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第二部
57話 この命を使って2
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「っしゃあ!!」
蹴りあげた短刀は、持ち主の手を離れてポーンと大きく飛んでいった。
私は一人ガッツポーズを取る。
押し入った場にはじいやさん以外にも立会いらしき人がたくさんいて、準備をしているところだった。
自殺の準備ってなんだよ、と、現代人の私だけにだろう怒りが湧いてくる。
息子さんも従者の方もみんないるのに、誰一人じいやさんを止めないのかよ。
「じいやさん、なにしてるんですか!」
「帰蝶様。ありがとうございます、この爺を気にかけてくださって」
じいやさんは突然入って来た私に驚きながらも、でも、来るんじゃないかってのがわかっていたという表情だった。
妙に落ち着いた、悟ったような瞳に、私が映る。
「……諫死なさるって本当ですか?」
「はい」
誰も止めないので、ずかずか入ってじいやさんの前に座る。
お腹を裂いた際に散る血を留めるためのものだろうか、下には白い布が大きく広げられていた。
そこに、供物のように座る、背の丸いおじいさん。
むかつくので膝でくしゃくしゃにしてやる。
「やめましょう。こんなことしても、信長様は喜ばない。そんなの、じいやさんが一番知ってるじゃないですか」
「いいえ、戦場で果てるのよりも、意味のある死に方です」
「……私は、そうは思いません」
表情を見ても、目を見ても、隙がない。決意は固そうだ。
この人は、柔和な見た目に反して案外頑固なのだ。信長のお世話係をずっとやってきたんだもん。相当な忍耐力と我慢強さがなけりゃできない。
「しかし、来てくださって良かったです。貴女様に、お伝えしたいことがございました」
だいたいのことは書き記してあるし、時世の句ってやつもさっき詠んだという。なんて用意周到な。
けれど、私には言葉で伝えたかったことがあるそうだ。
話しているうちに心を変えてくれるかもしれないので、頷く。時間を稼いでいたら信長くんが来てくれるかもしれないし。
信長は、じいやさんを慕ってる。どの家臣より。妻の私なんかより。
そんなの、会った日からわかってた。
一言目には「ジイ、ジイ」って呼んで。じいやさんが「諌死しますぞ」と冗談で脅したときは、その脅しが一番効いた。
お父様が亡くなった時も、この人がいたからちゃんと立ってられたのだ。
「ぼっちゃまは、貴女に会って、変わりました」
「え……?」
自分の死後に坊ちゃまを頼みますとか、もう二人して遊び回らないよいにとかだと思ったら、違った。
じいやさんは苦しそうな表情になり、眉を下げて私へ言葉を続ける。
贈り物のように、ゆっくりと包みながら。
「覚えておられませんか?あの日、美濃の斎藤の屋敷で初めて会った日に、貴女は、信長様のことを認めてくれた」
覚えてる。小さなころの吉法師は、池の前で鯉が食べたいと言っていた。
あとから聞いたことだけど、この時代の鯉は食用なんだって。あのあと、件の鯉は私たちのお腹にみごとおさまることになった。
そういえば、あの時のことを謝ってあげなきゃ。私、心の中で信長くんをただの食いしん坊キャラだと思って馬鹿にしちゃったのよね。
8年も前だけど簡単に思い出せる。キラキラ光る水面。生き生きと泳ぐ鯉の鮮やかな鱗。
同じくらい輝いていた、今も輝いている信長の瞳から散る炎。
「あの子は、ずっと、誰にも認めてもらえませんでした……女ものの着物を纏って、派手な格好をして、奇抜なことばかりして……誰にも理解されず……それでも、それでいいと思っていたんです」
認められなくてもいい。
誰も隣にいなくていい。
覇王になれば、理解者など不要だと。
「理解されるというのは、嬉しいものです。あの日、貴女は若のお着物を褒めたそうですね……それが嬉しかったと、何度も何度も、私に聞かせてくれました」
「そ、そんなの……」
嘘だ。私だけじゃない。
私だけが、特別やったわけじゃない。そんな風に褒めた覚えだってない。
私にそんな特別なヒロインみたいなこと、出来るはずがないんだから。
「伴侶とするなら、蝮の娘殿以外あり得ないと。私も、そう思いました……」
「じいやさん……かいかぶり、すぎです。私は、そんなできた女じゃないです。いつも信長くんと遊んで、じいやさんに迷惑かけて……だからこれからはもっと……」
