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《前編》紫陽花の蕾開く、梅雨の雫
前編
しおりを挟む【紫陽花の蕾開く、梅雨の雫】
ーーーーー……ーー………
ーーー………………ーーー
…………ー
空は暗い曇り空、しとしとと降り出した雨
家を出た時はバス停まで間に合えばと思ったがやはりこういう時は都合よくはなってくれないらしい
濡れたアスファルトを急足で進み反対の道から赤い傘をさした女性が編んだ長髪を揺らし白い頬が僅かに見える姿が景色と共に流れ去って行く
僅かにできた雲間から伸びた日差しが水たまりに反射し、視界を鈍らせる
……
雨音が続く
……
緩やかにカーブした坂を登り見えたのはバスの停留所
古い木の建築材で簡単に組み上げられた雨避けの木造屋根で雨が弾かれ弧を描いて落ちて行く
鬱蒼と見えたのは紫陽花、まだ薄緑が目立つ
その静かで無秩序な光景を見つつ空いたベンチに座ろうと視線を動かすと、影一つ
この蒸し暑い季節に真っ黒な学生服をきっちりと着こなし首元までホックを留めている青年がいた
彼はベンチに座っておらず真っ直ぐ眼前の灰色の街を見下ろしているようだった
帽子の鍔でその目までは見えなかったがきっとそうだろう
「ふう…」
一息ついて座る
幸いベンチの椅子は濡れておらず乾いていた
来る時は横殴りの雨だったのに幸運だ
静寂
雨音だけが確かに音を奏でていた
あと十分もすればバスは来るだろう
雨の日はこの時間でも乗車客が多くなるから気が滅入る
早朝六時二十分
いつもの時間潰しのために本を一冊革鞄から取り出した
少し、視線を感じて横目で見ると隣の彼はやはり距離を最初と同じで変えぬまま佇む
帽子の鍔を片手で掴み下げまるで視線を遮るような仕草に疑問を感じたが、そのまま本を開き文字をなぞった
(~は落ち着きなく視線を彷徨わせ、まるで水難に遭い黒い海を漂いながら陸を探すように踠きそしてそっと、気持ちが決まったのか、顔を上げた。そこには、私の後ろにある紫陽花のなんたる鮮やかな色合いか。それを瞳に宿した彼の目はそれはそれは、美しく)
……紫陽花
もうすぐ紫陽花が開花する時期だ
このバス停の後ろにも大きな紫陽花が植えてあった
そう思い顔を上げようとする寸前の出来事だった
影が己を覆う。はて、なんだろうか
そう呑気に思っていた所、バシャッと音がしたのはすぐであった
「……」
沈黙
すでに去っていった車の音が、道路の水溜りの波紋を揺らしながら静かに消えて行く
「……すみません」
青年は声を抑えるように言って離れた
それだけで吐息が触れ合う距離は無くなり意識がはっきりとし、心なしか雨音が大きく聞こえた気がした
今しがた起きたことは、目の前の道路をあまり減速せず車が横切りそのせいで水溜りの水が跳ね気づかず読書の世界に浸っていた自分に降り掛かろうとしたようだ
それを青年、身を庇ってくれたようだ
黒い学生服がより濡れて艶黒くなり外套からは今も滴が滴っている
「君!だ、大丈夫ですか?」
やっと慌てて動き出しそう尋ねる
青年はふぅと小さく息を吐き一歩離れ屋根下からはみ出す手前で帽子を取った
整えられた雄々しい髪、黒い凛々しい眉、意思の強そうであり男らしい目が現れ精悍な顔が露わになった
「…失礼」
低く通る声が雨の下でよく耳に届く
青年はそう言って帽子を振り水を払う
こちらにかからぬよう背を向けている
そのまま外套を脱ぎ同じように水を払い地面に置いていた鞄を拾った
「ありがとう。君のおかげで助かりました」
そっと本の表紙を撫でて、そう告げる
「いえ、大したことではありませんから」
軽く返事をして彼は外套を畳んでいるようだ
じっと見つめていると彼の頬に流れる雫が見えた
「これはいけない」
そう言い終える前に体が動いた
鞄からハンカチを取り出し彼の頬を拭う
そのまま烏の濡れ羽色のような髪に触れ水を吸う
だいぶ濡れてしまったようだ
短く整えられた髪は思ったほど硬くなくふわりとした
「…………よし、これで」
拭き終え見ると、彼は固まっていた
「あの、君?」
尋ねると彼はハッとし、恭しく頭を下げた
「ありがとう…ございます。拭くものはありますので…」
