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第二部

79話【日奈】わたしをまもって2

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 足が動かない。
 雨を吸った服も髪も、全身が重い。

 帰蝶が、おなかを押さえて何か言い続けている。
 雨音や合戦の喧騒のせいだけじゃない。だんだん弱々しく、聞こえなくなってきた。

 血が、出てた。

 私をかばったから。
 雪合戦の時にあれだけすばやい動きをしていたあの人が、後ろからの不意打ちだからって致命傷になるような場所に、刀を受けるはずがない。

 本当は、後ろに迫られていることに気づいた時に、私は帰蝶を押して逃げようと思った。

 振り返って手を思いきり突き出して、彼女の体を差し出して逃げようと。
 でもその瞬間、彼女は自分から追っ手との間に飛び込んで、刀を受けた。

 私が「まもって」なんて言ったから。
 死にたくないって、願ったから。

 私が、身代わりに、生贄いけにえにしようとしたから。


 戦国時代ここに来てから、隠しごとばかりしてたのに。
 困って頼るふりをして、都合のいい時だけ甘えて。
 いつだって、私はあの子に本当のことを言わなかった。
 利用しようとした。
 本当は、

 私は、あの子になりたかった。

 強くて、綺麗で、誰からも好かれてて。笑いかけられるたびに、私はあの子より劣ってるんだって突きつけられているようで嫌だった。
 それなのにあの子は、私がつまらなそうな顔をするたび、不満げな態度をとるたび、笑って遊びに誘って、お菓子を作ってくれた。

 友達になろうとしてくれた。

 信長と一緒だ。
 ゲームのキャラとぜんぜん違う。

 ずっとゲームの世界だと思ってたけど、違ったんだ。
 ここはゲームの世界なんかじゃなかった。


 青白くなった唇がまた、声にならない形に動く。
 どうせまた「大丈夫よ」とか言う気だ。
 私が不安そうな顔をするたび、何度も言われた。
 ばかみたい。自分の心配しなよ。

 病院とか集中治療室とかないんだよ?死んでも知らないよ?

 唇が最後に、大きく動く。


「逃げて、日奈!」










 最後の声を聞いたあと、日奈は駆けてくる光秀の姿を見て、叫びをあげた。
 敵意の篭った目だ。「お前のせいで」と言っている。
 その通りだ。
 だから、

「たすけて…………、帰蝶を助けて!!」

 追ってきた兵に髪を掴まれる。痛みが、疲労困憊だった全身に走って動けない。
 この人は誰だろう。今川義元の天幕の中にいたから、側近か重臣なのだろうけど、ゲームに出てこないから誰だかわからない。
 
「私はいいから!お願い、帰蝶を助けて!」

 光秀と夕凪に、せめてこれだけは伝えよう、と声を張り上げたが、雨のせいで届いたかわからない。
 さほど抵抗もできないままに、ずるずると森の中へ連れ込まれてしまった。

 きっと、殺される。
 義元のところへ連れて行くと言っていたが、今川義元はこのあと、逃げる途中で討たれる。
 史実だと毛利良勝という信長の部下が討つはずだが、あの様子なら前田利家がやってのけるのかもしれない。
 別に、それでかまわない。

 彼が武功をあげたら、信長が出した出仕停止処分も、ゲームや史実よりずっと早く解けるだろう。
 利家は帰蝶に恩を感じているようだから、きっと、彼女を助けてくれる。

 全部、上手く回ってる。
 日奈がいなくたって、史実通りではなくたって、世界は進む。

 世界の中心は、神様に選ばれてるのはあの子だったのだ。



『でもね、信長様が護りたいのは、日奈さん、あなたのこともだと思うわ』

 作戦のことを伝えた時に、日奈の言葉に続けて帰蝶が言った。
 これは走馬灯というものだろうか。

 目を閉じると色んな声が、頭の中に響いてくる。


『そうか。なら、お前はやっぱ蝶と一緒に行ってもらうかな』

 これは信長の声だ。
 ゲームをプレイした時のボイスではない。今、日奈とともに生きている彼の。

 作戦の前夜、日奈は帰蝶から概要を聞かされたあと、一人信長の部屋へ向かい、桶狭間の場所とおおよその時間を伝えた。
 どうしても死亡フラグを折っておきたかったから。

 わかっているのだから、さっさと助けに来て、と。
 この信長は、日奈のことはともかく、妻と有能な部下を見捨てないはずだ。

「あの、話、聞いてました?帰蝶様を偵察に出さなくてもいいですってこと……」
「聞いてた聞いてた。でもなー、お前とミツが場所を言い当てたってのが欲しいんだよな」
「私、と……?」

