かつて愛した人と同じ名を持つアイツ

路地裏乃猫

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裏切り

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「ごめん……今日も遅くなる」
『わかった。あんまり無理しちゃ駄目だぞ。蒼はすぐ無理したがるから』
 電話口から届いた気遣いの言葉に、蒼は一人、胸を痛めつつ蒼は電話を切る。
 本当は、今夜は取り立てて急ぐ用もなく、その気になれば早く帰ることもできるのだが、それでも自宅に足を向ける気になれないのは、やはり、無意識的に拓海を避けてしまっているせいもあるのだろう。
 琢己との再会から一週間。
 その間、なんとなくだが蒼は、拓海と会うことを、あるいは接触を、さりげなくではあるが避けるようになっていた。
 では、なぜ避けてしまっているのか――
 それは、蒼自身にもわからない。昔の恋人の代わりとして付き合いはじめたことを済まなく思うなら、それは今更という感じではあるし、それに、完全に気持ちが拓海のもとに移っているなら、そもそも後ろめたく思う必要もないはずだ。
 今も、琢己を想っているかもしれないから……? 
 それはあるかもしれない。その上で恐れているのだろう。全ての事実がばれた時、罵りの言葉で、あるいは冷ややかな眼差しで自分の心が傷つけられてしまうことを……
 そうして蒼は、今夜もまた拓海を避けることになる。
 卑怯と知りつつ、あえて拓海の反論しづらい仕事にかこつけて。
「どうした、やけに顔色が冴えないな」
 振り返ると、先輩の井上がからかうような笑みを浮かべてパーティションの入り口に立っていた。
 よっぽど琢己と知り合えたことが嬉しかったのだろう。先日の一件以来、ますます蒼に目をかけてくれるようになった井上は、今では、時間さえ合えば毎日のように昼食を一緒にする仲になっていた。おかげで一部の社員からは、恋愛関係を疑われることも無きにしもあらずだったが、当事者の一人である井上に、そのことを自覚している様子は見られない。
「ひょっとしてオーバーワークか? お前、最近随分と忙しそうだからな」
 井上のやや的外れな気遣いに、蒼は微苦笑で応じる。
 もともと賃貸畑出身の蒼は、その頃の経験を活かし、より客のつきがいい――投資家目線で言えば、空室リスクの少ない部屋を見繕うのを得意としている。客の反応も上々で、近頃では、わざわざ蒼を指名して物件選びを任せる投資家も増えてきた。
 そんなわけで、近頃は顧客への対応や物件選び、資料作りにと忙しくしていたが、本当は仕事の忙しさにかまけ、というより言い訳にして、拓海と向き合うことを拒んでいるだけであるのは先にも述べたとおりだ。
「いやー、この間はサンキューな。お前のおかげで石動さんとも知り合えて、ほんとラッキーだったわ俺」
 またしても蒼は苦笑で応じる。今度のそれは、井上の口からこの言葉を聞くのは何度目だろうか、という意味の苦笑いだ。
「それは……何よりです」
「おう。また石動さんと会うことがあれば、俺にも絶対声をかけてくれよな!」
「はい……」
 ひらひらと手を振りつつパーティションを出て行く井上を見送りながら、蒼は、えもいわれない後ろめたさが背中にのしかかるのを感じないではいられなかった。
 なぜなら、まさに今夜、その石動琢己と会うことになっていたからだ。

 レインボーブリッジを過ぎ、車はやがて台場へと滑り込む、道幅が広く近未来的な街並みが続くこの埋め立て地区は、交通もスムーズで見晴らしも良く、とりわけ夜は、ドライブにはうってつけの場所となる。
「やはり、湾岸地区は熱いですか」
 熱いと言っても、ここで言う「熱い」とは気温の話ではない。不動産の投資対象として魅力的かどうかという話なのだが、今現在、蒼の隣でハンドルを握る若手投資家、石動琢己の答えはつれなかった。
「それは、企業秘密だな。――というより、お前と二人きりの時は、そもそもそんな無粋な話はしたくない」
「無粋ですか」
「無粋だろうよ。人さまが住んでる部屋を勝手に売り買いして喜んでるような連中はよ」
 吐き捨てると、琢己は懐から片手で器用に煙草を取り出し、銜えて火をつけた。
 その仕草を、蒼はどうしようもなく懐かしいと感じてしまうのを否めなかった。
 大学時代、琢己はこれと同じ仕草でよく煙草を吸った。片手で箱を取り出し、絶妙な振り加減で一本だけ箱から飛び出させ、銜えるのだ。蒼も大学の時分に少しだけ煙草を嗜んだことがあるが、結局、この技が身につく前にやめてしまった。
「何だ? あの井上とか言う先輩に訊き出すよう頼まれたのか?」
「ち、違います。ただ……」
 何となく、気づまりになって切り出したとはさすがに言い出せなかった。
