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路地裏乃猫

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気まずい状況

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 とりあえず、スクール長から直生の当面の生活費として三万円の支給を受けた雪也は、帰りに市内のショッピングモールに立ち寄り、着替えの下着や服、歯ブラシなどの日用品を買い込んだ。
  そうしてあれこれ買い揃えるうち、マンションに戻る頃には、車の後部座席はすっかり直生のもので一杯になっていた。
 「……はぁ」
  バックミラー越しに、荷物で満杯になった後部座席を眺めながら雪也は重い溜息をつく。
  あの子供嫌いの駆が、これだけ多くの、しかも子供の荷物を部屋に持ち込んだ日には、一体どんな渋い顔をするだろう……
 「どうしたんですか? 先生」
  雪也の発する不安な気分を敏感に感じ取ったのだろう、助手席の直生が怪訝そうに雪也の顔を覗き込む。なぜか気まずくなった雪也は、「あ、いや」と茶を濁すと、慌ててフロントガラスに目を戻した。
  本当は家で待つ恋人の反応を心配していた、とは、なぜか口に出して言えなかった。もっとも、それが先日の直生の告白と関係しているのかどうかは、雪也本人にも分からなかったけれども。
 「そ……そういえば、直生のお父さんは今頃どうしてるかな」
  我ながら下手な会話だなと雪也は自分が嫌になる。いくら子供相手でも、これでは場を取り繕っているのが見え見えだろう。
  もっとも、直生の父の消息が気がかりでなかったかといえば、そうでもなく。
  実は直生の父親は、今朝から完全に音信不通と化しているのだ。朝はスクール長が連絡を試み、その後、雪也自身も何度も連絡を取ろうとした。携帯には留守電さえ残している――ところが、いまだに父親から折り返しの電話はなく、どこで何をしているのかは勿論、直生を迎えに来る意志があるのかということさえ分からなかった。
  父親の方から警察に直生の捜索願を出した様子もなく、つまり昨晩からこちら、父親の行動が全く把握できない状況が続いているのだ。
  大方パチンコにでも出かけて、スクールからの電話にも気付かずにいるのだろうが。
  だとしても、子供が行方不明になっている状況で取る親の行動としてはあまりに非常識ではあるが……
  そんなことをつらつら考えるうちに、やがて、雪也の運転するワンボックスはマンションの駐車場に到着した。
  後部座席から荷物を下ろし、エレベーターに乗り込む。その間も直生は、雪也と一緒に住めると期待してか終始うきうきで、せめて部屋に着く前に一言ぐらい同居人の存在を伝えておこうと身構えていた雪也は、余計に駆の件を切り出す機会を失ってしまった。
  一応、駆にはメールでこの件を伝えてはいる。が、いまだに返信が帰ってこないのは、単にメールに目を通していないだけなのか、それとも、あまりにもあんまりな内容に返信する気すら失せているのか。
  前者なら、まだ説得の余地もある。が、もし後者だとしたら――
 「先生」
  不意に呼び止められ、はっと振り返る。思いがけず深刻めいた直生の顔がそこにあり、一瞬、雪也は軽くおののく。
 「な……何だい?」
 「僕、いつになったらお髭生える?」
 「……へ?」
  一瞬、何を言われたのか分からず、ややあって髭のことを訊かれたらしいと気付いて雪也は納得する。それほどに、今の雪也にとって髭の話は埒外の話題だったのだ。
  が、思い出すなら、決して伏線がなかったというわけでもなく、どうやら先程立ち寄ったドラッグストアで、直生が手にしたシェーバーを、雪也が「君にはまだ必要ないから」と言って棚に戻させたことを密かに気にしていたらしい。
 「さぁ……それは、人それぞれだから正直何とも言えないなぁ……」
  ごまかすような口ぶりになってしまったのが不本意だが、雪也としては、あくまでも正直に答えた。
