かつて愛した人と同じ名を持つアイツ

路地裏乃猫

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悔恨

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 社会人になり、付き合いなどでそれなりの店に出入りすることの多くなった蒼も、さすがにその夜、琢己とともに足を踏み入れたバーには気後れせずにはいられなかった。
 皇居近くのホテルの最上階にあるそのバーは、琢己曰く、丸の内の夜景を眺めつつ上質な酒を楽しめる店ということで、大切な客をもてなす際に重宝しているとのこと。確かに、シックで落ち着いた雰囲気の中、グランドピアノの生演奏を愉しみつつグラスをかち合わせるなら、かなりのエグゼクティブ相手でも気後れせずに商談をまとめられるに違いない。
「まるで借りてきた猫だな」
 店に入って早々、縮こまる蒼を評して琢己が笑う。が、実際、借りてきた猫以外の態度を取れない蒼には何も返す言葉がなかった。
 蒼のカクテルグラスに自分の持つペリエのトールグラスをかち合わせながら、可笑しそうに琢己が笑う。
「ひょっとして、こういう趣向の店は苦手か?」
「そ……そういうわけでは……」
 落ち着かない気分を宥めるべく、とりあえず手元のグラスを舐める。
 円錐を逆に立てたような瀟洒なグラスに注がれているのは、ウイスキーベースの琥珀色の液体。その底に、西の空に沈む夕日さながらにレッドチェリーがぽつんと沈んでいる。
 当たり前だが、カクテルと一口に言っても、その辺りの安居酒屋で出されるそれとはまるで品が違う。
「マンハッタンだよ。高層ビルの最上階から夜景を眺めつつ傾けるにはぴったりなカクテルだと思ってね」
 唇から白い歯を覗かせると、琢己は手元のグラスに軽く口をつけた。
 そんな琢己の顔を横目で盗み見ながら、どうして自分はこんなところで酒を飲んでいるのだろうと、今更のように蒼は自分が置かれた状況を不思議に感じた。
 もらった電話に呼び出され、ここのホテルのロビーを訪れた蒼は、思いがけず彼を待ち詫びる琢己の姿に驚いた。てっきり彼の言う〝次の予定〟に向かっていたものと思い込んでいたからだ。
 呼び出しに応じて現れた蒼に、琢己は端正な顔をふっと微笑ませると、それから、さも人を食ったような顔で言った。
 ――すまないね。あの場で君を誘ったら、あの屈強な彼も従うと言って聞かなくなりそうだったから。
 どうやら、わざわざここに蒼を呼び出したのは、井上を振り切るための琢己なりの工作だったらしい。
 ――場所を変えよう。ここのホテルの屋上に、なかなかいけるバーがあるんだが。
 そうして場所を移し、今に至る。
「どうした。今日はやけに静かだな」
「そ……そうですか?」
「ああ。久しぶりで緊張しているのか?」
「……それは」
 確かに、それもある――が、それ以前に蒼は、単純に、何を話すべきかが分からなかったのだ。
 改めて思い出すなら、琢己との思い出はほとんどがベッドの中のそれに限られ、すでに誰かの夫となった人の前で語るべきことではないように思われた。まして、彼らの夫婦関係が上手くいっていないと聞かされては猶更だ。
 誘っている――そう見做されるのは、蒼としてはこの上ない屈辱だった。
 結果はどうあれ、琢己への想いを断ち切ろうと努めた日々が、全て、何もかも、否定されてしまうかのように思われたのだ。
「すごいですね。二十代でこんな成功をなさるなんて。今日も、本当にたくさんの人が講演に詰めかけて……」
 仕方なく、当たり障りのない話題で茶を濁す。すると琢己は、精悍な顔をいたずらっぽくしかめると、
「おいおい。そんな、誰とでもできる話をするためにお前を呼んだんじゃないぞ」
「すみません……」
 どうやら、無理やりその場を取り繕おうとしたことはとっくに見破られていたらしい。
「ひょっとして、あの井上とか言う同僚がお前の彼氏か? だとすれば、お前の趣味も随分と変わったな」
「え……? い、いえっ違います違います! 本当に彼はただの会社の先輩で」
「そうか。安心した」
「……え?」
 またしても意外な言葉に蒼は面食らう。が、相変わらず琢己は見守るような笑みで蒼を見つめるばかりで、いっこうに真意を掴ませてはくれない。