 それを言うなら、なぜ〝大学の先輩〟とドライブに出かけているというだけで、これほど気まずい思いを強いられなければいけないのか……
「……東京五輪までは、上がるんでしょうね」
 結局、またしてもくだらない世話話で茶を濁す羽目になる。と、興を削がれたらしい琢己が、腹を立てたのだろう、自棄じみたビジネス口調で答えた。
「どうだかな。近頃じゃ中国経済がヤバくなってるから、大陸から流れ込んでいたマネーが滞る可能性もある。特にこの辺りの高層マンションはな。五輪まで順調に伸び続けるというのは、少し楽観的にすぎるかもしれん」
「……」
 言葉の内容というよりは、琢己のこれ見よがしのビジネス口調に蒼は悄気る。別に、機嫌を損ねるつもりはなかったのだ。ただ、本当に話すべき話題が見つからなかったというだけで。
 そんな蒼に、ふと琢己が問うてくる。
「お前は今、どんな部屋に住んでいる?」
「あ、はい。練馬の2LDKに――」
 答えた後で、蒼はふと口を噤む。
 よっぽど裕福な人間でもなければ、通常、単身者が2LDKなどという贅沢な部屋に住むことはまずありえない。これでは、同居人が存在すると答えているも同義だった。
 なぜか分からない。
 ただ、琢己には、同居人の存在を知られたくはない……
「――い、以前まで住んでいたですけど、この間、ワンルームに引っ越しまして、」
 自分でもどうかと思うほどのあからさまな嘘で応じる。と、
「……別れたのか?」
「えっ?」
「つまり、今のワンルームに引っ越したのは、恋人と別れるなりしたせいか、と訊いているんだが」
「……」
 なぜか責めるような口調に、いよいよ訳が分からず蒼は戸惑う。
 そもそもどうして、琢己はこれほど不機嫌なのだろう……いや、その前に、なぜ蒼の現況にこれほど興味を示してくるのか。
「そ、そういう石動さんは、今はどちらに?」
 すると琢己は、なぜかばつの悪そうな顔になって、
「あ……ああ。マンションだ。大田区の1LDK」
「奥様とは?」
「相変わらず離婚に向けて調停中だよ」
 その後しばらく、琢己の口からは妻の愚痴が続いた。
 もともと妻とは根本的に美意識が合わなかったこと。社交的なのは結構だが金遣いが荒く、おまけに計画性もないから辟易していること。料理は駄目。もちろん家事が駄目なのは承知の上で結婚したのだが、それでも多少の努力はして欲しいものだ……等々
「何より参ったのは……夜だな」
「夜?」
「ああ……どうも、彼女では満足できないんだよ。よっぽど、前の恋人のが良かったんだろうな……」
 含みを帯びた口調で言われ、蒼ははっとなる。
 ここで言う前の恋人というのは、おそらく蒼のことだろう。が、単なる冗談にしては、その口調はいやに気まずい――
 と。
「あっはっは!」
 だしぬけに琢己の哄笑が弾けて、一瞬、蒼はびくりとなる。
「いや、冗談だよ冗談! ――まぁ、お前が良かったというのは本当だが、さすがに彼女との不仲の原因まで押し付けるのは違うだろうしなぁ。ははは……」
「……は、はは」
 ぎこちなく追従笑いを浮かべて見せながら、蒼は、胸の奥がしきりにもやつくのを否めなかった。
 そもそも、あれは本当に冗談だったのだろうか……?
 仮に冗談ではなかったとして、では、自分はふたたびこの身体を捧げられるだろうか。かつて、自分を捨てて世間体と安寧を選んだ男を、ふたたび、この身体に受け入れられるだろうか……
 わからない。
 ただ、一つだけ事実がある。
 それは、この二年間というもの蒼が〝タクミ〟に抱かれ続けてきたことだ。〝タクミ〟の指で舌で、爆ぜる熱で達かされてきたことだ。そして――
 達する瞬間には必ず、あの白タキシードを纏った背中を思い描いてきたことだ。そう。この二年間ずっと……
 その背中の主が今、蒼の隣でハンドルを握りながら、冗談とも本気ともつかない言葉で過去の日々を蒼に思い起こさせている。
 あの努力は……結局何だったのだろう。
 セミナーの後で琢己と会った際に蒼は、誘っているとだけは見られたくないと強く思った。この二年間の、琢己を忘れようとした努力に対する侮辱だと、あの時は、単純にそう思った。だが――
 そもそも蒼は、そんな努力などこれっぽっちも成していなかったのだ。
 忘れるつもりで、その実、〝タクミ〟に逃げていたにすぎなかった。〝タクミ〟を愛し、〝タクミ〟に抱かれ、そうして今も、愛しい人はちゃんと傍にいてくれるのだと、自分で自分を騙し続けた。そう、〝タクミ〟の腕の中で――
 ならば。
 今更、琢己を拒んだところで何の意味があるのだろう……。
 やがて車は、台場の奥にある公園の駐車場へと滑り込んだ。
 すでに時刻は夜の十時を超えている。が、てっきり人けが少ないものと思われた公園には、デートだろうか、若い男女の姿が意外なほど多く見られた。
「何だか恋人同士みたいだな、俺ら」
「……」