ポケットから紺色のハンカチを取り出したが見るに、すでに濡れていて色が変わっていた
小さめの布では濡れた肩や膝は心許ない
何度も布を絞る必要がありそうだ
「いえ、良ければこれを使ってください」
「ですが、これでは貴方のハンカチがもっと濡れてしまいます」
困ったように目が揺れたが私は微笑み安心させるように話す
「恩人に何かさせてください。君のおかげでこの本も私も濡れずに助かったのですから」
そう告げて見つめると彼は視線を泳がせ制した手をわしわしと動かした後観念したようにおずおずと両手で丁寧に受け取った
「お借りいたします。…後日日を改めまして洗ってお返しをさせてください」
丁寧すぎる態度につい微笑を浮かべると青年は驚いたようにこちらを見つめる
その表情は年相応、なのだろうと感じた
「いえ、気になさらないでください。大したものでもありませんし私が洗いますよ」
「い、いえ!…………あの、自分が気にしますのでどうかお願いします」
たかが布一枚に随分と殊勝な態度で驚く
礼儀正しく律儀で素直な子なのだろう
なら…
「お願いしましょうか。頼みます」
「はい。…お任せを」
伏せた目の下にはほんの僅かに朱に差したような色があった
彼は素早く体の水気を拭い丁寧に絞り、それを鞄にしまった
濡れたものを鞄に入れてもいいのかと思ったがチラッと見えた中では元々袋に入れて二重にしているらしく大丈夫そうだった
先程まるで恐る恐るのように濡れた頬を拭きうなじを拭く仕草は男らしさを感じ、そして丁寧に絞りまた丁寧に畳む仕草に育ちの良さを垣間見た
目が合う、刹那
「……本、お好きなんですか?」
「ええ、はい」
なぜか照れ臭く感じ誤魔化すように本を撫でる
そこからまた会話もなく雨の降り頻る音とたまに車が通るが徐行してくれているようで再度困る事態には至らなかった
横目で見ると彼はすでに拭き終えたらしく元の姿に戻っており相変わらず距離を開き立っている
なぜ座らないのだろうか
学生さんだし学校の規律が厳しいのか座ってわならぬとか、または気を遣われているのか…
こんな朝早い時間に登校するのだ朝練があるのかもしれない
どんな部活だろうか
確かこの近くなら剣道と柔道が強い学校がある
あまり詳しくないが彼から武道が似合いそうだと勝手に推測する
「何か……」
「いえ」
また見つめていたようだいけないいけない……
その時場を変えるようにバスが鈍い音を発しながらやってきた
なんだかホッとするような、残念なような
本をしまい忘れ物がないか確認をして立ち上がる
青年はじっとしていたが顔は窺えない
疑問に思いつつもバスに乗り込む
思ったより人が少なくて安心した
蒸し暑いのに人が多いのは特に苦手
青年も遅れて乗車する
機械音の合図が鳴りバスが発進する
少し意識して斜め後ろを見ると彼は手すりを掴みもせずまっすぐに立っていた
時折揺れる車内に関わらず仁王立ち姿であり少し驚く
窓の外を雫が軌跡を描いて流れそれを追うように、塗り替えるように絶え間なく雫が流れる
垣間見えた空は先ほどよりは明るかった
反射したガラス窓に黒い帽子の鍔が端に映る
今日も雨…
▼
……………………
時を間違えてしまった
いや、仕方あるまい
仕事が長引いて丁度働く世代の帰宅時間に重なってしまったようだ
いつもはこの時より三十分早いバスに乗るのだが、店主が長々と将棋の対戦をねだり仕方なく相手をしたのだ
いくら店が閑古鳥だからっていかがなものか、と思いつつ出される茶菓子に釣られてしまう自身にも問題があるの否めない
ぬるい風が偶に吹く、伸びてきた前髪が微かに揺れそろそろ切りに行こうか…
……ッ
バスが揺れる
混雑した車内はさらに蒸し暑く熱気が伝わり人の密度に辟易する
ああ、どうせならもっと時間をずらせばよかった
あれ以上残っていたら夕飯まで誘われそうだったので急いで出たのだ
今日はゆっくり入浴後に冷たい冷茶と共に新刊の本を読むのだ
想像するだけで
……ッ
人が本の楽しみに浸っているのに、現実はぎゅうぎゅうと体を押され揉まれてんてこ舞いだ
ああ、はやく着かないかな
早くしないと潰れた饅頭になってしまうよ
焦茶色のハットとコートを着た壮年の男性の頸を見ながらそう思う
近くの貴婦人だろうか強く甘い匂いが鼻に届きウッとする
……ッ!