  実際、雪也の友人の中には、中学に上がる頃にはすでに髭が目立ち始めていた奴もいれば、社会人になるまでシェーバーを必要としなかった奴もいて、いつ髭が生えはじめるかという問いには、だから一概には答えることはできない。
  ちなみに、雪也がシェーバーを必要としはじめたのは大学の頃からで、それでも週に一、二度でも剃れば十分だった。今でも雪也は、三日に一度程度しか髭剃りを必要としない。それも、一応は申し訳程度に当たる程度だ。もともと体毛の薄い体質なのだろう。
  それはさておいて、早く大人になりたいと願うこの年頃ならではの少年の問いに、駆のことで頭を痛めていた雪也は少しほっこりとなった。少なくとも雪也は、そう思った。
 「直生くんは、早く大人になりたいのかい?」
 「うん」
  大真面目に頷くと、直生は続けた。
 「じゃなきゃ、先生とお付き合いできないから」
 「う……うん……そうだね」
  束の間ほっこりしかけた雪也は、苦笑まじりにそう答えるしかなかった。
  やがてエレベーターは、雪也たちの部屋のある六階に到着した。
  やはり、今のうちにきちんと言った方が良いのだろうか――そうだ。たとえ相手が子供でも、告げるべき真実ははっきりと告げなくては……
  そう思い悩む雪也の目の前で、すう、と音もなくドアが開く。と――
 「あ」
  扉の向こうから現れた男の姿に、雪也は硬直する。
  立っていたのは、腰に手を当て、文字どおり仁王立ちを決め込んだ駆だった。
  朝方の見送る時とは違い、さすがに服こそ着ているが、表情の不機嫌さは較べるべくもない。あちらが薄い花曇り程度だったとして、こちらは――もはや台風だ。
  その駆が、細い顎を反らしながら、頭半分は高い場所から見下ろすように雪也に言う。
 「……何だ、あのメールは」
  開口一番、叩きつけるような台詞に、ただでさえ説明をどうするか思い悩んでいた雪也はいよいよ返す言葉をなくした。子供の前でも不機嫌を隠そうとしないのは、悪い意味で素直な駆らしいが、逆に、他人の印象など構っていられないほどに怒りが募っているということでもあるのだろう。
  扉が自動で閉じようとするのを、咄嗟に長い手足で押さえつけると、駆は、雪也を睨みつける目を今度はじろり直生の上に振り向けた。
 「お前が……直生、か」
  突然目の前に現れた、見も知らない男に自分の名を呼ばれた直生は、一瞬、びくりと肩をすくませると、それから、変な生き物を見る目で、駆の姿を頭の先から足先までじろりじろりと見回した。そして、
 「……どちらさま、ですか」
  質問というよりは、純粋な警戒心の表れという口調で言った。
 「僕たち、先生のお部屋に行くんです。邪魔なのでそこをどいて頂けますか」
 「ちょ、直生くん!」
  駆の不機嫌に油を差すような台詞に、慌てて雪也は制止に入る。やばいと思い、おそるおそる駆に目を戻した雪也は、またしても目を丸くする羽目になった。
  笑っていた。あの駆が、にっこりと。ただし――
  目は全く笑っていない。
  それは、駆とは一年の付き合いがある雪也も初めて見る表情で、それは抜きにしても、こいつは一波乱あるなと雪也の背中が冷たくなったその時、いかにも人を食った口調で駆はしゃあしゃあと答えた。
 「どちらさま? 雪也の恋人に決まってるだろ」
  直生が「えっ」と小さく叫び、次いで、物問いたげな――むしろ縋る眼差しで雪也を見上げる。違うと言ってくれ――黒い瞳が告げる無言のメッセージに、ますます雪也は追いつめられる。
  そんな瞳を前に、雪也は自分のふがいなさを呪うしかなかった。やはり、たとえ子供相手でもきちんと切り出しておくべきだったのだ。
  ただ、そうは言っても、駆も駆で出合いがしらに告げなくてもよさそうなものを……
 「そう……彼は、僕の恋人なんだ」
  瞬間、直生の瞳が何かを言わんとして丸く見開くのが、雪也の目には痛かった。 
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