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もう一人の“タクミ”
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蒼が井上に連れられて会場に着いた時、会場である丸の内の貸ホールはすでに八割がた埋まっていた。
通常、投資家向けのセミナーというと、退職金を持て余すリタイヤ世代か、老後の生活に不安を抱える壮年世代が多く見られるものだ。が、今回は三十歳以下限定の、主に若手投資家や業界人を対象としたセミナーということで、会場には若いビジネスパーソンの姿が目立つ。
石動の名前は、今や若手のビジネスパーソンにとって一種の成功モデルと化している。
投資関連の雑誌では何度も特集が組まれ、テレビやラジオにも多くのレギュラー番組を持っている。洗練されたファッションセンスと類稀な美貌を持つ彼は、また、ビジネスマン用のファッション誌にも連載を持ち、文字通り八面六臂の活躍を各方面で見せていた。
三百人程が入る会議室は、建物自体が新しいのか清潔感に溢れる印象で、講師自身がここを選んだとするなら、そのセンスはかなり洗練されていると言っていい。――もっとも彼ならば、その程度の芸当はわけもないだろうが……
やがて蒼は、井上と並んで会場の片隅の一席に腰を落ち着けた。
「本当に大丈夫だったのか? 今日」
さっそく井上がそう耳打ちしてくる。おそらく、蒼の恋人――井上には、あくまでも異性の、と話している――の反応を心配しているのだろう。
「ええ……どうしても今日の講演を聞きたいと言ったら、まぁ、許してくれましたよ」
セミナーに参加することを決めた夜、さっそく蒼は拓海に事情を話すと、次の日曜は買い物につき合えない旨を説明した。
てっきり文句の一つでも口にするかと思われた拓海は、しかし、意外にも蒼を責めることはなかった。むしろ「蒼の勉強になるなら」と快くセミナー行きを許し、今朝も、最寄り駅まで蒼を見送りさえしたのだ。
「へー寛容だな。うちのだったら間違いなく焼餅焼いてるぜ」
「焼餅……ですか」
「どうした?」
怪訝そうに振り返る井上に、蒼は慌てて首を振る。
「い、いえ……それより、こういう場合、やっぱり焼餅って焼かれたりします?」
「そりゃあな。ってか恋人なら普通は焼くもんだろ。せっかくの休日に、私よりそんなセミナーが大事なの!? ってな具合にさ」
「……そう、ですよね」
「どうした?」
「えっ? あ、いえ……何でも……」
曖昧に笑って見せながら、その実、なぜか蒼は胸の奥がざわつくのを止められなかった。
だが――
場内アナウンスで講演者の入場を告げられた瞬間、蒼の胸のざわつきは可笑しいほどぴたりと収まった。代わりに別の動悸が胸を襲い、心臓を締めつけられるような心地に蒼は呼吸さえままならなくなる。
あの人が。
蒼を残し、バージンロードの向こうに去ったあの人が。
「おい、大丈夫か?」
脇腹を小突かれ、見ると井上が不安げに蒼の顔を覗き込んでいた。
「気分でも悪いか? えらく顔色が悪いが」
「だ……大丈夫です」
無理やり微笑んで見せてから、蒼は、今はまだ無人の演台に目を戻す。
やがて。
演壇の袖から一人の男が現れ、悠然とした足取りで演台へと向かう。
均整の取れた長身。すらりと長い手足は男性向け雑誌に登場するモデルのようで、その姿は、黙って立っているだけでも人の視線を集めずにはおれない。
それだけでも、美しさという点では水際立っているのに、芸能人でも見劣りするほどの精悍な顔立ちも加わるなら、一体どこに非を求めていいかも分からなくなる。
くっきりとした目鼻立ちに、知的で切れ長の眉目。形よく引き締まった唇。頬は学生時代に較べてやや肉が削げたように見えるものの、それさえも彼の魅力を落とすどころか、むしろ大人の色気を添えている。
間違いない。あの男は――
そんな蒼の視線をよそに、男は演台のマイクを手に取ると、会場を埋める来場者を見渡しながらマイク越しに語りはじめた。