 答える代わりに、蒼は黙って遊歩道を進む。照明は意外と少なく、油断すると僅かな段差に足を取られてしまいそうで、うっかり足元から目を離せないこともあるにはあったが、それ以上に今は、なぜか琢己を振り返る気になれなかった。
 照れているのかもしれなかった。ただ、詳しいことは蒼自身にもよくわからない。
 植え込みの間を縫うように進む遊歩道をしばらく歩くと、やがて、植え込みの向こうから突如として見事な夜景が目の前に現れる。東京湾岸地区の、おそらくは東京で最も美しい景色の一つだろう。
 海沿いに光の塔にも似たビルが林立し、波の穏やかな東京湾の水面にその光を投げる光景は、先程までの憂鬱を晴らすには充分だった。――あるいは蒼自身、そういうことにして鬱屈とした気分を改めたかっただけなのかもしれない。
 とにかく蒼は、心洗われた気分で振り返る。
「いや、すごいですね石動さん! こんなに綺麗な夜景を見たのは、僕、初めてですよ!」
「初めて? そうだったか? ここには何度か連れて来たように思うが」
「……え?」
 琢己の意外な言葉に、蒼は怪訝な顔をする。すると琢己は、一瞬しまったという顔をして、
「あ……すまない。こいつは妻との話だった」
「奥さんと……?」
 ――そういえば。
 これは琢己の結婚式で聞かされたことだが、琢己は、蒼と付き合いながら並行して今の夫人との親交を深めていたらしい。話してくれたのはかつてのサークル仲間だったが、その彼も、目の前の男がつい数か月前まで新郎と付き合っていたとは、まさか想像もできなかっただろう。
 器用な琢己は、決して、蒼との関係が周囲にばれるようなヘマを侵すことはなかった。蒼との恋は、だから、誰にも知られることなく始まり、そして終わったのだ。
 いや――そんなことはこの際どうでもいい。
 悲しいのは、琢己が、夫人との甘美であろう思い出を、勝手に蒼の思い出と混同していたことだ。
 恋人として琢己と会うとき、きまってどちらかのアパートの中に場所が限定されていた。バイであることが露見されるのを恐れた琢己が、蒼と二人きりのときは決してアパートの外に出ようとはしなかったからだ。
 琢己にこの場所へ連れて来てもらったことは、だから一度もない。そう、一度たりとも。
 そんな蒼に対する扱いさえ、琢己はものの見事に忘れ去っていたらしい……
「それより蒼、お前、二人の時は何と呼べと教えた? それとも、たった二年前のことをお前は忘れちまったのか?」
 あからさまに話題を変えられ、蒼は軽くむっとなる。
 もちろん覚えている。最初の夜に散々ベッドの中で練習させられ、ひどく照れくさかったことも。ただ、その時のことを思い出したからといって、今は、単純に心躍らせる気にはならなかった。
 むしろ先程から抱える胸のもやつきが、無駄に色濃くなったばかりで。
「……いえ、覚えています」
「そうか」
 蒼の言葉に、琢己はにやり口の端を吊り上げると、焦らすような足取りで蒼に歩み寄った。
 やがて、その耳元に顔を寄せ、豊かなバリトンで囁く。
「聞きたいんだよ。お前の、その可愛い唇が俺の名を口にするのを――仔犬みたいな声で、琢己、って縋るように呼ぶのを」
 琢己――タクミ。
 この二年間、蒼の身体を、心を抱き続けてきた男――
「……石動さん」
「え?」
「と、呼ばせてください……僕らはもう、そういう関係ではないのですから」
 ようやく言葉を絞り出す。その実、なぜか蒼は膝が震えるのを止められなかった。
 なぜかは分からない。ただ、琢己のことを琢己と呼ぶ、それだけのことを蒼の全身が全力で拒絶していた。
 なぜ、どうして僕は――……
 琢己はやれやれという顔で肩をすくめると、宥めるように蒼の肩を軽く叩いた。
「冗談だよ。――さて、一通りぶらついたら帰るとするか。今夜は意外と風が冷たい」
「……はい」
 帰りの車内は、案の定、何とも言えない重苦しい雰囲気に包まれていた。
 今は大田区に住まうという琢己にとって、蒼の住む練馬は、逆方向とまではいかなくとも、全く方向が違う。わざわざマンションまで送ってもらうのは忍びなく、とりあえず山手線のどこかの駅に下ろしてくれればあとは自分で帰りますから、と申し出ると、結局、首都高で池袋まで運んでくれたのは有難かったが、同時に申し訳ない心地もした。
「すみません、では、ここで――」
「蒼」
 助手席から降りかけたところを、ふと引き止められ、振り返る。と――
 ……えっ?  一瞬、何が起こったのか分からず、ただ気付くと、目の前に琢己の端正な顔が迫っていた。
 そして唇には、生々しく残るキスの感触が……
「愛していた」
「え?」
「だから、愛していたんだよ。ずっと……お前を……お前だけを」
 呆然となる蒼の唇にふたたびキスを刻むと、琢己は続けた。
「だから……もう一度、俺を受け入れて欲しい」
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