22 / 22
第1章
女奴隷
しおりを挟む
皇子とその妹は傷病室から廊下に移動した。傷病室は〈皇帝の宿〉の一階と三階に複数ある。よっぽど重症《じゅうしょう》で、階段を上がるのも命に危険が及ぶ者だけが一階の病室に運ばれるのだ。二人はリー・トマスのいた部屋はうっちゃって、他の傷病兵たちの見舞いに行くことにした。
「父上とトマス卿は何を話してたんだ?」
アレックスが早々に隣の部屋に入っていこうとするリリィを引き止めて言った。明らかに義兄は狼狽《ろうばい》していた。
「わからないわ。明日にはメアリーとアビゲイルを連れてエル城に帰りたいっておっしゃってた。お父さまは止めようと説得なさっていたけれど」
リリィが声を低める。
「なぜそんな急に……」
アレックスが我を忘れて口走った。
「問題はメアリーじゃなくて、アビゲイルだそうよ。それ以上は聞けなかったわ。あの人、アビゲイルと結婚しなければよかったって言ったのよ。メアリーとアビゲイルが可哀想《かわいそう》だわ」
「あんまりだ。宮廷を離れてエル城に行けば、あの人は絶望のあまり死んでしまうだろう」
メアリーが宮廷を離れるようなことがあれば、相当《そうとう》酷《こく》なものになるに違いない。お父さまが気難《きむずか》し屋《や》のトマス卿を説得できたらいいけれど……!
それにしても、アレックスの表情には何か鬼気迫《ききせま》るものがあった。普段の穏やかな兄に似つかわしくない。
「でもきっと大丈夫よ。お父さまがなんとかしてくださるわ。トマス卿だっていっときの気まぐれよ」
リリィは兄があんまり恐ろしげな顔をするものだから心配になった。海の向こうへ遊学に行く前には見せなかった、真っ暗な表情である。
「リリィ、お前にはこれがどれほど深刻なものなのか、わかっていない。お前やメアリーには今まで言わずにきた。もし、噂が立てば、秘密が露呈《ろてい》すれば、二人がどれだけ傷つくことか」
「アレックス、私はもう十五になるわ。秘密はメアリーとアビゲイルのために守る。真実を教えて」
リリィは真摯《しんし》にアレックスを見た。
「イリヤでは奴隷市《どれいいち》は公《おおやけ》に禁じられている。だが、隣国のエイダでも、海の向こうのドレントや大陸でも奴隷は多くいるし、野蛮な王が奴隷市を推奨《すいしょう》することもある。
アビゲイルはエイダで、まだ子どもだった頃に奴隷商人にさらわれて、ある裕福《ゆうふく》な貴族のもとに売られた。そいつは高貴な身分に生まれながらも、残酷で見下げ果てた根性の持ち主だった。アビゲイルがつらい境遇だったのは言うまでもない。暗い少女時代だった。
十年ほどその主人のもとにいたが、ある折にトマス卿と出逢い、身請《みう》けされたわけだ。アビゲイルは新しい主人の領地についていき、やがて身籠《みごも》って女の子を出産した。リーは当初アビゲイルを正式な妻にするつもりなどなかっただろう。だが、女奴隷は我らが親愛なる皇后陛下の目にとまり、リーはアビゲイルを皇妃の侍女として譲り渡すか、婚姻関係《こんいんかんけい》を結び、皇女の乳母にするかの二択を迫られた。結局、彼は美しい女奴隷を妻にめとり、宮廷に出入りさせるようにしたのだ。
だが、ヘレナにもどうにもできなかった問題が残った。アビゲイルの過去とメアリーの出自《しゅつじ》のことだ。奴隷たちは、特に、その内の女たちは想像を絶する虐待《ぎゃくたい》と暴力にさらされてきた。宮廷では知られない方が良い過去だ。もし、噂が立てば、メアリーの名誉に一生の傷がつく。結婚にも支障《ししょう》をきたすはずだ」
アレックスはアビゲイルの身の上話をしてる間、静かで正義感に満ちた声を保った。話し終えると、目を伏せ、廊下の遠くの方に視線をとばす。廊下の先には曲がり角とありふれた甲冑《かっちゅう》以外何もなかった。
リリィはアビゲイルにそんな壮絶な過去があろうとは思いもしなかった。背がすらりと高く、いつでも優しく、美しい赤毛のアビゲイル。まるで母そのもののような人だ。言うべき言葉が見つからない。胸が痛くなった。
「もしリーがアビゲイルを妾《めかけ》の身分におとすようことがあれば、メアリーの将来だって危ないんだ……」
そう言った時の兄の表情は、切ないほどに優しいのだった。
「父上とトマス卿は何を話してたんだ?」
アレックスが早々に隣の部屋に入っていこうとするリリィを引き止めて言った。明らかに義兄は狼狽《ろうばい》していた。
「わからないわ。明日にはメアリーとアビゲイルを連れてエル城に帰りたいっておっしゃってた。お父さまは止めようと説得なさっていたけれど」
リリィが声を低める。
「なぜそんな急に……」
アレックスが我を忘れて口走った。
「問題はメアリーじゃなくて、アビゲイルだそうよ。それ以上は聞けなかったわ。あの人、アビゲイルと結婚しなければよかったって言ったのよ。メアリーとアビゲイルが可哀想《かわいそう》だわ」
「あんまりだ。宮廷を離れてエル城に行けば、あの人は絶望のあまり死んでしまうだろう」
メアリーが宮廷を離れるようなことがあれば、相当《そうとう》酷《こく》なものになるに違いない。お父さまが気難《きむずか》し屋《や》のトマス卿を説得できたらいいけれど……!