『ご来場の皆様。本日は、わざわざ休日にも関わらずこのような会にお集まりいただき有難うございます。――わたくしが、今回講師を務めさせて頂きます石動琢己(たくみ)と申します』
通常、投資家向けのセミナーというと、退職金を持て余すリタイヤ世代か、老後の生活に不安を抱える壮年世代が多く見られるものだ。が、今回は三十歳以下限定の、主に若手投資家や業界人を対象としたセミナーということで、会場には若いビジネスパーソンの姿が目立つ。
石動の名前は、今や若手のビジネスパーソンにとって一種の成功モデルと化している。
投資関連の雑誌では何度も特集が組まれ、テレビやラジオにも多くのレギュラー番組を持っている。洗練されたファッションセンスと類稀な美貌を持つ彼は、また、ビジネスマン用のファッション誌にも連載を持ち、文字通り八面六臂の活躍を各方面で見せていた。
三百人程が入る会議室は、建物自体が新しいのか清潔感に溢れる印象で、講師自身がここを選んだとするなら、そのセンスはかなり洗練されていると言っていい。――もっとも彼ならば、その程度の芸当はわけもないだろうが……
やがて蒼は、井上と並んで会場の片隅の一席に腰を落ち着けた。
「本当に大丈夫だったのか? 今日」
さっそく井上がそう耳打ちしてくる。おそらく、蒼の恋人――井上には、あくまでも異性の、と話している――の反応を心配しているのだろう。
「ええ……どうしても今日の講演を聞きたいと言ったら、まぁ、許してくれましたよ」
セミナーに参加することを決めた夜、さっそく蒼は拓海に事情を話すと、次の日曜は買い物につき合えない旨を説明した。
てっきり文句の一つでも口にするかと思われた拓海は、しかし、意外にも蒼を責めることはなかった。むしろ「蒼の勉強になるなら」と快くセミナー行きを許し、今朝も、最寄り駅まで蒼を見送りさえしたのだ。
「へー寛容だな。うちのだったら間違いなく焼餅焼いてるぜ」
「焼餅……ですか」
「どうした?」
怪訝そうに振り返る井上に、蒼は慌てて首を振る。
「い、いえ……それより、こういう場合、やっぱり焼餅って焼かれたりします?」
「そりゃあな。ってか恋人なら普通は焼くもんだろ。せっかくの休日に、私よりそんなセミナーが大事なの!? ってな具合にさ」
「……そう、ですよね」
「どうした?」
「えっ? あ、いえ……何でも……」
曖昧に笑って見せながら、その実、なぜか蒼は胸の奥がざわつくのを止められなかった。
だが――
場内アナウンスで講演者の入場を告げられた瞬間、蒼の胸のざわつきは可笑しいほどぴたりと収まった。代わりに別の動悸が胸を襲い、心臓を締めつけられるような心地に蒼は呼吸さえままならなくなる。
あの人が。
蒼を残し、バージンロードの向こうに去ったあの人が。
「おい、大丈夫か?」
脇腹を小突かれ、見ると井上が不安げに蒼の顔を覗き込んでいた。
「気分でも悪いか? えらく顔色が悪いが」
「だ……大丈夫です」
無理やり微笑んで見せてから、蒼は、今はまだ無人の演台に目を戻す。
やがて。
演壇の袖から一人の男が現れ、悠然とした足取りで演台へと向かう。
均整の取れた長身。すらりと長い手足は男性向け雑誌に登場するモデルのようで、その姿は、黙って立っているだけでも人の視線を集めずにはおれない。
それだけでも、美しさという点では水際立っているのに、芸能人でも見劣りするほどの精悍な顔立ちも加わるなら、一体どこに非を求めていいかも分からなくなる。
くっきりとした目鼻立ちに、知的で切れ長の眉目。形よく引き締まった唇。頬は学生時代に較べてやや肉が削げたように見えるものの、それさえも彼の魅力を落とすどころか、むしろ大人の色気を添えている。
間違いない。あの男は――
そんな蒼の視線をよそに、男は演台のマイクを手に取ると、会場を埋める来場者を見渡しながらマイク越しに語りはじめた。
『ご来場の皆様。本日は、わざわざ休日にも関わらずこのような会にお集まりいただき有難うございます。――わたくしが、今回講師を務めさせて頂きます石動琢己(たくみ)と申します』
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