「はじめて、人に褒められたんです。認められたんです。それが、これから共に歩む、妻になる女性だった……これ以上にうれしいことが、ありますまい」
何回否定しても、じいやさんは止まってくれない。
死地へ向かう前の品を、私にどんどん押し付けてくる。
しかも言葉を発するたびに、じいやさんは息が荒くなっていった。
休ませてあげたいのに、止まらない。
ふと見れば、口の端から血が漏れていることに気付いた。
あれ?と思った時には、遅い。
じいやさんは言葉の途中で咳き込むと、あわてて両手でその口を押えた。
呼吸まで止めようとする手指の間から、ボタボタと真っ赤な液体が零れて、白い装束にいびつな模様を作っていく、
「じいやさん!!」
悲鳴は、私だけ。
みんな、知ってるのだ。知らなかったのは、また、私だけ。
「帰蝶様、お召し物が汚れます……っ、はな、れて……」
「そんなのいいから!病気なの!?医者には見せたんですか!?」
ひゅうひゅうと胸の奥から風の通る音を出しながら、じいやさんはこくりと頷く。
「胸の病だそうです。もうここ数日は、血を吐かない日がありません……」
「でも、だったらきちんと静養して、少しでも長く、信長様のそばにいてあげてください!」
吐かれる息と同じ量の血が、口から出てしまっている。息は吸えているのだろうか。
苦しそうに上体を丸めるじいやさんを、せめて横にしてあげようとするけど拒まれた。
「病死では、駄目なのです……!この命は、戦で果てるのも、病で尽きるのも、いけません……っ、私には、責任があるのです!」
このゲームには、歴史の修正力がある。
巫女の言葉が耳元で鳴った。
戸口を見れば、少女はじっと私達を見つめている。
あれは、神の視線だ。
私がしようとした改変を、神様は綺麗に修正したのだ。
「この命、を……ぼっちゃまのために、信長様のために、使わなければ……!私は、若君を諫めるために死ぬ。そういう筋書きが、必要なんです……」
「筋書きのために、死ぬっていうんですか……」
「いいえ……信長様のために、です」
喋るのもやっと、というように、平手様は私に縋った。
私を信頼してくれている、手。
私も信長も、この老いた手にずっと縋ってしまっていた。
蹴り捨てた短刀を拾い直し、伸ばされた手に渡す。私の手も、笑えないくらい震えてた。
皺の残る血まみれの手は短刀を取ると、ゆっくりと、自身の腹へ突き立てていく。
肉を裂く嫌な音。血は、病のものか割腹のものかもう、わからない。
「帰蝶、様……介錯、を…………」
私のしたことは、正解じゃなかった。
どこから間違ったのだろう。最初からだろうか。どこからやり直せば、この人を死なせない未来へ行けるの?
傍にいた人に刀を借りて、その刃を鞘から引き抜いた。
じいやさんはずっと、死ぬほど苦しくて痛いはずなのに、死ぬほど穏やかな顔をしていた。
構えようとした手はまだ震えていて、けれどここで外すなんてぜったいに駄目だ。
力を入れなおそうとした指が、上から温かいものに握られて止まる。
振り返ると、戸口には十兵衛と、目の前には鮮やかな炎の色。
「俺がやる」
「信長、様……」
添えられた手に促されるまま渡してしまった刀で、彼は綺麗に目の前の首を落とした。
弧を描く鈍色にそって鮮やかな火花が咲いて、私達は散った花びらを受ける。
戦場でも返り血を一滴も浴びたことのない彼が血に染まるのを、初めて見た。
わざと浴びたのだろう、滴るその紅は、断罪のようだった。
「蝶、着物、真っ赤だぞ」
振り返った彼は、いつもと同じように、少年らしく歯を見せて笑う。
この子に、なんてことをさせてしまったのだろう。
「……信長様もよ」
手を伸ばす。私の指先まで赤い。拒まれなかった腕で、私は目の前の小さな頭を抱き寄せた。炎のようだと思った髪は、冷たい。
刀が地面に落ちて、金属の鈍い音を立てる。
その音を聞かせまいとするように、彼の両腕は私の背を掻き抱いた。
あとに聞いた話によれば、信長は平手様の死をすべてが終わってから知る。傷ついた信長を、ヒロインが慰め叱咤する。
そうして、じいやさんの命は覇道の礎となるのだ。
実感した。
私は、ヒロインにはなれない。
信長くんに、一番やらせちゃいけない人に、じいやさんの首を斬らせてしまった。
そのうえ慰めることも励ますこともできず、逆に私の方から縋りついた。
私たちはしばらくの間、縋る手をなくした子どものように、互いの腕にしがみついていた。
私が余計なことをしたせいで、信長を傷つける結果になってしまった。