大きくバスが揺れた
そのせいで車内は小さく悲鳴が聞こえ
遠くの方で簡単に謝罪する運転手の声が聞こえた
何故なら僕は大きな黒影に包まれてるからだ
運転により扉に押しつけられ人に潰される痛みを覚悟して身構えたが事実はそうならず、目の前の彼に助けてもらったようだった
「…………失礼」
彼はハッとし僕を庇うようにして立ち塞がっていたが隙間を開けるように動き慌てるように離れた
離れたと言っても芋洗い状態の車内では僅かな変化である
見上げると微かに除いた学帽の端から彼の凛とした双眸が窺え瞳が揺れた後、目が合うとそっと逸らされた
「大丈夫ですか?」
微かに上擦った声だが苦しいのだろうか
申し訳ないけど私には力になれそうもない
「大丈夫です。ありがとう君は」
そう続けようとしたがまたバスが揺れ今度はこちら側に圧力がかかり、流石の体格の彼でも困難なようで歯を食いしばる様子がわかり彼との距離が狭まる
私の顔の隣の壁に腕と肘を乗せ踏ん張っているようだがあまり意味がなくこれでは僕が胸の中にいて抱き止められているようだ
こちらも恥ずかしさを感じるが彼の方がもっと辛いはずだ
見上げると今度は顔を逸らされ微かに震えている
誠に申し訳ない……
車外から差し込む街灯の灯りや家の明かりで照らされた顔はやはり整っていて精悍だった
横顔だが…
ポタッ……
「あっ」
低いが年相応の声がしたと思ったら頬に感触
自らの行いの癖に本人が一番驚いてる様子が見受けられこちらまで唖然とする
唖然としてしまったのは彼が咄嗟に濡れた学帽から頬に滴った滴を拭ってしまいまるで頬に手を添えるような姿勢になってしまったのと、互いに見つめ合ってしまいこれでは接吻をする手前のような状態に、今朝読んだ短編の恋物語を想起させ不覚にも頬が熱くなるのを感じた
途端に緊張が増し唾を飲み込むのに苦労した
暫し、黙す
ガコン……
「ご利用ありがとうございます。~前、~前に到着です。お忘れ物の無いようお気をつけください」
バス運転手の慣れた案内が耳に届き停まったバスから人が降りた。それと同時に新鮮な空気が流れ込む
それと同時に、彼からだろうか甘く澄んだ香りがした
鼻口をくすぐり気持ちを落ち着かせる香りだ
つい一息つくと彼が心配そうに見つめている
灰色が私を映した
……
「大丈夫です。ありがとう」
何に対する感謝か
潰れないように庇ってくれたことか
心配してくれたことか
濡れてしまった頬を拭ってくれたことか
……
窓の外は雨
灰よりも暗い空は闇
街灯の明かりが確かで少し、落ち着く
窓に映った影は尚もこちらを向かぬのを幸いと
ただ見つめていた
虚なままでいるとバスの運転手の声がした
意識を浮上させるとバスの中は既に人が疎で
彼も吊革に捕まり俯いていた
「……ご利用ありがとうございました。お忘れ物無いようー」
定文化した言葉を聞きつつ着いた場所は降りるバス停だった
降りないと
料金を払い降りる
先程より冷たい空気と夜の静けさ
そしてバスの駆動音が聞こえた
「あの……」
「は、はい!」
背後から声、振り返ると目の前は黒
驚いていると大丈夫ですかと上から降ってきた言葉に見上げる
学帽の青年だ
同じ場所で降りるのは当然の帰結だろうに驚く
「これ、…助かりました。ありがとうございます」
一歩下がり恭しく腰を曲げ頭を下げた
またふわりと花の香
彼が頭を上げずに差し出したのはハンカチ
綺麗に折り畳まれしっかりと折り目がついているようだ
おずおずと受け取り、鞄にしまう
「頭を上げてください。以前より綺麗になって戻って来ましたから私としては万々歳ですよ」
おどけて言うと彼はチラッと頭を上げながら私を窺い、また逸らす
耳が朱に染まっていた
照れ屋なのかもしれない
「……随分と遅いんですね。朝も早いのに」
つい魔が差し投げかける
彼はスッと背を伸ばし学帽の鍔を片手で下げた
「今日は道場の大掃除がありまして」
「道場?」
「はい。…自分は剣道を嗜んでおりまして。大会が近くにあり師範から大掃除の令が出された次第でございます」
なるほど、この佇まいと恰幅がいいのは武道をしているからか。確かに彼によく似合うと思った
この滲み出る礼儀正しさと無骨さの由来がわかり納得する
「何か?」
まじまじと見つめてしまったようだ
いいえ、なんでもありませんと返答し微笑む
また逸らされた
「そんなに畏まらなくてもいいんですよ」
「目上の方なのでそうはできません」
生真面目さがよくわかる
「あっ」
「……?」
つい視界に鮮やかな青が目に入り言葉を発した
彼はその様子を見遣り、そっと言う
「紫陽花ですか。見事に咲きましたね」
「そうですね。まだ蕾がありますが綺麗です」
このバス停に来る度にまだ咲かぬのかと心待ちにしていて近頃少しずつ開花してきており咲き誇るのを楽しみにしていたのだ
街灯下に照らされた紫陽花は寡黙に色を誇っている
濡れた葉が深く影を作り艶めかしい
冷たい青が心無しか仄白く見える
?