それにしても、アレックスの表情には何か鬼気迫《ききせま》るものがあった。普段の穏やかな兄に似つかわしくない。
「でもきっと大丈夫よ。お父さまがなんとかしてくださるわ。トマス卿だっていっときの気まぐれよ」
リリィは兄があんまり恐ろしげな顔をするものだから心配になった。海の向こうへ遊学に行く前には見せなかった、真っ暗な表情である。
「リリィ、お前にはこれがどれほど深刻なものなのか、わかっていない。お前やメアリーには今まで言わずにきた。もし、噂が立てば、秘密が露呈《ろてい》すれば、二人がどれだけ傷つくことか」
「アレックス、私はもう十五になるわ。秘密はメアリーとアビゲイルのために守る。真実を教えて」
リリィは真摯《しんし》にアレックスを見た。
「イリヤでは奴隷市《どれいいち》は公《おおやけ》に禁じられている。だが、隣国のエイダでも、海の向こうのドレントや大陸でも奴隷は多くいるし、野蛮な王が奴隷市を推奨《すいしょう》することもある。
アビゲイルはエイダで、まだ子どもだった頃に奴隷商人にさらわれて、ある裕福《ゆうふく》な貴族のもとに売られた。そいつは高貴な身分に生まれながらも、残酷で見下げ果てた根性の持ち主だった。アビゲイルがつらい境遇だったのは言うまでもない。暗い少女時代だった。
十年ほどその主人のもとにいたが、ある折にトマス卿と出逢い、身請《みう》けされたわけだ。アビゲイルは新しい主人の領地についていき、やがて身籠《みごも》って女の子を出産した。リーは当初アビゲイルを正式な妻にするつもりなどなかっただろう。だが、女奴隷は我らが親愛なる皇后陛下の目にとまり、リーはアビゲイルを皇妃の侍女として譲り渡すか、婚姻関係《こんいんかんけい》を結び、皇女の乳母にするかの二択を迫られた。結局、彼は美しい女奴隷を妻にめとり、宮廷に出入りさせるようにしたのだ。
だが、ヘレナにもどうにもできなかった問題が残った。アビゲイルの過去とメアリーの出自《しゅつじ》のことだ。奴隷たちは、特に、その内の女たちは想像を絶する虐待《ぎゃくたい》と暴力にさらされてきた。宮廷では知られない方が良い過去だ。もし、噂が立てば、メアリーの名誉に一生の傷がつく。結婚にも支障《ししょう》をきたすはずだ」
アレックスはアビゲイルの身の上話をしてる間、静かで正義感に満ちた声を保った。話し終えると、目を伏せ、廊下の遠くの方に視線をとばす。廊下の先には曲がり角とありふれた甲冑《かっちゅう》以外何もなかった。
リリィはアビゲイルにそんな壮絶な過去があろうとは思いもしなかった。背がすらりと高く、いつでも優しく、美しい赤毛のアビゲイル。まるで母そのもののような人だ。言うべき言葉が見つからない。胸が痛くなった。
「もしリーがアビゲイルを妾《めかけ》の身分におとすようことがあれば、メアリーの将来だって危ないんだ……」
そう言った時の兄の表情は、切ないほどに優しいのだった。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
最深部からのダンジョン攻略 此処の宝ものは、お転婆過ぎる
aradoar234v30
ファンタジー
主人公の公一が引っ越先の押入れの襖を開けると、そこには少女が居た。
前の住人の特別な趣味の人形ではなく生きている本物の少女だった。
少女は驚く公一を尻目に押入れの中にあるぽっかりと空いた穴の中に引きずり込む。
そして着いた先は薄暗い大ホール。そこには金銀の財宝が山と積まれている薄暗い大広間だった。
渋々ダンジョンの攻略依頼を受け行動に移す公一だったが、そこはダンジョン最深部。
ボスキャラクラスのモンスターが闊歩する世界だった。転移時に付与されたチートスキルと宝物を使いダンジョン世界の完全攻略を目指す。
社畜から卒業したんだから異世界を自由に謳歌します
湯崎noa
ファンタジー
ブラック企業に入社して10年が経つ〈宮島〉は、当たり前の様な連続徹夜に心身ともに疲労していた。
そんな時に中高の同級生と再開し、その同級生への相談を行ったところ会社を辞める決意をした。
しかし!! その日の帰り道に全身の力が抜け、線路に倒れ込んでしまった。
そのまま呆気なく宮島の命は尽きてしまう。
この死亡は神様の手違いによるものだった!?