やっぱり私は、この物語にいてはいけない、異分子なんだ。
蹴りあげた短刀は、持ち主の手を離れてポーンと大きく飛んでいった。
私は一人ガッツポーズを取る。
押し入った場にはじいやさん以外にも立会いらしき人がたくさんいて、準備をしているところだった。
自殺の準備ってなんだよ、と、現代人の私だけにだろう怒りが湧いてくる。
息子さんも従者の方もみんないるのに、誰一人じいやさんを止めないのかよ。
「じいやさん、なにしてるんですか!」
「帰蝶様。ありがとうございます、この爺を気にかけてくださって」
じいやさんは突然入って来た私に驚きながらも、でも、来るんじゃないかってのがわかっていたという表情だった。
妙に落ち着いた、悟ったような瞳に、私が映る。
「……諫死なさるって本当ですか?」
「はい」
誰も止めないので、ずかずか入ってじいやさんの前に座る。
お腹を裂いた際に散る血を留めるためのものだろうか、下には白い布が大きく広げられていた。
そこに、供物のように座る、背の丸いおじいさん。
むかつくので膝でくしゃくしゃにしてやる。
「やめましょう。こんなことしても、信長様は喜ばない。そんなの、じいやさんが一番知ってるじゃないですか」
「いいえ、戦場で果てるのよりも、意味のある死に方です」
「……私は、そうは思いません」
表情を見ても、目を見ても、隙がない。決意は固そうだ。
この人は、柔和な見た目に反して案外頑固なのだ。信長のお世話係をずっとやってきたんだもん。相当な忍耐力と我慢強さがなけりゃできない。
「しかし、来てくださって良かったです。貴女様に、お伝えしたいことがございました」
だいたいのことは書き記してあるし、時世の句ってやつもさっき詠んだという。なんて用意周到な。
けれど、私には言葉で伝えたかったことがあるそうだ。
話しているうちに心を変えてくれるかもしれないので、頷く。時間を稼いでいたら信長くんが来てくれるかもしれないし。
信長は、じいやさんを慕ってる。どの家臣より。妻の私なんかより。
そんなの、会った日からわかってた。
一言目には「ジイ、ジイ」って呼んで。じいやさんが「諌死しますぞ」と冗談で脅したときは、その脅しが一番効いた。
お父様が亡くなった時も、この人がいたからちゃんと立ってられたのだ。
「ぼっちゃまは、貴女に会って、変わりました」
「え……?」
自分の死後に坊ちゃまを頼みますとか、もう二人して遊び回らないよいにとかだと思ったら、違った。
じいやさんは苦しそうな表情になり、眉を下げて私へ言葉を続ける。
贈り物のように、ゆっくりと包みながら。
「覚えておられませんか?あの日、美濃の斎藤の屋敷で初めて会った日に、貴女は、信長様のことを認めてくれた」
覚えてる。小さなころの吉法師は、池の前で鯉が食べたいと言っていた。
あとから聞いたことだけど、この時代の鯉は食用なんだって。あのあと、件の鯉は私たちのお腹にみごとおさまることになった。
そういえば、あの時のことを謝ってあげなきゃ。私、心の中で信長くんをただの食いしん坊キャラだと思って馬鹿にしちゃったのよね。
8年も前だけど簡単に思い出せる。キラキラ光る水面。生き生きと泳ぐ鯉の鮮やかな鱗。
同じくらい輝いていた、今も輝いている信長の瞳から散る炎。
「あの子は、ずっと、誰にも認めてもらえませんでした……女ものの着物を纏って、派手な格好をして、奇抜なことばかりして……誰にも理解されず……それでも、それでいいと思っていたんです」
認められなくてもいい。
誰も隣にいなくていい。
覇王になれば、理解者など不要だと。
「理解されるというのは、嬉しいものです。あの日、貴女は若のお着物を褒めたそうですね……それが嬉しかったと、何度も何度も、私に聞かせてくれました」
「そ、そんなの……」
嘘だ。私だけじゃない。
私だけが、特別やったわけじゃない。そんな風に褒めた覚えだってない。
私にそんな特別なヒロインみたいなこと、出来るはずがないんだから。
「伴侶とするなら、蝮の娘殿以外あり得ないと。私も、そう思いました……」
「じいやさん……かいかぶり、すぎです。私は、そんなできた女じゃないです。いつも信長くんと遊んで、じいやさんに迷惑かけて……だからこれからはもっと……」
「はじめて、人に褒められたんです。認められたんです。それが、これから共に歩む、妻になる女性だった……これ以上にうれしいことが、ありますまい」
何回否定しても、じいやさんは止まってくれない。