ふわりと香る
何故だろうか
「花の香り…」
つい小さく呟くと聞こえてしまったのか視線が向けられる
「…花の香り、ですか。自分には特に香るものは…紫陽花?」
そう言って彼は高い鼻を上に僅かに向け嗅ぐ仕草をする
それがあまりに幼げで可愛らしく、小さく笑ってしまった
そのせいで彼は目を丸くし俯き学帽を斜めに下げる
まるで日を陰させる雲のようだ
「ごめんなさい。紫陽花は香りのしない花ですよ。だからこの甘い香りは何だろうと思いまして」
口元を隠しそう告げると彼は居心地悪そうにもぞもぞとした後、そうなんですね。と一言話す
ポツリポツリと暗い空から雨雫
「また降ってきましたね。君も濡れて風邪をひかないようにお早く帰りなさい」
「貴方もです。傘はありますか?」
心配そうに尋ねられ小さい傘を見せる彼は僅かに微笑んだ
その表情に何故か胸が弾む
それを誤魔化すように挨拶をして去ろうかと足を動かしたが地面が泥濘み転けそうになった
ああ、帰ったらお風呂にすぐ入らないと
泥を落とすのは大変だ
そんなのほほんとした思考が流れ出す
「ッ!」
強く、だが苦しくない強さで抱きしめられる
いや、抱き止められた
大きな手が背と腰を支えしっかりとした胸板が着地台と化し不思議とぴったりと体がはまる
「だっ、大丈夫でありますか?」
随分と言葉が固く古めかしい
驚いたが彼もひどく驚かせたらしく男らしい胸から速い鼓動の音が伝わってくる
なぜかとても、ホッとした
したがずっとこのままでは居られぬので手を貸してもらい謝罪しながら離れようとしたがある事が過り動きを止める
「あの、本当に大丈夫ですかどこか怪我でも……ッ!!!あ、ああな、ななたは何をなさっておる、おるのでありますか!?」
ひどく狼狽した声が聞こえるかそれどころではなかったのだ
二度も助けてくれた恩人に対し不義理だと痛感するがやめられない
このモヤモヤしたひっかかりが今、解け明けそうなのだから……
「……この匂いだ」
「に、匂い?えっ!?においますか?修練後の汗は拭ったのですがお、おやめくださいどうか!どうかご無体はおやめに!お助けを!」
初めて聞いた大声と狼狽した声を背にしつつこの匂いは……
香りに夢中になっていたせいで気付かなんだ
胸に縋り付くような状態になっており嗅ぎ続ける己に対し青年は力づくで突き放すこともできず酷く狼狽し赤面して震えていたがそれに全く気付くことがなかった
哀れな青年は内心叫ぶ
「はぁ……」
「くっ……なんと惨い。耐え忍ぶには余りに辛い。これは試練か…。こんな事があるのなら水浴びをしてくれば、悔やみきれない」
内心の言葉を焦りすぎて口にしているが青年は胸に溢れる動揺した感情により気づかない
そして、匂いの正体に夢中であった男はやっと一息ついた
「これは、クチナシの花ですね」
「く、クチナシですか?」
恐れるように万歳していた青年がその言葉に固まる
一瞬で思考が遡った
「確か……家の庭と剣道場の裏に、あります」
「なるほど!ではその香りだったんですね。よかったずっと気になっていたんです。いい香りですね」
スンスンとまた無遠慮に嗅いだせいで青年が今度は肩をやんわり掴み離れる
「あっ、ごめんなさい。つい夢中で……」
己の畏れの知らない愚行に恥ずかしさと申し訳なさが今更飛来する
あーやってしまった嫌われてしまった
ほんの少し前に出会い会話したぐらいだが酷く落胆する
「臭かった、訳ではない……」
呟かれた声は意気消沈している男には届かない
対比するように青年は自分が汗臭かった訳でないとわかり気持ちが浮上した
背にある道路に一台の車が通りがかる
さっと影が寄り車が通り過ぎると影も離れた
…………
当然のように庇った青年は落ち着きを取り戻し
一言
「まだ雨が強くなるかもしれません。帰り道お気をつけください」
そう言ってお辞儀をして背を向けた
遅れて頭を下げチラッと濡れる紫陽花を見つつ帰路に向かう
一度立ち止まり振り返ると
先に帰ったはずの青年との距離はあまり変わってはいなかった
▼【日照りと狐の涙】
はしゃぐ子供らが日の暑さに負けず快活に飛び跳ね遊びに向かっていくのを見遣り錆びついたのか開けるのに少しばかり苦労する深緑の扉を開ける
チリンッと高い音が鳴り響いた
「ふう……今日も暑いなぁ」
手で日差しを遮りそう呟く
空は快晴連日の雨が嘘のようだった
照明としてまだ泥濘む泥道とポツポツと屋根から落ちてくる雫が光を宿し反射しながら落下するのが見受けられた
「暑いですねぇ」
「こんにちは。良い天気ですね。洗濯物がよく乾きそうです」
「そうねぇ。沢山溜まってしまったから朝から大忙しなのよ。嫁と孫で三人がかりなの」
