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第2幕 Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)
2-3 悲しみの連鎖と決心
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店を出たエドワードは、あてもなく歩いていた。いつもなら辻馬車に乗り込み自宅を目指すところなのだが、今朝繰り広げたホワードたちとのやりとりや、先程のコンスタンスの様子を見て、到底帰れる気分ではなかった。
加えて、ヤードに「協力します」と言った以上、何もせずに一日を終えるわけにはいかない。そう考えた彼は、思い切って昨夜の事件現場へと向かうことにした。
辺りはすっかり真っ暗で、人通りもそう多くはない場所であるがゆえに、臆病な彼にとっては一世一代の決意に等しかった。ヘーゼルダイン卿とのひと悶着では、夏目の活躍によりどうにかピンチを免れたが、今は自分ひとり。
万が一、殺人鬼にでも出くわしたらと思うと、気が気ではない。気乗りしないまま、ゆっくりと歩みを進めていく。ようやくその現場へ差し掛かろうとしたところで、ガス灯に照らされた人影が見えた。呻き声とも取れなくもない声で、道路脇でうずくまっているように見える。
エドワードはごくりと唾を飲み込み、人影の方へと近づいた。
「……どうかされましたか?」
エドワードの声ではっとしたその人物は、慌てて顔を上げた。
「すみません。こんなところを人に見られるなんて。でも、どうして良いのか……アニタが! アニタが!」
エドワードは瞠目した。
「あなたは、試験問題の納品に来てくれた印刷業者の方!」
「ウェストフォード大学のマイヤー教授ですか⁉ 俺のことを覚えていてくれたなんて!」
男性は涙声で言葉を返した。
エドワードは首肯する。
「あなたも、アニタさんと親しかったのですね。僕も、パブ・コンスタンスでお世話になっていました」
「アニタは、俺の婚約者なんです。来月、結婚することが決まっていて。なのに、何でこんなことに……」
そう言ってから、男性は天を仰ぎ見た。今もなお降り続く雨の中で、男性は見えない誰かに語りかけるように言葉を続ける。
「暗くて寒くて、一人で寂しかっただろう? お前にこんな思いをさせた人間がのうのうと生きていると思ったら……」
男性は自らの拳を握った。彼の怒りに呼応するように、空に稲光が走る。
やがて響く、ゴロゴロという轟音に、エドワードは瞬時腰を抜かしそうになるが、視界に男性をとらえたまま無言で耳を傾けていた。
「……許せない、絶対に許せない。誰が、アニタを……」
男性の声は、雷鳴に屈することなく響いていた。時折聞こえる彼の唸り声は、はたから見れば野犬の放つそれと大差なく感じることだろう。次の瞬間、彼がどのような行動に出るのか、エドワードにとっても想像するに難くなかった。
「やはり、あなたもコンスタンス婦人も行き着くところは同じ。悲しみから憎しみ、その心境の変化はやがて、復讐と言う名の火種を生みかねない。ですが、そんなことをしても、アニタさんが喜ぶはずなどない」
「だったら、いったいどうしろというんですか? アニタはもう帰ってこないんですよ! まさか、犯人の肩を持つ気ですか?」
男性は涙を流しながら、エドワードを睨むように見つめた。
エドワードは首を横に振り、男性に答えるように見つめ返した。
「いいえ、僕はあなたに犯人と同じことをしてほしくないと言ったのです。あなたが死後、アニタさんとお会いした時に胸を張ってお話ができるように。この悲しみの連鎖を、僕が――」
エドワードは自らの拳を握り、語気を強める。
「僕が断ち切ってみせる! これ以上、あなたやコンスタンス婦人のような方々を増やさないためにも。だから、僕に時間をください。犯人に繋がる手がかりをきっと探し出してみせます」
男性は大きく目を見開いた。
「しかし、いったいどうやって……」
エドワードからの強い視線を受け取った男性は、次に続く言葉を飲み込んだ。
「あなたやコンスタンス婦人とお会いしたおかげで、僕の決心が固まりました。すぐに、とはいかないかもしれない。ですが、夜はいつか明けます」
エドワードの言葉に対し、男性は小さく頷いた。
「大学教授であること以外、あなたのことはよく知らないし、いきなり信じろって言われても……でも、少なくとも俺よりは学があるだろうし、可能性はゼロじゃない。あなたに賭けてみることにします」
男性と別れ、ようやく帰宅の途に就いたエドワードは、辻馬車の中で舟をこいでいた。馬車の揺れに合わせて小刻みに揺れる彼の体。
「お客さん、そろそろ目的地に着くよ。目印の建物を教えてくれ」
それでもエドワードは目をあけようとしない。
しびれを切らした馭者はついに、
