あまつきつね♀の花嫁♂

犬井ぬい

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第七話

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 着物と肉と内臓を破った角が抜かれ、本懐を遂げたからか驚いただけか、成欠ナリカケの牡鹿はすぐに場を離れた。
 小梅と桃緒が綺麗に着つけてくれた着物が、袴が、血で濡れていく。二人には心の中で何度も謝ることしかできなかった。
 せめてこれ以上、宵の純白の着物は汚さないように、明は空を見上げてその場に倒れた。

「……アケル、お前、吾を庇ったのか?」

 地面に倒れた割には衝撃がなく、代わりに柔らかなものに頭と背を支えられている。霞む目の端に、眩しいほどの銀が簾のように降りていた。

 牡鹿が飛び込んでくる刹那、宵の細身を突き飛ばしたのは明だった。
 神だろうと千年生きているのだろうと、女の子が目の前で傷つくのは嫌だった。
 見た目どおりの軽い体は押せば簡単に弾かれ、残った明の腹に牡鹿の角が入ったのだ。

 当初想像していたものとは違ったが、これで、山神に身を捧げたことにならないだろうか。息苦しさに目を閉じる。

「何を満足してるのだ馬鹿者。これでは、山神に喰われたことにならんのだぞ」

 閉じた瞼の上が、熱い。血を流し続ける腹の傷よりも。
 正体が何かわからなくてうっすらとその瞼を開けると、宵の顔が間近にあった。
 姫神はこの時、明の薄い瞼に口づけを落としていたのだが、それをされた本人は、終生それを知ることはなかった。
 それよりも、宵の金の瞳から、見たことのないモノが溢れていた。

「死にたがりめ。吾なら当たっても大事になることはなかったのに。だから人間は勝手だと言うのだ……」

 白い、陶器のようなまろやかな頬に、涙が筋になって流れている。
 常は主の気性に合わせてぴんと立っている狐耳が、萎れて垂れてしまっていた。

 生まれて初めてだった。
 自分の為に涙を流す者を見るのも。
 こんなに美しくて可愛い少女を泣かせてしまったのも。

「お前だって本当は、生きたいのじゃないのか?」

 ぽたぽたと、涙が雨のように降ってくる。空はこんなに晴れているのに。

「そんな……こ、と、ない……おれは…………」
「ばかもの。そろそろ本当に死ぬぞ」

 物心ついてからずっと、痛みは体とともにあった。だから腹を刺されて血が噴き出ているくらい、耐えれないものではない。息は苦しかったけれど、今となってはそれもほとんど感じなくなってきた。
 庇ったわけではない。これであの子のもとに行けるのなら、と、自分から飛び込んだようなものだ。
 そんな邪な理由で命を失うもののために、宵は、こんなに泣く必要なはい。

 泣かないでほしい。

「生きたいと、言え。吾は……私は、アケルに生きてほしい。お前が欲しい」

 ずっと、目の前に張っていた薄い膜が、霧が晴れたかのように無くなって、目の前がまぶしくなった。
 眼前にあるのは、金粉を散らすような、宵の瞳。

 誰かに、こんなに生を渇望されたのは、初めてだった。
 明自身の目からも、じわりと、血ではないものが溢れる。
 次いで血染めの唇から零れたのは、生への執着ことばだった。

「いき……たい……生きたい……!」

 一度溢れた思いは止まらない。宵はそのすべてを飲み込むように、ゆっくりと頷き、漏らさず聞いてやる。
 母のように、姉のように、
 または永遠を誓った伴侶のように。

「死にたくなんて、ない……いき、たい……ごめん……っ、ごめん、なさい……」

 明は途切れ途切れに、謝罪と、幼馴染の少女の名を呼んだ。
 何度も何度も。
 掠れた声で、血を吐きながら。

 ごめんなさい。
 君みたいに、強くなれなかった。
 醜くも、意地汚くも、生にしがみついてしまった。
 この命を、捨てられなかった。

 手を伸ばす。
 目の前の少女へ。はじめて自分を「欲しい」と言ってくれたひとへ。

 血のついた手で触れることを、ゆるしてください。
 明は生まれて初めて、神に祈った。
 赤く染まった手は、少女の銀の髪を、白い頬をその色に染めた。

「ありがとう、アケル。私を選んでくれて……」

 宵は月のように柔らかく微笑むと、泣きじゃくる少年の唇に、そっと口づけをした。
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