「それはそれは。私も今朝布団を干しましたよ」
「いいわねぇ。でもお気をつけなさい。この時期の天気は天邪鬼だからすぐ顔色を変えるわ」
二人で空を見上げる
この店の近くに住んでいるお婆さんは孫たちに冷えた西瓜を食べさせると言い、何故か自分にまで分けてある西瓜を貰った
断ったが重くて減らしたいの。と言われれば頷くしかなった
冷蔵庫にしまっておこうか…
なかなかずっしりとする半円の夏の名物を持ち息を吐く
店主に言って冷蔵庫を貸してもらおう
そう思って振り返ろうとすると視界の端に黒いものが映りこむ
んん?この日照りの中黒い影は近づいてきている
なんだ?と思いつつ訝しむと次第に輪郭がはっきりとしといた
「こ、こんちには……」
「……こんにちは」
明るい日の下で彼を見たのは初めてだ
学帽の鍔の下は影に覆われているがそこからは優しげな瞳があり街灯下よりやはり健康的な小麦色の肌をしている
彼はしっかりと着崩すこともなくそのまま走ってきたらしく僅かに肩で息をしていた
自分ならこの暑さの中走ったりしたらすぐに動けなくなるだろう
若さとはなんと眩いものか…
「あの…」
声をかけられハッとする
「それお持ちしましょうか」
視線を上に向けるために顔をあげると太陽が眩しかった
光を手で遮り見ると彼はまた顔を背けていた
もしかして嫌われている可能性もあり…
「随分と大きな西瓜ですね」
と柔らかく話しかけられながら自然に持っていた西瓜を奪われた
「ええ。先ほど知り合いのお婆さんに頂いてどうしようかと思っていたんです。そちらは学校帰りですか?」
「はい。テスト期間で部活もないので。それでこちらはどこへ運べば?」
「では、こちらへ」
青年は少し首を傾げ私が手を向けた方を見る
そこには八仙花古書堂と書かれた看板と西洋館の様な建物がそこにあった
「おーーーい。待てよー!」
遠くの方から疲れた声が聞こえよたよたとしながら近づいてきて青年の肩に手を乗せた
はぁはぁと荒い息を吐き呼吸を整えている
膝に手をつき一度大きく息を吸って吐き上体をあげ額の汗を拭ったのはもう一人の学生と思われる青年だった
明るめの茶髪にこちらもなかなか身長が高い
自分が低いせいかもしれないのはご愛嬌……
「お前突然走り出すなんて何事だ!驚いただろう」
「知るか。貴様が勝手に着いてきたんだろう」
「あーあちぃ。冷やし飴かラムネで潤いと冷やしを得たい物だな学友よ」
「はぁ。勝手にしたらいいだろ。今俺は忙しいんだ」
「はぁ忙しいってテスト終えたばかりだろう。てか明日からまた部活かぁ……あれそれ西瓜?西瓜じゃないかお前も偶には気がきくな!」
「ええい五月蝿い!喧しいぞ。この西瓜に触れてみろ真っ二つに斬り捨ててやろう」
西瓜を庇う様に小脇に抱え睨む青年と目を輝かせ汗を袖で拭う活発そうな青年
私はポツンと見上げる事しかできない….
首が痛くなりそうだ
….
「いやぁしかしあっついなぁ。……ん?んん?おや、おやおやおやおや?」
「!?」
まん丸の瞳が私を捉えにっこりと笑みを浮かべながら近づいてきた
情けなくも身を縮み込ませた私の前に学帽の青年が壁になる様に前に立つ
大きく逞しい背にホッと安心した
「やめろ村田」
初めて聞いた低く威圧感を感じさせる声だ
思わず肩が揺れる
「おいおい何もとって食おうとするわけじゃないんだそう唸るな」
「唸っておらん犬か!」
臆する様子もなく朗らかにもう一人の青年、村田さんが笑う
「おーこのお人が例の御前様か。ほぅ年下面食いじゃふがふが!」
何か言いかけたが顎を掴まれたまま抑え込まれ苦しそうに暴れるもがっちりと固められたのか動け無さそうだった
「はぁ……お前、本気で、やる奴がいるか」
「ふん。六割だ馬鹿者」
二人の攻防が昼下がりの通りで観客の如く通りすぎるものは好き勝手に囃し立てて去っていく
「ふぅ」
流石に日差しが暑い
揉み合いながらも緑と黒の丸玉はちゃんと守られていて感心した
「す、すみませんくだらない事でお時間を取らせて…。急ぎご自宅へ運びます。お疲れなら不肖の身ではありますが私が貴方をお運びします」
焦っているのか抱えた西瓜を何故か抱え上げて見せるがよくわからなかった
背後でもう一人の青年が腹を抱えて悶えている姿の方が気になった
というか背におぶされって事かな?それとも米俵のように?
想像して悪寒がした
それはご勘弁願いたい
下手な笑みを浮かべて断るとほんの少しばかり肩が下に下がった気がした
蒸し暑い真昼の日差しは酷だ
蝉の声が沁みる
地面からはユラユラと揺れる熱気までみてとれた
「あの」
「はい」
意気込んでいるところ申し訳ないが流石にたむろするのも限界だ
「ではお言葉に甘えまして」
「ええ是非」
是非とは?