「おい、お客さん! いい加減目をあけとくれ!」
馭者の大声で、エドワードは飛び起きた。
「は、はい! すみません!」
代金を支払い、屋敷に入ろうとするエドワードを真っ先に出迎えたのは――。
「エドワード!」
「に、兄さん!」
ジェームズは、出迎えようとした執事の前に割り込むようにして立っていた。エドワードの帰りをずっと待っていたのだ。
「びしょ濡れじゃないか。またヤードの連中にでも呼び出されていたのか?」
「い、いえ、少し寄り道を……」
「本当のことを言え。まあ、お前のことだ。さしづめ今朝の件で考えがまとまらず、現場付近をぶらぶら歩いていた……そういうところだろう」
いとも簡単に言い当てられたエドワードはぐうの音も出なかった。
「詳しい話は、着替えてから聞かせてもらおう。風邪をひいては元も子もないからな。ついでに風呂でも入ってくればいい」
ジェームズは執事に風呂を沸かすよう命じてからリビングルームへ向かった。
風呂から上がったエドワードはバスローブに身を包み、リビングルームへ入った。
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
「ええ、おかげさまで少し」
エドワードは、コンスタンスの店に立ち寄ったことや、アニタの婚約者と出会い、犯人への手がかりを探すことを誓った旨をジェームズに打ち明ける。
ジェームズは、エドワードが話している間、一言も口を挟まずしっかりと耳を傾けていた。
「それで、何か収穫はあったのか?」
エドワードは首を横に振る。
「残念ながら、今のところは何も」
「ヤードの言っていた予告状とやらに、何か鍵があるのかもしれないな。罠である可能性も捨てきれんが」
「ええ、僕もそう思います。肝心の暗号がまだ解けていませんが。たとえ罠であろうとも、更なる犠牲者を出さないよう早めに手を打たねばなりません。悲しみの連鎖を断ち切らなければ、彼らの気持ちが報われません」
「そうやって、あまり自分を追い込み過ぎないようにな。何度も言うが、お前は大学教授であって、探偵ではないのだからな」
そう言うと、ジェームズはグラスに入っていたワインを飲み干した。
「兄さん、ひとつ相談があるのですが」
「相談?」
「はい、僕の教え子に、国会議事堂の中を見学させたいと思いまして。日本政府からの要請ではるばるこちらへ留学に来たそうで。今日の講義が遅れてしまったこともありますので、可能であれば見せたいなと」
「そういうことか」
ジェームズは口角を上げた。
「構わない。私から議長に伝えておこう。今夜はもう寝た方がいい。明日も早いことだしな」
ジェームズはリビングルームを後にし、自室へ向かい始める。
「おやすみなさい、兄さん。ありがとう」
加えて、ヤードに「協力します」と言った以上、何もせずに一日を終えるわけにはいかない。そう考えた彼は、思い切って昨夜の事件現場へと向かうことにした。
辺りはすっかり真っ暗で、人通りもそう多くはない場所であるがゆえに、臆病な彼にとっては一世一代の決意に等しかった。ヘーゼルダイン卿とのひと悶着では、夏目の活躍によりどうにかピンチを免れたが、今は自分ひとり。
万が一、殺人鬼にでも出くわしたらと思うと、気が気ではない。気乗りしないまま、ゆっくりと歩みを進めていく。ようやくその現場へ差し掛かろうとしたところで、ガス灯に照らされた人影が見えた。呻き声とも取れなくもない声で、道路脇でうずくまっているように見える。
エドワードはごくりと唾を飲み込み、人影の方へと近づいた。
「……どうかされましたか?」
エドワードの声ではっとしたその人物は、慌てて顔を上げた。
「すみません。こんなところを人に見られるなんて。でも、どうして良いのか……アニタが! アニタが!」
エドワードは瞠目した。
「あなたは、試験問題の納品に来てくれた印刷業者の方!」
「ウェストフォード大学のマイヤー教授ですか⁉ 俺のことを覚えていてくれたなんて!」
男性は涙声で言葉を返した。
エドワードは首肯する。
「あなたも、アニタさんと親しかったのですね。僕も、パブ・コンスタンスでお世話になっていました」
「アニタは、俺の婚約者なんです。来月、結婚することが決まっていて。なのに、何でこんなことに……」
そう言ってから、男性は天を仰ぎ見た。今もなお降り続く雨の中で、男性は見えない誰かに語りかけるように言葉を続ける。
「暗くて寒くて、一人で寂しかっただろう? お前にこんな思いをさせた人間がのうのうと生きていると思ったら……」
男性は自らの拳を握った。彼の怒りに呼応するように、空に稲光が走る。
やがて響く、ゴロゴロという轟音に、エドワードは瞬時腰を抜かしそうになるが、視界に男性をとらえたまま無言で耳を傾けていた。
「……許せない、絶対に許せない。誰が、アニタを……」