 そうそう、とのんびりと笑ったまま、彼は茶をすすった。

「俺はその間のんびり歌でも歌ってるから、蝶のことよろしくな。お前とミツの頭で、蝶を助けてやってくれ」

 この人は、どうして信じてしまうのだろう。
 日奈はただ疑問にしか思えなかった。

 無条件に信じてしまう。
 得体の知れない、未来の知識を持った妻や巫女を。
 最後には裏切り、いずれ自分を殺す部下みつひでを。

「私……は、帰蝶を、殺すかもしれないよ?」

 日奈の決死の問いも、信長は意にも介さないようだった。
 茶と一緒につまんでいるのは、帰蝶が作った現代風のスイーツだ。

「それに……光秀様は最近ちょっとおかしいよ。あれは明らかに、帰蝶のことが好きだよ。そんなの、一緒にいさせていいの?」

「大丈夫だろ。俺は、お前たちのこと信じてるから」

 そう言って彼は、また日奈の頭に手を置いた。
 ぽん、ぽん、と二回、やさしく。


 時間はそんなに経っていないのに、何年も会っていないかのように、懐かしく感じる。
 鼻の奥がツンと痛い。雨を啜り上げてしまったのか。

 もう一度、撫でてほしい。
 またあの声で、もう一度言ってほしい。

 勇気が、欲しい。


「よお」


 遠くから、ずっとずっと、幼い頃から欲しかった、生まれた時から待っていたような声がして、顔をあげた。


「なにやってんだ、お前」

 赤い髪。
 薄暗い中で、夜明けほどまぶしく感じる、安堵するひかり

 雨でも汗でもない、目からしずくが零れた。


『逃げて、日奈』

「来いよ、ヒナ」

 帰蝶の声に重なるようにして、信長のあたたかな声が、頭に沁みた。


 信長の後ろに、織田兵がぞろぞろと続いて見える。
 追い詰められた男は木の幹を背に日奈の髪をぐいと持ち上げ、人質がいることを彼らへ見せつけた。
 日奈が必死にもがき、細い手指でどれだけひっかいても男の指は髪から離れない。
 男は後ろでニィ、と笑う。

 織田は、先見の巫女を失いたくないはずだ。
 ここまで来られたのもすべて、巫女の予知によるものだから。
 ならばここで、巫女を盾にすれば逃げ切れる。


 日奈は男の思惑とは別に、信長の眼だけを見ていた。
 綺麗な、暁の空と同じ色。

 帰蝶の大きな瞳は黒だったけれど、信長と同じように、いくつも星が散っていた。
 夜空。


 私は、二人の思いに、決意に報いないといけない。


 ごめんね、と、もう会えない友に心の中で謝る。
 帰りたかったけど、また会いたかったけど、たぶん私は、ここで死ぬんだ。

 何度も謝り、名前を呼んで別れを告げた。

 帰蝶から渡された、護身用の懐刀。ナイフほどの刃渡りしかない。
 護身用とは言われたけれど、これはどう見ても自決用だ。
 帰蝶ならこんな小さな刃でも抵抗できるだろうが、護身術も武術の心得もない普通の女子高生の日奈には、無理だ。自分の首を掻っ切るくらいしかできない。
 それを胸元から出すのと同時に鞘から抜き、首へ向ける。

 邪魔にも、足手まといにもなりたくない。

 生きて帰れなくてもいい。
 誰かを犠牲にしたり、生贄になんてしたくない。


 私を信じてくれたひとを、生かしたい。


 日奈は刀を思い切り、自分の首元へ下ろした。
 断頭台に置かれた首のように、ザン、と髪が切れる。
 痛みはなかった。
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