笑顔のまま疑問を覆い隠しそっと手を向ける
前の二人がぽかんとした表情でその方向を向く
「…どうぞこちらへ」
きらりと汗が、煌めいて流れた
閑話休題
チリン……
涼やかで風合いのある音が扉の開閉と共に音が鳴る
閑話休題
店内は閑散とした雰囲気で背広を着ていた男性がすれ違いで出ていった
促されて入った店内は空気感が外とだいぶ違く
古書の香りが鼻腔をくすぐった
内装も艶あるアンティーク調の調度品で揃えられ壁に様々なレコードが陳列されその前に置かれた蓄音機からジャズが流れている
「ここは…」
小さく呟いた声が届いたのか彼は振り向いた
「ようこそ八仙花堂へ。古書から洋書専門書から漫画本なんでもござれです」
商売人の笑みを浮かべそう挨拶をした
「書店ですか」
小さく頷かれそれ重いでしょう奥の冷蔵庫に運びますねと言われて奪われる
その際触れた指は冷たいのに熱を感じた
気づかれないよう、覆う
窓端にある机に座らされ待つ
なぜか着いてきた同門の輩は涼しーと不躾にいいのけ扇風機の前でアホ面を晒している叱ってもやめない…
つい溜息が溢れてしまう
「どうかしました?」
「い、いえ。ありがとうございます」
浅く一礼した彼の前に冷たい冷茶が置かれる
目の前の空いた席にも同じものが一つ
「ありがとうございます!つめたぁ!」
「こらうるさいだろ!」
「ふふ。元気でいいね。今はお客さんもいないし大丈夫ですよ」
「申し訳ありません」
なぜか背筋を伸ばし太ももに拳を乗せた姿勢で椅子に座りながら謝罪を述べた彼を別に謝らなくていいのにと思いながらお盆に乗った、三角に切った西瓜を皿ごと机にそっと置いた
「おお美味そう」
「どうぞお召し上がりください」
「いただきます!」
言い終わらぬうちにシャクシャクと小気味いい音を発しながら西瓜を食べる姿を見て微笑ましく感じた
「本当、すみません」
「いえいえ。どうぞ召し上がってくださいね」
と申し訳なさそうにする彼に微笑みながらそうすすめるとハッとした後頭を軽く下げて丁寧に西瓜を齧った
「おい清タネ飛ばしで勝負しないか!」
「するか馬鹿者」
「ええお前だって前は一番になる!って意気込んでタネ飛ばししてただろう。なに格好つけているんだ」
「い、いつの話だ!まだ小学生の頃の話だろうに。別に格好つけてなどおらん。貴様も俺と同じ学舎と剣道の同輩ならばもう少し落ち着きと威厳を持ってだな」
「あーーはいはい。耳にタコができるぜ」
「貴様…」
「ふふふ…」
つい笑ってしまうと二人は立っている自分を見た
急いで口元を手で覆う
「いや、仲が良さそうで見ていて面白いです」
「あははっ!それは何よりです。こいつとは親友で一番の好敵手なんですよ!な!ん清?」
快活な青年が反応のない清と呼ばれた青年を呼びかける
ぼうとした様子で二人に聞こえない声で小さく「可憐だ」と呟いていた
「時雨~……。おい時雨~」
「あっ、はいはい。ではごゆっくり」
まるで純喫茶の店員のような仕草で一礼し声のかかった方へ足早に向かう
全くあの人は……
「ちょっと、何してるんです?あ埃だらけじゃないですかもー今朝掃除したばかりなのに……あ、ついてますよ」
踵を浮かし目上の角度にあるふわりとした黒髪に乗った埃を取る
さり気なく屈まれたことには気づかなかった
「悪い悪い。じいさんに頼まれてたのすっかり忘れててよ。地下倉庫の蔵書カビらせたら殺されちまう」
「もう結構前から言いつけられてたじゃないですか。だから梅雨前に終わらそうって言ってああ……やめてくださいよぉ」
わしわしと頭を髪ごと揉まれる
抗議の声を上げながら睨むがニヤつく彼には無意味なようだ
「全く子供ですね店長」
少し嫌味を込めて言う
それでもにんまりとされ、ひとつ息を吐く
「…そちらの方は」
!
振り返ると近い距離に彼が立っていた
心なしか目元が鋭い様な、まだ知り合って短いから気のせいだと思うけど
「こちらは仮店主の布施昭博さんです」
「仮はよけいだろー。これがお前のお友達?」
ぽりぽりと下腹を掻きながら不躾な態度にこちらが恥ずかしくなる
これでも大人なのか、疑問である
それを呆れながら見遣り彼に向き直す
あれ……
「ええと、こちらは」
なんと説明すればいいのか
たまたまバス停が一緒であの事がきっかけで話す様になった
そして彼の精悍な面立ちと無骨でありながら優しい心根をしった
なのに名前を知らなかった
そう思いつきぼうと見上げでていたら彼はふっと小さく笑った
何故だか見透かされた様な、胸に灯る熱に騒めく
洋洋燈の灯りを浴びた学帽の下の影から優しく目が此方を映していた
店の窓枠の上にぶら下がった青と透明の風鈴が凛とした音が風に乗る
ふと刹那に花が薫った
「自己紹介が未だでしたね。大変礼儀知らずで申し訳ありません」
深く頭を下げた
「い、いやいや此方だって同じさ。頭を上げてください」
肩に手を乗せてそう言った
同じ男なのにそれだけでがっしりと逞しく体つきだとわかる