神様からの全力の謝罪を受けて、特殊スキル〈コピー〉を授かり第二の人生を送る事になる。
せっかくブラック企業を卒業して、異世界転生するのだから全力で謳歌してやろうじゃないか!!
※カクヨム、小説家になろう、ノベルバでも連載中
いや、一応苦労してますけども。
GURA
ファンタジー
「ここどこ?」
仕事から帰って最近ハマってるオンラインゲームにログイン。
気がつくと見知らぬ草原にポツリ。
レベル上げとモンスター狩りが好きでレベル限界まで到達した、孤高のソロプレイヤー(とか言ってるただの人見知りぼっち)。
オンラインゲームが好きな25歳独身女がゲームの中に転生!?
しかも男キャラって...。
何の説明もなしにゲームの中の世界に入り込んでしまうとどういう行動をとるのか?
なんやかんやチートっぽいけど一応苦労してるんです。
お気に入りや感想など頂けると活力になりますので、よろしくお願いします。
※あまり気にならないように製作しているつもりですが、TSなので苦手な方は注意して下さい。
※誤字・脱字等見つければその都度修正しています。
黒銀の狼と男装の騎士【改稿版】
藤夜
ファンタジー
母と双子の兄を魔獣フェンリルに殺され、呪いの刻印を刻まれたエルディアは、男として騎士団副団長ロイゼルドの従騎士となる。
刻印の力で不死に近い身体をもち、国を守るため戦場に飛び込むエルと、彼女をその過酷な運命から守ろうとするロイの師弟のじれじれ恋愛ファンタジー!
現在改稿中で部分的に削除しています。
改稿版ができ次第アップしていきます。
あらすじはかわりありませんのでご注意下さい。
未知なる世界で新たな冒険(スローライフ)を始めませんか?
そらまめ
ファンタジー
中年男の真田蓮司と自称一万年に一人の美少女スーパーアイドル、リィーナはVRMMORPGで遊んでいると突然のブラックアウトに見舞われる。
蓮司の視界が戻り薄暗い闇の中で自分の体が水面に浮いているような状況。水面から天に向かい真っ直ぐに登る無数の光球の輝きに目を奪われ、また、揺籠に揺られているような心地良さを感じていると目の前に選択肢が現れる。
[未知なる世界で新たな冒険(スローライフ)を始めませんか? ちなみに今なら豪華特典プレゼント!]
と、文字が並び、下にはYES/NOの選択肢があった。
ゲームの新しいイベントと思い迷わずYESを選択した蓮司。
ちよっとお人好しの中年男とウザかわいい少女が織りなす異世界スローライフ?が今、幕を上げる‼︎
灰色の冒険者
水室二人
ファンタジー
異世界にに召喚された主人公達、
1年間過ごす間に、色々と教えて欲しいと頼まれ、特に危険は無いと思いそのまま異世界に。
だが、次々と消えていく異世界人。
1年後、のこったのは二人だけ。
刈谷正義(かりやまさよし)は、残った一人だったが、最後の最後で殺されてしまう。
ただ、彼は、1年過ごすその裏で、殺されないための準備をしていた。
正義と言う名前だけど正義は、嫌い。
そんな彼の、異世界での物語り。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる