴぉく、いまごろ……うううっ」
「な……泣くなっ! それでも貴様、日本男児かっ!」
 そうは言いながら、健吾は健吾で少年の意外すぎる反応をすっかり持て余していた。
 察するに、少年は敦の使用人か何かに違いない。が、だとしても少年の反応は、主人を凌辱された使用人の見せるそれではない。もっとも――
 その仕草は紛れもなく子供のそれで、嫌でも毒気を抜かれずにはいられない。
 敦に声をかけられて以来、不可解な展開の連続に警戒心ばかりを募らせていた健吾だが、この次郎という少年に対してだけは、どうも、疑念の糸を張る気にはなれない。この涙にしても、どうも演技ではないらしい。理由はよくわからないが、少年が健吾に深く感謝していることだけは確かなようだ。
「次郎。お客様の前だ。慎みなさい」
 それまで敦の背後で大人しく侍っていた新藤が、やんわりと、だが、有無を言わせない口調で少年を諌める。次郎と呼ばれた少年は、「ふぁい」と情けない声で返事すると、ずびびっと派手な音を立てて洟をすすった。
 涙を拭き終えると、次郎は、今までの土砂降り顔とはうって変わった晴れやかな笑顔を健吾に向けた。
「ありがとうございます。田沢さまが助けてくださらなければ、危うく旦那様は大切なお命を召されるところでした。田沢さまは、旦那様の命の恩人です!」
 これも、さっきまでとはうって変わった切れのある口調で言い、くるりと踵を返す。
「さあ、お風呂の用意が出来ております。どうぞこちらへ!」
「お……おう」
 次郎を追って足を進めかけた健吾は、ふと大事なことを思い出し、敦を振り見た。
「おい敦、あいつは……?」
 あの夜のことをどこまで知っているのか――そう意を込めて訊ねると、しかし敦は、次郎の正体について問うているものと受け取ったらしく、
「ああ。あれは、新藤の孫で新藤次郎という者だ。まだ中学生だが、今は人手が足りないので、学校が再開するまで一時的に使用人として働いてもらっている」
「そ……そうじゃねぇよ! お前、あのことを……?」
「あのこと?」
 怪訝そうに小首を傾げる敦に、健吾はふと強い苛立ちを覚える。
 話が通じていないということもある。が、それ以上に、あの夜のことをなかったことのように扱われているのが、健吾には、なぜか、どうしても我慢ならなかった。
「て、てめぇ……忘れたなんて言わせねぇぞ。あの時てめぇ、俺に玩具にされてヒイヒイ啼いてたじゃねぇかよ、えぇ?」
 苛立ちを込めて、わざと露悪的に問えば、
「ああ、その件か」
 端正な面を、微塵も歪めることなく敦は答える。
「忘れてはいない。今回はその件であなたをお招きしたのだ」
「……?」
 いよいよ混乱を来す健吾をよそに、敦は早々と屋敷に向けて歩き出してしまう。
「な、何なんだよ……一体」
 ぶつぶつと独りごちながら、健吾は敦の痩せた背中を追った。
 屋敷の玄関をくぐった健吾は、いよいよもって圧倒された。
 まず健吾を迎えたのは、新橋や日本橋の料亭もかくやと思わせる見事な造りの玄関だった。掃き清められた三和土は、健吾の小屋などすっぽり入ってしまうほどに広く、上がり框と、そこから続く廊下の床板は、顔が映るかと思うほどつややかな飴色に磨き上げられている。
 柱や梁はどれも太く丈夫で、震災後に広まった文化住宅の安普請とは程遠い。なるほど、これだけ丈夫な造りなら地震にも強いわけだと健吾は深く納得した。
 これだけ重厚な造りにもかかわらず一切の圧迫感を感じないのは、廊下を挟んだ目の前に、内庭へと続く引き戸が開け放たれているおかげだ。豪勢な造りの外庭と違い、内庭の方は、全体にこぢんまりとまとまっているのが良い。
 春の雨を浴びていきいきと輝く苔の翠が、荒んだ健吾の心をほっと和ませてくれる。
 とりあえず上り框に腰を下ろし、ほとんど泥と同化しかけた編上靴を脱ぎ捨てる。どぶ臭い飲み屋街では何の違和感もなかったその靴も、掃き清められた屋敷の玄関では何だかひどく穢いものに見え、健吾は、今更のように己の零落ぶりを噛みしめた。
 召集前は、たとえ背広は使い回しても、靴だけはつねに磨き込むことを忘れなかった。
 本物のヤクザは本当のお洒落を知る。お洒落を忘れたらそのヤクザ終わりだ。
 まだ跳ねっ返りのガキだった頃、ある尊敬する兄貴に教わったことを、健吾はその後も律儀に守り続けた。一日として靴磨きを怠ったことはなく、少しでも革が痛むと、すぐに新しい靴と取り換えた。