ゆっくりと頭を上げると今度は真っ直ぐな視線で自分に向き合い凛々しい相貌でこちらを窺った
「神立清春と申します。…是非貴方様のお名前をお教え願えませんか?」
凛とした音がまた鼓膜に届く
そして胸に影に差す光の様に、人は自然に見てしまう
または、荒れる空を告げる夏の雷の様な
言葉にできない衝撃が瞬く間に胸を過ぎ去った
「あの」
「あっ、はい」
襟元を正しなぜか動揺して小さく震える自身を知られたくなかった
彼の背の向こうにある窓に羽撃く鳥の影が凪ぐように過ぎ去るのを見つつ、言葉を口にする
「富城時雨と言います。大学三年で染物歴史研究を学んでおります。……よろしく、ね」
態とらしく言葉を崩す
「富城…時雨さん。素敵なお名前ですね」
優しく微笑んで名前を呼ばれ、水溜りが波立ち滴が跳ねる
まるで詩を詠うような響き
名の音が胸に伝わり心に波立つ
それはどこへ向かうのか…
うっ…
当然の重みに呻く
「何二人で甘い雰囲気を醸し出してんだ。ここは逢瀬部屋じゃないぞ」
「な、なな何を言ってるんですかアホな事言わんでください!」
「あはは焦ってる焦ってるふげっ!?」
ぐいぐいと体重を乗せられ苦しかったがその元凶が可笑しな声を発して離れる
その後ぽふっとした衝撃に、微かに香る香の匂い
「この方に乱暴はよしてください。許しませんよ」
低く響く声と鼓動が伝わるほどの距離
神立さんはぎゅっと肩を支えながら自分を抱きとめている
状況から判断するに助けられたようだ
しっかりとした胸板に胸がどきりと高鳴った
それを悟られぬよう慌てて離れようとするも、肩を強く抱き止められる
見上げると神立さんは慌てたように目を逸らし手を離す
まだ掴まれていた肩に感触が夏の熱日に照らされた後のように焦れついた
「ほぉ…」
昭博さんが何か込められた息を吐きながらその追求を逸らすように咳を吐く
「兎に角、無体はよしてください」
「どちらが無体をなさったんですかねー」
「くっ」
煽るような物言いに神立さんは睨む
私は持っていた手帳の背でコツンと昭博さんの頭を叩く
「いてっ!なにすんだ時雨」
叩かれた後頭部をさすりながら抗議するが音だけで痛みは少ないはずなので大袈裟な反応だ
「子供相手に何しているんですか大人気無い。見ていて恥ずかしいのでやめてください」
「「うぅっ」」
なぜかうめき声が二つ
図星だったのか頭を掻き目線を逸らす昭博と
子供…と小さく呟いた神立清春の姿があったが天然の気がある時雨は首を傾げる
後ろの方で我関せずに西瓜をむしゃむしゃと食べる村田冬嗣だけが騒がしかった
夏風に青草の香りが乗って窓から吹き抜ける
橙色を反射する氷が崩れ落ち音を奏でた
本を捲る音が静かに聞こえる
「んー……やばい!お使い頼まれてあったんだ帰らなきゃ」
「…気をつけて帰れよ」
「おう!じゃあな!…」
冬嗣さんは去り際こちらにぺこりと一礼し扉の鈴音を鳴らしながら飛び出していった
扉の隙間から微かに雨の音がした
「降ってきましたね」
「はい」
独り言だったが近いところから言葉が返される
向くと神立さんが横におりさっとわたしが抱えていた蔵書の山を軽々と取り棚に収めてくれた
礼の言葉を述べる頃には作業を終えている
テキパキと動きに自分より出来るのだと察した
上段に届かなく脚立を持ってくる手間があるせいなのだが悲観的に見る性格のせいでそう納得する
「あー…時雨。もう上がっていいぞ」
「へっ?でもまだ」
「大丈夫大丈夫。外掃くだけだろ?よゆーよゆー」
「昭博さんいつも適当じゃないですが」
「やるって。ほら雨強くなる前に帰んなー。そっちの坊主もなー」
こちらが何か言う前に手の平をふらふらと振って新聞を開きこちらに背を向けた
小さく嘆息し横を向く
「よければ、一緒に帰りませんか?」
学帽の鍔を持ち帽子の位置を正し神立さんは音もさせて頂きますと言い、その言い方が可笑しくてふと笑うとそんな自分を見て彼も小さく笑みを浮かべていた
夏椿の余花を横目に見る
濡れた地面に水溜まり
白い夏椿の花が傾いて顔を沈めていた
水面に映った光が切なげに波紋を広げる
しとしとと降る仕切る雨は涼雨
夏の暑さが薄れて心地よい風が吹く
その中を二人、真新しい傘を差しながら歩いている
書店に常備している傘が役に立った
瑠璃色の傘はしっかりと雨を弾いている様だった
傘は随分と上で開かれている
何故なら横に並ぶ彼が傘を握っているからだった
店を出る時傘は一本しかなく神立さんは自分は平気だと告げ濡れて帰ろうとしたので腕を掴み静止させた
その際思った以上に驚かせた様だが互いに相手に譲るのを譲らず、撞着の果てに昭博さんにまだいるのか?さっさと帰れ!と言われ二人で傘を一つ差し帰路に着いた
情けなくも年上の私が傘を差すと彼の頭にぶつかるので彼に差してもらっていた
そのお陰が普段と違い景色が広々とし不思議と安心感も感じ気分がいい。早く帰れそうだし…
思わず鼻歌を歌ってしまいハッとして横を見る