死地へ向かう前の品を、私にどんどん押し付けてくる。
しかも言葉を発するたびに、じいやさんは息が荒くなっていった。
休ませてあげたいのに、止まらない。
ふと見れば、口の端から血が漏れていることに気付いた。
あれ?と思った時には、遅い。
じいやさんは言葉の途中で咳き込むと、あわてて両手でその口を押えた。
呼吸まで止めようとする手指の間から、ボタボタと真っ赤な液体が零れて、白い装束にいびつな模様を作っていく、
「じいやさん!!」
悲鳴は、私だけ。
みんな、知ってるのだ。知らなかったのは、また、私だけ。
「帰蝶様、お召し物が汚れます……っ、はな、れて……」
「そんなのいいから!病気なの!?医者には見せたんですか!?」
ひゅうひゅうと胸の奥から風の通る音を出しながら、じいやさんはこくりと頷く。
「胸の病だそうです。もうここ数日は、血を吐かない日がありません……」
「でも、だったらきちんと静養して、少しでも長く、信長様のそばにいてあげてください!」
吐かれる息と同じ量の血が、口から出てしまっている。息は吸えているのだろうか。
苦しそうに上体を丸めるじいやさんを、せめて横にしてあげようとするけど拒まれた。
「病死では、駄目なのです……!この命は、戦で果てるのも、病で尽きるのも、いけません……っ、私には、責任があるのです!」
このゲームには、歴史の修正力がある。
巫女の言葉が耳元で鳴った。
戸口を見れば、少女はじっと私達を見つめている。
あれは、神の視線だ。
私がしようとした改変を、神様は綺麗に修正したのだ。
「この命、を……ぼっちゃまのために、信長様のために、使わなければ……!私は、若君を諫めるために死ぬ。そういう筋書きが、必要なんです……」
「筋書きのために、死ぬっていうんですか……」
「いいえ……信長様のために、です」
喋るのもやっと、というように、平手様は私に縋った。
私を信頼してくれている、手。
私も信長も、この老いた手にずっと縋ってしまっていた。
蹴り捨てた短刀を拾い直し、伸ばされた手に渡す。私の手も、笑えないくらい震えてた。
皺の残る血まみれの手は短刀を取ると、ゆっくりと、自身の腹へ突き立てていく。
肉を裂く嫌な音。血は、病のものか割腹のものかもう、わからない。
「帰蝶、様……介錯、を…………」
私のしたことは、正解じゃなかった。
どこから間違ったのだろう。最初からだろうか。どこからやり直せば、この人を死なせない未来へ行けるの?
傍にいた人に刀を借りて、その刃を鞘から引き抜いた。
じいやさんはずっと、死ぬほど苦しくて痛いはずなのに、死ぬほど穏やかな顔をしていた。
構えようとした手はまだ震えていて、けれどここで外すなんてぜったいに駄目だ。
力を入れなおそうとした指が、上から温かいものに握られて止まる。
振り返ると、戸口には十兵衛と、目の前には鮮やかな炎の色。
「俺がやる」
「信長、様……」
添えられた手に促されるまま渡してしまった刀で、彼は綺麗に目の前の首を落とした。
弧を描く鈍色にそって鮮やかな火花が咲いて、私達は散った花びらを受ける。
戦場でも返り血を一滴も浴びたことのない彼が血に染まるのを、初めて見た。
わざと浴びたのだろう、滴るその紅は、断罪のようだった。
「蝶、着物、真っ赤だぞ」
振り返った彼は、いつもと同じように、少年らしく歯を見せて笑う。
この子に、なんてことをさせてしまったのだろう。
「……信長様もよ」
手を伸ばす。私の指先まで赤い。拒まれなかった腕で、私は目の前の小さな頭を抱き寄せた。炎のようだと思った髪は、冷たい。
刀が地面に落ちて、金属の鈍い音を立てる。
その音を聞かせまいとするように、彼の両腕は私の背を掻き抱いた。
あとに聞いた話によれば、信長は平手様の死をすべてが終わってから知る。傷ついた信長を、ヒロインが慰め叱咤する。
そうして、じいやさんの命は覇道の礎となるのだ。
実感した。
私は、ヒロインにはなれない。
信長くんに、一番やらせちゃいけない人に、じいやさんの首を斬らせてしまった。
そのうえ慰めることも励ますこともできず、逆に私の方から縋りついた。
私たちはしばらくの間、縋る手をなくした子どものように、互いの腕にしがみついていた。
私が余計なことをしたせいで、信長を傷つける結果になってしまった。
やっぱり私は、この物語にいてはいけない、異分子なんだ。
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