 健吾の靴に唾を吐いた他組のチンピラを、その場で半殺しにしたこともある。
 軍隊に入り、官給品の粗末な編上靴を履くようになった後も健吾は靴磨きを怠らなかった。さらに下士官に昇格すると、靴の汚い部下は容赦なく殴り飛ばした。軍隊では、注意の散漫な人間から先にあの世に送られる。それが嫌なら靴の先まで気を使えという、健吾なりの鉄拳指導だった。
 その健吾が、今は、こんな泥まみれの靴を平気で履いて回っている。
「どうしました?」
 横から、次郎がひょいと顔を覗かせる。
「……いや」
 手早く靴紐を解くと、健吾は玄関に上がった。
 清潔に拭われた廊下を、垢まみれの真っ黒な靴下で歩く。屋敷の者にひどく気の毒な気もしたが、前を歩く次郎が気にする様子はない。
 長い廊下には、健吾と次郎のほかに人の気配はまるで感じられない。
 今更のように健吾は、自分は夢でも見ているのではないかと疑った。敦といい、この屋敷といい、どうも現実とは思えない。あるいはここは幽霊屋敷で、敦もこの少年も、本当は、狐狸妖怪の類だとしたら……
「おい」
 とりあえず不安を紛らわすべく健吾は口を開いた。
「女中はいねぇのかよ。それとも、俺に怯えてどこかに匿れていやがるのか?」
「いえ」
 肩越しに振り返ると、次郎は小さな顔をふるふると振った。
「女中さんはいません。今は、僕と祖父の二人だけで旦那様のお世話をさせて頂いておりますから」
「二人ぃ?」
 健吾は呻いた。どうせ幽霊屋敷なら、こんな子供ではなく、綺麗な女に化けて出てきて欲しかったものだ。
「はい。ほかの者には昨年の大空襲の後ですぐに暇が出されました。屋敷に引き止めて空襲で焼かれでもしたら不憫だとの旦那様の仰せで、田舎のある者は田舎に帰し、田舎のない者にも、空襲の心配のない地方での勤め口を斡旋してやりました」
「へぇ、見上げた賢君だなそりゃ」
 自分でも空々しいと呆れつつ嘯くと、
「そうなんです! 敦さまは、それはもう大変お優しいお方で!」
 健吾の嫌味を、額面どおりの褒め言葉と受け取ったのだろう。自分のことのように次郎は痩せた胸を張った。
 何となしに中庭に目を移す。
 雨で濡れる木立の向こうに、洋館の尖った屋根がぬっと突き出している。黄昏時ということもあって、その影はやけに巨きく、何より不気味な印象を健吾に与えた。
「あちらが本来の清島家の本邸です」
 健吾の視線を追ったのだろう、次郎が注釈を入れる。
「あれが本邸? じゃあ、ここは……」
「こちらの和風邸宅は、先先代のご当主である清島勲様によって明治期に建てられたものです。昭和初期に本邸が完成した後は、おもに大切なお客様をお泊めする際に使用しておりました。いわば別邸です」
「……は?」
 健吾は開いた口がふさがらなかった。この別邸と呼ばれる建物だけでも、ちょっとした旅館ぐらいの規模はある。ということは……
「あっちは……じゃあ、もっと広いのか?」
「ええ。広いですし、何より造りが非常に頑丈です。建設当時としては先進的だった鉄筋コンクリート製を採用しておりますし、セントラルヒーターを採用しておりますので、冬でも暖かく快適に過ごすことができます。ただ――」
 そこで言葉を区切ると、次郎は、どこか悔しそうに洋館の屋根を仰いだ。
「だからということもあったのでしょう。終戦後は、連合軍の将校宿舎として接収されてしまいました。今では、持ち主であるはずの旦那様さえ立ち入ることは許されません」
 次郎の小さな手のひらが、ぎゅっと拳を結ぶ。無理もない。つい昨年まで地獄を見せられた敵に、今また大切な住まいを奪われているのだから。
 もちろんそれは、次郎自身の住まいではない。ただ、主を心から敬愛する使用人にとっては、我がこと以上の屈辱に感じられてしまうのだろう。
 ただ、敦でも、ましてその使用人でもない健吾には所詮は他人事でしかなく。
「けどまぁ、こうして住む場所が残っただけマシってもんだろ」
 そう。この街には今、家や家族を焼き尽くされ、途方に暮れながらその日その日を生きる人間も少なくないのだ。下を見ればきりがないとはいえ、それでも敦の境遇は、今の日本人の一般的な現状からすれば恵まれすぎるほど恵まれている。
「屋敷の一つや二つ盗られるぐらい、そりゃ負けたんだから仕方ねぇだろ。悔しいのは分かるけどよ、だからって、今のお前が取り返せるわけでもねぇんだし。ま、せいぜい忘れるこったな」
「……はい」
 それでも納得がいかないのか、不満げに唇を尖らせると、次郎は小さく頷いた。
 やがて通されたのは、小ぶりながらも清潔感のある檜造りの風呂場だった。
「髭剃りはあるか?」
「髭剃り……ですか?」
 次郎は訝しそうに小首を傾げた。
「それは……伸ばしていらっしゃるのではないんですか?」
 次郎が怪訝に思うのも無理はなかった。捕虜の時代も含め、もう長いこと髭を当たっていない健吾は、今や顔の下半分がすっかり無精髭で覆われてしまっていたからだ。
 もともと健吾は髭を蓄える方ではなく、だから召集前も、それに戦地でも、基本的に髭はつねに綺麗に当たっていた。
 身だしなみがままならなくなったのは、満洲から南方の島に部隊が移動した頃からで、この頃になると、髭剃りの刃どころか食料にも事欠く状態だったから、髭を当たる余裕などあるわけがなかった。
 だから、この山賊めいた髭に愛着を抱くかと言えばそんなはずはなく。
「俺がそんな野暮に見えるのか? え?」
 脅かすつもりでぎろり睨みつける。よっぽど恐ろしかったのだろう、次郎は、白い顔をますます蒼くしてかぶりを振った。
「い、いえいえいえ、とてもよく似合っていらっしゃるので、その、てっきり……」
 なおも必死に言い繕う次郎に、少しやりすぎたかと自省しつつ健吾はふっと笑いかける。
「馬鹿。冗談だよ。いいから髭剃り持ってこい」
「は、はい……」
 次郎が廊下の向こうに消えるのを見送ると、ようやく健吾は身につけているものを脱ぎはじめた。
 軍隊用語で下袴と呼ばれるパンツは、汗と泥、そして血糊のシミでひどく汚れている。
 よく見ると、血糊のシミのついた辺りは必ずと言っていいほど布地が派手に引き裂かれていて、その下には、きまって布地の破れ目と同じ形の古傷が覗いている。
 その傷の一つ一つが壮絶な戦闘の記憶を思い出させ、どうしようもなく陰鬱な気分を健吾に強いた。
「チッ……」
 手早くゲートルを巻き取ると、健吾は、旧い記憶もろとも下袴を脱ぎ捨てた。
 風呂場は、屋敷の規模に較べるとそれほど広くはなかった。
 ただ、丹念に掃除された床や壁は清潔感にあふれ、檜造りの浴槽から立ち上る木の香りが、何ともいえない爽やかな気分を与えてくれる。
 洗い場の床は石畳になっており、その片隅に一尺四方ほどの鏡が掛けられているが、こちらは湯気のせいですっかり曇っている。
 とりあえず髪を、ついで垢まみれの躰を洗う。
 石鹸を手拭いで包み、痩せた躰に擦りつける。骨と皮ばかりが残る胸や脇腹には、哀れなほどくっきりと肋が浮き、まるで安物の提灯のようである。
 よく見ると、銃創や下手な縫合による引き攣れがあちこちに刻まれている……
 そうこうするうち、やがて次郎が剃刀を持って風呂場に戻ってきた。
「あの、お背中お流し――うわっ!?」
「何だよ」
 振り返ると、次郎が風呂場の入り口にへたりこんでいる。その目がすでに涙目なのは、健吾の背中に彫られたものを見てしまったからに違いない。
 健吾の背中には、肩から腰の辺りにかけて巨大な龍の刺青が彫り込まれている。もちろんヤクザ時代に入れたものだが、おかげで軍隊時代は、風呂場で同業の人間に出くわすたびに因縁をつけられて困った。
「あ、あの、田沢さんって、その……まさか……」
「何だよ、ヤクザなんて、この界隈じゃそう珍しいもんでもねぇだろ」
「そ……そう、ですけど、でも……」
「心配すんな。今は完全に足ぃ洗ってっからよ。それより、ほら剃刀」
「は、はい……」
 頷くと、次郎は猛獣に餌をやる手つきで健吾に剃刀を差し出した。
 拝借した剃刀でさっそく髭を当たる。戦地の支給品と違って丁寧に研がれたそれは、実にいい剃り心地で、あれほど鬱陶しかった髭がみるみる剃れてゆく。
 が、それでも、召集前の男ぶりを取り戻すというわけにはいかなかった。
 戦地での極端に悪い食糧事情のせいで、すっかり肉の削げた頬は骨が張り出し、同じく落ち窪んだ眼窩の奥では、二つの瞳が餓えた野良犬に似た異様な光を放っている。
 ともあれ髭を剃り終えると、多少は気分もすっきりする。
 石鹸を洗い流し、痩せた躰を浴槽に沈める。
 こんなに風呂らしい風呂に入ったのは一体何年ぶりだろう……