神立さんはこちらを優しげに見つめていた
頬が熱くなり前を向く
舗装されて間もない煉瓦道を見る
「はぁ恥ずかしい」
「お上手でしたよ」
思わず肩に軽く体当たりするもそのまま跳ね返る
横を見遣ると何故か頬が赤い
柔い雨が静かに世界を狭める
それは天気のせいか、傘のせいか
「…私は、歌が苦手です」
唐突にそう話し出す
見ると少し困り顔の様で凛々しい眉が寄せられている
「よくお前は何を考えているのかわからない。怒っているのかと勘違いされ後輩、同輩にも距離をもたれてしまっております」
「そうなんですか。それは勿体ない」
「へっ?」
ポカンとした表情は幼げで可愛いと思ってしまう
「神立さんはとても優しくて真面目な方です。出会ってから私は助けられていますし人柄が良いと感じます」
傘が揺れる
「そんな、自分には勿体無いお言葉です。人として当然ですし、それに私は…」
言葉の続きは静かに降る雨よりか細い
「歌は楽しく歌って伝えるものだ」
神立さんが横顔を見つめる
「父の言葉です。よく仕事中に変な歌を歌っていたんですがそれが楽しそうで、私はそれを働きながら歌う父の姿が好きでした」
遠くから風に乗って潮の香りが一瞬、した気がした
「素敵なお父様ですね。…うちの父は寡黙で厳格で、その様な思い出はありません」
また困った様に笑う
「お嫌いですか?」
その言葉に一瞬時が止まった
「…嫌いではありません。尊敬しております。厳しい中でも母と私を養い剣道の指導と協会の務めも一度も弱音も吐かずに勇んでいます。……あ」
ハッとした様に顔を上げた
「一つだけ、……ある日兄弟子に負けてしまい私が一人道場で稽古をしていると父がやってきて祭りに行くぞと言ってその後を着いていきました。道着のまま提灯の灯りと祭囃子、太鼓の音、屋台から美味しそうな匂い、笑顔で祭りを楽しむ人たち。その中を腕を組み黙しながらも前を歩く父についていき花火を見ました」
そう語る神立さんは幸せそうな顔で、それがあまりにも綺麗で見惚れる
「お優しいお父様ですね」
笑って言うとハッとした様な顔をして照れ臭そうに小さな声ではいと言った
街灯の灯りが灯り出す
黒い坂を登るといつものバス停だ
バス停の雨除けがある停留所には人はいなかった
バスが来るまで、もう少し…
雨が強くなった
やはり早めに店を出れてよかった
雨滴が垂れる
そう思って見るとあることに気づく
神立さんの肩が濡れていた
自分を庇って己が濡れたらしい
外套が黒々と艶めく
「もうすぐですね」
時刻表を見て傘をたたむ神立さん
懐からハンカチを取り出し彼の濡れた頬を拭う
ビクッと震えたが構わず続ける
風邪でも引いたら大変だ
「…ありがとう、ございます」
「こちらこそ。傘差して下さってありがとうございます。お陰様で濡れずにこれました」
笑って言うと彼も微笑んだ
「またハンカチが濡れてしまいましたね。また、よければ私に預けてくれはくれませんか?」
生真面目な彼だ
きっと以前の様に洗って折り目をつけて返してくれるのだろう
「…あげます。それ」
頬が熱くなる
自分でも予想外だった
「い、良いのですか?仕立てが良さそうに見受けられますが」
そう言われ更に身が縮こまる
それを怪訝に思われそうだと思い言葉を放つ
「実はそれ、自作品なんです」
一間、時が空く
「染物を習っていてそれ、染めたんです。大したものじゃなくただの藍染ですし型紙染めもしてないし無地ですし、勿論生地と染料は良いものを使っておりますが私が染めたものですから大したものにはなってませんから、やはり迷惑ですよね」
恥ずかしさから両手で握られた藍染の絹ハンカチを奪い返そうとしたがグッと力を入れてもびくともしない
不思議に思って見ると彼は眉を寄せていた
整った顔が途端に怖くなる
不愉快だったのだろうか、変に思われたのか
「このハンカチは、もう俺のものです」
震える声でそう言われる
まるで大事なものを奪われない様に声を震わせながら
「こんなに、こんなに美しく素敵なのに大したものではかわいそうです。私はこのハンカチが欲しいです」
その言葉の真摯さに、熱量に心が揺れる
つい、涙が流れそうになる
「へっ!?な、なぜな、泣いて?そんなに嫌でしたか?変なことを言いましたか?俺は貴方を傷つける様なことを言ったのでしょうかあ、あの」
泣き出した自分より大きな彼が慌てる
そしてゆっくりと恐る恐る、頬に流れた雫を藍色のハンカチで拭われる
見上げると切なそうな顔があった
「どうか。どうか泣かないでください」
夏の夜の暑さより温かい体に包まれる
そこは静かで確かで
遠くの方で父の下手な鼻歌が聴こえた
抱きしめ返した体は心地よく
バスが来るまで街頭下 濡れた青紫の紫陽花が無言で顔を上げていた
春惜しむ風去り 青葉繁る葉は青い雨に濡れていく
《前編》
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