 何となく気まずくて、窓越しの夜景に目を移す。すでに日は暮れ、漆黒の夜空の下、赤い航空灯が互いに共鳴するようにぽかぽかと明滅する光景は、どこか幻想的で、見蕩れていると、つい時間が経つのを忘れてしまう。 
 そういえば、あいつは今頃何をしているだろう……
 琢己からの電話を切った直後、蒼は、今度は拓海に電話をかけ、今夜は遅くなるかもしれない旨を伝えた。この突然の連絡にも、拓海は訝る様子もなく「いいよ」と答え、それから「帰る時に連絡ちょうだい」と言い残して早々に電話を切った。
 電話の向こうでは、終始ゲームのBGMらしき音楽が流れていた。電話のためにゲームを中断されるのが嫌で、それで早く電話を切りたかったのだろう。……自分の恋人が、これから昔の恋人に会うという時に。
 ふにっ。
 軽く頬をつねられ 振り返ると、琢己が拗ねたような目で蒼の顔を覗き込んでいた。
「贅沢な奴だな。俺という男が隣にいながら考え事か?」
「い、いえっ! そういうわけではないんですが……」
 照れくささにのけぞりながら目を逸らす。軽くつねられただけだというのに、やけに頬が火照って蒼は困った。
「が、何だ?」
「あ、いえ……その……ど、同居人が」
「……同居人?」
「あ、いえ、そうじゃなくて……猫! そう、猫を飼っているんですけど、こいつが、もう本当に何を考えているのか分からなくて……」
「猫が?」
「は……はい」
 すると琢己は、ふぅん、と可笑しそうに鼻を鳴らすと、グラスのウイスキーで軽く唇を湿して、
「羨ましいな。その猫が」
 と、妙なことを言った。
「羨ましい、ですか?」
「ああ。こうして離れていても君を思い煩わせることができる。なかなか幸せな猫だなと思ってね」
「それを言えば――」
 あなたこそ、と言いかけて蒼は止める。それを口にしてしまえば、あの頃の自分の努力が全て無駄になってしまう。忘れよう、もう忘れようと、毎晩のように枕を濡らしたあの頃の努力が。
 その後、会話は互いの近況で終始したが、浮ついた蒼の頭にはほとんど何も残らなかった。
 やがて夜も更けたところで、何となく会はお開きになった。
「だいぶ遅くなってしまったな。今夜は送ってやろうか?」
 言いながら琢己は、明らかに車のキーと分かるものを懐から取り出す。なるほど、先程バーでペリエしか飲まなかったのは、どうやら蒼を送るためであったらしい。
 だが蒼は、慌ててその申し出を断った。
「いえ、結構です! 遠いですし、それに家も散らかっているしで、正直その……」
 なぜかは分からない。
 ただ、今も家で待つはずの拓海に、琢己を会わせることだけはどうしても避けたかった。別に、後ろめたいことは何一つ犯してなどいないのだが――
 そんな蒼の言葉に、琢己はなぜか残念そうに肩をすくめると、
「そうか。じゃあ、せめてタクシー代ぐらいは受取ってくれ」
 と、財布から手の切れそうな一万円札を取り出し、蒼の手に握らせた。
「えっ? あ、いえ、結構ですこんなにたくさん……!」
「いいから受け取って。大丈夫、こう見えて結構儲けてるんだからさ」
 それは――今更言われなくとも分かっている。さもなければ今日のセミナーに、日曜にもかかわらずあれほどの人間が集まるわけなどない。と――
「えっ?」
 不意にその腕を掴まれ、引き寄せられる。
 気付いた時には、琢己の精悍な顔が眼前に迫っていた。
「すまない」
「えっ?」
「昔の癖で、つい――ね」
 そして優しく微笑むと、蒼の手をそっと放した。
「じゃ、また」
 言い残し、エレベーターの方へと消えてゆく。あるいはすでにホテルに部屋を取っていて、今夜はそこで休むのかもしれない。
 ホテルを後にすると、蒼はまっすぐに東京駅へと向かった。休日ということで、煉瓦造りの駅舎の周囲には、観光で訪れたと思しき人々が、ライトアップされた駅舎を背景に記念写真を撮る姿があちこちに見られた。
 そんな観光客らの姿を微笑ましく眺めながら、しかし蒼の気持ちは浮かなかった。
 あの瞬間――
 蒼は、確かに期待してしまった。琢己の口づけを。
 ありえないと、否、あってはならないと知りながら、それでも蒼は求めてしまったのだ。琢己の、数年ぶりのキスを。
「……何やってんだよ、ほんと」
 やはり、完全には忘れられていないのだろう。いや――そもそも忘れられるはずなどないのだ。
 手元に、〝タクミ〟を置いている限り。
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