 見ると、相変わらず次郎は風呂場の入口につっ立っている。何かを訊こうとして訊けずにいる、そんな雰囲気だ。
「何だよ。鬱陶しいな。用がねぇならとっとと出て行け」
「あ……いえ、その……田沢さんは……どちらに出征なさっていたんですか?」
「どちら、ってぇと?」
「満州ですか? 支那ですか? それとも、南方……?」
 やれやれ、と健吾はうんざりした。
 確かに、この年頃の少年が戦争に興味を持つのは仕方のないことだ。かくいう健吾も、次郎ぐらいの年頃は、兵隊や戦車の行進に出くわすたびに目を輝かせ、あるいは勇壮な戦記小説を貪るように読んだものだ。
 が、実際に兵士として戦争に参加して思い知ったのは、本当の戦場に、幼い頃に憧れた冒険は何一つ存在しなかったということだ。あるのはただ、圧倒的な火力と物量が勝利を収める殺伐としたリアリズム――それだけだった。
「ンだよ。そんなこと聞いて何になるってんだ、えぇ?」
「す、すみません、ただ……僕の兄はビルマの方に出征していて、その、でも……終戦以来何の音沙汰もなくて……それで、もし同じ方面にいらしたのならば、せめて、状況だけでも、と……」
 なるほど、と健吾は納得する。てっきり子供の無邪気な好奇心から戦争の話を聞きたがっているものと思ったが、どうやら違っていたらしい。そうではなく、あくまで次郎は兄の消息が知りたいのだろう。彼曰く、ビルマに出征したという兄の消息を。
 そうなると、健吾も無碍にはあしらえなくなる。
「そうか……悪ぃな。俺は満洲からそのまま太平洋に回されて、ビルマ方面には一度も行ってねぇんだよ」
「……そうですか」
「ああ。早く帰るといいな。お前の兄貴」
「はい」
 今にも泣きそうな目で、それでも精一杯微笑むと、次郎は風呂場を出て行った。
「……兄貴、か」
 湯船に身体を沈めながら、健吾は暗澹たる気分を拭えなかった。
 健吾には家族と呼べる人間がいない。
 だから、戦地で行方不明になった兄の安否を気遣う弟の気持ちなど、正直に言えば、よくわからない。
 ただ、全く想像できないかといえばそうでもなく、例えば昨日まで笑いあっていた戦友とか、心から尊敬していた兄貴だとか――要するに、自分の心の大きな一部を占める人を亡くす痛みは、躰の一部を失うにも似て、耐えがたい苦しみを伴うだろうぐらいのことは何となくだが想像できた。
 ただ、その痛み苦しみを想像した上で、やはり次郎の兄は戦死しているだろう、と、実際に戦場に立ったこともある健吾の勘は無情にもそう告げていた。
 復員後、健吾は、内地の人々があまりにも実際の戦況を報らされていなかったことに少なからず驚いた。彼らの認識によれば、我らが帝国陸海軍は、米軍相手にそれなりに善戦していることになっていたらしいのだ。実際は、ほぼ連戦連敗を喫していたにもかかわらず、だ。
 次郎が、今なお当時の認識の中で生きているのだとすれば、一日も早くその幻想を覚ましてやらなければいけない。それは、とりもなおさず大人の役割なのだが――と、そこまで思い至ったところで、所詮はよそ様の家庭の事情じゃねぇかと慌てて健吾は思い直す。
 どうせ自分は、今宵限りの客人でしかない。
 明日になれば、次郎とも、もちろん敦とも赤の他人に戻るのだ。これ以上、彼らの事情に踏み込むのは無粋だし、何より無意味だ。
 風呂から上がって脱衣所に戻ると、棚にはすでに新しい衣類が用意されていた。
 ほとんど黒に近い藍色の、ほどよく糊の利いた男物の大島紬は見るからに上物で、この品不足のご時世にはありがたい代物だ。
 そういえば、徴兵されてからというもの健吾には着物など羽織った覚えがない。懐かしい気分で袖を通していると、からりと引き戸が開いて、次郎の小さな顔がひょいと覗いた。
「あの、夕食の支度が整いました。旦那さまもすでにお待ちです」
「夕食?」
「はい。旦那さまが、是非お食事をご一緒するように、と」
「……一緒に? 敦が?」
 思わず健吾は眉を寄せる。どこの世界に、自分を犯した強姦魔と一緒に食事を取りたいと言い出す馬鹿がいるのだろう――が、次郎の表情に嘘を吐いている様子はなく。
「わ……わかった」
 手拭いを首にかけると、健吾は大人しく次郎の背中に従った。
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