男性の声は、雷鳴に屈することなく響いていた。時折聞こえる彼の唸り声は、はたから見れば野犬の放つそれと大差なく感じることだろう。次の瞬間、彼がどのような行動に出るのか、エドワードにとっても想像するに難くなかった。
「やはり、あなたもコンスタンス婦人も行き着くところは同じ。悲しみから憎しみ、その心境の変化はやがて、復讐と言う名の火種を生みかねない。ですが、そんなことをしても、アニタさんが喜ぶはずなどない」
「だったら、いったいどうしろというんですか? アニタはもう帰ってこないんですよ! まさか、犯人の肩を持つ気ですか?」
男性は涙を流しながら、エドワードを睨むように見つめた。
エドワードは首を横に振り、男性に答えるように見つめ返した。
「いいえ、僕はあなたに犯人と同じことをしてほしくないと言ったのです。あなたが死後、アニタさんとお会いした時に胸を張ってお話ができるように。この悲しみの連鎖を、僕が――」
エドワードは自らの拳を握り、語気を強める。
「僕が断ち切ってみせる! これ以上、あなたやコンスタンス婦人のような方々を増やさないためにも。だから、僕に時間をください。犯人に繋がる手がかりをきっと探し出してみせます」
男性は大きく目を見開いた。
「しかし、いったいどうやって……」
エドワードからの強い視線を受け取った男性は、次に続く言葉を飲み込んだ。
「あなたやコンスタンス婦人とお会いしたおかげで、僕の決心が固まりました。すぐに、とはいかないかもしれない。ですが、夜はいつか明けます」
エドワードの言葉に対し、男性は小さく頷いた。
「大学教授であること以外、あなたのことはよく知らないし、いきなり信じろって言われても……でも、少なくとも俺よりは学があるだろうし、可能性はゼロじゃない。あなたに賭けてみることにします」
男性と別れ、ようやく帰宅の途に就いたエドワードは、辻馬車の中で舟をこいでいた。馬車の揺れに合わせて小刻みに揺れる彼の体。
「お客さん、そろそろ目的地に着くよ。目印の建物を教えてくれ」
それでもエドワードは目をあけようとしない。
しびれを切らした馭者はついに、
「おい、お客さん! いい加減目をあけとくれ!」
馭者の大声で、エドワードは飛び起きた。
「は、はい! すみません!」
代金を支払い、屋敷に入ろうとするエドワードを真っ先に出迎えたのは――。
「エドワード!」
「に、兄さん!」
ジェームズは、出迎えようとした執事の前に割り込むようにして立っていた。エドワードの帰りをずっと待っていたのだ。
「びしょ濡れじゃないか。またヤードの連中にでも呼び出されていたのか?」
「い、いえ、少し寄り道を……」
「本当のことを言え。まあ、お前のことだ。さしづめ今朝の件で考えがまとまらず、現場付近をぶらぶら歩いていた……そういうところだろう」
いとも簡単に言い当てられたエドワードはぐうの音も出なかった。
「詳しい話は、着替えてから聞かせてもらおう。風邪をひいては元も子もないからな。ついでに風呂でも入ってくればいい」
ジェームズは執事に風呂を沸かすよう命じてからリビングルームへ向かった。
風呂から上がったエドワードはバスローブに身を包み、リビングルームへ入った。
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
「ええ、おかげさまで少し」
エドワードは、コンスタンスの店に立ち寄ったことや、アニタの婚約者と出会い、犯人への手がかりを探すことを誓った旨をジェームズに打ち明ける。
ジェームズは、エドワードが話している間、一言も口を挟まずしっかりと耳を傾けていた。
「それで、何か収穫はあったのか?」
エドワードは首を横に振る。
「残念ながら、今のところは何も」
「ヤードの言っていた予告状とやらに、何か鍵があるのかもしれないな。罠である可能性も捨てきれんが」
「ええ、僕もそう思います。肝心の暗号がまだ解けていませんが。たとえ罠であろうとも、更なる犠牲者を出さないよう早めに手を打たねばなりません。悲しみの連鎖を断ち切らなければ、彼らの気持ちが報われません」
「そうやって、あまり自分を追い込み過ぎないようにな。何度も言うが、お前は大学教授であって、探偵ではないのだからな」
そう言うと、ジェームズはグラスに入っていたワインを飲み干した。
「兄さん、ひとつ相談があるのですが」
「相談?」
「はい、僕の教え子に、国会議事堂の中を見学させたいと思いまして。日本政府からの要請ではるばるこちらへ留学に来たそうで。今日の講義が遅れてしまったこともありますので、可能であれば見せたいなと」
「そういうことか」
ジェームズは口角を上げた。
「構わない。私から議長に伝えておこう。今夜はもう寝た方がいい。明日も早いことだしな」
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